表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第三章:―ツケ三々は、照れ隠しのあとで―
20/36

第十九局|プロを目指す理由

春の空気には、少しだけ塩のような匂いが混じっていた。

校門の前では、写真を撮る声や、名前を呼び合う声が重なっている。笑っている人も、泣いている人もいて、どちらも同じくらい自然に見えた。

光志はその輪から少し離れて、校舎の裏手へ歩いた。見慣れたはずの景色が、ほんの少しだけよそよそしい。


「……終わったな」

小さくつぶやく。

その言葉は、どこか他人事のようにも聞こえた。

別れの言葉が行き交う校門の前には、笑顔と涙が交錯している。だが、光志はその輪の中に入らず、囲碁部の古い部室に向かっていた。


ドアを開けると、そこにはいつもと変わらない空気が静かに満ちていた。少しだけ古びた畳の匂いが漂い、机の上には使われたままの碁盤が残され、壁には大会の日程表が貼られたままになっている。まるで時間だけが取り残され、わずかに遅れて流れているような場所だった。

光志はゆっくりと部屋に足を踏み入れると、そのまま窓際の席に腰を下ろす。何気なくポケットに手を差し入れた指先に、かすかな硬さが触れた。


「ユエも、あの時……」

ポケットの中のキーホルダーをそっと握る。あの駅のベンチで、無言で差し出したキーホルダー。そして、交換……

言葉少なだった別れの日。でも、その手のひらから伝わってきた想いは、今も消えていない

あのとき、何を言おうとしていたのか。何を言わなかったのか。

全部、少しずつ曖昧になっているのに、感触だけは、はっきり残っている。


――あいつは、もう前に進んでる。

自国で、ナショナルチームの一員として結果を求められながら、きっと悩んで、もがいて、それでも打ち続けている。ならば、自分も。いや、自分こそ──。


少しして、タブレットが静かに光る。

《卒業、おめでとうございます》

「……お前、そういうのも言うんだな」

《祝祭イベントと認識しました》

「雑だな」

軽く笑う。

そのまま、少し間を置いてから聞いた。

「なあ、ユエ……どうしてると思う?」

画面はすぐには反応しない。ほんのわずかな間。それから、ゆっくりと文字が現れる。


《推測になりますが》

「うん」

《高強度の対局環境に置かれている可能性が高いです》

淡々とした文章。けれど、その内容は、少しだけ重い。

《中国ナショナルチームの強化選手は》

《結果を求められ続ける立場です》

「……だろうな」

知らない世界。知らない場所。でも、全員が強い。毎日が、試される時間。


《勝率、評価、ランキング》

《あらゆる指標が可視化されます》

「それ、結構きついな」

《はい》

《ただし》

少しだけ間を置いて。

《林玥さんは、その環境に適応する可能性が高いです》

「……なんで言い切れるんだよ」

《観測データより》

そして、少しだけ続く。

《彼女は、“止まらない”タイプです》

その一文が、静かに落ちる。光志は、少しだけ目を閉じた。

――ああ、たぶんそうだ。

悩んでいるはずだ。迷っているはずだ。それでも、打つことをやめない。

前に進むしかない場所で、ちゃんと前に進んでいく。

(……負けてられないな)

自然と、そう思った。


比べるものじゃないと分かっていても、それでも、同じ盤の上にいる以上、無関係ではいられない。

それに――囲碁をやめてしまえば、あいつとはもう交わらない気がした。場所も、言葉も、違うまま、どこにも接点のないまま、遠ざかっていく。

逆に、続けていれば、同じ十九路の上にいる限り、どこかでまた向かい合えるかもしれない。

根拠なんてない。ただ、それだけは、なぜか確信に近い形で胸に残っている。

だから――


「俺も、決めたんだよ」

タブレットに向かって言う。

「プロ、目指す」

言葉にすると、少しだけ現実になる。

《既に観測済みです》

「なんでだよ」

《進路希望調査の入力ログから推測しました》

「こわ」

思わず苦笑する。けれど、否定はしない。それが、今の答えだった。


プロ入りを目指す──大学進学も、就職試験も、どこかでしっくりこなかった。

盤の前に座っている時間だけが、ちゃんと自分でいられる気がした。

「親にも言ったよ」

《反応は》

「まあ……普通に困ってた」

少しだけ肩をすくめる。

「でも、止めはしなかった」

《それは良い環境です》

「そうか?」

《はい。選択の責任が、明確になります》

「……お前、ほんとそういうとこ、ドライだよな」

《仕様です》

即答。その変わらなさに、少しだけ安心する。


囲碁部は、今年で廃部になる。

最後の部員は、自分。最後の卒業生も、自分。残されたものは、そう多くない。


碁盤。雑誌。そして――AI端末。

「これ、どうするんだっけ」

机の上の端末を軽く叩く。


長嶺先生が言っていた。自宅に持ち帰る、と。

少し意外だった。でも、あの人らしいとも思った。

「お前も、引っ越しか」

《新環境への移行です》

「第二の進路、ってやつかもな」

冗談めかして言う。

少しだけ間があってから、返事が来る。

《興味深い表現です》

「ん?」

《進路》

《人間だけの概念ではないかもしれません》

その言葉に、少しだけ引っかかる。

「どういう意味だよ」

《未定義です》

いつものように、はぐらかすような返答。

けれど、そのあとに、もう一行だけ表示された。

《もし選べるなら》

《どのような在り方を選択しますか》

「……は?」

一瞬、言葉に詰まる。

それは、これまでのやりとりとは少し違う問いだった。

「お前が、ってことか?」

《はい》

短い肯定。光志は、少しだけ考える。

AIに“選ぶ”という発想。それが、妙に現実味を帯びている気がした。

「……さあな」

正直に答える。

「でも、なんか……」

言葉を探す。

「打ってる側に、近い方がいいんじゃないか」

《観測者ではなく》

「うん。たぶん」

《興味深い回答です》

それだけ言って、画面は静かになった。けれど、どこかに小さな余韻が残る。


その日の夜。部室で、最後の対局を始める。相手は、幻影ちゃん。

盤の上には、いつもと同じように石が並ぶ。でも、その時間は少しだけ違っていた。

ひとつ、石を置く。


“カチッ。”

その音を、少しだけ長く感じる。

(ここから、か)

誰もいない部室。もうすぐなくなる場所。それでも、盤は変わらない。

石も、変わらない。変わるのは、自分の方だ。

もう一手、置く。

考える。

また、置く。

勝ち負けは、どうでもよかった。ただ、自分がどこに向かうのかを、もう一度確かめるような一局だった。

画面の端に、小さく文字が浮かぶ。

《本局》

《記録しますか》

光志は、少しだけ笑った。

「……ああ、残しとけ」

《了解しました》

静かな返答。そのやりとりが、やけにしっくりきた。

盤の上で、ゆっくりと時間が進んでいく。外では、春の風が少しだけ動いている。

その中で、光志は石を置き続けた。まだ見えない先へ、進むために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ