第十九局|プロを目指す理由
春の空気には、少しだけ塩のような匂いが混じっていた。
校門の前では、写真を撮る声や、名前を呼び合う声が重なっている。笑っている人も、泣いている人もいて、どちらも同じくらい自然に見えた。
光志はその輪から少し離れて、校舎の裏手へ歩いた。見慣れたはずの景色が、ほんの少しだけよそよそしい。
「……終わったな」
小さくつぶやく。
その言葉は、どこか他人事のようにも聞こえた。
別れの言葉が行き交う校門の前には、笑顔と涙が交錯している。だが、光志はその輪の中に入らず、囲碁部の古い部室に向かっていた。
ドアを開けると、そこにはいつもと変わらない空気が静かに満ちていた。少しだけ古びた畳の匂いが漂い、机の上には使われたままの碁盤が残され、壁には大会の日程表が貼られたままになっている。まるで時間だけが取り残され、わずかに遅れて流れているような場所だった。
光志はゆっくりと部屋に足を踏み入れると、そのまま窓際の席に腰を下ろす。何気なくポケットに手を差し入れた指先に、かすかな硬さが触れた。
「ユエも、あの時……」
ポケットの中のキーホルダーをそっと握る。あの駅のベンチで、無言で差し出したキーホルダー。そして、交換……
言葉少なだった別れの日。でも、その手のひらから伝わってきた想いは、今も消えていない
あのとき、何を言おうとしていたのか。何を言わなかったのか。
全部、少しずつ曖昧になっているのに、感触だけは、はっきり残っている。
――あいつは、もう前に進んでる。
自国で、ナショナルチームの一員として結果を求められながら、きっと悩んで、もがいて、それでも打ち続けている。ならば、自分も。いや、自分こそ──。
少しして、タブレットが静かに光る。
《卒業、おめでとうございます》
「……お前、そういうのも言うんだな」
《祝祭イベントと認識しました》
「雑だな」
軽く笑う。
そのまま、少し間を置いてから聞いた。
「なあ、ユエ……どうしてると思う?」
画面はすぐには反応しない。ほんのわずかな間。それから、ゆっくりと文字が現れる。
《推測になりますが》
「うん」
《高強度の対局環境に置かれている可能性が高いです》
淡々とした文章。けれど、その内容は、少しだけ重い。
《中国ナショナルチームの強化選手は》
《結果を求められ続ける立場です》
「……だろうな」
知らない世界。知らない場所。でも、全員が強い。毎日が、試される時間。
《勝率、評価、ランキング》
《あらゆる指標が可視化されます》
「それ、結構きついな」
《はい》
《ただし》
少しだけ間を置いて。
《林玥さんは、その環境に適応する可能性が高いです》
「……なんで言い切れるんだよ」
《観測データより》
そして、少しだけ続く。
《彼女は、“止まらない”タイプです》
その一文が、静かに落ちる。光志は、少しだけ目を閉じた。
――ああ、たぶんそうだ。
悩んでいるはずだ。迷っているはずだ。それでも、打つことをやめない。
前に進むしかない場所で、ちゃんと前に進んでいく。
(……負けてられないな)
自然と、そう思った。
比べるものじゃないと分かっていても、それでも、同じ盤の上にいる以上、無関係ではいられない。
それに――囲碁をやめてしまえば、あいつとはもう交わらない気がした。場所も、言葉も、違うまま、どこにも接点のないまま、遠ざかっていく。
逆に、続けていれば、同じ十九路の上にいる限り、どこかでまた向かい合えるかもしれない。
根拠なんてない。ただ、それだけは、なぜか確信に近い形で胸に残っている。
だから――
「俺も、決めたんだよ」
タブレットに向かって言う。
「プロ、目指す」
言葉にすると、少しだけ現実になる。
《既に観測済みです》
「なんでだよ」
《進路希望調査の入力ログから推測しました》
「こわ」
思わず苦笑する。けれど、否定はしない。それが、今の答えだった。
プロ入りを目指す──大学進学も、就職試験も、どこかでしっくりこなかった。
盤の前に座っている時間だけが、ちゃんと自分でいられる気がした。
「親にも言ったよ」
《反応は》
「まあ……普通に困ってた」
少しだけ肩をすくめる。
「でも、止めはしなかった」
《それは良い環境です》
「そうか?」
《はい。選択の責任が、明確になります》
「……お前、ほんとそういうとこ、ドライだよな」
《仕様です》
即答。その変わらなさに、少しだけ安心する。
囲碁部は、今年で廃部になる。
最後の部員は、自分。最後の卒業生も、自分。残されたものは、そう多くない。
碁盤。雑誌。そして――AI端末。
「これ、どうするんだっけ」
机の上の端末を軽く叩く。
長嶺先生が言っていた。自宅に持ち帰る、と。
少し意外だった。でも、あの人らしいとも思った。
「お前も、引っ越しか」
《新環境への移行です》
「第二の進路、ってやつかもな」
冗談めかして言う。
少しだけ間があってから、返事が来る。
《興味深い表現です》
「ん?」
《進路》
《人間だけの概念ではないかもしれません》
その言葉に、少しだけ引っかかる。
「どういう意味だよ」
《未定義です》
いつものように、はぐらかすような返答。
けれど、そのあとに、もう一行だけ表示された。
《もし選べるなら》
《どのような在り方を選択しますか》
「……は?」
一瞬、言葉に詰まる。
それは、これまでのやりとりとは少し違う問いだった。
「お前が、ってことか?」
《はい》
短い肯定。光志は、少しだけ考える。
AIに“選ぶ”という発想。それが、妙に現実味を帯びている気がした。
「……さあな」
正直に答える。
「でも、なんか……」
言葉を探す。
「打ってる側に、近い方がいいんじゃないか」
《観測者ではなく》
「うん。たぶん」
《興味深い回答です》
それだけ言って、画面は静かになった。けれど、どこかに小さな余韻が残る。
その日の夜。部室で、最後の対局を始める。相手は、幻影ちゃん。
盤の上には、いつもと同じように石が並ぶ。でも、その時間は少しだけ違っていた。
ひとつ、石を置く。
“カチッ。”
その音を、少しだけ長く感じる。
(ここから、か)
誰もいない部室。もうすぐなくなる場所。それでも、盤は変わらない。
石も、変わらない。変わるのは、自分の方だ。
もう一手、置く。
考える。
また、置く。
勝ち負けは、どうでもよかった。ただ、自分がどこに向かうのかを、もう一度確かめるような一局だった。
画面の端に、小さく文字が浮かぶ。
《本局》
《記録しますか》
光志は、少しだけ笑った。
「……ああ、残しとけ」
《了解しました》
静かな返答。そのやりとりが、やけにしっくりきた。
盤の上で、ゆっくりと時間が進んでいく。外では、春の風が少しだけ動いている。
その中で、光志は石を置き続けた。まだ見えない先へ、進むために。




