第20話 恋の先輩たちは見逃さない
終わりましたわ。
訓練場を出た瞬間、凛華は心の中でそう断言した。
もちろん、よい意味ではない。
頬が熱い。
耳の奥までじんとする。
呼吸まで少し落ち着かない。
模擬戦の直後だから――ではない。
そんな言い訳が通じるなら、とっくに楽になっている。
『そのつもりがあるなら、早めに筋は通せ』
お父様の低い声が、まだ耳の奥に残っていた。
しかも、その直後だ。
勇真は本気で分かっていない顔で言ったのだ。
『……筋って何の話だ?』
――どうしてこの人は、ああいう時だけこんなにも鈍いのですか……!
思い出しただけで、胸の奥がまた騒ぎ出す。
訓練場に広がった笑い。
肩を震わせていた若手たち。
そして、あの場にいた誰もが聞こえる声で飛んできた、あまりにも雑で、あまりにも分かりやすい呼び名。
――婿殿。
「うぅ……」
小さく漏れた声に、自分で自分が嫌になる。
こんなふうに取り乱すなんて、東條院の人間としてあるまじきことだ。
しかも東魔協本部の廊下で。
誰が見ているかも分からないのに。
けれど、無理なものは無理だった。
今はとにかく静かな場所へ行きたい。
一人になって、頭を冷やして、それから――
「凛華ちゃん」
前から声をかけられた。
凛華はぴたりと足を止める。
立っていたのは、東魔協の若手実働術師、高坂ひかりだった。
ショートカットの似合う快活な先輩で、距離が近く、面倒見もいい。凛華のことを妹のように可愛がってくれる姉貴分だ。
「少し時間ある?」
「……何かご用でしょうか」
「あるある。すごくある」
にこり、と笑われる。
普段ならその笑顔に安心する。
だが今この状況では、むしろ逃げたくなる。
「申し訳ありませんが、私はこのあと少し整理したいことが――」
「うん、必要そうだよね」
「心の整理が」
「それと、顔の熱も」
横から、すっと別の声が入った。
細縁眼鏡をかけた理知的な女性術師――桐生院透子。
東魔協の分析・結界運用寄りの術師で、感情より状況を整理して話すタイプの先輩だ。
さらに背後から、やわらかな声が重なる。
「大丈夫よ。長くは引き留めないから」
「少しだけ、お茶に付き合ってちょうだい」
そう言って微笑んだのは、若手女性術師たちのまとめ役でもある中堅術師、橘薫子だった。
穏やかで聞き上手で、凛華が本音をこぼせる数少ない年上の女性でもある。
見事な包囲だった。
「……っ」
凛華は一瞬だけ逃げ道を探したが、すぐに諦めた。
三人とも悪意はない。
だからこそ、振り切れない。
「……分かりました」
「よし」
「素直で助かります」
「今のあなた、一人にしたら余計にこじれそうだもの」
「こじれてなど――」
「ない?」
「…………」
言い切れなかった。
そのまま凛華は半ば連行されるように休憩室へ連れて行かれた。
ソファに座らされる。
目の前には温かい紅茶。
小皿には一口サイズの焼き菓子まで並んでいた。
どう見ても、最初から捕獲する気満々である。
「さて」
ひかりが向かいに座る。
透子は隣へ。
薫子は斜め前へ腰を下ろした。
「そんなに固くならなくて大丈夫だって」
「取り調べではありません」
「少し、恋のお話をしたいだけよ」
「恋、ですって!?」
思わず声が裏返った。
勢いのままカップに手を伸ばしかけ、危うくぶつけそうになる。
慌てて手を引くと、ひかりが吹き出した。
「危な。可愛い」
「か、可愛いなどと……!」
「そういう反応がもう可愛いの」
「普段はあれだけ隙がないのに、今日は最初から崩れていますし」
「凛華ちゃん、ほんと恋になると分かりやすいねー」
凛華は硬直した。
最後の一言が、あまりにも直球だった。
「……何のことでしょうか」
「まだそこからいく?」
「いけなくはありませんが、かなり無理があります」
「だってさっき、訓練場で真っ赤だったし」
「否定にもなっていませんでした」
「“気にしますわ!”って、かなり本気だったよね」
「う……」
反論できない。
あれは確かに本気だった。
気にするに決まっている。
よりにもよって、お父様があの場であんなことを言い出すのだから。
「しかも会長、止めるどころか娘さん側に立ってたじゃん」
「かなり優しかったと思います」
「最後の一言は余計だったけれど」
「余計すぎましたわ!」
思わず食い気味に返してしまう。
三人の顔がそろってほころんだ。
「ほら、そういうところ」
「今日は素が出ていますね」
「無理しなくていいのよ。ここ、身内しかいないもの」
薫子のその一言で、凛華の肩から少しだけ力が抜けた。
ただ面白がっているだけではない。
からかいながらも、ちゃんとこちらを気にかけてくれている。
「安心して」
薫子が穏やかに言う。
「私たち、あなたを困らせたいわけじゃないの」
「むしろ逆です」
「うまくいってほしいの。だから、少しだけ背中を押したいのよ」
凛華は瞬きをした。
「……うまく、とは」
「そこ説明いる?」
「要ります」
「では単刀直入にいきます」
透子が眼鏡をそっと押し上げた。
「東條院さん。あなたは勇真君のことが好きです」
断定だった。
凛華の肩がぴくりと跳ねる。
持ち上げかけたカップが傾き、慌てて両手で支え直した。
ひかりが肩を震わせる。
「今の反応でもう答え出てるって」
「い、いいえ、まだ何も……!」
「では確認します」
透子は淡々と続けた。
「勇真君が、あなた以外の誰かと二人で出かけると聞いても、何とも思いませんか?」
「それは――」
言葉が止まる。
頭の中に、勝手に光景が浮かんだ。
勇真が、自分ではない誰かの隣に立っている。
自然に荷物を持ち、人混みでは前に出て、危なげなく守る。
あの落ち着いた声で「大丈夫」と言う相手が、自分ではない。
胸の奥が、すっと冷えた。
「……思います」
「はい」
「かなり?」
「……かなり、です」
小さく答えると、ひかりがすぐに乗ってきた。
「じゃあさ、“護衛対象として”取られるのは困るんだ?」
「取られるって何ですの!?」
反射で声が出た。
しまった、と思った時には遅い。
三人とも、今度は本当に優しい顔をしていた。
「うん。分かりやすい」
「とても素直な反応です」
「恋って、そういうものよ」
「……恋、など」
言いかけて、凛華は黙り込んだ。
恋。
恥ずかしい言葉のはずなのに、胸の真ん中へまっすぐ落ちてくる。
「分からない?」
薫子が静かに尋ねる。
「……分かりませんわ」
「うん」
「ただ……気になりますし」
「うん」
「一緒にいると、落ち着く時もありますし、落ち着かない時もあります」
「だいぶ来てるねえ」
「褒められると?」
「嬉しいです」
「心配されると?」
「嬉しい、ですけれど……胸がうるさくなります」
「無茶されたら?」
「腹が立ちます」
「でも?」
「放っておけません」
最後は、ほとんど呟きだった。
休憩室が少しだけ静かになる。
やがて、ひかりがにっと笑った。
「はい、十分好き」
「認定です」
「認めるのが恥ずかしいだけね」
「うぅ……」
凛華はとうとう片手で顔を覆った。
耳まで熱い。
悔しいのに、否定はできない。
「でもね、凛華ちゃん」
薫子の声はやわらかかった。
「それって悪いことじゃないの」
「ちゃんと大事だと思える相手がいるって、とても素敵なことよ」
「あなた、何でも一人で綺麗に整えようとしがちでしょう?」
「……はい」
「恋までそうしようとすると、しんどいわ」
凛華はそっと手を下ろした。
その言葉は、思っていた以上に胸に沁みた。
戦いでも、立場でも、凛華はずっと“崩さないこと”を求められてきた。
完璧であること。
迷いを見せないこと。
東條院家の娘であり、東魔協のエースであること。
けれど今の自分は、どうしたって整っていない。
勇真のことになると、すぐ顔に出るし、すぐ心が乱れる。
そんな自分を、彼女たちは笑いながらも受け止めてくれていた。
「それと」
透子が静かに続ける。
「今の勇真君は、あなたの好意に薄々気づいていても、自分から踏み込まない可能性が高いです」
「……そう、でしょうか」
「高いです。かなり」
「分かる。あの人、戦いではあんなに鋭いのに」
「恋愛方面だけは、自分で線を引くタイプに見えます」
「“護衛だから”って、自分で止まりそうなのよね」
凛華は深く息を吐いた。
それは――ありえる。
とても、ありえる。
勇真は優しい。
だがその優しさは、自分の立場を後ろに置く優しさでもある。
だからこそ、何もしなければそのまま“護衛だから”で止まり続ける気がした。
「なので」
透子がきっぱりと言う。
「二人の時間を作るべきです」
「そうそう」
「学校でも訓練場でも任務でもない場所でね」
ひかりが楽しそうに頷く。
「護衛でも任務でもいいから、とにかく二人の時間を作りなさい」
「きっかけなんて、あとから意味が変わるんだから」
「いきなり告白しろと言っているわけではないの。まずは距離を育てるのよ」
二人の時間。
その言葉だけで、また鼓動が速くなる。
「近いうちに京都遠征がありますよね」
「はい」
「なら、準備の買い物という名目が最適です」
「遠征用のもの見たいから付き合って、で自然だし」
「護衛も兼ねていますから、何も不自然ではありません」
凛華の指先が、膝の上でそっと動いた。
たしかにその通りだ。
必要なものはある。
術具の補助材も、移動用の小物も、確認したいものはいくつもある。
そして勇真は護衛だ。
同行を頼むこと自体はおかしくない。
――何も、おかしくないはずなのに。
「顔に出ました」
「今、“それならいけるかも”って思ったでしょ」
「凛華ちゃん、ほんと分かりやすいなあ」
「……少しだけです」
「少しは思ったんだ」
「十分前進です」
凛華は視線を逸らした。
それでも、先ほどほど苦しくはない。
恥ずかしいのは変わらない。
けれど、一人で抱えている時よりずっと楽だった。
「ちなみに」
ひかりが楽しそうに身を乗り出す。
「どこが好きなの?」
「えっ」
「勇真君の」
「な、なぜそこまで……!」
「言語化は大事です」
「戦いでも同じでしょう?」
「そこ整理しとくと、いざって時にちゃんと動けるから」
最後の一言に、凛華は少し黙った。
たしかにそうだ。
曖昧なままでは、動けない。
「……優しいところ、でしょうか」
「うん、いいね」
「具体的には?」
「さらに聞くんですの……!?」
三人がそろって頷く。
逃げ場がない。
けれど、もう少しだけなら話してもいい気がした。
「……守ると決めた相手には、迷わず手を伸ばしてくださるところです」
「うん」
「あと……私の戦い方を、ちゃんと見てくださるところも」
「それは大きいですね」
「結果だけではなく、その途中まで見て、言葉にしてくださいますので……」
そこまで言って、凛華は少し俯いた。
「……“今の方が強い”と言っていただけた時、とても嬉しかったのです」
一拍。
三人がそろって顔を見合わせる。
「それ本人に言ったらかなり効くよ?」
「非常に効きます」
「あなた、自覚なしでそういうことを言うのね」
「な、何なのですの、その評価は……!」
本気で抗議したが、三人は笑うばかりだった。
けれど、その笑いに嫌な感じはない。
むしろ嬉しそうですらある。
「ほんと、うまくいってほしい」
「勇真君、案外そういう真っすぐな言葉に弱そうですし」
「あなたみたいな真面目な子が、少しずつ素直になるのって、とても強いもの」
「そ、そんなふうに言われましても……」
言いながらも、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
その時、薫子がふっと表情をやわらげた。
「取られたくないならね」
凛華は息を呑んだ。
「大事にしたいと思った人を、自分から大事にしなさい」
その一言は、もうからかいではなかった。
まっすぐで、優しくて、でも逃がしてくれない言葉だった。
「焦って奪えって意味じゃないの」
「ただ、大事だと思っているなら、そのまま胸の奥にしまい込まないで、少しずつでも行動しなさいってこと」
「待っているだけだと、気づかない男の子は本当に気づかないから」
取られたくないなら。
大事にしたいと思った人を、自分から大事にしなさい。
その言葉が、静かに深く刺さる。
勇真は誰のものでもない。
護衛で、相棒で、東魔協の協力者。
今はまだ、そういう距離だ。
けれど。
このまま何もしなければ、きっとそのままだ。
変わらないまま、過ぎていく。
「……先輩方」
「ん?」
「その……もし、私が勇真君をお誘いするとしたら」
「うん」
「どのように言えば、自然でしょうか」
三人の目が、一斉に輝いた。
「きた!」
「本題ですね」
「じゃあここからは、ちゃんと作戦会議よ」
「さ、作戦……」
「大事でしょ」
「あなた、こういうの慣れていませんし」
「変にあざとくしなくていいの。凛華ちゃんらしくで十分」
そこからは本当に、小さな作戦会議になった。
名目は必要。
でも事務的すぎるとただの連絡になる。
自然さは欲しい。
けれど、少しだけ柔らかさもほしい。
「“京都遠征の準備をしたいので”は使えます」
「“お時間が合えば”も東條院さんらしいです」
「長文にしすぎないこと。気持ちは少しだけにじむくらいでいいのよ」
凛華は真面目に頷きながら聞いていたが、途中でふと漏らした。
「……私、こういうことを考えたことがありませんでした」
半分、独り言だった。
「でしょうね」
「でも、今から覚えればいいんです」
「恋愛って、器用な人だけのものじゃないわ」
薫子がやわらかく笑う。
「むしろあなたみたいな子の方が、一度決めたら強いと思う」
一度決めたら強い。
それは、戦いの時の自分だ。
なら、恋だってそうあれたらいいのかもしれない。
話が終わる頃には、顔の熱はまだ残っていたものの、心の中のぐしゃぐしゃは少し整っていた。
からかわれた。
かなり、からかわれた。
でも、それ以上に背中を押された。
自分でも曖昧にしていた気持ちを、言葉にしてしまった。
その恥ずかしさは大きい。
でも、一度認めてしまうと、もう元には戻れない。
控室へ戻り、扉を閉める。
誰もいない静かな空間で、凛華はそっとスマートフォンを取り出した。
画面を開く。
勇真の連絡先を開く。
そこで、指が止まる。
「……まだ、早いですわね」
小さく呟いた。
まだ、今ではない。
今日この瞬間に送る必要はない。
けれど。
もう、何もしないままではいられないとも思う。
先輩たちの言葉が、頭の中で静かに響く。
――二人の時間を作りなさい。
――待ってるだけじゃ、気づかないわよ。
――取られたくないなら、ちゃんと大事にしなさい。
凛華はそっとスマートフォンを胸元に抱えた。
心臓が、まだ少し速い。
でもそれは、ただ恥ずかしいだけの高鳴りではなかった。
その奥に、あたたかい決意のようなものが混じっている。
「……ごまかしきれませんわね」
誰もいない部屋で、ぽつりと本音が零れた。
勇真君のことが気になる。
一緒にいると嬉しい。
褒められると、どうしようもなく胸が熱くなる。
そして、あの人が誰か別の人の隣にいるのを想像すると、面白くない。
そこまで来ておいて、違うとはもう言えなかった。
凛華は静かに目を閉じる。
今すぐ何かが変わるわけではない。
けれど、変えたいと思ってしまった。
護衛としてでも。
任務の名目でも。
それでもいい。
学校でも、戦いでもない場所で。
あの人と少しだけ、二人の時間を持ってみたい。
そう思ってしまった時点で、もう答えは出ているのだろう。
婿殿。
あの呼び名はまだ不本意だ。
思い出すだけで顔から火が出そうになる。
けれど今は、ただ羞恥で否定したいだけではなかった。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、その先を想像してしまう自分がいる。
「……もう」
凛華はソファに腰を下ろし、小さく頬を押さえた。
熱い。
やっぱり熱い。
それでも、嫌ではない。
むしろ少しだけ、嬉しい。
恋の先輩たちは、きっと最初から見抜いていたのだろう。
東條院凛華が、自分で思っている以上に、分かりやすく恋をしていることを。
そして凛華もまた、少し遅れてようやく認め始めていた。
もう、自分の気持ちをごまかしきれない。
だから次は、少しだけでも前に進もう。
その決意を胸に、凛華はそっとスマートフォンを握り直した。
まだ送らない。
けれど、もう迷うだけでは終わらない。
そんな小さな変化が、彼女の中で静かに始まっていた。
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チェックはしていますが、誤字脱字、言い回しがおかしい所があれば教えてください。




