【side 鉄堂哲郎】3-1
【side 鉄堂哲郎】
大学が夏休みに入ったある日、俺は部室へと向かった。
夏休み中は決まったサークル活動日は無い……というか、普段も推し活サークルに決まった活動日は無い。部室を利用したい人が事務室で鍵を借りて、部室を使用するだけだ。
しかし不思議なことに、誰かが部室にいると、自然とサークルメンバーが集まってくる。サークルメンバー全員が仲良く、誰かと推し語りをする時間が楽しいとみんなが感じているからだろう。
「あれ、兄小田。今日は一人か?」
だから夕方になっても部室に誰か一人しかいないことは珍しい。だが考えてみると、昨年までは推し活サークルの在籍メンバーが多かったが、先輩たちが卒業してしまったため今年は俺たちしかいない。その上で今は夏休み中なのだから、サークルメンバーが部室に一人で居る状況も普通のことなのかもしれない。
「一人だお。拙者は今日、部室にコミケの戦利品を置きに来たんだお」
「コミケ……兄小田が大好きなコミックマーケットとやらか」
『コミックマーケット』は、趣味で作った『同人誌』と呼ばれる本を頒布するイベントのことだ。イベント名にコミックという単語が付いてはいるが、漫画に限らず小説や写真集の他、自作のグッズやゲームも頒布されている。
さらにアニメや漫画のキャラクターになりきったコスプレイヤーもたくさんいて、コミックマーケットは『オタクの祭典』とも呼ばれている。
……兄小田に散々聞かされたせいで、行ったことのないコミックマーケットに詳しくなってしまった。
「うわあ……」
部室の床を見ると、何冊もの本が散らばっていた。可愛らしい表紙の本からエッチな表紙の本まで、大量にある。
部室に一人の状況とはいえ、床に乱雑に本を散らかすのはどうなのだ。
大事なものは床ではなく机や棚に置きたいと俺は思うのだが、どうやら兄小田は違うらしい。兄小田はたぶん床と机のことを同じような存在だと認識している。考えるだけで頭の痛くなる思考だが、そうとしか思えない。だって兄小田は、床に散らかした本を愛おしそうに眺めているのだから。
「コミケは推しを愛する心で成り立ってるんだお。あの会場は推しを愛する人だらけで、世の中にはこんなに仲間がいっぱいいたんだ!って感動するんだお。ぐふふふ、コミケの空気は美味しかったんだお。生き返った気分だお」
俺が部室の散らかり具合に呆れていることになど気付きもしない兄小田が、うっとりとした顔でコミックマーケットのことを語り出した。
しかしコミックマーケットの空気が美味しいというのは、ただの比喩表現だろう。
テレビの特集番組で見たことがあるが、コミックマーケットは人で溢れていて、とても空気が美味しそうには見えなかった。
きっと兄小田は、推しを愛する人たちだらけの空間が心地良かったと言いたいのだろう。
「テレビの特集で見たが、コミックマーケットには人間の熱気で雲が出来るという都市伝説まであるらしいな」
「都市伝説じゃないんだお。コミケ雲は本当に発生するんだお。拙者、何回も見たことがあるんだお」
「うそ……だろ?」
人間の熱気で雲が出来るなんて、にわかには信じられない話だ。
しかし実際に現地へ行っている兄小田が言うからには、本当にコミケ雲なる雲が発生するのだろう。コミックマーケットは恐ろしい場所だ。
「っていうか、鉄堂氏はオタクなのにどうしてコミケに行かないんだお? 鉄道関連の本も頒布されてるはずなんだお」
「俺は乗り鉄だからな。あまり本には興味が無いんだ。コミックマーケットへ行く時間があるなら、電車に乗っていたいしな」
「鉄堂氏、この前鉄道の本を買ったって言ってなかったかお?」
「俺は公式への課金は惜しまない主義なんだ」
「確かに公式への課金は大事なことなんだお。金にならないものは削減されがちだから、好きなものは課金で応援しないと無くなっちゃうかもなんだお」
なんだかこうして兄小田と二人きりで喋るのは久しぶりな気がする。とはいえ姫香ちゃんや徳佐がいるときと話す内容はほとんど変わらないが……あ、そうだ。これだけは伝えておこう。
「エッチな本を姫香ちゃんの前で広げるなよ? って、徳佐の前でも良くないな。セクハラって言われるぞ」
「エッチな本……下着を履いてたらセーフかお?」
「こういうときに聞くのは水着じゃないか? 下着は余裕でアウトだと思うぞ」
「鉄堂氏はお堅すぎるんだお。下着くらい全年齢本でも描かれるんだお」
そう言われると自信が無くなってきた。
日曜夜に放送されている国民的アニメ内の女の子も常にスカートからパンツがはみ出している気がするし、下着姿のアイドルが歌うミュージックビデオもあった気がする。
今どきは下着姿くらい、なんてことのないものなのか!?
「だっ、だとしても! 二人のアウトラインがどこかは分からないだろ。危ない橋は渡らないに限る!」
「むむむ。確かに何をセクハラと感じるかは、人それぞれなんだお。受け手がセクハラと感じたらそれはセクハラ……それを考えると、もしかしたら触手モノもアウトかもしれないんだお」
もしかしたらではなく、明確にアウトだと思う。
とはいえ、俺の言葉に兄小田は納得してくれたらしい。これでサークル内セクハラ事件は未然に防ぐことが出来たはずだ。
「それにしても大量にあるな。これ全部、コミックマーケットで手に入れた本なのか?」
俺が何気なく言うと、兄小田は目を輝かせながら身を乗り出してきた。
「よくぞ聞いてくれたんだお。見よ、この戦利品の数々! 今年のコミケは豊作なんだお!」
「戦利品というのは、コミックマーケットで手に入れた品々のことを指すんだったか。よくは知らんが、同人誌というものはすごいよな。まるでプロが描いたみたいだ」
俺は床に散らばる本のうちの一冊を手に取った。
俺はあまり漫画には詳しくないが、それでも素人が描いたものとは思えない出来だ。この本が本屋に並んでいても違和感は無いように思う。
「鉄堂氏、お目が高い! そのひめるん学園パロディ本は最高なんだお。ひめるんの魅力がこれでもかと詰まってるんだお。ほのぼの日常系の話だから、鉄堂氏が読んでも楽しめるはずなんだお」
目を輝かせた兄小田が、俺に本をグイグイと押し付けてくる。
「いや、俺は遠慮しておく」
「ぐぬぬ、そんな殺生なあ」
途端にしょんぼりとする兄小田の周りには、本だけでなく、いくつものカプセルが転がっている。
「このカプセルもコミックマーケットで手に入れたものか?」
「これは大学に来る途中で回したガチャポンのカプセルなんだお。一人でガチャポン開封式もしてたんだお」
兄小田が、カプセルの中に入っていたのだろう小さなキーホルダーを見せてきた。
これまでにも散々見せられてきたから、このキーホルダーのキャラクターが誰なのかはすぐに分かった。床に散らばる本に描かれているのと同じキャラクター『魔法少女☆ひめるん』の主人公、ひめるんだ。
「またひめるんのガチャポンか。この前もやってなかったか?」
「この前のはひめるん缶バッジのガチャポンで、今回のはひめるんキーホルダーのガチャポンなんだお」
「ふーん?」
「ちょっと鉄堂氏! もっと興味を持ってほしいんだお。鉄堂氏だってガチャポンにはお世話になってるんだお?」
確かに俺もガチャポンを回すことはある。よくある。
駅によっては、駅名キーホルダーや電車キーホルダーのガチャポンが備え付けられているからだ。
「ああ、俺も鉄道関連のガチャポンは回しがちだな。基本は乗り鉄だけど、鉄道グッズが目に入るとつい、な」
「数百円で推しのグッズが手に入るなんて、ガチャポンは良い文化なんだお」
ニヤける兄小田を見ながら、ふと俺は当初の目的を思い出した。
もうすぐ部室の鍵の返却時間だから、部室に寄ったついでに戸締りをして帰ろうと思ったのだ。
「兄小田、そろそろ鍵の返却時間だから帰らないとだぞ」
俺の言葉を聞いた兄小田は、スマートフォンで現在の時刻を確認した。
「もうこんな時間かお!? 今日は見たいアニメが放送されるんだお!」
「兄小田の場合は、『今日は』じゃなくて『今日も』だろ?」
「毎日何らかのアニメが放送されてるんだお。アニメ大国日本に生まれてよかったんだお」
「じゃあ一緒に帰ろう。俺は兄小田の帰り支度が終わるまで、鉄道ポスターを眺めてるから」
そう言って俺は、壁に貼られた鉄道のポスターを眺めた。
俺はこのポスターが好きで、一日一回眺めないと落ち着かないほどなのだ。
これまで俺は、このポスターに何度も助けられてきた。眠くて授業をサボりたくなった日、このポスターを見るために頑張って大学へ足を運んだことは、一度や二度ではない。だからこのポスターのおかげで単位を落とさなかったと言っても過言ではないはずだ。
推しが人生に与える影響は大きい。時にはこのように、善き未来に繋がる結果すらもたらしてくれる。
ああ、推しとはなんと偉大な存在なのだろう。
俺たちオタクは、推しのことを推しているのではない。推させて頂いているのだ。
このポスターを眺めていると、そのことを改めて感じる。
「鉄堂氏はそのポスターが好き過ぎるんだお。何度見ても推しにうっとりする気持ちは拙者も分かるけども」
ポスターを見つめる俺に向かって兄小田が言った。
「美人は三日で飽きると言うが、推しのことは毎日眺めても飽きないよな」
「拙者もひめるんに飽きる自分が想像できないんだお。拙者は一生ひめるんのことを愛し続けるんだお。ボケて老人ホームに入る年齢になっても、きっと拙者は老人ホームでひめるんの布教をしてるはずだお。ひめるんは拙者の嫁だお!」
気持ちが昂ったのか兄小田がひめるんの本を読もうとし始めたので、本を没収した。そして部室に備え付けられている棚に本を並べる。
「ああっ、拙者のひめるん本!」
「見たいアニメがあるんだろ。口よりも手を動かせ」
「ハッ!? そうだったんだお。早く帰ってアニメをリアタイしないと!」
兄小田は床に散らばった本を素早く棚に並べると、俺と一緒に部室を出た。
そして俺たちは部室の鍵をしっかりと施錠すると、事務室に鍵を返してから帰宅した。
* * *




