第一話:ブラクスムルと、未完の思考のスケッチ
#カタワレ時の手紙 #なろう悲恋 #涙腺崩壊 #エドとあかり #諏訪湖 #君の名は聖地 #泣ける小説 #感動の結末
古びた本の匂いと、ブラックコーヒーの芳醇な香り。それが、ブラクスムルでの私の日常が始まったことを告げるいつもの合図だ。12月のジョグジャカルタは、夕方にひとしきり降るスコールのせいで、いつも心地よい涼しげな空気を運んできてくれる。
ガジャ・マダ大学(UGM)の大学院で日本文学を専攻する私の世界は、もはやひらがなやカタカナの書き方を覚えるような段階にはない。私の生きる領域は、うず高く積まれた学術論文、夏目漱石の古典小説の読解、そしてアニメやマンガといったポップカルチャーが現代社会の価値観をいかに形成しているかという緻密な理論分析の深い密林の中にあった。
「エド! 真剣な顔しちゃってさ。そのノートパソコン、画面が透けて向こう側が見えそうなくらい睨みつけてるよ」
背後から、ポンと小気味よく肩を叩かれて我に返った。
それは同じ学年のサリだった。彼女は両手にいっぱいの参考書を抱えて入ってきたところだった。彼女のすぐ後ろからは、リアンが私の向かいの席に椅子を引き寄せながら、二つのコーヒーカップをテーブルに置いた。
私は小さく笑って、画面に広げていた論文の草稿を一瞬だけ閉じた。
「戦後のインドネシアと日本の文化的関係の分析章で、ちょっと行き詰まっちゃってさ、サリ。暗闇の部屋の中で一本の黒い糸を探してるような気分だよ」
「ははっ、またそんな気取った詩みたいなこと言ってさ、エド!」リアンがコーヒーをすすりながらからかってきた。「だから言ったろ、論文を書くときはあまり理想主義になりすぎるなって。大事なのは、さっさと終わらせて、卒業して、良い仕事に就くこと。人生、現実的にいこうぜ」
サリはリアンの腕を軽く小突くと、温かい微笑みを私に向けた。「でも、私はエドのアプローチに賛成だな、リアン。文学って、ただアカデミックな審査を通るためだけの文字の羅列じゃないもの。文学の本質は、その時代の『精神』を記録すること。そうでしょ、エド?」
私は微笑み、カップの中で静かに揺れる黒いコーヒーの水面を見つめた。
「リアンの言うことも間違ってないよ、サリ。人間、お腹を満たすためには現実主義が必要だ。でもね、理想主義や文学がなければ、私たちは自分が何のために歩いているのかも分からずに動く、息をしただけのロボットになってしまう。私たちが本や研究と向き合っているのは、ただ一枚の卒業証書を手に入れるためだけじゃない。国や言葉が違っても、人間の抱える『孤独』の根本的な形はみんな同じなんだってことを理解するためなんだ」
その日の午後、UGMの中央図書館の片隅で、私たちの議論は温かく流れていった。キャンパスを出たあとの未来について、小さな冗談や軽い反論を交わしながら。
友人たちの目に映る私は、誰とでもすぐに打ち解け、活発に議論を交わし、廊下で行き交うすべての人に笑顔で挨拶をするような人間だった。彼らは私を、「社交的で親しみやすいエド」として知っていた。
しかし、その温かな賑やかさの裏側で、私の心の奥底には、常に完全な静寂を求めるもう一人の自分がいた。
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夕方、議論の熱で疲れ果てた頭を冷やすため、私は一人で静まり返り始めたブラクスムルの敷地を歩くことにした。ジョグジャカルタの夕暮れが、ゆっくりと黄金色へとその色彩を変えていくとき、私はUGMの渓谷近くにある公園のベンチに腰掛け、心地よいそよ風を肌に受けた。
こうした瞬間にだけ、私の頭の中にある哲学的な思考のスイッチが静かに動き始める。
私はよく、この人生の「意味」について深く考える。人間はどうして、これほどまでに何かを『所有』することに必死になるのだろうか。私たちは肩書を追い求め、お金を追い求め、愛を追い求める。まるでそれらすべてを、永遠にあの世へと持って行けるかのように。そして私たちは、最初から自分のものでさえなかった何かを失うことを、ひどく恐れて生きている。
私は小さなノートを開き、公式の論文には決して書くことのできない、断片的な思考のスケッチをノートの余白に書き留めた。
『人間はよく、自分の手の中に何を掴み取れたかによって幸福を測ろうとする。しかし彼らは忘れている。手をあまりにも強く握りしめすぎれば、その拳のなかに痛みが走るということを。
人生を生きるということは、一冊の分厚い古典小説を読むことによく似ている。もし私たちが、ただ結末を知りたいためだけに、最後の章へと焦ってページをめくってしまったら、その物語の本当の美しさを味わうことは決してできない。人生の美しさは、むしろすべてのページの途中にある、小さなひび割れのなかにこそ宿っている。――行き場のない疲労のなかに、届かなかった恋しさのなかに、そして、まだ終わりの見えない模索のなかに』
私は、12月の濃い夜の闇に飲み込まれようとするジョグジャカルタの空を見上げた。もうすぐ、1月の休暇がやってくる。マリオボロで外国人観光客の通訳や即興のツアーガイドをして必死に貯めたお金は、ようやく十分な額に達していた。
私の目的地は、すでに決まっている。私は日本へ行く。私の夢の中で何度も何度も美しく波打っていた、あの場所へ。――長野県の諏訪湖だ。
完全に凍りついた湖の神秘的な姿と、あのカタワレ時の魔法のような夕暮れを、この目で直接確かめたい。神々の住まう氷の祭壇の上で、私の人生の問いに対する答えを探してみたいのだ。
この旅が、ただの退屈な学術的逃避のつもりだった。その時の私は、まだ何も知らなかった。この旅が、この地球上で最も美しく、最も尊い、ひとつの使命へと私を導くことになるなんて。
――それは、世界の果てで、粉々に砕け散ってしまったある小さな少女の心を、言葉の力で救い出すという使命だった。
第一話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
ジョグジャカルタの日常のなかで、深い孤独と哲学を抱えて生きていたエド。彼がなぜ日本の諏訪湖を目指すことになったのか、その理由が明かされました。リアンの現実主義と、エドの言葉に対する理想主義の対比は、私たちの生き方にも小さな問いを投げかけてくるようです。
次回、第二話。舞台は一転して、マイナス10度の極寒に包まれた長野県・諏訪湖へと移ります。そこには、言葉を失うほどの圧倒的な青い氷の世界と、湖面を切り裂く神々の足跡が広がっていました。そして、運命の出会いがすぐそこまで迫っています。
この先、エドが諏訪湖のほとりでどんな景色に出会い、どのように物語が紡がれていくのか。続きが気になった方は、ぜひ【次の話へ】お進みください。皆様のブックマーク登録や評価(★★★★★)が、執筆の大きな励みになります!




