プロローグ:氷の祭壇の上で、曖昧になる世界の境界
初めまして、本作を開いていただきありがとうございます。
この物語は、インドネシアのジョグジャカルタからやってきた一人の青年と、信州の凍てつく湖のほとりで出会った小さな少女の、心温まる、そして少し切ないイマジネーションの旅路です。
世界の境界が曖昧になる「あの時間」に始まった奇迹の物語を、どうぞ最後までお見届けください。
もし気に入っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと幸いです。
一人称視点:エド
空がもはや青ではなく、かといって完全に黒にも染まりきっていない、そんな時間がある。長野県の人々はそれを『カタワレ時』と呼ぶ。現実の世界と超自然的な世界との境界が、うつつのなかに溶けて曖昧になってしまう、魔法のような黄昏時だ。その不思議な時間のなか、私は立石公園に立ち、眼下に広がる完全に凍りついた諏訪湖を見つめていた。この高台の丘から見下ろすと、湖は見事なまでに真ん丸な形をしており、かつて画面のなかで目にしたあの架空の村、糸守町の美しさそのものだった。
ガジャ・マダ大学(UGM)で日本文学を学ぶ私のような大学院生にとって、この場所は単なる観光地ではない。ここは、神話が今も息づく生きた祭壇なのだ。
1月の諏訪の空気はひどく澄み切っており、夕暮れの空に広がる濃いオレンジ、ピンク、そして薄紫のグラデーションが、青白い分厚い氷の塊の上に鮮明に反射していた。遥か下では、マイナス10度の大気が『御神渡り(おみわたり)』という現象を創り出していた。昼夜の激しい気温差によって氷面が圧迫され、割れ、せり上がった高さ30センチから1メートルほどの小さな氷の山脈が、湖を二つに切り裂いている。地元の伝承では、その亀裂は諏訪大社の神である建御名方神が、対岸の社にいる妻の八坂刀売神に会うために氷の上を歩いた「神の足跡」だと信じられている。
ひとつの愛のために交わされる、神聖なる渡航。
私は厚手のジャケットを固く締め直し、骨まで突き刺すような冬の風を吸い込んだ。思考は、ジョグジャカルタのブルクスムルにある、あの慌ただしいキャンパスの日々へと引き戻される。ほんの1ヶ月前まで、私はうず高く積まれた学術論文と格闘し、UGMの中央図書館で議論を交わし、キャンパスの木陰で温かいコーヒーをすすりながら、修士論文の草稿をタイピングしていたのだ。マリオボロで外国人観光客の通訳やツアーガイドとしてアルバイトをして貯めたお金が、まさか私をこの場所に立たせ、人生最大の夢を叶えてくれることになるとは思いもしなかった。
しかし、文学と神話に耽っていた私の瞑想は、黄昏の静寂を切り裂く小さな泣き声によって、一瞬にしてかき消された。
公園のベンチの片隅に、10歳くらいの小さな女の子がぽつんと一人で座っていた。降り始めた薄い雪とは対照的な、漆黒の髪。その小さな肩が激しく震えている。彼女はからっぽの両手を見つめながら、声を詰まらせて激しく泣きじゃくっていた。
少女の名前は、コトハ あかり。そしてこの日の夕方、彼女の無垢な世界は崩壊してしまっていた。何よりも大切にしていた、大きな丸い目をしたリカちゃん人形の「フワちゃん」を失くしてしまったからだ。小さな子どもにとって、お人形は単なるプラスチックのおもちゃではない。秘密を共有する友であり、純粋な安心そのものの具現なのだ。
私は深い共感を抱きながら彼女に近づいた。この『カタワレ時』の出会いが、私たちの「喪失」に対する価値観をどれほど変えてしまうのか、その時の私はまだ知る由もなかった。
人間は、往々にして別れを呪う。愛するものが手の中から奪い去られたとき、私たちは涙を流す。しかし、人生の哲学を深く学ぶ者として、私は知っている。現実をただ突きつけるだけでは、あかりの涙を消し去ることはできないのだ。私は本物のフワちゃんを返してあげることはできない。けれど、喪失が必ずしも物語の終わりを意味しないような、そんなイマジネーションの空間を創り出すことはできる。
なぜなら、私たちがこの世界で愛するすべてのものは、いつか失われてしまうかもしれないからだ。しかし、もし私たちに「信じる」だけの十分な勇気があるならば、愛は必ず、再び帰るべき場所へと戻ってくる。――もちろん、それまでとはまったく違う、新しい形となって。
プロローグをお読みいただき、ありがとうございました。
カタワレ時の諏訪湖で出会った、ジョグジャカルタの青年エドと、泣きじゃくる少女あかり。エドの心優しい哲学が、あかりの小さな絶望にどう寄り添っていくのか、物語の幕が上がります。
次回第1話は、時を少しだけ巻き戻し、12月のジョグジャカルタ・UGMキャンパスでのエドの日常を描きます。彼がなぜ日本へ、そして諏訪湖へと旅立つことになったのか、彼の深い思考の背景が明かされます。
ここから始まる二人の美しい旅路を一緒に歩んでくださる方は、ぜひ【次の話へ】お進みください! ブックマークへのご登録もお待ちしております。




