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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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―――雪が、散らついていた。


白く、清廉な世界が数度瞬いて、佐波はその場に立ち尽くしている自分に気付いた。

体が軽い。目の前の靄が晴れたように、頭も明瞭としている。

なんの杞憂もない、音も熱もないその世界で、佐波はゆっくりと空を見上げた。


―――…雪だ。


無意識に手の平を虚空に差し向ける。

振り落ちる花びらのようなそれは、けれど佐波の手には触れず、空気をすり抜けて地面に零れていった。


―――…ここは…


ようやく思考が回り始め、佐波はその場所を明確にしようと視界を彷徨わせる。

すると佐波の視界を助けるように、世界はぐるりと回転した。

白いばかりの景色が淡い陰影を描き、遠近を映し、―――やがて、雪の舞う広場へと姿を確定する。

広場…いや、違う。佐波は、此処を知っていた。知らないはずがない。

だって此処は―――


『約束を…して、頂けますか』


声。少年のまだ柔らかいその細い声に、佐波の意識は急速に過去を遡った。

視界が揺れる。その次の瞬間には、佐波の目前、ほんの数歩の距離に、彼らはいた。


白い地面に膝を折り、薄い衣服を粉雪に濡らして、二人の子どもが祈りを捧げるようにその手を繋いでいる。

その一方の使用人然とした服装の黒髪の少年が、項垂れる少女の手を握り、震える声を上げていた。


『私を、迎えに来て下さると…約束して頂けますか』


―――この、記憶は…


震える。そうだ、この記憶は。

何度も何度も繰り返し、忘れる暇も無い程思い浮かべた、あの日の光景。

愕然とする佐波を置いて、白い白い世界は、それでもゆっくりと進んで行く。


『…嘘でも構いません。…嘘で、いいのです。ただ、姫様が頷いてくだされば、それでいい』


白い吐息が立ち昇る。降り続く雪片の間から、赤くかじかんだ二人の繋いだ手が見えた。

少女が重たい首をのろのろと持ち上げる。

その頬は赤く腫れ、よく見れば顔も腕も―――全身、雪と泥に塗れていた。

少年はそんな少女の汚れた頬を、空いた手で何度も撫でる。

何度も何度も、まるでその輪郭を手の平に記憶させるように。

そうすることで、互いが一つに溶け込めると、信じているように。


『そうすれば、私は明日も生きることが出来る。明日も、明後日も、…姫様を想っていられる』


少年が、少女に顔を近づけた。

涙は既に凍っていた。睫毛に積もった雪片がキラキラ輝くその光景に、佐波は―――


…ああ…―――ああ。 


―――佐波は、目を覆いたくなった。


思い出したくない。

思い出したくない。

この記憶は、かつて佐波の希望だった。

この記憶が在る限り、迷いなど持たない、持ちようが無いと思っていた。

思っていた。

思っていたのに。


―――以織。


以織、以織、以織。

その名を呼ぶ。空気を振動させない音で、佐波は叫んだ。


駄目。行っては駄目。

”わたし”はその約束を果たせない。

嘘でもいいと云ったあなたの、それでも消えなかったであろう希望を、私は打ち砕く。

あなたがこれから、どれほど辛い目に遭うか―――”その”私は、まだ知らない。知らないから、手を放せたの。

お願い、ねぇ、それよりその手を取って、どうか逃げて。少しでも遠くへ。少しでも永く。

生き存[ながら]える必要なんかない。

直ぐに連れ戻されることになろうと、飢えで、寒さで命尽きようと――私たちは――私は貫くべきだった。

彼を大切だと思うなら。身代わりにしたくないと思うなら。己の姑息さを、弱さを嘆く前に。

私は、彼と伴にあることを、貫くべきだったのに。


声が、白い光景の中の二人に届くことは無い。決してない。

俯き、それでも、どうか、どうかと叫んだ佐波の耳を、少年の固く、それでいて恍惚とした声が打った。


『姫様、これは罰なのです』


―――コレハ、罰ナノデス―――


記憶に吹き込んだ、古くも生々しい言葉。

佐波は顔を上げる。その目に、少女の耳に口を当て、囁く少年の姿が映った。


『私は罪を犯し…あなたを、悲しませた。だから、これは当然の報いなのです』


目の前の光景と、記憶に差異はない。ないはずなのに、何故だかこれが初めて聞く言葉のように思えて、佐波は一字一句聞き逃すまいと感覚を澄ませた。


『あなたはまだ知らなくて良い。…どうか、知らないままでいて下さい。あなたには、知られたくない。―――嫌われたく、ない。

 …ああ、でもいつか。いつかあなたも知る時が来る。解っているのです。私の本当の償いは、そこから始まると。あなたが全てを知って、それでも私と伴にあることを望んでくれるなら、私は―――』


少年の言葉が途切れる。

呼ばれたように顔を跳ね上げ、背後を確認した彼は”誰か”に小さく頷いてみせると、再び少女に向き直った。

もう猶予がない。これが最後だと、その表情が告げている。

崩ぜんとしていた少女も、彼のその表情に気付いて、腫れた顔を歪ませた。

幼く、無知で無力な少女。

それでも少女は、この別れが、己の力ではどうやっても回避出来ないことを知っていた。


少年が、両手で佐波の片手を握った。

その手に力が籠り、許しを請うように頭を垂れ、―――そして、彼は云う。


『姫様……私の姫様。どうか、お願いです。いつか、”その時”が来たら、…必ず、』



―――必ず、私を迎えに来て下さると、約束して頂けますか―――











「起きろ」


最の囁くような低い声に、佐波の瞼がぴくりと動いた。

包帯を解いたばかりの瞼には、真新しい傷がある。

痛々しいが、そのお陰で眼球は守られたのだと思えば、そう悲惨にも見えない。

それよりも、青ざめているを通り越して土気色になりつつある顔色の方が、よっぽど悲惨で、悲壮だった。


最の呼びかけに、佐波は薄らと瞼を持ち上げ、喘ぐように口を開いた。


「……さ、い……様…」


掠れた、小さな声。弱々しい小動物の鳴き声のようなそれに、最は応える。


「よく耐えたな。一通りの施術は終わった。そろそろ麻酔が切れる頃だろうから、先に痛み止めを飲むといい。中に睡眠薬も混ぜておくから、よく眠れる」


感情の籠らない鋭利な口調だというのに、云っている内容は酷く優しい。

麻酔で意識を失う前に見たままの最の姿に、佐波は小さく瞬いてそれに応えた。


どうやら、あれから———脱獄の日から、数日が経過しているようだった。

その間怪我の高熱で生死を彷徨った佐波には、今の正確な日時は愚か、ここが具体的に何処なのか、何故自分が再び手厚い治療を受けているのかさえ、さっぱり検討がつかない状態だ。

分かっているのは、運ばれたのが四畳程の小さな部屋で、そこでひたすらに眠らされ、起こされたと思えば激痛の伴う施術(手術)を体中に施されたことくらいだ。

特に火事で負傷した左肩から腕にかけては何箇所もの骨折があり、一度の施術では麻酔の時間が足りず、今回が二度目となった。


麻酔でまだ霞がかった意識の中、先ほどの夢の光景が視界を横切り、佐波は思わず、ふ、と口元を緩めた。


「…い、おり、を……見たのです……夢の、……中、で………」


喉を押し開いて、もつれそうになる舌をどうにか動かし言葉を紡ぐ。

その恍惚とした声に、手早く薬剤を調合していた最はその動きをピタリと止めた。

場の空気が僅かに変わったことにも気付かずに、佐波は夢の中を歩くように囁く。


「…迎えに……来ると………約束………した、のです………」

「…あまり喋るな。舌を噛むぞ」


最の静かな忠告を、佐波はゆっくりと破る。


「最、様……本当に、……以織は、もう、この世に……居ない、のでしょう、か……」


揺れる灯りが、布団に横たわる佐波の輪郭と、黒い羽織の最を照らし、壁や床に依[よ]り濃い影を生む。

じじ…と灯り油の芯が燃える音が、厭に大きく聴こえた。


「もし……そう、なら……私は、これから………」


―――どうすれば、いいのか。


何度も心の中で自問したことなのに、口に出せばより一層の焦燥を得る。

正常な判断が出来る状態の佐波なら、そのような弱音は、間違っても口にしなかっただろう。

だが、麻酔で半分麻痺した思考は、それを考えるまでに至らない。

逆を云えば、思考など崩落していてもおかしくない状況下であっても、その事だけは頭から離れないということ―――


佐波の言葉に、最は暫く黙って薬湯を練っていたが、やがて小さく呟いた。


「…お前は、”いおり”に惚れていたのか」


その言葉に、佐波は瞬いた。


『ホレテイタ』とはどういう意味だったか、と鈍い頭で考え、やがてその答えが一つしかないと気付くと、更に自分に問いかけた。

惚れている、とはつまり相手を好いているということ。ならば、以織は完璧に当てはまる。

だが佐波も17年生きて来て、『好き』には色んな種類があるのだと学んでいた。

以織は大切で、大切で、とにかく大事な人だ。他の誰にも代え難く、彼の為ならば何だって出来ると信じている。

だが、それを”恋”という名前の感情一つに押し込めるのは……何故だか酷く窮屈に思えた。


視線を彷徨わせ、瞬き、考え―――やがて佐波は観念したように肺から空気を押し出した。


「……わか、りません……でも…ただ……彼が、恋しい、…のです……」


佐波の答えに、最は眉根を寄せた。

影を背負ったその姿は、今まさに魂を狩ろうとしている死神[ガロン]のようでもある。


「もし会えていたとして、どうするつもりだったんだ。手引きでもするつもりだったのか?」


至極不思議そうに問いかけてくる最に、佐波もつられて不思議な心地になった。

最は姿は死神のようであっても、中身はその真逆に人を救うことに尽力する良い医者だ。

佐波のような使用人を相手にする医者の中には、立派な看板を掲げていようと、医学など民間療法しか知らぬような輩も多いと聴く。

患者を身分で選び、金儲けの為だけに腕を振るう医者も多いこの世では、彼は異質ともいえる。

遊郭という特殊な環境が彼をそうさせるのか…などと考えていた佐波は、じっとこちらを見つめて答えを真面目に待っている最に、少し慌てながらも———思わず小さく笑っていた。


「…それも、良かった…でしょうね…」


口からついて出たのは、心からの本心。

手に手を取り合い、闇の中に飛び込む。その時世界は、どれほど輝いて見えたことか。

有り得るはずのない光景を思い浮かべると、感覚の無いはずの胸が痛んだ。


「生涯、会えないよりも、ずっといい。…一人で、死なせてしまうより、ずっと……」


目を閉じる。そこに以織の面影を探したけれど、闇が映るだけだった。


「…お前は変わっている」


幾ばくかの間のあと、最は静かに息をついた。

そして、手元の茶碗から薬湯を急須に移し替え、佐波の口元に差し出す。


「普通、そういう台詞は男に云わせるものだ。男の立つ瀬も考えろ」


言いながら口に急須の口を押し付けられて、佐波は「むぐ」と呻いた。

本能的に流し込まれようとする液体を拒否しようとする佐波に構わず、最は急須を傾ける。


「男に狂った女は山程見て来たが、どれも哀れなものだった。だがお前は…不思議だな。お前なら、やろうと思えば手引きすら完遂してしまいそうだ」

「む、ぐうぅ…」


苦い。いや、苦いとかいうものではない。痛い。舌がじんじんと痺れるようだ。

麻酔が残っていてもこれほど激しい味となると、完全に覚醒してからでは飲めたものではないだろう。

動けない身体を捩って苦しんでいる佐波に、最は恐ろしい程の真顔で云った。


「男前だと褒めているんだ。喜べ」


…『男前』は、女にとっても褒め言葉なのだろうか…

息も絶え絶えに痛み止めの薬を飲み終えた佐波が、疲れ切った土気色の顔でぜぃぜぃと息をついている姿を見つめながら…やがて最は視線を下げた。


「…怪我が治ったら、お前に話すことがある。―――”いおり”のことだ」


口内の強烈な苦みも瞬時に忘れて、佐波は目を見開いて最を見た。

揺れる灯りの中に浮かび上がる、陰影の濃いその表情からは、何も見出せない。


———以織の、こと……


麻酔の解けかけた身体に、じくじくと熱と激痛が戻りつつある。

脂汗を浮かべた肌に張り付く衣服の感触まで戻って来て、佐波は無意識に、息苦しさに喘いでいた。


「…い、ま、」


今、話してくれれば———

そう言おうとしたのに、舌がもつれる。…違う、動かないのだ。

急速に視界が狭まり、意識を引きずり込もうと闇が手を伸ばして来たのを感じて、佐波は必死に抗った。


———そうか、そう、いえば、痛み止めの…中に…睡眠薬を……


それにしても効き目が早すぎないか、という疑惑まで呑み込んで、意識がぶっつりと途絶える。

その直前に、身を折り屈めた最が耳元でそっと囁く声が聴こえた気がした。


「自分を保て。どのような苦しみの中でも、自我を手放すな。…”いおり”に会いたければな」





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