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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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「溟楼庵の大火の参考人が死んだそうです」


形式張った礼をして入室してきた自分付きの下士官に目をくれる事もなく、青年は一言「そう」と答えた。

青年―――右相は、その整った顔に柔らかな笑みを浮かべながら、手元の書類を捲り、書き足し、時には項目[ページ]ごと塵箱に捨てている。

これらの機密書類は、部屋にある暖炉で燃やされ、灰となってからしか室外に出される事を許されない。

既に塵箱に溢れ返って床に広がっているそれらをちらりと目の端で確認して、下士官の男は右相の青年が凡[おおよ]そ何刻机に向かっているのかを算出した。


―――ざっと、六刻か…


諮問会から帰ってずっと、ということだ。

凡人の集中力ならばとっくに切れている頃合いだろうが、この若き右相には雑作もないことらしかった。

仕事量、采配力、判断力、決断力、どれをとっても彼程国の中枢に相応しい人間もそう居ない。

加えてその野心。始終浮かべる穏やかな笑みの下には、常に冷酷で獰猛な獣が、”障害物”の喉笛を噛み砕く為に息をひそめている。

その歯牙にかかった数多のかつての役員の顔を思い浮かべながら、下士官の男は水差しから杯に水を注ぎ、右相の青年に差し出した。


「休憩なさいませんか。見たところ、急ぎのものでもないのでしょう?」


男の言葉に、青年は顔を上げた。そして笑みを深める。


「景林[けいりん]、君くらいなものだよ。僕にそういう助言をするのは」

「不要でしたか?」

「いや、助かるよ。どうにも、根を詰めすぎてしまうみたいでね」


軽快に笑って下士官の男―――景林の手から杯を受け取る。

上司が喉を潤すのを無感動に見つめながら、景林は口を開いた。


「参考人の死に、軍部の清州の関与があるとの報告が」

「きよす?…ああ、清州ね。いたね、そういえば」


記憶力が飛び抜けていい青年に、一瞬眉をひそませる”清州”の存在感の薄さに驚くべきか、それとも数百、数千人規模の組織の中にいるそんな役員すら覚えていた青年の方にこそ驚嘆するべきなのか。


青年はほんの少しだけ視線を下げ、手元の書類を一瞥すると、その上に無造作に肘をついて聴く体勢に入った。


「で、その清州が参考人を死なせたと?」

「はい。”臨[りん]”からの報告ですと、参考人の不遜な態度に清州が逆上したと」


りんとは、右相が使っている密偵集団の名称だ。どこにでも入り込み、どこからでも知らせを運ぶ。

政治は情報戦だ。このような組織を持っているのは何も右相に限ったことではなく、皇帝、左相はもちろんのこと、力のある貴族議員・役員なら誰でも一人、二人は従えている。


ぎぃ、と椅子を軋ませ、青年は深く座り足を組む。


「…おかしな話だな。そもそも国内での参考人の身柄の確保は警吏の仕事だ。軍部[あちら]はあちらで密輸の件での捜査のつもりなんだろうが、役員がわざわざ自ら出向く様なことでもない」

「警護府[こちら]を出し抜きたかったのでは?管轄は違えど、警吏と軍部役員では格が違いますから、容易に容疑者を奪えると考えたのかもしれません」

「それにしても随分とお粗末な人選だ。清州は確か、世襲役員だろう?気位ばかり高い、この政界[せかい]じゃ珍しくもない人種の」


世襲役員とは、その名の通り家名や金銭で官位を買った役員のことだ。

今の政界では、実に8割もの役員が相当する。

上には媚び、下には非道な振る舞いし、鬱憤が溜まれば言いがかりをつけて部下に暴力を振るう―――そして場合によっては相手の命を奪うことも珍しくない、なんとも迷惑この上ない人種だ。

もちろん皇国の法律では殺人を禁じてはいるが、官位のある者とそうでない者とでは、罰の重さには雲泥の差がある。告発されることも滅多にない為、彼らの罪は黙殺されることが多い。


「ヤツを使うくらいなら、他にも選択肢は山ほど在っただろうに。…特に、左相閣下の采配ならば」


青年右相とは違い、左相は永きに渉る皇帝側近の血族出身で、生まれながらに上位の格を持ち、誰よりも深く皇国の中枢に関わっている。

それだけに彼の政治上の実力は凄まじく、出世に手段を選ばない青年右相と云えど、迂闊には手を出しかねる相手。


その左相が、清州のような世襲役員を自ら使うだろうか?―――答えは、”否”。


「仰る通りです」


右相の言葉に、景林は頷く。


「どうやら清州を向かわせたのは、左相様直接の指示ではなく、現軍部総統司令長官の功醍[こうだい]様のようです」

「功醍?…ああ、なるほどね」


左相が軍部の実質の実権を握っているとはいえ、今は政界の人間だ。

命令を下したのは左相かもしれないが、部下の采配は現総司令官の功醍に任せたのだろう。

…それにしても。


「…妙だな」


一連の流れに、意図的なものを感じる。

そもそも今回の件は、捲れば捲る程項目[ページ]の増える本のようだ。

溟楼庵の大火から始まり、誘拐未遂、殺人、地方豪族家の密輸疑惑…

そしてその全ての共通項だったたった一人の参考人の死には、普段なら有り得ぬ人事が絡んでいる。

自分がこの物語の作者ならば、どのような結末を用意するだろう?―――そんなことを考えて、右相の青年はふ、と笑った。

確かに放火や殺人なんて、国内では珍しくもない。密輸も、賄賂と汚職に塗れた政界ではよくあることで。

なのにこの件だけが際立って見えるのは、それらに連続性と、微かに”別の目的”が匂うからだ。

さながら林の中に一本の木を隠す様に。

これまでの事件の裏側で、密かに動く”影”を感じる。


―――その”影”こそが、”真相”。


「…どうやら、綻びが見えて来たなぁ」


ニッコリと、無垢な若者らしい笑みを浮かべる青年右相に、彼付きの下士官は畏まった礼を捧げた。


「ご命令を」

「功醍と清州の詳しい調査と尾行を”臨”に。あと君の部下を数名溟楼庵に配置してくれ。死んだ参考人の遺体の確認もだ。―――悪いけど、今回は君にも裏で動いてもらう。いいかい?」

「一命を賭しましても」

「大げさだな」


小さく笑って、彼は「ああ、ついでに」と続けた。


「今日はもう遅いし、執務室[ここ]に泊まるよ。そう家に伝えてくれないか」

「奥方…―――季薇[きら]姫様が閣下のお帰りをお待ちです」


景林が能面のような無表情でそれを告げると、青年は笑みを深める。


「不甲斐ない夫だろう? 独り寝が寂しいようなら、君が相手をしてあげてくれると僕も助かるんだけど」

「不甲斐ないばかりか、不誠実ですね」

「心ない相手に性欲の捌け口として使われるよりは、彼女にとっても良いかと思ってね」

「それは私でも同じ事です」

「さて、それはどうかな」


青年は杯を傾け、喉を潤しながら、


「君は優秀だ。従順で忠実。時に僕以上に職務に冷酷になれる。———けど、姫のことになると、途端に感情を見せるね?」


言ってニッコリ下士官に笑いかける。

その邪気の無い——その所為で本気で殺意の湧く様な——笑みを向けられた下士官は、一瞬口を噤[つぐ]み、


「…………時々……」


至極重たいため息をついた。


「…あなたの水に毒を忍ばせたくなる」

「君なら出来るだろうね」


でも僕は君を信用しているから。と明るく言う青年に、景林は舌打ちしたい衝動を寸でで堪えた。

代わりに、反撃を試みる。


「閣下が成そうとしていることは、狂気の沙汰です。しかもそれが、行方の知れない”奥方”の為だとは———左相様が知れば、さぞかし喜ばれましょう。あなたの弱みを握ったと」

「左相閣下に言うかい?」

「いいえ。私は閣下の”僕”です。閣下の失墜など望むはずがない」

「僕の失墜は、牽いては姫の哀しみだものねぇ」


愛しい姫君の為に、その夫で皇国[このくに]を傾けようとしている悪魔に手を貸す。

…なんとも健気で、実に単純な思考だ。

けれど右相である青年は、そんな下士官を誰よりも高く買い、信用している。

或る意味姫という人質を盾にしているわけだが、互いにそれくらいの牽制があった方が、この二人の関係は上手くいくのだ。


「———閣下は、どうなさるおつもりですか」


いつも言い包められる立場の下士官が低く呟く。


「閣下の”奥方”がもし、もうこの世にいなければ———」


———探し人が、既にこの世に居ないとしたら———


右相の青年は、もう何度も自分に掛けたその問いを下士官の口から聞いて———それでも微笑んでみせた。


「さぁねぇ…。なら、この世以外を探すとしよう」


諦めるつもりなど毛頭ない。

その為に血反吐を吐きながら這い上がってきた。

全ては、少しでも高みから、彼女の行方を探す為。

ただそれだけの為に、多くのものを裏切り、切り捨て、ここまで成り上がって来たのだ。


…彼女を見失って、もう既に5年もの月日が流れていようとも。


———この手に、取り戻す。


それが青年の、意味の無い世界に意味を齎[もたら]す、唯一無二の光なのだから。



















じじ…と灯油[あかりゆ]が燃える匂いと、微かに血の匂いがした。


清潔に整えられてはいるが、高い場所に横に細長い天窓があるばかりの、四畳程の小さな部屋。

四方は固い木材の壁に囲われ、出入り口も、通常の半分程の大きさしかない。

元々は茶室用に設計されたが、建物自体を遊郭に買い取られてからは、主に掟を破った遊女の拘置部屋として使われている。床が畳ではなく板張りなのは、折檻を受ける遊女の血を容易に拭える為にだ。


その冷たい床に、青年は座っている。

行灯に半身照らされた彼の身体は、もう半分を闇に蝕まれ、地面に濃い影を落としていた。

まるでその闇に溶け込もうとするかのように、青年は暗い色合いの着流しの上から、同じ様に暗褐色の羽織を肩に掛けているが、闇に浮かぶ様な匂い立つ色香を纏わせる青年の美貌は、闇の中に在って尚、消せるものではない。

彼はけぶるような睫毛を伏せ、すっと通った鼻筋の下にある形よい唇を固く結び、ただ只管[ひたすら]にある一点を注視し続けている。

視線の先には―――布団に横たえられた、一人の少女。

上から寝布を掛ける事も出来ぬ程に満身創痍である少女は、命の気配すら失せたかのような姿で、包帯と湿布に包まれた身体を布団に沈めている。

顔面にも大きく張られた湿布は少女の両目までも覆い、薄く開いた唇はカラカラに乾いていた。

水飴の中を泳ぐような永い静寂を破り、青年の指が、戸惑いながらそっと少女に伸ばされた時。


―――風もなく、灯りが揺らめく。


「…意気地のないことだ。」


部屋の隅。男の背後から、低く嗤う声がする。


「叩き起こして、感動の再会でもしたらどうだ。今なら、その娘も容易にお前を受け入れるかもしれんぞ」


僅かな光源すら避けるように闇に身を浸したその男が音もなく姿を現したというのに、背を向ける美貌の青年は、振り返って相手を確認することもなく、ただ少女に伸ばしかけた手を、ゆっくりと自身の膝に戻した。


「…何の用だ」


青年が低く囁くように呟くと、闇の中の男は耳障りな声で小さく嗤った。


「お前こそ、こんなところに居てもいいのか? 見つかればお前は元より、この娘にも害が及ぶだろうに」


闇の中の男の視線が、横たわる少女に向けられる。

それを知った青年は、忌々し気に闇に振り返った。


「消えろ。この女[ひと]の居る処に、闇[おまえ]が近づくな。」

「それこそ、お互い様だろう。」


闇が可笑しそうに嗤い、そしてひたりと声を潜める。


「何を怯えている? 闇も恐れぬお前が、その娘の前ではただの小僧のようだ。―――娘に知られるのが怖いか?」


増殖する闇がぬるりと住処を離れ、手を伸ばす。


「娘を傷つけることが怖いか? 娘を裏切ることが怖いか? 娘に嫌われることが怖いか? ―――容易く他を切り捨てるお前が、惚れた女からの軽蔑には耐えられぬと、そういうことか」


行灯の灯りが揺れ、芯の焼ける匂いがする。

ざわざわ、ざわざわと蠢く闇が青年を包囲し、カラカラと嗤った。


「だがもう遅い。お前の成した事は、すでに取り返す宛の無い過去だ。娘に逢う前まで時を遡り、自害でもしない限り、お前がこの娘を傷つけ裏切る”現在[いま]”を変える事は出来まい。―――苦しいか? 苦しいだろうなぁ…? そうだ、ここを抜け出したらどうだ? …否、娘を置いて一人ゆく事など、お前には出来るわけがないか。身代わりに身体を売ったくらいだ。…あの時は随分驚かされたぞ。まさか、お前の方が”奪われる”とは」


微動だにしない青年の瞳に浮かぶ、酷く暗い感情を煽る様に、闇がその形よい耳にそうっと口をつける。


「その娘が大切ならば、その腕に囲えばいい。毎朝毎晩可愛がり、とろとろに溶かしてしまえばいい。―――そしてお前無しじゃ息を吸う事も侭ならなくなった頃合いを見計らい、娘の小さな耳に、甘く囁くんだ。


―――『あなたの生家を潰したのは、私です』と―――」



全て、嘘だったのです、と。



「…黙れ」


青年が、低く唸る。

それと同時に、青年を囲っていた分厚い闇が、ふぅ、と風に吹かれる様に揺らいだ。

元の明るさに戻った部屋で、闇色の毛皮に覆われた獰猛で気高い獣が、激しい怒りをもって闇と対峙している。

射殺そうとせんばかりの視線を当てられた闇は、カラカラと嗤いながら消えてゆく。


「可哀想な男だよ、お前は。愛を知りもせずに、愛されたくて溜まらない。愛し方も知らない癖に、愛したくて溜まらない。…月を欲しがる小僧のようだ。ああ、哀れな男だよ…」


最期に、嘲りを残して。


重しを外したかのように軽くなった闇の中で、行灯の灯が揺らめく。

じじ…と芯を焼く音。

青年は酷く疲れた顔で、何も知らずに横たわる少女に向き直った。

少女の顔には、まだ赤みのある痣や小さな傷が残っている。

薬のお陰で激痛に眠りを妨げられる事もなく、外界から完全に遮断された状態の彼女のカラカラに乾いた唇に、青年はそっと手を伸ばして触れた。


「―――愛なら、知っている」


その囁きと同じくらいに甘く濡れた白い指先が、少女の唇を優しくなぞる。

先ほどの獰猛さなど微塵も見せずに、木漏れ日の下で身体を休める獣のような従順さで少女に寄り添う青年は、暫しの間そうやって心を安めていたが、やがて名残惜し気にその指を離すと、虚空に声をかけた。


「我が姫を、このような痛ましい姿にした罪を、どう償わせる」

「…首をお持ちしましょうか」


静かに返って来る応え。

老いも若さも感じさせない無機質なその声に、青年は底冷えする憎悪の透けた笑みを浮かべた。


「首など。…欲しいものは、出来る限り永久に続く『苦痛』だ。生きている事を後悔しようとも、止める事も出来ない永遠の連鎖に閉じ込めて、命果てるまで嬲ってやろう。もちろんお前達も同罪だ。…だがお前達の償いは、別にある。心せよ」


大気も凍るような青年の微笑みに、彼に従う忠実な獣は、平身してその言を受けた。


「御意に。―――総主様」



―――行灯の灯が揺れる。








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