第二十八話 変わらぬはずの千代
応永三十三年(一四二六)一月 伊予国 怒和島 下怒和
年の初めの、正月が明けても、渡りの数は、元に戻らなかった。年が改まれば、何かが変わるのではないかと、心のどこかで、密かに期待していたのかもしれない。だが、正月の慌ただしさが過ぎても、日々は、これまでと同じ調子で、静かに流れていくだけだった。
むしろ、綾の腹が目立つようになるにつれ、渡りは、いっそう、間遠になっていった。頭では、分かっていた。臨月が近づけば、正室のもとへ通う夜が増えるのは、当たり前のことだった。それでも、その当たり前さが、日を追うごとに、こちらの胸の底を、静かに削っていった。
年が明けて、島の暮らしは、いつもどおりに動いていた。因島からは、能島攻略の支度が着々と進んでいるとの報せが届き、隠れ里では、詮議の目もひとまず遠のいて、静かな年始を迎えていた。私設に育てはじめた子らも、字と算えを、少しずつ身につけはじめていた。表向きは、何もかもが、順調に運んでいた。
---
板間に、島の主だった者たちが、皆、集まっていた。
「今年も、よろしゅう頼む」
弥九郎が、盃を掲げて、そう挨拶をした。松吉、弥助、六郎太、三郎次、伊佐次。手下たちが、一人ずつ、頭を下げていく。
綾は、腹をかばうようにしながらも、いつもと変わらぬ、静かな佇まいで、末席に控えていた。その姿を、島の女たちが、優しい眼差しで見守っていた。
その光景を、わたしは、いつもと変わらぬ顔で、静かに見ていた。少なくとも、そう見せているつもりだった。
幸松も、他の子らと並んで、末席に座っていた。亀吉たちも、この正月、初めて、島の正式な宴に加えてもらえたようで、緊張した面持ちで、居住まいを正していた。その様子を見ながら、わたしは、この一年で、島に加わった顔ぶれの多さを、あらためて数え直していた。宗兵衛、市造、甚兵衛、彦太郎。呉徳全、太郎丸、次郎丸、林太。そして、新居郡から来た五人の子ら。数えれば、きりがなかった。
「千代様は、変わらず、達者そうにござりますな」
孫兵衛が、そう言って、こちらへ酒を注いだ。
「はい。おかげさまで」
わたしは、少し間を置いてから、そう答えて、微笑んだ。だが、その微笑みが、いつもより、少し強張っているのを、自分でも、はっきりと感じていた。
---
宴のあと、板間で、次の外征の算段を、弥九郎と詰めることになった。
「能島の一件、孫六から、また使いが来ておる」
弥九郎が、そう切り出した。
「支度は、整うておりましょうか」
「整いつつある。だが、まだ、少し早い。もう一年ほど、様子を見たい」
わたしは、静かに頷いた。以前であれば、こうした細かな時期の判断も、渡りの床で、もっと踏み込んで、こちらの見立てを伝えられたはずだった。いまは、昼の板間で、限られた間合いの中、要点だけを伝えるほかなかった。
「孫六の一党は、いつでも動けると申しておるが」
弥九郎は、そう続けた。
「地の利を固めるには、まだ、もう少し支度が要りましょう。焦って動けば、これまで積み上げてきたものを、無駄にしかねませぬ」
「お前が、そう言うなら、そうなのだろう」
弥九郎は、あっさりと、そう答えた。以前であれば、こうした判断のたびに、もう少し、粘り強い遣り取りがあったはずだった。だが、いまは、こちらが多くを語る前に、弥九郎のほうが、先に結論を出してしまうことが、増えていた。それが、信頼の証なのか、それとも、単に、こちらに構う余裕が、弥九郎自身にもなくなっているだけなのか、わたしには、判じかねた。
「殿の御見立て、承知いたしました」
その答えに、弥九郎は、盃を置き、しばらく黙ったのち、少し意外そうな顔をした。
「珍しいな。お前が、あっさり引くとは」
「いえ、これは、殿の御判断が、正しかろうと思うたまでにて」
そう答えながら、頭の中では、以前のように、粘り強く、自分の見立てを説き伏せる気力が、いつのまにか、静かに薄れていることに気づいていた。
---
その夜、日々の報告を終えたあと、綾のもとへ、あらためて顔を出した。
綾の部屋に入ると、いつもの機の音が、静かに響いていた。
「腹の子は、順調にござりますか」
「はい。近ごろは、蹴る力も、随分と強うなってまいりました」
綾は、そう言って、機の手を止め、腹に、そっと手を当てた。その仕草には、母となる者だけが持つ、穏やかな確かさがあった。
「千代殿も、近ごろ、お顔の色が、優れぬように見えまする」
その一言に、わたしは、思わず、少し身構えた。
「そのようなことは……忙しさゆえ、疲れが出ておるだけにて」
「そうにござりますか」
綾は、それ以上、深くは問わなかった。ただ、少し、こちらを見つめる目に、これまでとは違う色が、微かに宿っているように見えた。慈しみとも、案じる色とも取れる、複雑な色だった。
わたしは、その音を聞きながら、綾の腹を、それとなく見つめていた。この腹の中にあるものが、いま、こちらの立場を、静かに、しかし確かに、押し出しはじめている。そう分かっていながら、綾自身を、恨む気には、どうしてもなれなかった。恨むべきは、この状況そのものであって、綾ではなかった。だが、その区別を、はっきりとつけられているつもりでいても、綾の腹に目をやるたび、頭の中の勘定が、静かに、そして勝手に、動きはじめるのを、止められなかった。
「千代殿は、変わりませぬね」
綾が、ふと、そう言った。
「変わらぬ、と申されますと」
「島がこれほど大きゅうなり、殿の背負うものも、これほど増えたというのに、千代殿は、いつも、変わらず、数を数え、策を組んでおられる。まるで、御自分だけは、変わらぬ場所に、ずっと留まっておられるかのように」
その言葉に、わたしは、しばし、答えに詰まった。機の音が、そのあいだ、静かに続いていた。
わたしは、ようやく、そう言葉を返した。
「変わらぬことは、悪いことにござりましょうか」
「悪いこととは、申しませぬ。ただ」
綾は、少し言葉を選びながら、続けた。
「変わらぬはずの千代殿が、近ごろ、時折、これまでとは違う顔をなさる。そのことに、わたくしは、気づいております」
その一言は、静かでありながら、確かな重みを持って、こちらの胸に突き刺さった。
---
その指摘に、わたしは、頭の中で、素早く、取り繕う言葉を探した。だが、探せば探すほど、言葉は、うまく形を成さなかった。
「気のせいにござりましょう」
「そうかもしれませぬ。ですが」
綾は、そこで、いったん言葉を切った。機の上に置かれた手が、少し、動きを止めていた。
「もし、何か、お困りのことがあれば、いつでも、お話しくださいませ。わたくしにできることは、限られておりますが」
その温かい申し出に、わたしは、深く頭を下げた。
「かたじけのう存ずる。ですが、いまは、大事ござりませぬ」
綾は、それ以上、深くは追及しなかった。ただ、機の前に座り直し、ふたたび、糸を通す作業に戻った。その所作の一つ一つに、これまでにない、確かな落ち着きが宿っているのを、わたしは、あらためて感じ取った。子を宿し、母となる支度を、体そのものが、静かに整えていっているのだろう。その変化の確かさに比べ、自分の内側にある、この、まだ形にならない何かは、いつまで経っても、輪郭を結ばないままだった。
だが、正直に打ち明けることは、できなかった。子を持たねば、この一党の中での己の居場所が保てぬかもしれぬという、あの焦り。それを、綾に打ち明けることなど、できるはずがなかった。綾は、懐妊し、これから母となる、この島でもっとも祝福されている女だった。その綾を前に、自分もまた子を欲しているのだと明かせば、まるで、綾の懐妊に張り合っているかのように、聞こえてしまう。それだけは、どうしても、避けたかった。
---
館への帰り道、庭先で、幸松が、亀吉たちに、字の書き方を教えているのが見えた。松明の明かりを頼りに、砂の上に、指で文字を書いては、消し、また書く。その根気強さに、わたしは、しばらく、足を止めて見入った。
「まだ、続けておったのか」
声を掛けると、幸松は、顔を上げて、笑った。
「亀吉が、どうしても、今日中に、この字を覚えたいと申しますので」
「無理をさせてはおらぬか」
「無理はさせており申さぬ。ただ、あの子は、覚えが早う、こちらが根負けしそうになるだけにて」
その答えに、わたしは、微かに笑った。幸松のこうした、押し付けがましくない指導のやり方は、いつ見ても、感心させられた。誰に教わったわけでもないだろうに、この子は、人を導くということの勘所を、体で覚えているようだった。数と策だけで人を動かしてきた自分とは、まったく違う流儀だった。
砂の上の文字を、丁寧に消しながら、幸松が、ふと、こちらを見上げた。
「千代様は、お加減、いかがにござりますか」
以前、渡りのことを訊ねられて以来、この子は、時折、こうして、こちらの様子を、それとなく気に掛けてくれるようになっていた。
わたしは、少し間を置いてから、答えた。
「変わらぬ。案ずるな」
そう答えながら、わたしは、綾に言われた「変わらぬはずの千代」という言葉を、また、思い出さずにはいられなかった。変わらぬ、という言葉を、いま、自分自身の口からも、繰り返している。その繰り返しの中に、何か、無理に押し込めようとしている力が、確かに、働いているような気がした。
---
館へ戻る道すがら、わたしは、頭の中で、綾の言葉を、もう一度、反芻した。
変わらぬはずの千代。その言葉が、思いのほか、重く、胸に残った。綾の目には、こちらが、いつも変わらず、数と策だけで生きているように映っているのだろう。だが、その見立ては、もはや、正しくないのかもしれなかった。
数えることでしか、自分の内側を処理できない性分は、いまも変わっていない。それでも、その数の中に、以前にはなかった何かが、少しずつ、紛れ込みはじめている。その何かの正体を、わたしは、まだ、正しく名付けられずにいた。
---
夜、独り、帳を広げた。
能島の外征、来年へ持ち越し。綾様、腹の子、順調。私設の子ら、字と算え、着実に進む。
それだけを書いて、筆を置いた。書くべきことは、まだ、いくらでもあった。因島の代官職の首尾、金子氏との境目の緊張、通春方への肩入れの手応え。数えるべきものは、いつもどおり、山のようにあった。それなのに、今日は、手が、それ以上、動かなかった。
筆を持ったまま、しばらく、灯を見つめていた。書きたいことと、書けることのあいだに、これまでにない隔たりが、生まれはじめているような気がした。渡りが減ったことへの苛立ち。綾に見透かされた、変わらぬはずの自分の変化。そのどちらも、帳には、決して書き記せない類のものだった。
灯を吹き消しながら、わたしは、綾の言葉を、もう一度、頭の中で繰り返した。変わらぬはずの千代が、近ごろ、これまでとは違う顔をなさる。その指摘は、思いのほか、正鵠を射ていた。だが、その違う顔の正体を、当の本人である自分こそが、もっとも、分かっていなかった。
外では、正月の冷たい風が、静かに吹いていた。年が明けても、この胸の内の重さだけは、少しも軽くならなかった。むしろ、年を追うごとに、その重みは、静かに増していくようだった。
考えてみれば、これまでの自分は、いつも、何かを数え、何かを組み立てることで、自分自身の輪郭を確かめてきた。島門の落城で何もかも失ったときも、明で荷として売られたときも、数を数え、算段を組むことだけが、自分を保つ、唯一の術だった。その術が、いま、うまく働かなくなっている。
弥九郎の渡りが減った。その事実そのものは、数として、既に処理し終えていた。答えも、既に出していた。子を持つ。それだけのことのはずだった。だが、その答えを、実際に、どう机の上に載せるべきか、いまだに、道筋が見えなかった。渡りが減ったいま、閨で、それとなく切り出す機すら、以前より、ずっと少なくなっていた。
策を組む頭では、答えは、既に出ている。だが、その答えを、いつ、どう、殿に伝えるべきか。この一手にだけは、いつもの数の勘が、うまく働かなかった。急げば、殿に、あの焦りを見透かされる。急がねば、時を、いたずらに失う。その狭間で、わたしは、いま、立ち尽くしていた。
婚礼を承知したあの日、弥九郎が、何か言いかけて、結局、口を噤んだことがあった。あのとき、何を言おうとしていたのか、いまだに、訊ねたことはなかった。訊ねれば、答えが返ってくるものなのかどうかも、分からなかった。あの、言いかけてやめた一瞬のことを、いまさらのように、思い出した。
灯芯が、じりじりと、小さな音を立てて燃えていた。その音だけを、しばらく、聞いていた。夜が更けても、眠気は、いっこうに訪れなかった。




