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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十七話 渡りの数

応永三十二年(一四二五)十二月 伊予国 怒和島 下怒和


年の瀬が近づくころ、わたしは、ある変化に、ふと気づいた。日々の忙しさに紛れて、気づくのが遅れたのかもしれなかった。


弥九郎の渡りの数が、以前より、明らかに減っていた。


最初は、気のせいかとも思った。だが、頭の中で、これまでの渡りの数を、月ごとに数え直してみると、その変化は、はっきりとしていた。婚礼から、この一年ほどは、月に十日を超える渡りがあった。それが、いつのころからか、月に数えるほどにまで減っていた。


数え直してみて、はっとした。振り返れば、その兆しは、綾様の御懐妊が知れるよりも、ずっと前から、既にあったのだ。夏の盛りのころ、まだ、誰も懐妊のことなど、知る由もなかった時分から、弥九郎は、正室のもとへ、これまでよりも、しばしば足を運ぶようになっていた。島の者に婿と認めさせるには、それが要る。そう説いたのは、他ならぬ自分自身だった。


それならば、綾様の懐妊は、この傾きの理由ではない。理由は、もっと前に、既にあった。そのことに、いま、あらためて思い至った。懐妊は、ただ、その傾きを、誰の目にも見える形に変えただけにすぎなかった。だとすれば、この先、渡りの数が、元へ戻ることは、もう、ないのかもしれない。その考えが、頭の隅に浮かんだ瞬間、背筋に、冷たいものが走った。


思えば、渡りは、これまで、ただの夜の営みではなかった。策を通すための、確かな手札の一つだった。渡りの床で、頼み事を切り出せば、昼の板間で説くよりも、幾倍も、すんなりと通った。木の伐り出しの許し、隠れ里への支度、村上一党への信を測る策。数え切れぬほどの頼み事を、この手札で、これまで通してきた。


初めのころは、それを、はっきりと手札として使っていた。効いていることに気づいてからは、それを、成果として、頭の帳に数えるようにもなった。そして、いつのころからか、意識すらせずに、当たり前のように、その手札を使うようになっていた。数えるまでもなく、体が、既に、その使い方を覚えていた。


---


「近ごろ、殿は、綾様に、すっかり、かかりっきりでござりますな」


夕餉の折、板間の隅で、箸を置きながら、松吉が、何気なく、そう漏らした言葉に、わたしは、内心、少し驚いた。自分だけが気づいていたことのつもりでいたが、手下たちにも、その変化は、既に気づかれていたらしい。


松吉は、少し声を落として、そう続けた。


「綾様の御懐妊にて、殿も、そちらへ、気を配っておられるのでしょう」


松吉は、それだけを言って、箸を取り直し、それ以上は、深く触れなかった。だが、その言い方には、こちらの心中を、それとなく探るような気配が、微かに滲んでいた。松吉は、長く弥九郎に仕えてきた男だった。渡りの数の変化が、こちらにとって、どういう意味を持つのか、あるいは、うすうす察しているのかもしれなかった。


「案ずるようなことでは、ござりませぬ」


わたしは、そう答えた。松吉は、それを聞いて、素直に頷いた。それ以上、深追いはしなかった。松吉のこうした引き際の良さに、これまで、幾度も助けられてきた。


その言葉に、わたしは、頭の中で、静かに、そして深く頷いた。当然のことだった。正室が身重のいま、婿として、正室のもとへ通うのは、島の者たちに、婿としての体裁を示すためにも、必要なことだった。


---


そもそも、それを説いたのは、他ならぬ、自分自身だった。誰に強いられたわけでもない。


猶子の縁組を進言し、綾を正室に迎える策を組んだあの日、島の者たちに婿と認めさせるためには、正室のもとへ、しかるべく通わねばならないと、そう弥九郎に説いた。婚礼から一年、その説いたとおりに、事は運んでいた。


「これは、わたくしが望んだ形にござります」


胸の内で、そう自分に言い聞かせた。だが、その言い聞かせは、長くは続かなかった。


頭の中で、素早く、数を組み直した。渡りが減った理由が、綾様の懐妊ではなく、もっと前からの傾きだったとすれば。その傾きが、この先、さらに深まるとすれば。綾様は、既に、腹の子という、動かしがたい証を得ている。跡継ぎという、この一党にとって、何より重い証を。それに引き換え、こちらの手には、いま、何が残っているのか。


策を組む頭、数を読む目。これまで、それだけで、確かな居場所を築いてきたつもりだった。だが、殿が、正室と子を得て、この島の主として、なお盤石になっていくとき、策と数だけを手にした己の値打ちは、いったい、どこまで保たれるのか。その問いが、頭の中で、一度浮かぶと、二度と消えなかった。


---


その夜、いつもより早く床に就いたわたしは、なかなか寝つけずにいた。


灯を消してから、しばらくのあいだ、隣に誰もいない布団の冷たさを、ぼんやりと感じていた。頭の中では、先ほどの勘定が、幾度も、繰り返し回っていた。


もし、殿が、これ以上の目立った動きを求めず、いまの形で、この先も、じっくりと事を進めたいと望まれたなら。その望みの裏に、既に跡継ぎを得た安心があるのだとしたら。策を組む役目も、いずれ、こちらでなくとも、務まるようになるのではないか。


その考えに行き着いた瞬間、わたしは、自分でも驚くほど、はっきりと悟った。子を、持たねばならない。情としてではなく、これは、勘定として、必要なことだった。策を組む頭だけでは、いずれ、足元が揺らぐ。血の繋がりという、策では作れない証を、こちらも、しかと持たねばならなかった。


もう一つ、頭の隅に、ちらりと浮かんだ考えがあった。跡継ぎさえ得れば、殿は、この先、無理に事を構えず、いまの形を、じっくりと守っていきたいと望まれるかもしれない。だが、それでは、策を組む頭は、いずれ、要らなくなる。事が荒れ、争いが続き、次の手を絶えず読まねばならぬ状況であればこそ、この頭は、殿にとって、かけがえのないものになる。


その考えが、頭の中に浮かんだ瞬間、わたしは、思わず、その先を、打ち切った。まだ、そこまでは、考えるべきではない。ただ、そういう考えが、確かに、自分の中に、生まれ得るということ——それだけは、はっきりと自覚した。この先、どう振る舞うべきか、まだ、答えは出ていなかった。


その結論に、自分でも、少し慄いた。焦りだった。これまで、焦るということを、自分は、ほとんど知らずに生きてきたはずだった。


---


翌朝、六郎太が、境目の様子を伝えに来た。


「金子様の御館より、また、使いがまいり申した。境目の緊張、いまだ収まらぬご様子にて」


六郎太は、そう告げた。その顔には、幾らかの気掛かりが見えた。


その報せに、わたしは、すぐさま、頭を切り替え、算段を組みはじめた。


わたしは、少し考えてから、そう続けた。


「殿には、伝えたか」


「まだにて。今宵、渡りがあれば、その折に、と思うており申した」


その一言に、わたしは、ふと、以前なら、こうした細かな報せも、渡りの床で、ごく自然に伝えられていたことを、思い出した。渡りが減ったいま、そうした場も、以前ほど、頻繁には持てなくなっていた。


---


「今日のうちに、殿の御手を、わずらわせねばなりませぬ」


わたしは、そう答えた。


「渡りを待たずとも、よろしいのですか」


六郎太が、少し意外そうな顔をした。


「境目の話は、急ぎにござります。渡りを待っては、遅れましょう」


その答えに、六郎太は、頷いて、下がっていった。


わたしは、その背を見送りながら、頭の中で、静かに数を数え直した。これまで、渡りの床は、報告を上げる場としても、ごく自然に機能していた。閨で耳にした話は、いつも、こちらの意のままに、弥九郎の中に染み込んでいった。その場が減れば、同じ策を通すにも、より多くの手間と、より丁寧な理屈が要るようになる。


---


頭を切り替えて、その足で、綾のもとへも顔を出した。


「近ごろ、殿は、わたくしに、すっかり、かかりっきりのご様子で」


綾は、機の手を止めずに、そう言った。その物言いには、こちらを試すような色は、微塵もなかった。ただ、ごく当たり前の話として、口にしているだけのようだった。


「島の者に、婿としての体裁を、しかと示すためにござります」


わたしは、そう答えた。綾は、それを聞いて、微かに頷いた。


「そうにござりますね」


それだけを言って、綾は、また、機を動かしはじめた。糸を通す手は、いつもと変わらぬ、静かな調子だった。その静かな相槌の裏に、何か、もっと別のものが潜んでいるのではないかという気配を、わたしは、そのとき、微かに感じ取った。だが、その正体を、はっきりと問い質すことは、できなかった。問えば、何かが、崩れてしまう気がした。


---


その日の昼、弥九郎の板間を訪ね、境目の一件を、あらためて伝えた。


「金子様の一件か」


弥九郎は、そう言って、しばらく考え込んだ。


「まだ、こちらが動く時期ではあるまい」


「はい。ただ、頭の隅には、しかと留めておいていただきたく」


「分かった」


その遣り取りは、これまでと、さして変わらなかった。だが、渡りの床での、あの、もっと砕けた、遠慮のない物言いとは、どこか違う響きがあった。昼の板間では、こちらも、殿への進言という体裁を、いくらか、意識せざるを得なかった。


---


この日、弥九郎に伝えたかったのは、境目の一件だけではなかった。私設に育てはじめた孤児たちのうち、腕の立ちそうな子を数人、六郎太の下について、外征の折の小者として使わせたいという話も、あわせて通しておきたかった。


「もう一つ、御相談が」


わたしは、そう切り出した。


「孤児のうち、体つきのしっかりした子を、幾人か、外征の折の小者として使わせとうござります」


弥九郎は、少し考え込んだ。


「まだ早くはないか。幼い子もおろう」


「年嵩の子から、少しずつ、慣らしとうござります。いきなり戦の場に出すつもりはござりませぬ」


「うむ……もう少し、様子を見てからでもよかろう」


その答えに、わたしは、少し焦れた。以前であれば、渡りの床で、もう少し粘り強く、この話を詰められたはずだった。だが、いまは、昼の板間で、限られた時のうちに、簡潔に用件を伝えるほかなかった。押し切るだけの間合いを、うまく作れなかった。


「承知いたしました。いずれ、あらためて」


わたしは、そう言って、その話を、いったん引っ込めた。策の通りが、以前より、目に見えて悪くなっている。その事実を、頭の中で、あらためて数え直さずにはいられなかった。


---


「近ごろ、忙しゅうしておられますね」


わたしが、そう言うと、弥九郎は、少し疲れた顔で、頷いた。


「綾の腹が、目立つようになってきた。何かと、気を配らねばならぬことが、増えておる」


「良きことにござります」


「ああ。良きことだ」


その答えに、わたしは、素直に頷いた。だが、頷きながら、頭の中では、また、あの小さな苛立ちが、静かに顔を出していた。良きこと、良きことだと、幾度も、自分に言い聞かせなければならないこと自体が、これまでには、なかったことだった。


---


その夜、隠れ里の様子を見に行った帰り道、月明かりを頼りに歩いていると、幸松が、こちらへ駆け寄ってきた。子供らしからぬ、真っ直ぐな眼差しをしていた。


「千代様、お帰りが遅うござりましたな」


「隠れ里の見回りが、いつもより長引いた」


「お一人で、大事ござりませぬか」


その問いに、わたしは、少し虚を突かれた。以前なら、こうした夜道を、弥九郎と連れ立って歩くことも、しばしばあった。だが、近ごろは、こうして独りで動くことが、いつのまにか、増えていた。


わたしは、静かに答えた。


「大事ない。案ずるな」


そう答えながら、わたしは、頭の中で、静かに、渡りの数を、もう一度、数え直していた。


わたしは、少し歩を緩めて、幸松と、並んで歩いた。


波の音だけが、静かに、二人の足元を追いかけてきた。


「幸松は、近ごろ、殿が、綾様に、すっかり、かかりっきりであることに、気づいておるか」


わたしは、ふと、思い立って、そう訊ねてみた。幸松は、少し驚いた顔をしたが、正直に答えた。


「気づいており申す。ですが、それがしのような子供が、口を挟むことでは、ござりませぬゆえ」


その答えに、わたしは、微かに笑った。


「よい心がけだ」


「千代様は、お寂しゅうござりますか」


その問いに、わたしは、一瞬、答えに詰まった。


「寂しい、というのとは、少し違う」


「では、何にござりますか」


幸松の、その率直な問いに、わたしは、しばらく、言葉を探した。


「まだ、自分でも、よう分からぬ」


正直な答えだった。数を数えることには、これまで、誰よりも長けていたはずだった。それなのに、自分自身の胸の内だけは、いつまで経っても、うまく数えられずにいた。幸松は、それ以上、深くは問わず、ただ、静かに、隣を歩き続けた。その気配りに、わたしは、少し救われる思いがした。


---


館へ戻り、一人になってから、灯を消す前に、帳を広げた。


今日、境目の一件、殿に報告済み。今宵、渡りなし。


それだけを書いて、しばらく、その一行を見つめた。渡りなし、という三文字の裏に、いまは、はっきりとした勘定が、貼りついていた。


子を持たねばならない。その結論を、もう一度、頭の中で、確かめ直した。情のためではない。この一党の中で、確かな居場所を保ち続けるための、必要な手だった。だが、その勘定を、いつ、どう、殿に切り出すべきか。渡りそのものが減っているいま、その機を、うまく作れるかどうかも、はきとは見えなかった。


幸松の問い——寂しゅうござりますかという、あの率直な一言も、頭の中に残っていた。寂しさではない、と、そのときは、そう答えた。いまも、その答えに、嘘はないと思っていた。これは、寂しさなどという、生易しいものではなかった。もっと、切実な、生き延びるための勘定だった。


答えは、まだ、出なかった。子を持つという結論だけは、はっきりとした。だが、その結論に至った己の焦りの正体を、これまでのように、数だけで処理し切ることは、できずにいた。


外では、師走の冷たい風が、静かに吹いていた。年の瀬が、また一つ、近づいていた。灯りの消えた部屋の中で、わたしは、しばらくのあいだ、静かな闇を見つめたまま、じっと動かずにいた。

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