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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十六話 箸の先

応永三十二年(一四二五)十一月 伊予国 怒和島 下怒和


河野氏の家督争いは、この数年、水面下で、じりじりと熱を帯びていた。表向きは、まだ、大きな戦にまでは至っていない。だが、在地の武家のあいだでは、どちらに付くかを巡って、静かな駆け引きが、絶え間なく続いていた。


惣領家の教通方と、予州家の通春方。どちらに付くかで、伊予国内の在地の武家は、静かに、しかし確かに、色分けされつつあった。これまで、こちらは、あえて、どちらにも深く関わらずにきた。だが、六島がまとまり、因島が固まったいま、いつまでも中立を保っていられる立場ではなくなっていた。力を持てば持つほど、周りが、こちらの立場を、放っておいてはくれなくなる。


「そろそろ、腹を決めねばなりますまい」


わたしは、弥九郎に、そう切り出した。


---


「通春方か、教通方か、ということだな」


弥九郎が、そう答えた。


「はい。二神本家は、これまで、河野方の安堵を受けて存続してまいりました。その本家を支えるこちらの立場も、いずれ、どちらかの色に染まらざるを得ませぬ」


「お前は、どちらだと見る」


弥九郎の問いに、わたしは、頭の中で、これまで積み上げてきた地の利を、あらためて数え直した。


---


「通春方にござります」


「理由は」


「こちらの商いは、泉州を窓口とする明との道にて。地の利から言えば、博多・大内の側に近うござります。教通方は、堺・細川に近い筋。地理そのものが、既に、片方へ傾いておりまする」


「大内は、いま、盤石なのか」


弥九郎の問いに、わたしは、少し考えてから、答えた。


「盤石とまでは申せませぬ。北九州では、いまも、少弐との睨み合いが続いておるとか。ですが、それゆえに、こちらのような遠国の縁にも、存外、重きを置いてくれるやもしれませぬ。手一杯な相手ほど、味方は、粗略にはいたしませぬ」


弥九郎は、頷いた。


「それに、加えて」


わたしは、少し声を落として、続けた。


「隠れ里に匿う楠木党残党のこと。あの縁を守るには、幕府中枢たる細川から、なるべく距離のある側に付くほうが、都合がよろしゅうござります」


その言葉に、弥九郎は、しばらく考え込んでいた。


---


「肩入れするとして、どう動く」


「二つの手管を使いとうござります」


わたしは、そう答えた。


「一つは、贈答。焼き物、金、そして、銀の器も、幾つか。通春方の有力な武将に、これまでの島の産物を、あらためて届けとうござります」


「銀の器、とは」


弥九郎が、怪訝な顔をした。


「銀は、ある種の毒に触れると、黒く色を変えまする。明で見聞きした技にて。もし、通春方の誰かが、毒を盛られる恐れがあれば、この銀箸を、贈答の中に、さりげなく紛れ込ませておくことで、命を救えましょう」


その説明に、弥九郎は、少し驚いた顔をした。


「そのような技があるのか」


「はい。ただし、使うには、機を選びまする。毒を盛られる場面に、うまく行き合わさねば、意味がござりませぬ」


「都合よく、そのような場面に出くわすものか」


その問いに、わたしは、少し考えてから、答えた。


「出くわすように、こちらから、探りを入れておきとうござります。通春方の武将のうち、誰が、教通方から命を狙われる立場にあるか。それを、伊佐次の伝手を頼って、探らせまする」


弥九郎は、それで得心した様子だった。


「二つ目は」


「武力にござります。船団を、それとなく、通春方の湊近くに寄せる。直に戦うわけではござりませぬが、こちらの力を、目に見える形で示す」


「船は、どれほど出す」


弥九郎が、そう訊ねた。


「十艘ほどにござります。多すぎれば、脅しと取られましょう。少なすぎれば、侮られましょう。十艘ならば、力添えの意志を示しつつ、いたずらに事を構える気はないと、正しく伝わりましょう」


弥九郎は、それを聞いて、少し感心した顔をした。


「数一つにも、意味を込めるのだな」


「数は、常に、言葉より雄弁にござります」


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。


「それと、もう一つ、この機に、しかと備えておきとうござります」


わたしは、そう続けた。


「船のことか」


「いえ、陸のことにござります」


「陸、と申すと」


「因島や六島から徴する陸兵は、既におります。ですが、あれは、田を耕す者たちを、いざというときだけ、駆り出す形にすぎませぬ。河野内訌に深う関わるとなれば、いずれ、湊を守る、要地を押さえる、そうした場面も出てまいりましょう。そのたびに、田を耕す者たちを、兵として使い潰しておっては、いずれ、その郷の田そのものが、荒れてまいりましょう」


弥九郎は、腕を組んで、しばらく考え込んでいた。


「田を耕す者と、戦を専らにする者とでは、使い方を分けねばならぬ、ということか」


「はい。まさしく、そのとおりにござります。いまや、六島を治め、二神の名を冠する身。田を荒らさずに動かせる、戦だけを専らにする備えを持たねば、いずれ、この一党そのものの足腰が、弱ってまいりましょう」


「では、どうする」


わたしは、頭の中で、素早く、算段を組みはじめた。


「島の内には、次男、三男という、家を継げぬ男たちが、少なからずおります。田を継ぐのは長男のみ。それより下の男たちは、いずれ、島を出て、身を立てねばなりませぬ」


「それを、兵に取り立てるということか」


「はい。ただし」


わたしは、少し声を強めた。


「倭寇として使うのは、なりませぬ」


弥九郎は、意外そうな顔をした。


「なぜだ。俺たちも、元は、そうして立った一党だぞ」


「殿方の仰るとおり、それがこの一党の始まりにござります。ですが、いまは、違いまする。いまの我らは、賊としてではのうて、二神の名を冠する、立場ある一党。賊働きで食う男を、内から抱えれば、いずれ、こちらの名そのものを、汚しかねませぬ」


---


「では、どう使う」


弥九郎が、そう訊ねた。


「常備の陸兵として、しかと養いとうござります。船を守り、湊を守り、いざというときには、殿の御下知一つで動く。海の一党から、海と陸、両方を備えた一党へ」


「それには、銭が要る」


弥九郎の一言に、わたしは、深く頷いた。


「はい。それゆえ、いちどきに、大勢は抱えられませぬ。まずは、五十から百ほどで、始めとうござります」


「たったそれだけか。島を出たい男は、もっと多いはずだ」


「はい。ですが、養えぬ数を抱えれば、いずれ、島の蔵そのものが、傾きまする。残る者たちには、いましばし、待っていただくほかござりませぬ」


「待たせて、その先は」


その問いに、わたしは、しばらく、言葉を選んだ。


「いずれ、しかるべき土地を得たとき、そこへ、まとめて送り出しとうござります。屯田の形にて。兵でありながら、田も耕す。そういう身の立て方が、いずれ、できましょう」


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。


「気の長い話だな」


「気の長い話にござります。ですが、いつもの通り、一つずつにて」


---


「もう一つ、御相談が」


わたしは、続けた。


「陸で兵を動かす作法は、殿にも、それがしにも、正しくは分かりませぬ。船の指図なら、殿の右に出る者はござりませぬが、陸の戦は、また別の技にて」


わたしは、そう続けた。


「殿の一党のやり方は、船あってこそのものにござります。夜陰に紛れて敵船に寄せ、鉤縄で引き寄せ、野太刀を手に、甲板へ躍り込む。あの技は、この一党の骨の髄まで、染み込んでおりましょう。ですが、それは、あくまで、海の上での技」


「陸では、通じぬということか」


「通じぬ、とまでは申しませぬ。ただ、陸には陸の間合い、陸の構えがござります。船を降りた兵が、どう並び、どう守り、どう崩すか。それは、また、まったく別の技にて」


弥九郎は、それを聞いて、しばらく、考え込んでいた。


「確かに、な。船の上でなら、俺の目は、誰にも負けぬ。だが、野で構えるとなると、どうも、勝手が違う」


「教える者が、要るということか」


「はい。行然殿を通じて、楠木党残党の縁から、浪人を幾人か、招き入れとうござります。かつて、陸の戦を、生業としてきた者たちにござります。指図そのものは、殿がなさればよろしゅうござります。ただ、兵をどう鍛え、どう構えるか、その技だけは、借りねばなりませぬ」


弥九郎は、しばらく、考え込んでいたが、やがて、頷いた。


「よかろう。行然に、話をつけてくれ」


「はい」


---


その夜遅く、弥九郎が下がったあと、わたしは、独り、行然を、人気のない裏庭へ呼び出した。


「行然殿に、一つ、御頼みしたきことが」


「何なりと」


「銀箸の技を、通春方の中で、確かに披露する機を、作りとうござります。ですが、ただ、毒を盛られる場面に、都合よく行き合うのを、待っておるわけには、まいりませぬ」


行然は、しばらく、こちらの目を見ていた。


「作れ、と仰せか」


「はい。教通方に鞍替えを迫られておる武将を、一人、見繕うていただきたい。その者の身辺に、それらしい企みの噂を、それとなく流し、こちらが、間一髪で救うたという体を、整えとうござります」


「真に、毒を盛らせる、というわけではのうて」


「毒そのものは、要りませぬ。ただ、企みがあったという筋書きと、それを、こちらが未然に防いだという事実だけが、要りまする」


行然は、しばらく、黙っていた。


「委細、承知いたした。それがしどもの一党には、こうした筋書きを、それらしゅう仕立てる術が、幾つかござる」


「使いに立てる者には、真のことは、明かしませぬ。六郎太には、ただの偶然として、事を運んでいただきとうござります」


「かしこまり申した」


行然は、深く頭を下げ、静かに、闇の中へ消えていった。


---


数日後、伊佐次から、報せが届いた。


「通春方に付く在地の武将、薦田掃部助という御方が、近ごろ、教通方より、幾度か、不穏な誘いを受けておるとの由」


薦田掃部助。新居郡・宇摩郡周辺に勢力を持つ、在地の一族の一人だという。名は聞き知っていたが、直に言葉を交わしたことは、まだ一度もなかった。行然に頼んだ筋書きが、既に、動きはじめている証だった。伊佐次自身は、この報せの裏に、楠木党残党の仕込みがあることを、知らされていない。


「不穏な誘い、とは」


わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、少し声を落とした。


「教通方に鞍替えせよ、との誘いにて。応じねば、命の保証はせぬ、との、暗に含んだ物言いだったとか」


その報せに、わたしは、頭の中で、静かに、次の段取りを確かめた。ここから先は、行然の一党が、裏で、しかるべき形を整えてくれるはずだった。


---


「薦田殿への献上、まずは、そこからにござります」


わたしは、弥九郎に、そう告げた。


「贈答の品として、焼き物と、金を届ける。その中に、銀箸を、さりげなく紛れ込ませとうござります」


「怪しまれぬか」


「怪しまれませぬ。銀の食器は、贈答の品として、ごく当たり前のものにござります。ただ、その箸だけが、毒を見分ける拵えになっておる。それだけのことにて」


弥九郎は、頷いた。


「誰を、使いに立てる」


「六郎太に、任せとうござります」


---


薦田掃部助の館は、新居郡の中でも、金子氏の領地からほど近い場所にあった。これまで、金子氏へ贈物を届ける道中で、幾度か、名を耳にしたことのある一族だった。


六郎太が、贈答の品を携えて、新居郡へ向かったのは、それから数日後のことだった。


戻ってきたのは、十日ほど後のことだった。その顔には、ただならぬ緊張の色があった。


「殿。千代様。大事な話がござります」


板間で、六郎太は、旅の疲れも見せず、報告を続けた。


「薦田様の御館に、贈答の品をお届けした、その夜のことにござる。宴の席で、薦田様が、盃の酒に口をつけようとした、まさにその瞬間」


「まさにその瞬間」


「贈答の中にあった銀箸が、たまたま膳に載っており、それがしが、何の気なしに、その箸で、酒に浮いた塵を、払おうといたしましたところ」


六郎太は、少し息を継いでから、続けた。


「箸の先が、みるみる、黒う変わり申した」


---


その報せに、板間が、しんと静まり返った。誰も、しばらくのあいだ、口を開けずにいた。松吉と弥助が、思わず、顔を見合わせていた。


「毒か」


弥九郎が、そう訊ねた。


「毒にござった。薦田様は、それがしの機転を、たいそうお喜びになり、酒を運んだ小者を、その場で問い詰められ申した。小者は、教通方から金を掴まされ、毒を盛るよう命じられておったとのこと」


わたしは、頭の中で、静かに数を組み直した。あまりにも都合よく運びすぎている。六郎太が、たまたま箸で塵を払おうとした、その瞬間に、毒が盛られていた。偶然というには、出来すぎた話だった。


「六郎太、よき機転であった」


弥九郎が、そう言った。六郎太は、少し照れたような顔をした。その顔に、噓の色はなかった。少なくとも、六郎太自身は、これを、ただの幸運だと信じているようだった。


---


「薦田様は、命の恩人として、殿の御名を、しかと胸に刻まれたご様子にて」


六郎太は、そう続けた。


「他の武将衆にも、この話は、既に広まりつつあるようにて。二神殿の一党は、ただ力があるだけでなく、命を救う技まで持っておる、と」


「これで、通春方の中にも、こちらの名が、確かに通りましょう」


その言葉に、わたしは、頭の中で、この報せが、これからどう広がっていくかを、静かに数え直した。噂は、人の口から口へ、実際の距離よりも速く伝わる。薦田掃部助という一人の武将を救ったことが、通春方全体への、確かな足がかりになろうとしていた。


その報せに、弥九郎は、深く頷いた。


「よくやった。褒美を取らす」


「ありがたき幸せ」


六郎太が、頭を下げた。その顔には、大役を果たした誇らしさが、はっきりと浮かんでいた。その様子を見ながら、わたしは、頭の中で、静かに、この一件の意味を数え直していた。命を救う技は、値打ちでは測れない恩を生む。その理屈が、まさに、いま、この場で、確かな形になっていた。


---


その夜遅く、皆が下がったあと、行然が、一人、館の裏手から、こっそりと姿を見せた。


「首尾、お伝えに参上いたした」


わたしは、灯を手に、行然を、人気のない廊下の隅へ導いた。


「わたくしどもの一党の者が、教通方の間者に近づき、薦田様を狙うよう、それとなく、唆しており申した。相手が動くところを見計らい、あらかじめ、手はずを整えておいた次第にて。仰せのとおりに」


「首尾よう運びましたか」


「上々にござる。薦田様御自身は、真に、命を救われたと信じておられる。六郎太殿も、また」


「六郎太には、伝えておりませぬな」


「無論、伝えており申さぬ。あの者は、真に、己の機転で、命を救うたと信じたまま。それでよろしいかと」


わたしは、深く頷いた。だが、頷きながらも、腹の底に、冷たいものが、静かに落ちていくのを感じた。この筋書きどおりに、人が動き、噂が広まり、こちらの名が、確かに通っていく。すべては、こちらの描いた絵図の通りだった。それなのに、なぜか、素直に喜べぬ自分がいた。


「弥九郎殿には」


行然が、そう続けた。


「お伝えになりますか」


その問いに、わたしは、しばらく、考え込んだ。


「……いや。伝えぬ」


「よろしいのか」


「殿は、六郎太の機転を、素直に喜んでおられる。それを、いま覆せば、六郎太への信も、揺らぎましょう。それに」


わたしは、少し間を置いてから、続けた。


「策の裏側まで、いちいち明かせば、殿は、この一党のやり方そのものに、疑いを抱かれるやもしれませぬ。これは、わたくし一人の胸に、留めておきまする」


行然は、それを聞いて、静かに頭を下げた。


「かしこまり申した」


「礼を申すのは、こちらのほうにござります。行然殿の一党の働きなくば、この絵図は、絵に描いた餅のままでござりました」


行然が、闇の中へ去っていったあと、わたしは、しばらく、一人、廊下に立ち尽くしていた。策を描き、人を動かし、絵図どおりに事を運ばせる。それは、これまでも、幾度もやってきたことだった。それなのに、今宵は、なぜか、腹の底に、これまでにない重さが、静かに沈んでいた。


---


その夜、弥九郎と、あらためて、この日の首尾を話し合った。


「贈答、武力。二つの手管、すべてが、うまく回りましてござります」


「お前の描いた絵図どおりだな」


「はい。ただ」


わたしは、少し言葉を選びながら、続けた。


「あの銀箸のような、都合のよい奇跡は、二度とは、望めますまい」


弥九郎は、それを聞いて、頷いた。


「まことに、稀有な巡り合わせだったな」


「はい。二度とないものと、心得ておきまする」


---


「これで、通春方の中に、こちらの居場所ができたということだな」


弥九郎が、そう続けた。


「はい。だが、まだ、始まりにすぎませぬ。河野氏の家督争いは、まだ、これから、さらに深まってまいりましょう」


わたしは、そう答えた。だが、その先に、どれほどの荒波が待っているのかを、この時点では、まだ、正しく見通せていなかった。


「六島を治め、因島を固め、そして、いま、河野方の争いにまで、手を伸ばす」


弥九郎が、そう続けた。その声には、これまでにない、重さがあった。


「殿は、案じておられるのですか」


「案じてはおらぬ。だが、俺たちの一党は、いつのまにか、随分と大きなものを背負うようになった。そのことを、時折、思わずにはいられぬ」


その言葉に、わたしは、深く頷いた。かつて、根城を探すことだけで精一杯だった一党が、いまでは、伊予国の家督争いにまで、その影響を及ぼしている。この変化の大きさを、あらためて、実感せずにはいられなかった。


「大きゅうなった分だけ、背負うものも重うなりまする。ですが、いまさら、小さくなる道は、ござりませぬ」


「そうだな。前へ進むしかない」


弥九郎の一言に、わたしは、静かに頷いた。それから、少し、間を置いて、続けた。


「殿。もう一つ、先の先まで、考えておきたきことが」


「まだ、何かあるのか」


弥九郎が、少し、呆れたような顔をした。


「通春様は、まだ、御正室を、迎えておられぬと、伺っております」


「それが、どうした」


「いずれ、御世継ぎのことが、必ず、話に上りましょう。その折、縁組の相談に、こちらが、それとなく、力添えできれば、と」


「先ほどの、居場所の話と、繋がるのか」


「はい。あの一言で『通春方の中に居場所ができた』と申しましたが、それは、いまの当主一代限りの話にござります。次の代への種を、いまのうちから、一つ、蒔いておきとうござります。もっとも、種を蒔いたところで、すぐに、揺るぎのないものになるわけではござりませぬ。御世継ぎが生まれ、育ち、そしてまた次の御子が生まれる。その一つ一つに、目を配り続けねば、根は張りませぬ」


弥九郎は、しばらく、こちらの顔を、まじまじと見ていた。


「お前は、いったい、どこまで、先を見ておるのだ」


「見えるところまでは、すべて。それが、この頭の性分にござります」


わたしがそう言うと、弥九郎は、小さく、笑った。


「まあ、よい。縁組の話が、実際に持ち上がった折には、また、相談に乗ってくれ」


「かしこまりました」


わたしは、そう答えながら、頭の中に、まだ形にならぬ、幾つもの糸を、そっと、書き留めておいた。芽が出るかどうかは、まだ、わからない。だが、種は、早いうちに、蒔いておくに、越したことはなかった。


---


その日の夕方、いつもの見回りを終えたあと、綾のもとを訪ねた。腹は、まだ、それほど目立たなかったが、綾の顔つきには、確かな母としての落ち着きが、少しずつ滲みはじめていた。


綾は、機の手を止めて、こちらを見た。


「河野方のことで、また、忙しくしておられるのですね」


綾が、そう言った。


「はい。しばらくは、落ち着かぬ日が続きましょう」


「御体、大事になさってくださいませ」


その言葉に、わたしは、少し微笑んだ。案じられているのは、綾自身の体のはずだった。それなのに、綾は、いつも、こちらの身を、先に案じてくる。


「薦田様の一件、聞き及びましてござります。命の恩人として、殿の御名が広まったとか」


「はい。おかげさまで」


「千代殿は、御自分の名を、決して表には出されませぬね」


その一言に、わたしは、少し虚を突かれた。


「表に出す必要は、ござりませぬゆえ」


「そうでしょうか。わたくしには、時折、千代殿が、御自分を、勘定の外に置いておられるように見えまする」


綾は、それだけを言って、それ以上は続けなかった。機の音が、また、静かに部屋に響きはじめた。その言葉の真意を、わたしは、その場では、深くは読み取れなかった。ただの労いの延長だと、そう処理して、頭の帳の隅へ、静かに仕舞い込んだ。


---


その晩、独りになってから、帳に、この日のことを書き留めた。


薦田掃部助殿へ、贈答(焼き物・金・銀箸)。教通方の毒殺の企て、間一髪にて阻止——との体で、通春方の中に、殿の御名、確かに通る。この企て、実は行然殿の一党に、わたくしが命じて仕組ませたもの。殿には、伝えず。河野内訌、本格介入の第一歩。


書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。二つの手管、すべてが、狙いどおりに運んだ。だが、この成功が、この先の、より大きな争いへの、確かな入り口になることを、わたしは、まだ、はっきりとは自覚していなかった。


綾の一言——「御自分を、勘定の外に置いておられるように見える」——を、もう一度、頭の中で反芻した。労いの言葉として受け取ったはずだったが、書き留めながら、なぜか、その言葉だけが、いつまでも、頭の隅に残り続けた。


六島、因島、そして、いま、河野内訌への本格介入。この島から始まった小さな根城は、いつのまにか、伊予国全体の行方を左右しかねないほどの重みを持つようになっていた。その重みの分だけ、背負うべき数も、増え続けていく。数え終わることのない勘定を、これから先も、ずっと続けていくのだろう。そのことに、疲れよりも、むしろ、確かな手応えを感じている自分がいた。


外では、十一月の冷たい風が、静かに吹いていた。冬が、また一つ、近づいていた。窓の外を見つめながら、わたしは、しばらくのあいだ、灯を消さずにいた。

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