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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十九話 早馬

応永三十三年(一四二六)二月 伊予国 怒和島 下怒和


その報せが届いたのは、綾の産気づいた、まさにその同じ日のことだった。


前夜から、綾は、いくらか、腹の張りを訴えていた。それが、朝方になって、はっきりとした兆しへと変わった。館は、たちまち、これまでにない慌ただしさに包まれた。産婆が呼ばれ、女房衆が、湯を沸かし、布を用意し、廊下を、幾度も、忙しなく行き来していた。


「殿。綾様の御産所へ」


女房頭のお菊が、急いで駆けてきて、弥九郎に、そう告げた。弥九郎は、これまで見たことのないほど、落ち着かない顔をしていた。


---


「わたくしは、外におりまする」


わたしは、そう言って、産所の外へ、静かに下がった。弥九郎も、産所には入れず、廊下で、落ち着かない様子で、行きつ戻りつを繰り返していた。この男が、こうまで、そわそわとした姿を見せるのは、珍しいことだった。産所は、女たちの領分だった。側室の身であるこちらが、正室の出産に、あまり深く立ち入ることは、慣わしとして許されなかった。


廊下に控えていると、綾の、堪えるような声が、時折、漏れ聞こえてきた。その声を聞くたびに、胸の奥が、じわりと締めつけられるような感覚があった。案じているのは、綾自身のことだった。それは、間違いなかった。だが、その案じ方の中に、これまでとは違う何かが混じっているような気もした。


廊下の障子越しに、女房衆の、忙しなく行き来する足音が、絶え間なく響いていた。松吉が、湯を運ぶ手伝いをしながら、時折、こちらの様子を、案じるように見やった。


「千代様も、少し、お座りになってはいかがにござりますか」


松吉が、そう声を掛けてくれた。だが、わたしは、首を振った。


「大事ない。ここで、待つ」


座って待つ気には、どうしてもなれなかった。何かをしていなければ、落ち着かなかった。だが、いまは、頭の中で数を組む相手すらいなかった。ただ、綾の声に耳を澄ませ、時が過ぎるのを待つことしかできなかった。


---


昼過ぎ、綾の産所の様子がまだ落ち着かないうちに、湊のほうから、慌ただしい馬蹄の音が聞こえてきた。


「早馬にござる」


見張りの手下の一人が、そう叫びながら、館へ駆け込んできた。息を切らせ、顔を蒼白にしている。ただならぬ様子だった。


「何事か」


わたしは、努めて、落ち着いた声で、そう訊ねた。


「二神本家より、早馬にて、報せが……」


その男は、そこまで言って、肩で息をしながら、一度、大きく息を継いだ。息が、まだ整っていなかった。よほど急いで駆けてきたのだろう、着物の裾は泥に汚れ、額には、大粒の汗が浮かんでいた。


「本家の当主様と、御嫡男様が、何者かに、討たれ申した」


その一言を、男は、ようやく、絞り出すように言った。声が、微かに震えていた。


---


その報せに、廊下が、一瞬、しんと静まり返った。産所からは、まだ、綾の、堪えるような声が、途切れ途切れに聞こえていた。


「討たれた、とは」


わたしは、自分の声が、いつもより固く響いているのを、感じながら、頭の中で、素早く、聞いた言葉を、もう一度、確かめた。


「夜討ちにて。詳しい仔細は、まだ、はっきりとは掴めておりませぬ。ただ、本家の当主様と、御嫡男様、お二方とも、既に、身罷られたとの由」


その言葉に、わたしは、しばらくのあいだ、動けなかった。頭の中が、一瞬にして、真っ白になった。


二神本家の当主とその正統な後継者が、討たれた。この報せが、これから、伊予国の家督争いに、どれほどの波紋を広げることになるのか。頭の中で、幾つもの筋道が、一斉に、渦を巻きはじめた。


「他に、分かっておることは」


わたしは、早馬の男に、そう訊ねた。


「詳しいことは、まだ、こちらにも届いており申さぬ。ただ、御館の奥向きも、大層な混乱にあるとのことにて」


「本家の御家中で、いま、誰が、指図を執っておる」


「それも、まだ、はっきりとは……」


その答えに、わたしは、少し焦れた。情報が、あまりに少なすぎた。だが、いま、この場で、これ以上を問い詰めても、答えは出てこないだろう。


「大儀であった。まずは、休め」


わたしは、そう告げて、男を、板間の隅へ下がらせた。頭の中では、既に、次に打つべき手を、幾つか、並べはじめていた。伊佐次や、私設の子らを、本家の様子を探らせるために、すぐにでも遣わすべきだった。


---


弥九郎は、まだ、産所にいた。この重大な報せを、いま、すぐに伝えるべきか、それとも、綾の出産が終わるまで、待つべきか。わたしは、しばらく、迷った。


だが、迷っている暇はなかった。わたしは、意を決した。


「殿に、お伝えせねばなりませぬ」


わたしは、そう判じて、産所の近くまで、足を運んだ。


「殿」


産所の障子の前に立ち、そう声を掛けた。弥九郎が、すぐに、出てきた。その顔には、まだ、産所の緊張が、色濃く残っていた。


「何事だ」


「二神本家の当主様と、御嫡男様が、討たれ申した」


その報せに、弥九郎の顔色が、目に見えて変わった。


---


「討たれた……何者に」


「まだ、仔細は、掴めておりませぬ」


弥九郎は、しばらくのあいだ、絶句していた。それから、拳を、強く握りしめた。


「綾は」


「まだ、産所にて。この報せは、いまは、綾様のお耳には、入れぬほうがよろしいかと」


「そうだな」


弥九郎は、そう言って、深く頷いた。


「これから、どうなる」


「まだ、分かりませぬ。ですが、本家の当主が、跡継ぎもろとも討たれたとなれば、これまで、揉めごとひとつなかったこの家に、家督を巡る争いが、これから、避けられぬものとなりましょう」


---


その言葉を口にしながら、わたしは、頭の中で、これまで積み上げてきた数を、あらためて数え直していた。


千代・弥九郎は、この暗殺には、一切関与していない。それは、確かなことだった。だが、この報せは、こちらにとって、明確な敵役を生み出す出来事になろうとしていた。誰が、この凶行に手を染めたのか。その正体が、いずれ、こちらの行く末を、大きく左右することになるだろう。


「教通方の仕業であろうか」


弥九郎が、そう訊ねた。


「まだ、断じられませぬ。ですが、本家の当主様が、通春方に、いくらか、こちらへ肩入れなさっておられたのは、周知のこと。教通方にとって、都合の悪い当主であったことは、確かにござります」


「証はあるのか」


「ござりませぬ。憶測にすぎませぬ。ですが、憶測であっても、頭の隅には、しかと留めておきとうござります」


その遣り取りを交わしながら、わたしは、これから伝わってくるであろう続報を、一つ残らず、慎重に拾い上げていく必要があると、あらためて自分に言い聞かせた。


「弔いの支度も、進めねばなりませぬ」


わたしは、そう続けた。


「弔問の使いを、どう立てるか。喪主を、誰が務めるか。それによって、この先の家督争いの行方が、大きく動きましょう」


弥九郎は、頷いた。だが、その顔には、まだ、動揺の色が、色濃く残っていた。


---


そのとき、産所の奥から、赤子の産声が、はっきりと聞こえてきた。


その声に、廊下にいた誰もが、一瞬、動きを止めた。弥九郎の顔が、驚きと、安堵と、そして、いまだ拭えぬ動揺とが、複雑に入り混じった表情に変わった。


わたしは、その表情を、我が子の誕生に対する、素直な喜びだと、そのとき、そう読み取った。だが、後になって思い返せば、あの複雑な表情の中には、もう一つ、別の色が混じっていたのかもしれなかった。本家の一大事のさなかに、跡取りが生まれるという巡り合わせそのものへの、言葉にならない戸惑い。その色を、わたしは、そのときは、正しく見分けられずにいた。


「生まれたか」


弥九郎は、そう呟くと、すぐさま、産所へ向かおうとした。


「殿」


わたしは、その背に、そう声を掛けた。


「まずは、綾様と、御子のことを、しかと御覧じませ。本家のことは、それから、あらためて」


弥九郎は、少し立ち止まり、こちらを振り返った。


「お前は」


わたしは、静かに、そう答えた。


「わたくしは、外で、この先の算段を、組んでおり申す」


---


弥九郎が、産所の中へ消えていった。わたしは、その場に、独り、立ち尽くしていた。


慶事と、凶事が、同じ日に、ほとんど同時に、この館を訪れた。その巡り合わせの奇妙さを、頭の中で、何度も、数え直そうとした。だが、うまく、数の形にならなかった。


しばらくして、産婆が、廊下へ出てきた。


産婆は、疲れた顔ながらも、晴れやかな表情で、そう告げた。


「男子にござります。母子ともに、お健やかにて」


その報せに、わたしは、深く頭を下げた。安堵の息が、思わず、口から漏れた。


「重畳にござります」


産所の外に控えていた幸松も、その報せを聞いて、顔を輝かせた。


「めでたきことにござりますな」


わたしは、少し無理をして、明るい声で答えた。


「そうだ。めでたきことだ」


わたしは、そう答えながら、頭の中では、既に、次の算段を組みはじめていた。幸松の素直な喜びように、少し救われる思いがしたが、それも、束の間のことだった。本家の一件が、頭の大半を占めていた。


だが、その言葉を口にしながら、胸の奥では、まったく別の勘定が、既に、静かに動きはじめていた。この生まれたばかりの男子は、血筋の上では、いずれ、二神本家を継ぐ資格を持つ。綾が、既に、本家の猶子である以上、その理屈は、動かしようがなかった。だが、いまは、まだ、その先の絵図を、表に出すべきときではなかった。


---


弥九郎が、産所から戻ってきたのは、それからしばらく経ってからのことだった。その顔には、父としての喜びと、当主としての重い責務とが、同時に浮かんでいた。


「よい子だ」


弥九郎は、そう言った。その声には、確かな温かみがあった。


「まことに、おめでとうござります」


わたしは、そう答えた。だが、すぐに、頭を切り替えた。


「本家の件、これから、早急に、手を打たねばなりませぬ」


「分かっておる」


弥九郎は、そう言って、表情を、一気に引き締めた。


「綾には、本家のことは」


「まだ、お伝えしておりませぬ。産後の御体に、障りがあってはなりませぬゆえ」


「いつ、伝える」


「明日にでも。ただ、伝え方は、慎重にせねばなりませぬ。綾様は、御猶子として、本家の御名に連なる身。当主様のご不幸は、綾様にとっても、他人事ではござりませぬ。ご心痛、いかばかりかと」


弥九郎は、頷いた。


「これから、忙しゅうなるな」


「はい。弔問の使い、喪の作法、そして、この先の家督争いへの構え。一つずつ、手順を組んでまいりまする」


その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。だが、その目には、まだ、生まれたばかりの我が子への思いと、これから背負うべき重責とのあいだで、揺れ動く色が、はっきりと見て取れた。


---


夜が更けてから、独り、帳を広げた。


二神本家の当主様と御嫡男様、討たれる。仔細、いまだ不明。綾様、男子を出産。母子ともに健やか。


書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。慶事と凶事が、あまりにも近く、同じ日に重なった。この巡り合わせの意味を、いまは、まだ、正しく数えられずにいた。


生まれたばかりの男子の泣き声が、遠く、産所のほうから、まだ、微かに聞こえていた。その声を聞きながら、わたしは、これから始まるであろう、長く、険しい家督争いの行方を、頭の中で、静かに思い描きはじめていた。


今日という日を、これから、どう振り返ることになるのだろうか。慶事と凶事が重なった、稀有な一日として記憶されるのか、それとも、この先の長い争いの、確かな始まりの日として記憶されるのか。いまは、まだ、どちらとも判じがたかった。


これまで、六島を治め、因島を固め、河野内訌への足がかりも築いてきた。だが、本家の当主とその後継者が、同時に討たれるという事態は、これまでのどの局面とも、質の違う重さを持っていた。事の大きさに見合うだけの備えを、これから、急いで組み上げねばならなかった。


赤子の泣き声が、いっとき、また、遠くから聞こえてきた。その声を聞きながら、わたしは、この生まれたばかりの命が、いずれ、二神本家の血として、正式に迎えられる日のことを、あらためて思い描いた。その日が来るまでに、乗り越えねばならない山が、まだ、幾つも、目の前に横たわっている。


弥九郎が、隣の部屋で、まだ、何事か思案しているらしい気配が伝わってきた。声を掛けようかとも思ったが、今宵は、そっとしておくことにした。この男にも、独りで、今日という日の重さを、噛みしめる時が要るのだろう。


外では、二月の冷たい風が、いっそう鋭く吹いていた。

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