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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十三話 能島か、来島か

うまく投稿予約できていませんでした

本日四話投稿します

応永三十二年(一四二五)四月 伊予国 怒和島 下怒和


因島から戻って、ひと月ほどが過ぎた。代官職の一件も、能島・来島の話も、いまはまだ、細々とした遣り取りが続いているだけで、大きな動きはなかった。


その日は、朝から、館の中が、いつもと違う気配に満ちていた。台所のほうから、女房衆の話し声が、いつになく弾んで聞こえてくる。松吉が、廊下で、誰かとすれ違うたびに、妙に落ち着かない顔をしていた。庭先では、鳥の声が、いつもより、心なしか賑やかに響いていた。


「何かあったのか」


わたしが、そう訊ねると、松吉は、少し口ごもった。


「いえ、その……直に、お聞きになったほうが、よろしいかと」


---


昼過ぎ、女房頭のお菊が、わたしのもとへ、あらためて挨拶に来た。


「千代様に、お伝えしたきことが」


「何じゃ」


お菊は、少し声を落として、こう続けた。


「綾様の、お月のものが、この二月、止まっておるようで。つわりらしき様子も、幾度か見受けられまする」


その一言に、わたしは、しばらく、言葉を失った。


「懐妊か」


「まだ、はっきりとは申せませぬ。ですが、女房衆のあいだでは、まず、間違いなかろうと」


お菊は、そう言ってから、少し嬉しそうな顔をした。


「島にとっても、これほどめでたきことはござりませぬ。皆、朝からその噂で持ちきりにて」


その言葉に、わたしは、素直に頷いた。だが、頷きながら、胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ、ざわついているのを感じた。その正体を、まだ、うまく言葉にできなかった。


---


わたしは、その足で、綾のもとへ向かった。館の廊下を歩きながら、頭の中では、まだ、うまく言葉にならない思いが、ぐるぐると渦を巻いていた。


綾は、機の前に座っていたが、その日は、糸を通す手が、いつもより、幾らか緩やかだった。


「綾様」


声を掛けると、綾は、こちらを見て、少し照れたような顔をした。


「お菊から、お聞きになりましたか」


「はい。まことにござりますか」


「まだ、確かなことは申せませぬ。ですが、そうではないかと、わたくし自身も、思うております」


その答えに、わたしは、深く頷いた。胸の奥で、何か温かいものが、静かに広がっていくのを感じた。だが、同時に、その温かさの底に、まだ形にならない、小さな揺らぎのようなものも、確かにあった。


---


「弥九郎様には」


わたしが、そう訊ねると、綾は、少し困った顔をした。


「まだ、お伝えしておりませぬ。まだ、確かなことではござりませぬゆえ」


「殿には、わたくしから、それとなく」


「いえ。これは、わたくしの口から、お伝えしとうござります」


綾の声には、珍しく、はっきりとした意志が滲んでいた。わたしは、その様子に、少し驚きながらも、頷いた。


「承知いたしました。楽しみにお待ちしております」


---


その夜、板間で、弥九郎に、この日のことを伝えるべきかどうか、しばらく迷った。だが、綾自身が伝えたいと言った以上、こちらから先に触れるべきではないと判じた。


弥九郎は、いつもどおり、外征の算段や、因島のことを話していたが、わたしは、その話に、うまく身が入らなかった。


「どうした。今日は、上の空だな」


弥九郎が、そう訊ねた。


「何でもござりませぬ」


わたしは、そう答えた。だが、頭の中では、綾のことばかりが、ぐるぐると巡っていた。


---


数日後、綾が、みずから弥九郎に、懐妊のことを伝えたと聞いた。


「殿は、たいそう喜んでおられたそうにて」


松吉が、そう教えてくれた。


「殿が、あれほど声を上げて笑われるのを、久方ぶりに見申した」


その話に、わたしは、素直に、頬が緩んだ。弥九郎の喜びは、まぎれもなく、心からのものだろう。この島の行く末を、確かに繋いでいく、待ち望まれた報せだった。


だが、その喜びの報せを、館の外から聞かされている自分に、わたしは、少しだけ、居心地の悪さを覚えた。


---


義重からも、程なくして、祝いの文が届いた。


「孫が生まれるということだ。まことに、めでたい」


その一文を、弥九郎が、声に出して読み上げた。義重の喜びようは、文の端々からも、はっきりと伝わってきた。綾は、義重にとって、ただ一人の娘だった。その娘に、初めての子ができる。義重にとって、これ以上の慶事はないのだろう。


わたしは、その文を、もう一度、目で追った。孫という一字が、頭の中に、深く残った。義重にとっても、二神本家にとっても、この子は、確かな血の繋がりとして、記録に残っていく。かつて自分が交わした、まだ誰にも明かしていない約束のことを、わたしは、ふと思い出した。


---


その日の夕方、又五郎が、久方ぶりに、館へ顔を出した。


「妹のこと、聞いた」


又五郎は、そう言った。その声には、いつもの尖った響きが、いくらか和らいでいた。


「おめでとうござります」


わたしが、そう言うと、又五郎は、しばらく黙っていたが、やがて、短く答えた。


「妹が、幸せなら、それでよい」


その一言を残して、又五郎は、綾の部屋のほうへ、足早に向かっていった。妹を案じる兄としての顔を、わたしは、この男の中に、初めて、はっきりと見た気がした。


これまで、又五郎とは、幾度も、噛み合わぬ遣り取りを重ねてきた。この島の何もかもを、少しずつ持っていかれたという恨みを、いまも、腹の底に抱えているはずだった。それでも、妹の懐妊という報せの前では、その恨みも、しばし脇へ置かれるらしい。血の繋がりというものの重さを、わたしは、あらためて思い知らされた。


---


その居心地の悪さの正体を、はっきりと言葉にできないまま、わたしは、いつもどおり、次の仕事に頭を向けた。


村上孫六から、能島・来島のことで、使いが届いていた。


「両島、いずれも、まだ、まとまった力を持つ者はおらぬとのこと。孫六殿の一党は、いつでも動ける支度が整うておるようにて」


伊佐次が、そう報告した。


「殿は」


「弥九郎様も、既に、承知しておられまする。ただ、いつ動くか、それを、まだ決めかねておられるご様子」


わたしは、その報せを受けて、館の板間へ向かった。


---


「能島・来島のこと、そろそろ、動く時期を、詰めておきたい」


わたしが、そう切り出すと、弥九郎は、頷いた。


「孫六の支度は」


「整っておりまする。あとは、こちらが、いつ、それを認めるかにござります」


「急ぐ理由は」


「急ぐ理由は、特にはござりませぬ。ですが、遅らせる理由も、特にはござりませぬ。孫六殿の勢いを、無駄に冷まさぬほうがよろしいかと」


弥九郎は、しばらく考えてから、答えた。


「よかろう。次に孫六と会う折、正式に、話をまとめよう」


「能島・来島、どちらから手をつけるか、孫六殿には、既に、お考えがおありのようで」


「どちらだ」


「能島にござります。地の利が固く、他国の船が入り込みにくい。まず、そちらを固めてから、来島の商いに手を伸ばすのが、順序としてよろしかろうと」


弥九郎は、頷いた。


「地の利を先に固める、というのは、孫六らしい判断だ」


「はい。腕は確かでも、書いたものを持たぬ一党にござります。ですが、地形を読む勘だけは、誰よりも確かなもの。その勘に、こちらの算段を重ねれば、大きく外すことはござりますまい」


---


「来島のほうは、どうする」


弥九郎が、そう続けて訊ねた。


「能島が固まったのち、追って動くことになりましょう。ただ、来島は、商いの道が開けておる分、他国の商人や、幕府方の目にも留まりやすうござります。慎重に、時をかけて進めるべきかと」


「急いては、しくじる、ということか」


「はい。手柄を焦れば、孫六殿御自身が、危うい橋を渡ることになりましょう。そこまでは、望んでおりませぬ」


弥九郎は、それを聞いて、少し笑った。


「お前は、いつも、他人の危うさまで、勘定に入れる」


「入れねば、いずれ、こちらに跳ね返ってまいりますゆえ」


---


その日の夕方、綾のもとを、あらためて訪ねた。


「お加減は、いかがにござりますか」


「まだ、大事ござりませぬ。ただ、朝方、少し胸が悪うなることが」


綾は、そう言って、微かに笑った。その笑みには、これまで見たことのない、柔らかな色があった。


「怖くはござりませぬか」


わたしが、そう訊ねると、綾は、少し考えてから、答えた。


「怖うござります。ですが、それ以上に、待ち遠しゅうござります」


その一言に、わたしは、何も言い返せなかった。怖さと待ち遠しさが、同じ胸の中に、当たり前のように同居している。それは、わたしには、まだ、よく分からない感情だった。


「千代殿は」


綾が、ふと、そう訊ねた。


「子を、望まれることは、ござりませぬか」


その問いに、わたしは、一瞬、答えに詰まった。


「望む、望まぬというより……考えたことが、あまりござりませぬ」


正直な答えだった。前の生でも、今の生でも、子を持つということが、自分にとって、どういう意味を持つのか、じっくりと考えたことは、一度もなかった。数え、策を組み、島を富ませる。それが、これまでの自分のすべてだった。


綾は、それを聞いて、少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は、深く問わなかった。


「いずれ、考える日も、来るやもしれませぬね」


その一言が、思いのほか、長く、耳の奥に残った。答えの出ないまま、その日は、そのまま、暮れていった。


---


館を出て、湊へ向かう道すがら、幸松が、他の子らと、貝殻を拾い集めているのが見えた。


「幸松」


声を掛けると、幸松は、こちらを見て、駆け寄ってきた。


「綾様が、御懐妊なさったと聞き申した。まことにござりますか」


「まことにござる。まだ、内々の話だが」


「それは、めでたきことにて」


幸松は、素直に、そう喜んだ。その屈託のなさに、わたしは、少し救われる思いがした。


「幸松は、いずれ、自分の家を持ちたいと思うか」


わたしは、ふと、そう訊ねてみた。幸松は、少し考えてから、答えた。


「まだ、遠い先のことにて、よう分かりませぬ。ですが、この島に、ずっと居られれば、それで十分にござります」


その答えに、わたしは、微かに笑った。子を望むかどうか、家を持ちたいかどうか。そうした問いを、この島の者たちは、皆、迷いながらも、自分なりの言葉で答えることができる。自分だけが、その問いの前で、いつまでも、立ち止まったままでいるような気がした。


---


その夜、床に就く前、帳を広げた。


だが、いつものように、すらすらとは、筆が動かなかった。木のこと、村上のこと、能島・来島のこと。数えるべきものは、いつもどおり、いくらでもあった。それなのに、今日は、その数の合間に、綾の笑顔が、幾度も割り込んできた。


帳に、綾の懐妊のことは、書かなかった。それは、こちらが書き記すべき筋のものではないと、そう判じたからだった。だが、書かなかったこと自体が、かえって、頭の中に、深く残った。


灯を吹き消しながら、わたしは、自分の胸の奥にある、この落ち着かなさの正体を、まだ、正しく数えられずにいた。喜ばしいことのはずだった。それなのに、なぜ、こんなにも、心が波立つのか。


義重の文にあった「孫」という一字。又五郎の、いつになく素直な祝いの言葉。女房衆の、朝からの弾んだ噂話。この島のすべてが、綾の懐妊という一つの報せを中心に、静かに、しかし確かに、回りはじめていた。


その中心に、自分の名は、どこにもなかった。当たり前のことだった。子を宿したのは綾であり、自分ではない。それでも、頭のどこかで、その当たり前さが、いつもとは違う手触りで、胸に触れてくるのを感じた。


これまで、島の行く末を左右するような策は、幾つも自分の手で組んできた。だが、その策のどれ一つとして、こうして館じゅうが浮き立つような喜びには、繋がらなかった。数と勘定でできることには、限りがあるのかもしれない。そんな考えが、ふと、頭をよぎった。


いや、と、わたしは、すぐに、その考えを打ち消した。いまは、能島・来島のことを、まず、しっかりと詰めねばならない。孫六の勢い、地の利、来島の商いの道。数えるべきものは、今日もまた、山のようにあった。その勘定に、心を戻すことで、胸の奥のざわつきを、いくらか鎮めることができた。


弥九郎は、隣で、既に、寝息を立てはじめていた。今日一日、あれほど喜びに満ちていた男の寝顔は、存外、いつもと変わらぬ、穏やかなものだった。その顔を、しばらく、じっと見つめた。


外では、四月の夜風が、穏やかに吹いていた。潮の匂いが、いつもより、なぜか、遠く感じられた。

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