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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十二話 因島の代官

応永三十二年(一四二五)三月 伊予国 因島


因島へ渡るのは、これで四度目だった。潮の色も、島影の並びも、もう、すっかり見慣れたものになっていた。


だが、いま、こうして迎えられる間柄になるまでには、忘れられぬ一夜があった。


---


半年前、応永三十一年(一四二四)九月のことだった。


夜更け、怒和島の湊に、一艘の小舟が、ほとんど転がり込むようにして着いた。乗っていたのは、因島の若い漁師だった。息も絶え絶えに、こう告げた。


「因島が、襲われており申す。名も知れぬ在地の一党が、幾艘もの船で押し寄せ、湊を焼き、孫六様に、膝を屈するよう迫っており申す」


因島の商いが、怒和島との縁で、目に見えて富みはじめていた矢先のことだった。まだ、二神の名も、弥九郎の名も、正式には及ばぬ島。守る義理も、盟約もない相手だった。


わたしは、頭の中で、素早く勘定を組んだ。まだ傘下に入っていない一党のために、船を出し、人を損なう危うさを冒す値打ちがあるのか。得心のいく答えが、すぐには出なかった。


「殿。まだ、こちらとは、正式な約定を結んではおりませぬ」


わたしが、そう言いかけたとき、弥九郎は、既に立ち上がっていた。


「約定があるかないかは、いま、関わりない。目の前で、知った顔が焼かれようとしておる。それを、勘定してから動くような真似は、俺はせぬ」


その一言に、わたしは、何も言い返せなかった。損得の外にあるものを、弥九郎は、迷わず摑み取っていた。


その夜のうちに、船が出た。六艘、手下百五十ほどを乗せた船団だった。潮を読み、最短の航路を選ぶことだけが、わたしにできる仕事だった。夜明け前、因島の沖に着くと、既に、孫六の一党が、寡兵——船にして四、五艘、人にして五十に満たぬほど——で懸命に食い止めていた。そこへ、弥九郎の船団が、横合いから割って入った。


襲うていた一党は、船十数艘、人にして二百近くと見えたが、戦いは、さほど長くは続かなかった。数で押し切られると見た敵は、日が高くなる前に、潮の引くように去っていった。


焼け残った湊で、孫六は、傷だらけの顔のまま、弥九郎の前に膝をついた。


「なにゆえ、まだ何の約定もなき、我らのために」


「約定がないなら、これから結べばよい。だが、それは、今日の話ではない」


弥九郎は、そう答えただけだった。恩を先に着せるような言い方を、あえてしなかった。その日、そこで交わされた言葉は、それだけだった。


だが、孫六の目に宿った色は、それまでの、探り合うような色とは、まるで違っていた。損得の外側から差し出された手を、人は、損得の内側にいる者よりも、深く信じる。それを、わたしは、あの朝、初めて、頭ではなく、腹の底で理解した気がした。


以来、半年。因島は、目に見えて変わった。湊は焼け跡から立ち直り、以前にも増して賑わうようになった。そして、いま、こうして正式に代官の任を授ける日を、迎えている。


---


湊に降り立つと、村上孫六が、みずから出迎えに来ていた。数年前、初めて顔を合わせたときよりも、体つきに、いくらか厚みが増している。潮と陽に焼けた顔は変わらないが、その立ち姿には、一党を率いる者としての重みが、はっきりと滲むようになっていた。


「よう、おいでくださった」


孫六は、そう言って、深く頭を下げた。


弥九郎が、その肩に軽く手を置いた。


「久しいな。息災か」


「息災にござる。おかげさまで、島も、ようやく形になってまいり申した」


孫六の後ろに控えていた若い男が、こちらへ深く頭を下げた。以前、初めて因島を訪れたときには、まだ子供のような面差しをしていた男だった。それが、いまは、すっかり一党の一角を担う顔つきになっている。歳月は、こうして、島の外にも、確かに積み重なっているのだと、あらためて思い知らされた。


---


館へ案内される道すがら、わたしは、因島の様子を、あらためて見て回った。


湊には、以前より二回りは大きな船が幾艘も繋がれ、荷揚げの声が、絶えず響いていた。塩と磁器、そして幾つかの唐物らしき荷が、次々に運び込まれていく。因島と怒和島とを結ぶ商いの筋は、この数年で、確かな太さを持つようになっていた。


「船の数が、また増えたようで」


わたしが、そう言うと、孫六は、少し誇らしげな顔をした。


「怒和島との商いが、島の実入りを、着実に膨らませており申す。おかげで、船も、人も、増えており申す」


「それは重畳」


弥九郎が、そう答えた。その声には、素直な喜びが滲んでいた。


湊の奥には、以前はなかった小屋が、幾棟も新しく建ち並んでいた。網を繕う女たち、木を運ぶ人足、荷を検める帳付けの男。どの顔にも、以前見たときにはなかった、落ち着いた勤しみの色があった。腰を据えて暮らせる土地だという実感が、島の隅々にまで、ようやく行き渡りはじめているようだった。


「見違えましてござります」


わたしが、そう言うと、孫六は、少し照れたような顔をした。


「怒和島の型を、そのまま真似ておるだけにて。溜池も、蔵の割り振りも、皆、そちらから学んだことにござる」


「学び方が、よろしいのでしょう。型だけを真似ても、根付かせるのは、また別の力が要りまする」


孫六は、それを聞いて、深く頭を下げた。


---


館に着くと、板間に、孫六の主だった配下が、幾人か集まっていた。皆、緊張した面持ちで、こちらを見ている。今日の用向きを、既に聞き知っているのだろう。


「今日、参ったのは、他でもない」


弥九郎が、そう切り出した。


「因島のこと、正式に、貴殿に代官として治めていただきたい」


その一言に、板間が、静かにざわめいた。


「代官、にござるか」


孫六が、少し身を乗り出した。


「二神の名を、借りるという話ではない。俺自身の名で、貴殿の因島を、安堵いたす。因島は、元より、貴殿が、みずからの力で切り拓かれた島。それを、いまさら、こちらが与えるなどとは、口が裂けても申さぬ。ただ、貴殿がこの島を、これから先も、確かに保っていかれるよう、この弥九郎の名で、後ろ盾になる。その証として、代官の名乗りを、お受けいただきたい。実入りの一部を、こちらへ収めていただく代わりに、外征のたびに、船と水夫、そしていくらかの陸兵を、供出していただきたい」


---


孫六は、しばらく、言葉を失っていた。


「弥九郎殿御自身の名で、にござるか」


「そうだ。六島は、二神の名の下に隠す形を取っておる。だが、貴殿とのあいだには、その形を使わぬ」


わたしは、そう続けて、言葉を添えた。


「六島は、我らが一から傘下に収めた島々にござります。ですが因島は違う。貴殿が、みずからの力で切り拓いた島にござります。代官とは申せ、貴殿から島を取り上げる話ではござりませぬ。これまでどおり、貴殿が、貴殿の一党の頭領として、この島を治める。ただ、その立場を、我らの後ろ盾ごと、確かな形にして、外に示す。その差を、名乗りの形にも、正しく映すべきかと存じまする」


その言葉に、孫六は、深く頭を下げた。


「かたじけのう、存ずる。この孫六、生涯、この御恩を忘れませぬ」


その声には、確かな喜びが滲んでいた。だが、わたしは、その喜びの奥に、ほんの一瞬、別の色が過ぎるのを見た気がした。深追いはしなかった。孫六が、それ以上、何も語らなかったからだった。


---


「ただし」


弥九郎が、そう続けた。


「外征というは、因島の御用だけに限らぬ。此度のような、貴殿の身に降りかかった一件のみならず、こちらが他所で構える戦にも、船と水夫、陸兵を出していただく。それが、代官としての務めだ。忘れてもらっては困る」


「無論にござる。それがしの一党、いつなりとも、御下知一つで動き申す」


孫六は、そう即答した。その声に、迷いはなかった。


わたしは、その様子を見ながら、頭の中で、静かに数を組んでいた。因島の海上戦力、六島から徴する陸兵、そして弥九郎本隊の海軍。これで、外征の折に動かせる力は、これまでとは、比べ物にならないほどの厚みを持つことになる。


---


話がまとまったあと、孫六は、酒を用意させた。板間に、簡素な祝いの席が、静かに設けられた。


「これで、島の者たちも、安堵いたしましょう」


孫六の配下の一人が、そう漏らした。


「これまで、我らは、いつまで因島におれるのか、正直、案じておりました。どこぞの大きな家に、いずれ取り上げられるのではないかと」


その言葉に、わたしは、少し胸を突かれた。因島の者たちにとって、この島は、まだ根が浅いものだったのだろう。代官という形が、その根を、ようやく確かなものにした。


「案ずることは、もうござらぬ。この島は、貴殿らの島にござります」


わたしが、そう言うと、配下の男は、深く頭を下げた。


---


その席に、孫六が、一人の若者を呼び寄せた。


「これは、それがしの甥、孫太郎にござる。ゆくゆくは、この一党の跡目を、継がせるつもりにて」


孫太郎と呼ばれた若者は、まだ十五かそこらの、あどけなさの残る顔をしていた。それでも、背筋を伸ばして頭を下げる姿には、既に、一党の跡取りとしての心構えが、いくらか滲んでいた。


「近く、元服を控えており申す。よければ、その折、烏帽子親を、弥九郎殿にお願いできぬかと」


その申し出に、弥九郎は、少し驚いた顔をした。


「俺が、烏帽子親を」


「代官の任をいただいたいま、この一党の先々を、弥九郎殿に見届けていただきたいと、そう思うており申す」


弥九郎は、しばらく、考え込んでいたが、やがて、深く頷いた。


「よかろう。孫太郎、こちらへ」


孫太郎が、緊張した面持ちで、弥九郎の前に進み出た。


「元服の折には、名の一字を、そなたに授けよう。定海の、定の字だ。孫太郎定綱、とでも名乗るがよい」


その場に居合わせた誰もが、しばらく、声を失っていた。弥九郎自身、義重から一字を受けることは、ついになかった。その男が、いま、初めて、自らの名の一字を、他の誰かに授けようとしている。


わたしは、その様子を、少し離れた場所から見ていた。胸の奥に、何か、温かいものと、微かな痛みとが、同時に湧いた。名を受けられなかった男が、いま、名を授ける側に立っている。その巡り合わせの重さを、弥九郎自身は、まだ、正しくは分かっていないのかもしれなかった。


「かたじけのう、存じまする」


孫太郎は、震える声で、そう答えた。孫六が、その傍らで、深く、深く、頭を下げた。


「弥九郎殿の御恩、この一党、末代まで忘れませぬ」


「恩というほどのものではない。ただ、この一党の先々に、確かな根が張るようにと、それだけのことだ」


弥九郎は、そう言って、少し照れたように、盃を傾けた。


---


酒が進み、座がいくらか和んだころ、孫六が、少し声を落として、こう切り出した。


「一つ、御相談したきことが」


「申されよ」


弥九郎が、そう促した。


「因島は、こうして、落ち着きましてござる。ですが、それがしの一党には、まだ、先を望む者が多うござる」


「先、とは」


孫六は、少し間を置いてから、答えた。


「能島か、来島か。いずれ、どちらかに手を伸ばしたいと、かねてより思うておりました」


その一言に、わたしと弥九郎は、思わず、顔を見合わせた。


---


「その二島、いまは誰が治めておる」


弥九郎が、そう訊ねた。


「いまだ、確かに治める者は、おり申さぬ。名もなき在地の海の衆が、ばらばらに、縄張りを分け合うておるだけにて」


「島の地の利は、どちらが上か」


わたしは、そう訊ねた。孫六は、少し考えてから、答えた。


「能島は、潮の流れが、四方から複雑に絡み合う地にて。地の者でなければ、船を操ることすら難儀にござる。来島は、それよりは穏やかにて、その分、他国の船も入り込みやすい」


「地の利で守るなら能島、商いで富ませるなら来島、ということか」


弥九郎が、そう言うと、孫六は、深く頷いた。


「まさに、その通りにござる。それがしの一党は、いずれ、両方を望んでおり申すが」


「両方は、まだ早い」


弥九郎の一言に、孫六は、少し肩を落としたが、すぐに、また表情を引き締めた。


「承知いたしており申す。まずは、一つずつ」


孫六の言葉に、わたしは、頭の中で、素早く算段を組んだ。因島が固まったいま、次の一手として、能島か来島への拡大は、決して的外れな話ではなかった。むしろ、村上一党の側から、こうして望みが語られること自体、これまでの信頼の積み重ねの、確かな証だった。


「貴殿の望みは、よう分かった」


弥九郎が、そう答えた。


---


「手柄を立てれば、そちらは貴殿にお任せいたす。手を出さぬほうは、こちらが頂く。それでどうだ」


その言葉に、孫六は、目を見開いた。


「よろしいのにござるか」


「よい。ただし、手柄は、貴殿自身の手で立てていただく。棚から落ちてくるものではない」


「無論にござる。この孫六、命に代えても」


「命に代えずともよい。生きて、手柄を立てよ」


弥九郎の一言に、孫六は、しばらく黙っていたが、やがて、深く頭を下げた。


「かたじけのう存ずる」


その孫六の横顔に、また、先ほどと同じ、微かな翳りが差した。今度は、わたしも、思わず、口を開いた。


「孫六殿。何か、案じておられることが」


孫六は、少し驚いた顔をしたが、やがて、正直に答えた。


「代官の任、まことにありがたきこと。ですが、これで、それがしの一党は、これまでのように、思うがままには動けぬ身になり申した。その重みを、いま、噛みしめており申す」


その答えに、わたしは、少し虚を突かれた。喜びの裏にあったのは、恩義への遠慮ではなく、自由を手放すことへの、静かな覚悟だったのだ。役目を得ることと、身軽さを失うことは、いつも一枚の紙の表裏だった。それを、こちらは、恩恵の重さとしてしか、勘定していなかった。


「重みを、独りで背負わずともよろしゅうござります。船を出す折には、必ず、こちらからも支えまする」


わたしが、そう言うと、孫六は、少し安堵した顔を見せた。


「千代様に、そう仰っていただけると、心強うござる」


その一言に、わたしは、静かに頷いた。孫六が「千代様」と呼ぶこの間柄も、初めて出会った日には、想像もしていなかったものだった。歳月は、島を富ませるだけでなく、人と人との呼び方までも、少しずつ変えていく。


---


その夜、館の一室で、弥九郎と、あらためて今日の話を振り返った。


「因島は、これで、確かな足場になりましょう」


わたしは、そう言った。


「外征の折の戦力、これまでとは、桁が違いまする。六島の陸兵、因島の海上戦力、そして殿の本隊。三つが揃えば、瀬戸内の中でも、並ぶ者は、そうはおりますまい」


弥九郎は、それを聞いて、しばらく黙っていた。


「大きくなるほど、狙われる。忘れるなよ」


「忘れませぬ。大きくなればなるほど、慎重に、慎重に、進めまする」


---


「能島と来島のことだが」


弥九郎が、続けた。


「あれは、いつごろ動くと見る」


「まだ、先のことにござりましょう。孫六殿の一党にも、支度が要ります。急いては、しくじりまする」


「気の長い話だな」


「気の長い話にござります。ですが、いままでも、そうして、一つ一つ、形にしてまいりました」


その言葉に、弥九郎は、微かに笑った。


「その台詞、もう何度目だ」


「数えてはおりませぬが、幾度も申した気がいたしまする」


---


翌朝、因島を発つ前に、孫六が、湊まで見送りに来た。


「また、近いうちに」


「はい。次は、能島・来島の話も、もう少し詰めましょう」


孫六は、深く頭を下げた。その姿を見ながら、わたしは、数年前、初めてこの島を訪れたときのことを、ふと思い出した。あのころは、まだ、互いに探り合うような間柄だった。それが、いまでは、こうして代官の任を委ねるまでの間柄になっている。


船が、因島の湊を離れていく。振り返ると、孫六と、その配下たちが、いつまでも、こちらを見送っていた。その姿が、小さくなり、やがて、島影に紛れて見えなくなるまで、わたしは、舳先に立ち、目を離さずにいた。潮風が、頬を、絶えず撫でていった。


---


夜、静まり返った館で、帳に、この日のことを書き留めた。


因島、村上孫六の本領を、弥九郎自身の名で安堵し、代官の名乗りを授く。二神家を介さぬ形。船・水夫・陸兵の供出を約す。能島・来島への拡大、孫六より望みあり。「手柄を立てれば、そちらは貴殿にお任せいたす」の約定を交わす。


書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。因島という一つの島が、こうして、確かな駒として組み込まれた。だが、その先には、まだ、能島、来島、そして忽那諸島全体という、遥かに大きな絵図が広がっている。


六島を傘下に収め、因島を固め、それでも、まだ道半ばだった。頭の中の帳は、いつまで経っても、書き終わることがなかった。


外では、三月の潮風が、まだ、いくらか冷たく吹いていた。船足は、順調だった。日が暮れる前には、怒和島へ戻れるだろう。


湊に着くと、綾が、いつものように出迎えに来ていた。因島の代官の一件を、かいつまんで伝えると、綾は、少し考えてから、こう言った。


「孫六殿は、これで、島の外との縁に、しっかりと繋がれたのですね。繋がれることは、時に、心強さにも、心細さにもなりましょう」


その一言に、わたしは、今日、孫六の横顔に見た翳りのことを、また思い出した。綾は、会ったこともない相手の胸の内を、こちらの話しぶりだけから、正しく言い当てていた。


浜では、幸松が、他の子らと、因島から届いたばかりの荷を数えていた。船から降ろされた塩の俵を、一つずつ、指差しながら数える姿は、島の暮らしの、ごく当たり前の一場面として、そこにあった。


その夜、弥九郎の渡りがあった。因島のこと、能島・来島のこと、話は尽きなかったが、渡りの床では、いつのまにか、その話も、静かに途切れていった。窓の外では、三月の夜風が、まだ、いくらか冷たく吹いていた。

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