第二十話 居着かせる
応永三十一年(一四二四)十二月 伊予国 怒和島 下怒和
浜辺でのあの一件から、ひと月ほどが過ぎた。
あの夜、呉徳全の小屋から人影が消えていると、幸松が血相を変えて報せに来た。捜し回った末、見つけたのは、浜の岩場に独り座り込み、じっと沖を見つめている、その背中だった。声を掛けても、しばらくは、何も答えなかった。ただ、沖の彼方、明のある方角を、いつまでも見つめていた。
「戻れる、とは、思うておらぬ」
呉徳全は、ようやく、そう漏らした。
「ただ、時折、こうして、あちらを向いておらねば、正気を保てぬ夜がある」
その夜以来、同じことが、幾度か、繰り返された。だが、この一月ほどは、呉徳全は、毎朝、窯へ通うようになっていた。夜中に姿を消すことも、なくなった。だが、わたしは、あることに気づきはじめていた。
呉徳全の手は、動いている。土をこね、器の形を整え、窯へ入れる支度をする。だが、太郎丸と次郎丸が、いくら熱心に技を尋ねても、呉徳全の答えは、いつも、どこか曖昧だった。
「肝心なところを、教えておらぬような気がいたします」
太郎丸が、そう相談してきたのは、師走に入って間もなくのことだった。
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「教えておらぬ、とは」
わたしは、そう訊ねた。
「窯の焚き方、土の練り方、基のところは、確かに教えていただいております。ですが、釉薬の掛け方になると、いつも、途中で、はぐらかされまする」
太郎丸の言葉に、わたしは、頭の中で、呉徳全の様子を、あらためて思い返した。窯へは通う。手も動かす。だが、どこか、一線を引いているような、そんな気配が、確かにあった。
「怠けておるようには、まるで見えぬのだろう」
「見えませぬ。ただ、肝心なところだけを、抱え込んでおるような、そんな気配がござります」
太郎丸は、そう続けて、少し考え込む顔をした。
「それがしどもも、無理に急かすつもりはござりませぬ。ただ、このまま何年経っても、肝心のところが分からぬままでは、いずれ、行き詰まりましょう」
その懸念は、まことに、もっともだった。窯を築く技だけでは、まだ本物の磁器には届かない。釉薬の掛け方こそが、太郎丸たちが、いま最も求めている技だった。
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その日の夕方、独りで、呉徳全の様子を見に行った。明の言葉なら、林太を介さずとも、直に話ができた。
窯の傍らで、呉徳全は、独り、黙々と土をこねていた。声を掛けると、顔を上げ、頭を軽く下げたが、それ以上、何も言おうとはしなかった。
「呉徳全殿」
わたしは、そう呼びかけた。
「太郎丸殿たちに、技を教えてくださっておると、伺いました。それは、まことに、ありがたきことにござりまする」
わたしは、そう続けた。
呉徳全は、小さく頷いた。だが、その顔には、何か、こちらの様子を窺うような色があった。
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「一つ、伺いたきことがござります」
わたしは、明の言葉で、そう訊ねた。
「肝心なところを、まだ、教えてくださっておらぬのではと、太郎丸殿たちが、案じております」
その一言に、呉徳全の手が、止まった。
しばらく、沈黙が続いた。やがて、呉徳全は、低い声で、語りはじめた。
「技をすべて渡してしまえば、もう、わしは要らなくなる。そうなれば、この島に、用のない者として、放り出されるのではないか。それが分からぬまま、すべてを渡すことは、できぬ」
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その言葉に、わたしは、しばらく、何も言えなかった。
技を惜しんでいたのではなかった。技を、すべて渡してしまえば、自分の値打ちが消える。それを恐れていたのだった。
考えてみれば、当たり前のことだった。荷として値をつけられた経験がある自分なら、誰よりもよく分かるはずのことだった。技を持つ者にとって、その技こそが、居場所を保つ、唯一の証になる。すべてを渡してしまえば、その証が、消えてしまう。
呉徳全は、徳化で、幾十年もかけて、確かな居場所を築いてきた男だった。だが、その居場所を、上の息子に譲り、この見知らぬ島へ、独り渡ってきた。積み上げてきたすべてを手放し、まったく新しい場所で、また一から根を張ろうとしている。秘伝を惜しむのは、明の陶家では、当たり前の習わしだった。技をすべて渡した職人が、いずれ用済みとして扱われる例を、幾度も見てきたという。だが、それ以上に、この島では、その習わしを手放してよいものかどうか、まだ、見極めがついていないのだろう。何もかもを賭けて渡ってきた身だからこそ、最後の一枚だけは、容易には手放せずにいた。
自分もまた、明で荷として値をつけられたとき、同じような計算を、頭のどこかでしていなかったか。使える技を見せれば、値は上がる。だが、見せすぎれば、用が済んだ後、あっさりと切り捨てられるかもしれない。その恐れを、いまさらのように、思い出していた。
「その心配は、要りませぬ」
わたしは、はっきりと、そう告げた。
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「呉徳全殿を、この島から放り出すことは、決していたしませぬ。技をすべて渡してくださったとしても、呉徳全殿には、この島で、ずっと、働いていただきとうござります」
その言葉に、呉徳全の目に、初めて、はっきりとした驚きの色が浮かんだ。
「なぜ、そう言い切れる」
呉徳全が、そう訊ねた。
わたしは、少し考えてから、答えた。
「技を持つ者は、技を渡したあとも、値打ちが失われるわけではござりませぬ。むしろ、技を渡し、教え、育てる力を持つ者として、これまで以上の値打ちを持ちまする」
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その答えに、呉徳全は、しばらく、黙っていた。目を伏せ、何かを、じっと考えているようだった。
やがて、呉徳全は、小さく頷き、静かに語りはじめた。
「明の陶家では、技を惜しんだ職人ほど、長く重宝された。すべてを渡した職人が、いずれ、若い者に取って代わられ、放り出されるのを、幾度も見てきた」
その話に、わたしは、深く頷いた。
「この島では、そのような真似はいたしませぬ。技を渡すことは、この島では、値打ちを失うことではのうて、値打ちを増やすことにござります。太郎丸殿・次郎丸殿が育てば、呉徳全殿は、二人の師として、いっそう重んじられましょう」
わたしは、続けた。
「太郎丸殿たちは、これから幾年も、呉徳全殿に学び続けましょう。その先も、呉徳全殿には、この島で、窯を守る者として、ずっと、力を貸していただきとうござります。息子御たちの様子も、阿蓮殿に頼み、次に船が来る折には、必ず、お伝えできるようにいたしまする」
その言葉に、呉徳全の顔に、少しずつ、強張りが解けていくのが見えた。それでも、まだ、迷いの色は、完全には消えていなかった。
「信じてよいものか、まだ、少し、迷うておる」
呉徳全が、正直に、そう漏らした。
「信じよ、とは申しませぬ。ただ、これから、この島で、呉徳全殿と共に過ごす日々の中で、少しずつ、確かめていただければ、それでよいのです」
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その夜、館で、島の者たちを集めて、簡単な酒宴を開いた。
呉徳全のためというより、師走の締めくくりとしての、いつもの集まりだった。だが、その席に、呉徳全も招いた。
初めは、隅のほうで、居心地悪そうにしていた呉徳全だったが、松吉や弥助が、身振り手振りで話しかけ、林太が間に入って通詞するうちに、少しずつ、表情が和らいでいった。
「呉徳全殿、酒は、いけるのか」
松吉が、そう声を掛けると、呉徳全は、少し戸惑いながらも、盃を受けた。一口含んで、驚いたような顔をした。
「明の酒とは、また違うと申しております」
林太が、そう訳すと、その場に、笑いが起きた。呉徳全も、つられるように、初めて、微かに笑った。
弥助が、その場で、身振り手振りを交えながら、島での暮らしぶりを、呉徳全に語って聞かせようとしていた。言葉はほとんど通じていないはずなのに、二人は、身振りだけで、何やら意気投合している様子だった。
「弥助殿は、いま、呉徳全殿に、いったい何を話しておられるので」
わたしが、林太に訊ねると、林太は、少し困った顔で笑った。
「よう分かりませぬが、どうやら、魚の釣り方を、自慢しておられるようで」
その答えに、わたしも、こらえきれずに、思わず笑った。技も、言葉も、まるで違う二人が、それでも、こうして、たわいもない話で通じ合っている。その光景に、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
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弥九郎が、その様子を、少し離れた場所から見ていた。
「馴染んできたな」
「はい。時が掛かりましたが」
「時が掛かるのは、当たり前だ。飯を、幾度も、共にする。それしか、人を繋ぎ止める術はない」
その言葉に、わたしは、頷いた。弥九郎の一党が、これまで、幾人もの拾った者たちを、こうして繋ぎ止めてきた。飯を共にし、名を呼び、居場所を作る。その積み重ねが、いま、言葉の通じぬ異国の職人にも、同じように効いていた。
「殿の一党のやり方が、こういうところで、活きまするな」
「お前の理屈だけでは、足りぬこともある、ということだ」
その言い草に、わたしは、少し苦笑した。
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数日後、太郎丸が、興奮した面持ちで、館へ駆け込んできた。
「呉徳全殿が、ついに、釉薬の掛け方を、教えてくださいました」
その報せに、わたしは、思わず、勢いよく立ち上がった。
「まことか」
「はい。今朝、窯へ参りますと、呉徳全殿が、みずから、その話を切り出されまして」
わたしは、すぐに、窯へと急いだ。太郎丸と次郎丸が、呉徳全の手元を、食い入るように見つめている。土に灰を混ぜ、水で丁寧に溶いた釉薬を、慎重に、器の表面に掛けていく。その手つきは、これまで見てきた、どの作業よりも、はるかに慎重で、丁寧だった。
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「これで、次に焼くときは」
わたしが、そう訊ねると、呉徳全は、林太を通じて、答えた。
「まだ、確かなことは申せませぬ。じゃが、これまでより、一歩、近づけましょう」
その答えに、わたしは、深く頷いた。焦らず、一歩ずつ。この島で、これまで積み上げてきたやり方と、まったく同じ道筋だった。
太郎丸が、少し照れたように、こう付け加えた。
「呉徳全殿は、口では、まだ確かなことは申せぬと仰いますが、手つきには、迷いがござりませぬ。あれは、既に、確かな見立てがあってのことにござりましょう」
その観察に、わたしは、少し驚いた。太郎丸もまた、この数ヶ月で、呉徳全という人間を、よく見るようになっていた。技を学ぶことは、同時に、人を見る目を養うことでもあるのだと、あらためて思い知らされた。
夜更け、灯芯を整えながら、この日のことを帳に書き留めた。
呉徳全殿、釉薬の技を、みずから教えはじめる。飯を共にし、居場所を保証したことが、実を結んだ様子。弥九郎の言、拾った者を飯で繋ぎ止める、この島のやり方は、変わらず有効。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。技術ではなく、人を留める話だった。数では計れない信を、時をかけて積み上げる。その道のりの重さを、わたしは、あらためて噛みしめていた。
呉徳全の恐れは、値打ちを失うことへの恐れだった。その恐れの正体を、正しく見抜けたのは、自分もまた、かつて荷として値をつけられた身だったからこそだった。人の情を勘定に入れ忘れる欠陥を持つ自分が、それでも、時折、こうして人の心の底に触れられることがある。その事実を、わたしは、静かに、胸の内に留めた。
外では、師走の冷たい風が、静かに吹いていた。窯の火が、遠くで、ぼんやりと赤く灯っているのが見えた。
弥九郎が、隣に立って、その灯を、しばらく眺めていた。
「呉徳全が居着くまで、幾月かかった」
「半年余りにござります」
「思うたより、早かったな」
わたしは、その言葉に、しばらく考えた。半年という月日は、決して短い歳月ではなかった。だが、藤内やお澄、久蔵の一族が、この島に馴染むまでにかかった歳月と比べれば、確かに、早いほうだったのかもしれなかった。
「この島には、一つずつ、確かなやり方ができておりますゆえ」
「やり方、とは」
「拾った者を、飯で繋ぎ止める。居場所があると示す。急かさず、じっくりと時をかける。この島に来る者は、皆、同じやり方で、少しずつ、居着いてまいりました」
弥九郎は、それを聞いて、頷いた。
「お前の頭で組む技も、俺の一党が持つ型も、どちらも、要るということだ」
「はい。どちらか一方だけでは、足りませぬ」
その夜、館に戻ってから、弥九郎の渡りがあった。呉徳全のこと、太郎丸たちのこと、話の続きは、床に入ってからも、しばらく続いた。渡りの夜に、仕事の話がこうして持ち込まれることも、この島では、もう珍しくなくなっていた。
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翌朝、窯の前で、太郎丸と次郎丸が、呉徳全から、釉薬の掛け方を、あらためて教わっていた。その様子を、少し離れた場所から眺めながら、わたしは、頭の中で、これから先の段取りを、静かに組み立てていた。
本物の磁器が焼けるようになるまでには、この先も、まだ、幾度もの失敗が待っているだろう。だが、いま、この窯の前には、宋の血を継ぐ兄弟と、明から来た陶工とが、共に、同じ土を練っている。もとは、まったく違う場所から流れ着いた者たちが、一つの窯を囲んで、同じ技を追い求めている。
その光景そのものが、この島がここまで積み上げてきたものの、確かな形だった。誰一人として、初めからこの島の生まれではない。それぞれの場所から流れ着き、それぞれの理由で、いまここにいる。




