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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第九話 乱取り

応永二十二年(一四一五)四月 筑前国遠賀郡 島門


わたしは、逃げなかった。


逃げる先がなかったからだ。


背後は焼けた屋敷で、その先は崖になっている。東は遠賀川。川を渡れば芦屋で、芦屋は叔父の膝下だった。西は野で、隠れるところがない。南は遠賀の奥だが、そこまで歩くのに半日かかる。半日歩ける者は、もう歩いていった。


残っているのは、老人と、子どもと、動けない者だけだった。


だから、わたしは丘を下りた。


さよが袖を掴んだのを、振り払った。


「姫様、なりません」


「話をつけてくる」


「なりません」


「約定がある」


わたしはそう言った。


言いながら、自分の声が震えていないことに驚いた。


頭は、はっきりしていた。父が死んで四日で、まだ一度も泣いていない。泣けないのではなく、泣く順番が来ていないような気がしていた。


いまは、数える番だった。


五つの約定がある。四つは通っている。五つ目は、たぶん通っていない。


でも、四つは通っている。


四つ通っているということは、この人たちは約束を守る側の人間だということだ。守る人間になら、話が通じる。


通じるはずだった。


---


湊で、白水衆は荷造りをしていた。


焼け残った家から出したものを、筵に包んで縛っている。米はもうない。鍋と、釜と、干した魚と、板。板まで持っていく。


人が、集められていた。


石段の下に、十四人。


老人が六人、女が五人、子どもが三人。


そのうち二人は、縄で繋がれていた。


わたしが下りていくと、男たちが手を止めた。


槍を持った男が一人、こちらへ来た。


「なんじゃ、小娘」


「白水三郎殿にお目通りしたい」


男が、笑った。


「頭に、じゃと」


「わたくしは、麻生千代と申します。この湊を預かる家の者にござります」


笑い声が、少し減った。


「約定のことで、お話がござります」


男は、しばらくわたしを見ていた。


それから、後ろを振り返った。


石段の上、というより、番屋の框に、腰を下ろしている者がいた。


わたしのいつも座っていた石段の、三段目だった。


---


近くで見ると、三十を過ぎているように見えた。


日に灼けて、頬に古い傷がある。右の耳がなかった。着ているものは意外に上等で、袖の折り返しに刺繍がしてあった。


「白水三郎殿でござりますか」


「そう呼ばれておる」


低い声だった。急がない喋り方だ。


「麻生千代と申します」


「知っとる」


え、と思った。


「丘の途中に立っとった娘じゃろう。去年の秋に」


わたしは、返事をしなかった。


三郎は、こちらを見上げていた。座っているから、目の高さが同じくらいだった。


「わしの船を見て、目をそらさんかった。あれはお主じゃな」


「……はい」


「なるほど」


三郎は、それだけ言った。


わたしは膝をついた。作法どおりに。土がまだ濡れていて、袴に染みた。


「約定のことにござります」


「約定」


「島門と白水衆のあいだに、五つの約定がござります。三つ目に、島門の印を掲げた船を襲わぬこと。四つ目に、他の賊が出れば追うこと」


「うむ」


「五つ目に、島門の者を取らぬこと、とござります」


三郎は、動かなかった。


わたしは続けた。


「二度の払いは、いずれも滞りなく済ませております。八月に五貫、二月に五貫。約定は生きております」


間があった。


そして、こう言った。


「四つじゃ」


心臓が、鳴った。


「……五つにござります」


「四つしか呑んどらん」


「されど、兄は五つとも通ったと」


「あの男は、嘘をついたのじゃ」


わたしは、口を閉じた。


分かっていた。分かっていたのに、聞くと違った。


喉の奥が乾いた。


三郎は、框に置いた手を組み替えた。


「あの若いのは、正直な男じゃった」


「……」


「五つ目を読み上げて、わしが『それは呑まぬ』と言うた。そうしたら、粘りよってな」


「粘る」


「三日じゃ」


——三日。


「飯も食わん。三日、そこに座って、五つ目を呑めと言い続けよった。わしの前でじゃぞ。手下が五十おる場所で」


膝から下の感じが、なくなった。


三日。


兄は三日戻らなかった。わたしは、あの三日を「交渉が長引いている」と思っていた。あるいは、歓待でもされているのかと思った。


三日、飯も食わずに座っていた。


わたしが書いた五つ目のために。


「なぜ、呑まれなんだのでござりますか」


声が、掠れた。


「人を取らぬと約せば、こちらの実入りが減る。それだけじゃ」


三郎は、当たり前のことのように言った。


「銭は毎年入る。それは有難い。じゃが、人はまた別の商いじゃ。両方欲しい」


「……」


「あの若いのに、わしはこう言うた。『四つで持ち帰れ。五つ目に拘って全部流れるより、そのほうが利口じゃ』と」


そのとおりだった。


四つ通れば湊は保つ。五つ目に拘って全部流れれば、湊は死ぬ。損得で言えば、四つで持ち帰るのが正しい。


わたしなら、そうする。


「あの男は、それが分かっとった」


三郎が言った。


「分かっとって、三日粘った」


わたしは、地面を見ていた。


土が濡れていた。四日前の雨の名残だった。


数は読めない人だと思っていた。理屈が言えない、途中で忘れる、そう笑っていた人だと思っていた。


違った。


あの人は、損得を分かった上で、損なほうに三日座っていた。そして帰ってきて、笑って、「五つとも通ったぞ」と嘘をついた。


わたしを、安心させるために。


「小娘」


三郎が言った。


「あの約定を書いたのは、お主じゃな」


わたしは、顔を上げた。


「なぜ、そうお思いになります」


「あの若いのの頭から出た文ではない。五十文の根が荷主の懐から取ってあった。ああいうものは、銭を数える者にしか書けん」


三郎は、そこで少し笑った。


「わしは、それを聞いたときに一度思うた。誰の入れ知恵じゃ、と」


---


わたしは、膝の上で手を握った。


まだ終わっていない。


五つ目が通っていないのなら、別の理屈を立てればいい。


「三郎殿」


「なんじゃ」


「銭になるお話にござります」


三郎の目が、動いた。


「聞こう」


「博多に、宗徳という商人がおります。塩と麻布を扱うております。わたくしの母の弟にあたります」


「ほう」


「その者に文を出していただけますなら、身代を出しまする。わたくしとさよ、二人ぶんを」


「いくら出す」


「二十貫」


言ってから、心臓が耳の後ろで鳴った。


二十貫は、この湊の関銭の一年半ぶんだ。宗徳が出せるかどうかは分からない。分からないが、出せない額ではないはずだ。母の実家であるし、去年、打掛の直しを手配してくれた。


三郎は、口を開かなかった。


考えている顔だった。


乗る、と思った。


賊が身代を取るのは珍しいことではない。人を運んで売るより、身代のほうが手間がかからない。船も、日数も、要らない。


数の上では、こちらが得だ。


「小娘」


三郎が言った。


「お主、いくつじゃ」


「十四にござります」


「字は書けるか」


「書けます」


「算えられるか」


「……算えられます」


三郎は、頷いた。


そして、こう言った。


「なら、二十貫では安い」


わたしは、動けなくなった。


「唐人は、字の書ける娘を高う買う。算えられるとなれば、なお高い。屋敷の帳を任せるためじゃ。あちらでは、そういう買い手がおる」


「……」


「博多の唐房に、陳という男がおる。あの男なら、三十は出す。四十かもしれん」


三郎は、指を折らなかった。


折らずに、その数を出した。


「それに」


三郎は言った。


「身代というのは、一度きりじゃ」


「……」


「売れば、そこで終いになる。身代を取れば、その家がまた立ち直って、また銭を取れるかもしれん。じゃが、島門はもう立たん。四十二軒が十三軒じゃ。関を預かる者もおらん。ここから毎年十貫取るという商いは、昨日で終わっとる」


膝の上の手が、冷えきっていた。


——正しい。


全部、正しかった。


この男は、わたしが三年かけてやってきたことを、いま目の前で、もっと速く、もっと正確にやってみせた。


数を並べて、比べて、大きいほうを取る。


わたしが父に、兄に、叔父に、何度も見せようとしてきたやり方だ。


そのやり方で、いま、わたしの値が決まった。


「三郎殿」


「なんじゃ」


「もう一つ、お聞かせくださりませ」


「言うてみい」


「なぜ、わたくしを島門に置いておかれぬのでござりますか」


三郎は、初めてわたしをまっすぐ見た。


長く見ていた。


それから、言った。


「お主のような者が、この海で育つのを見とうない」


---


さよとは、船着き場で離された。


女は二つに分けられた。若い者と、そうでない者。


さよは若い者のほうに入り、わたしも同じだった。だから最初は隣にいた。


でも、そのあとにもう一度分けられた。


字の書ける者と、書けない者。


さよは、字が書けない。


「姫様」


さよが、こちらを見た。


縄で繋がれてはいなかった。逃げないと分かっているからだ。逃げる先がないのは、この子も同じだった。


「さよ」


わたしは、何か言おうとした。


言葉が、出てこなかった。


三年間、この子はわたしの横にいた。潮を数えているのを笑い、日に灼けないのを叱り、褥を横に敷いた。「そんときは、そんときですたい」と言った。


わたしは、この子について何を知っているだろう。


漁師の娘。十八か、十九か。はっきり知らない。父がいる。叔母が香月に嫁いでいる。


それだけだ。


三年いて、それだけしか知らない。


また、これだ。


「姫様」


さよが言った。


泣いていなかった。


「姫様は、賢かです」


「……」


「賢かけん、どこ行っても、なんとかしんしゃいます」


「さよ」


「わたしは、賢うなかです」


さよは、笑った。


いつもの、分からないことを笑ってやり過ごす笑い方だった。


「だけん、分からんまま置いときます」


そして、こう言った。


「そのうち、どうにかなっとります」


男に肩を押されて、さよは向こうの列へ行った。


一度も、振り返らなかった。


振り返らなかったのは、たぶん、振り返ったら泣くからだった。


---


船に乗せられる前に、与三次が来た。


老人は、片腕を吊ったままだった。走ってきたらしく、息が上がっていた。


「姫様」


白水衆の男が、槍の柄で老人を突いた。それだけで、与三次は倒れた。


倒れて、それでも膝で這って、こちらへ来た。


「その娘を、置いていってくだされ」


老人は、そう言った。


「わしを、代わりに連れて行かれよ」


男たちが笑った。


「爺い。お前を誰が買う」


「……」


「腕も上がらんじゃろうが」


与三次は、何も言い返さなかった。


言い返せなかった。


その通りだったからだ。


わたしは、船縁を掴んでいた。


「与三次」


「姫様」


「一つだけ、教えてくれ」


老人が、顔を上げた。


「搦手の閂を外したのは、誰じゃ」


与三次は、うつむいた。


土の上に膝をついたまま、片腕を吊ったまま、黙っていた。


三度、この老人は「分かりませぬ」と言った。升のときも。太平のときも。落城のあとも。


四度目が来る、とわたしは思った。


でも、与三次は言った。


「……太平にござります」


わたしは、船縁を掴んだまま動けなかった。


「太平が、戻っておりました。三月の末に。漁師の空き小屋に、身を隠すようにしておるのを見た者がおりまして」


「……」


「わしも、一度だけ、遠目に見ました。大内方の手の者になっておるという噂も、耳にはしておりました」


老人の声が、少しずつ小さくなった。


「されど、噂だけで殿に申し上げるわけには参りませなんだ。証がのうては、ただの言いがかりにござります。それに……あれを番屋に入れたのは、わしにござります。わしが引き立てましたゆえ、人違いであったなら、取り返しがつきませぬ」


「与三次」


「探りだけは、入れておりました。太平を見た者がおらぬか、幾人かに、それとのう尋ねて回っておりました。証さえ立てば、必ず殿に申し上げるつもりで」


「……」


「間に合いませなんだ。証を集めておるうちに、間に合わなんだのでござります」


「与三次」


わたしは言った。


言いながら、自分でも何を言うつもりなのか分からなかった。


責めるつもりはなかった。責める資格がなかった。


太平。二十二。


三年前、帳面の余白に、わたしはその名前を書いた。


荷とは関わりのないことを書いたのは、あとにも先にも、あの一度きりだった。


書いて、それが何の役に立つのか分からないと思った。


役に立つはずだった。


あのとき、その名前をもう一度誰かに訊いていれば。なぜ暇を取ったのか、どこへ帰ったのか、恨みが残っていないか、一度でも訊いていれば。


わたしは訊かなかった。


数は全部覚えていた。人の名は、一つも入っていなかった。


「与三次」


「はい」


「達者でおれ」


それだけ言った。


老人は、地面に額をつけた。


船が出るまで、そのままだった。


---


同日 響灘 洋上


船は、五艘で出た。


わたしは三艘目の、艫に近いところに座らされた。縄は掛けられなかった。海の上で逃げる者はいない。


板の隙間から水が上がってきて、袴が濡れた。冷たかった。


島門が、遠ざかっていった。


丘の上に、焼けた櫓の骨が見えた。


その下の斜面に、四日前に掘った穴が三つ並んでいる。父と、屋敷の者たちが入っている。


見えなくなるまで、わたしは見ていた。


見えなくなってから、わたしは膝を抱えた。


——数えよう。


そう思って、数えるものが何もないことに気づいた。


帳面は焼けた。三年ぶんの記録は、座敷と一緒に燃えた。潮の高さも、風の向きも、船の数も、荷の量も、家の数も、全部。


残っているのは頭の中だけで、それは誰にも見せられない。


そして、いま分かった。


見せられたところで、何も変わらなかった。


升の細工を見つけた。芦屋の内応を掴んだ。河口の砂を知っていた。香月が転ぶと言った。八人が抜ければ湊が空になると言った。


一つも外れなかった。


そして父は死に、兄は死に、湊は焼け、わたしはいま船の底に座っている。


——知っていることは、何の役にも立たない。


そうじゃない。


役に立たないのではない。


わたしが持っているのは、起きることを先に見る目であって、起きることを変える手ではなかった。


見る目だけを持って生まれ直したのだ。


それは、たぶん、いちばん残酷な持ちものだった。


---


同日 夕 博多湾


日が傾いてきたころ、船の向きが変わった。


北から、南西へ。


海の色が変わった。響灘の鉛色から、もう少し明るい色になった。志賀島らしい影が、右手に見えた。


前を行く船の男が、艫に立って何か叫んだ。


「博多じゃ」


近くの男が言った。


博多。


母の生まれた町。宗徳のいる町。打掛の染みを直してくれた職人がいる町。


一度も行ったことがなかった。


行くことになるとは思っていた。嫁ぐ前に、母の実家へ挨拶に行くはずだった。三月の吉日の、その前に。


そのときは、打掛を着ていくはずだった。


わたしは、袴の膝を握った。


濡れて、冷たくて、指がうまく曲がらなかった。


船が、湾に入っていく。


夕方の光の中で、いくつもの帆が立っていた。この海に、こんなに船がいるのかと思った。島門の三百艘が、ここでは一日ぶんかもしれなかった。


その帆のあいだを縫って、船は岸へ寄っていく。


岸には、家が並んでいた。


その向こうに、見たことのない形の屋根がいくつか見えた。


反りが違う。


日本の屋根ではなかった。

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