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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第十話 唐房

応永二十二年(一四一五)四月 筑前国 博多


博多の匂いは、島門とまるで違った。


島門は、潮と、魚のはらわたと、泥の匂いだった。


博多は、それに人の匂いが混じっていた。汗と、油と、饐えた飯と、家畜と、香。特に香が強かった。線香とも違う、もっと甘くて重い匂いが、路地の奥から流れてくる。


わたしたちは、湊から歩かされた。


七人だった。船を降りるとき、女は四人になっていた。子どもが三人。誰がどこへ行ったのか、教えてもらえなかった。


道は石が敷いてあった。


島門には石の道などなかった。歩くと足の裏に硬さが伝わってきて、それが妙に落ち着かなかった。


やがて、屋根の反りが変わった。


船から見えたものだ。日本の屋根ではない。棟の端が持ち上がって、瓦が幾重にも重なっている。壁は白く塗ってあった。


門の脇に、石で彫った獣がいた。犬に似ているが、犬ではない。


唐房だ。


明の人たちが住む町だと、聞いたことがあった。宗徳が言っていた。塩の値の話をしたときに、博多には唐人の町があって、そこを通らねば海の向こうの物は入らない、と。


宗徳。


この町の、どこかにいる。


わたしは歩きながら、路地の奥を見た。人がいた。荷を担ぐ男。桶を洗う女。走る子ども。


誰も、こちらを見なかった。


見て、すぐに目をそらす者はいた。そういう者のほうが多かった。


繋がれた人間が歩いていくのは、この町では珍しいことではないのだ。


---


同日 唐房・陳家


陳文興は、五十を過ぎているように見えた。


丸い顔で、髭を短く整えている。着ているものは絹だった。手が白い。荷を担いだことのない手だ。


そして、驚くほど日本語がうまかった。


「遠いところを、ようお越しになりました」


そう言った。


わたしたち七人が土間に立たされているのに、そういう言い方をした。


「お疲れでしょう。水を差し上げます」


本当に、水が出た。


椀に汲んだ水が、一人ずつに配られた。子どもが飲んで咽せた。誰も叱らなかった。


優しい。そう思って、すぐに打ち消した。


優しいのではない。


弱ったものは値が下がる。船に乗せる前に、水を飲ませておいたほうがいい。それだけのことだ。


わたしは水を飲んだ。二日ぶりの真水だった。喉が痛いくらい冷たかった。


「では、順に」


陳文興は、そう言った。


---


一人ずつ、前に呼ばれた。


わたしは四番目だった。


「お名前は」


「……麻生千代と申します」


「アソウ、チヨ」


陳文興は、繰り返した。それから、脇に控えた若い男に何か言った。明の言葉だった。若い男が、紙に書きつけた。


「お嬢さん。手を、見せてくださいますか」


わたしは両手を出した。


陳文興は、わたしの手を取った。


冷たい手だった。指の腹で、わたしの掌をなぞる。それから指を一本ずつ調べた。関節を曲げさせ、爪を見た。


「筆だこがございますね」


「……はい」


「右の中指。長く書いておられた」


「はい」


「よろしい」


陳文興は、手を離した。


「口を開けてください」


わたしは口を開けた。


顎に指を掛けられて、上を向かされた。歯を数えられた。


奥のほうまで見られた。


数えられている。


歯の数。手のたこ。背丈。肌の色。目の白いところの濁り。この人はいま、わたしを数字にしている。


わたしがずっとやってきたことだ。


荷を検めて、目方を書いて、去年と比べて、狂いを見つける。三年やった。毎日やった。


いま、わたしが検められている。


「歯がお揃いですね。よろしい」


陳文興は、手を離した。


「では、少しお尋ねします」


若い男が、机を運んできた。硯と、筆と、紙。


「字をお書きになれると伺いました」


「……はい」


「何かお書きください。何でも結構です」


わたしは筆を取った。


指が震えていた。二日、何も持っていなかった。筆の軸が、思ったより細く感じた。


何を書けばいいのか、分からなかった。


しばらく紙を見ていた。


それから、こう書いた。


 九月十一日 申の刻 三艘


三年前の、最初の一行だった。


なぜそれを書いたのか、自分でも分からなかった。


陳文興は、紙を覗き込んだ。


しばらく、黙って見ていた。


「これは、船の帳ですね」


「はい」


「日と、刻限と、数」


「はい」


「なぜ、刻限を書くのです」


わたしは、顔を上げた。


訊いた。この人はいま、なぜと訊いた。


「潮が、刻限で変わりますゆえ」


「ほう」


「同じ日でも、朝と夕では入れる船が違いまする。刻限を書いておかねば、比べられませぬ」


陳文興は、紙から目を離さなかった。


それから、言った。


「三十貫」


若い男が、書きつけた。


わたしは、そこで初めて理解した。


いまのは、問答ではなかった。


値付けだった。


---


その日の夕方、陳文興がわたしを呼んだ。


奥の部屋だった。壁に掛け物があって、見たことのない字が書いてある。床が板ではなく、磨いた石だった。


「お嬢さん。一つ、お願いがあれば聞きましょう」


「……」


「明日、船が出ます。日本のものは、たいてい持っていけません。何か言い残すことがあれば」


わたしは、膝をついた。


「文を、出していただけませぬか」


「どちらへ」


「この町に、宗徳という商人がおります。塩と麻布を扱うております。わたくしの母の弟にあたります」


陳文興の眉が、わずかに動いた。


「ソウトク殿は、存じております」


心臓が、鳴った。


「お顔も知っております。何度か商いをいたしました」


「では」


「文は、出しましょう」


出す、と言った。


「ただし」


陳文興は、そこで言葉を切った。


「船は明日の朝に出ます。潮が待ってくれませんので」


「……」


「文が今宵のうちにソウトク殿へ届き、殿がここへ駆けつけられれば、それは間に合うたということです。間に合えば、間に合います。間に合わねば、それまでです」


わたしは、頭を下げた。


「お願い申し上げます」


陳文興は、若い男を呼んだ。明の言葉で何か言い、若い男が出ていった。


本当に出したのかどうか、わたしには分からなかった。


分からないまま、わたしは礼を言った。


---


同夜 唐房


眠れなかった。


土間に筵を敷いて、七人が寝かされていた。子どもが一人、ずっと泣いていた。誰も慰めなかった。慰めても仕方がないと、みんな知っていた。


わたしは天井を見ていた。


板ではなく、瓦だった。梁の組み方が日本と違う。


外で、犬が鳴いていた。それから、遠くで人の声。この町は夜になっても静かにならない。


そして、灯があった。


路地に一つ、門の脇に一つ。夜通し点けてある。油を惜しまない町なのだ。


その明かりが、板戸の隙間から入ってきていた。


わたしは、目を閉じた。


明るい部屋。


夜通し止まない、低い唸り。図面と、書きかけの紙の束。指が乾いて、めくるたびに音がした。


窓の外は、真っ暗だった。あの明るさは、あの部屋だけのものだった。唸っていたのは、明かりを作っている機械だ。あれが止まれば、部屋も、村も、いっぺんに闇になる。だから夜通し回していた。


誰かが、遅いですよ、と言った。


顔は、やっぱり思い出せない。


そのあとが、切れている。


——あの夜、わたしは死んだ。


どこかで死んで、気がついたら、この体の中にいた。


十一年ぶん、この体の千代として生きた。父と兄がいて、湊があって、潮があった。


それが、全部なくなった。


三年かけて数を作った。一つも外れなかった。一つも間に合わなかった。


そして、いまここにいる。


明日、船に乗せられて、海を渡る。


死ぬかもしれない。


船で死ぬ者がいることは、聞いていた。水が足りなくなる。病が出る。弱ったものは投げられる、という話も聞いた。


膝を抱えた。


寝間着ではない、着たきりの小袖の下で、心臓が鳴っていた。速かった。


怖かった。


前の生でも、そうだった。夜になると、これが速くなった。


いやだ。


わたしは、目を開けた。


天井の瓦を見た。


いやだ。もう一度、そう思った。


一度死んだ。それがどういうものだったのかは覚えていない。覚えていないのに、二度と味わいたくないということだけは、体が知っている。


わたしは、声に出さずに、決めた。


——今度は、死なぬ。


それだけだった。


そのあとに、どうやって、という言葉が続かなかった。


続かなくてよかった。


いま決めたのは、そこまでだ。


---


翌朝 唐房・船着き場


朝、船に積まれる前に、荷の検めがあった。


陳文興が自ら出てきて、若い男に読み上げさせていた。


「布、二十四。壺、十六。……」


わたしは、七人の列の四番目に立っていた。


聞くともなしに、聞いていた。


聞いてしまうのだ。三年やった癖は、抜けない。


「水甕、九」


九。指が、動いた。


袖の中で、自然に数えていた。


船に乗るのは、こちらの七人と、荷役の男が幾人か。それに水手。昨日、船着き場で見た船の大きさなら、水手は二十を下らない。


三十人近い。


海を渡るのに、幾日かかるか。


わたしは知らない。前の生の識にも、この生の識にもない。


でも、宗徳が言っていた。博多から明の湊まで、風が良ければ十日ばかり。悪ければ、その倍。


三十人が、二十日。


甕一つに、どれだけ入るか。昨日、水を配られた甕を見た。あの大きさなら、一人が一日に飲む分は、とても賄えない。


——足りない。


背中に、汗が伝った。


もう一度数えた。何度数えても、足りなかった。


雨を溜めるのだろうか。それも当てにはできない。


余分を積んでいないのだ。


あるいは、こう見込んでいるのかもしれない。


十日で着く。着けば足りる。


着かなければ、減った分だけ、水は足りることになる。


わたしは、袖の中で拳を握った。


言うべきだ。


言えば、水甕が増えるかもしれない。増えれば、生きて着けるかもしれない。


でも、言えば、どうなる。


生意気な娘だと思われる。荷が口を利いたと思われる。値が下がるかもしれない。


そして何より、証がない。わたしは船の大きさを正確に知らない。水手の数も見ていない。日数も宗徳から聞いただけだ。


証のない疑いを、人に告げてはならない。


それは告げ口という。


父の声が、頭の中でした。


わたしは、口を閉じた。


閉じて、そのまま立っていた。


三年間、ずっとそうしてきた。


考えたことの十分の一も言わなかった。言っても届かないと知っていたから、言わなかった。


そして。


父が死んだ。


兄が死んだ。


湊が焼けた。


黙っていた。


わたしは、いつも黙っていた。


言えば叱られるから。証がないから。おなごが口を出すものではないから。子どもの言うことだから。


黙って、数だけ作って、それを持っていって、それでも駄目で、そのたびに引いた。


引いて、引いて、引き続けて、いまここに立っている。


荷として。


荷は、黙っている。


黙っているから、荷なのだ。


黙っている者に、水は配られない。減らす側に数えられるだけだ。


「布、三十。……」


若い男の声が続いていた。


——ここで黙ったら。


わたしは、息を吸った。


肺が痛かった。


「——恐れながら」


自分の声が、土間に響いた。


思ったより大きかった。


読み上げが止まった。若い男が振り返った。荷役の男たちが手を止めた。


陳文興が、こちらを見た。


七人の列の、四番目。


わたしは、膝をつかなかった。


膝をつけば、頭が下がる。頭が下がれば、声が届かない。


「水が、足りませぬ」


長い沈黙があった。


誰も動かなかった。


陳文興は、わたしを見ていた。


昨日、手を取って、歯を数えた目とは、違う目だった。


「……もう一度、仰ってくださいますか」


「水甕が九では、足りませぬ」


わたしは言った。


「乗る者が三十として、十日でぎりぎり。二十日は保ちませぬ」


陳文興は、しばらく黙っていた。


それから、若い男に何か言った。


若い男が、走っていった。


戻ってくるまで、誰も何も言わなかった。潮の音だけがしていた。


やがて若い男が戻ってきて、陳文興に何か告げた。


陳文興は、頷いた。


そして、こちらを向いた。


「水甕を、四つ足します」


立っているのが、急に難しくなった。


「お嬢さん」


陳文興が言った。


「一つ、お尋ねしてもよろしいですか」


「……はい」


「なぜ、いま仰いました」


わたしは、答えられなかった。


昨日から今朝まで、この人はわたしを検め、値をつけ、紙に書きつけた。そのあいだ、わたしは一言も口を利かなかった。


なぜ、いま。


「昨日、字をお書きになったとき」


陳文興は、続けた。


「あなたは、こちらが訊くまで、何も仰いませんでした。訊けば答える。訊かねば黙っている。そういう方だと思っておりました」


「……」


「何か、変わりましたか」


わたしは、船着き場の向こうを見た。


朝の光の中で、博多の湾が光っていた。帆がいくつも立っている。そのどこかに、宗徳の船があるのかもしれない。


文は、届かなかった。


届いたのかどうかも、分からない。


「陳殿」


「はい」


「黙っておりますと」


わたしは言った。


「荷にござります」


陳文興は、わたしを見ていた。


長いあいだ、見ていた。


それから、初めて笑った。


昨日の、丁寧な笑いではなかった。もっと素の、面白いものを見つけた者の笑い方だった。


叔父が、庭を見ながら見せたのと同じ笑いだった。


「なるほど」


陳文興は、そう言った。


「船の上では、水の割り振りをする者が要ります」


「……」


「お嬢さん。やってみますか」


---


船は、その日の朝の潮で出た。


わたしは、荷のあいだに座らされた。縄はなかった。


博多が遠ざかっていく。石の道も、反った屋根も、獣の石像も、見えなくなった。


志賀島が、右手を過ぎていった。


その向こうに、うっすらと陸が見えた。


筑前の陸だ。あの陸のずっと東に、遠賀川がある。河口に砂が寄る、小さな湊がある。丘があって、焼けた櫓の骨が立っていて、その下に三つの穴が並んでいる。


見えるはずがない。遠すぎる。


それでも、わたしはそちらを見ていた。


この家が、ここで終わらないように。


三年前、あの石段で帳面を開いたとき、そう思った。それが、あのときのわたしの、たった一つの望みだった。書いておけば、あとで、間に合ったかどうかを確かめられる。そう思って、書き続けた。


終わった。


終わらせないために作った数は、一つも外れなかった。一つも間に合わなかった。父は死に、兄は死に、湊は焼けた。たった一つの望みは、叶わなかった。


それでも、わたしは、いまも数えている。


膝の上で、指を動かした。


三十四人。水甕十三。一日に三合として。


数えていた。


数えるほかに、できることがなかった。


でも、今度は違った。


数えたら、言う。


証がなくても、叱られても、生意気だと思われても、言う。


言って、駄目なら、次の言い方を考える。


それを覚えるのに、三年かかった。


三年と、父と、兄と、湊一つ。


高い。高すぎる。こんな値のついた学びは、二度と要らない。


陸が、水平線の下に沈んだ。


海の色が変わった。


その先に何があるのかを、わたしはまだ知らない。


——第一部 完


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