第八話 島門落城
応永二十一年(一四一四)十二月 筑前国遠賀郡 島門
兄の顔は、見せてもらえなかった。
莚を上げようとしたら、与三次に手首を掴まれた。老人の手は思ったより強くて、指の跡が半日残った。
「姫様。おやめなされ」
「兄上にござります」
「だからでござる」
それだけ言って、与三次はわたしを離さなかった。
だから、わたしが見たのは足だけだった。
草鞋を履いたままの、汚れた足の裏。爪が割れていた。かかとにひび。武家の男の足なのに、下男のような足をしていた。
芦屋から島門まで、舟で半日。
その半日のあいだ、この足は舟の底で揺れていた。
**芦屋の湊で見つかった、と父は言った。**
夜のうちに何者かに斬られ、朝、湊の杭に引っかかっていたのだという。芦屋の御屋形は「賊の仕業であろう」と言った。叔父は、その場にいなかった。用があって門司へ渡っていた、と伝えられた。
門司。
わたしはその一言だけを、頭の中で何度も転がした。
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**応永二十二年(一四一五)二月 島門**
年が明けて、応永二十二年になった。
婚儀は延びた。喪中であるから、というのが表向きの理由だった。
二月に、香月から使いが来た。
縁組を白紙に戻したいという申し出だった。理由は書かれていなかった。書かれていないことが、理由だった。
なぜ、といまさら考えても詮無いことだった。それでも、考えずにはいられなかった。
香月の若い衆は、大内方の役人と、あまりに早く、あまりに堂々と付き合いはじめていた。門司で飯を食うところを、湊の人足にまで見られるほどに。
早すぎたのだ、とわたしは思った。
芦屋が大内に傾いていることは、まだ誰にも知られてはならないことだった。香月が先に、あからさまに大内へ寄っていけば、島門と香月の縁組そのものが、芦屋の傾きを人に勘繰らせる種になる。
だから、切った。
罠として使えなくなったから切ったのか、それとも、罠を使うまでもなく、島門を潰す道が別に見えたからなのか。
そこまでは、わたしには分からなかった。
父は、承知の返書を出した。
わたしは、納戸から打掛の箱を出して、開けもせずに元へ戻した。
その日、少し息がしやすくなった。
そう感じた自分に気づいて、しばらく動けなかった。兄が死んで、その死のおかげで嫁がずに済んで、それを楽だと思っている。
わたしは、そういう人間だった。
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そのころから、湊の家が減りはじめた。
最初に気づいたのは、正月の終わりだった。関の帳面を付けていて、荷揚げの人足の数が合わない。前は十四人いた。九人になっていた。
二月には七人になった。
三月には五人になった。
「与三次。人が減っておる」
「減っておりますな」
「どこへ行った」
「さて」
老人は、それしか言わなかった。
わたしは湊を歩いた。
戸を閉ざした家が増えていた。中を覗くと、家財が持ち出されている。鍋も、筵も、板戸まで外して持っていった家があった。
見放されたんだ。
弥太郎様が死んだ。婚儀は流れた。芦屋は米を売って肥えている。この家は終わる。誰の目にも、そう見える。
だから逃げる。当たり前のことだ。
わたしなら逃げる。前の生でも、そういう村をいくつも見た。水が涸れれば、人は黙って出ていく。誰も別れの挨拶などしない。ある朝、家が空になっている。
数えておこう。
わたしは帳面に、湊の家の数を書きはじめた。
三月の末で、四十二軒あったものが十九軒になっていた。
書いて、それを見た。
その数が何を意味するのかを、わたしは分かったつもりでいた。
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**同年四月 島門**
四月に入って、父がわたしを呼んだ。
座敷に、父と与三次がいた。
「千代」
「はい」
「明日から、納戸で寝よ」
「……納戸、でござりますか」
「さよも一緒じゃ。夜具を運ばせる」
わたしは、父の顔を見た。
痩せていた。冬のあいだじゅう、この人はほとんど食べていない。頬骨が出て、目だけが大きく見えた。
「父上。何かござりましたか」
「与三次」
父が促した。
老人が、口を開いた。
「豊前に、兵が集まっております」
「……」
「門司から南へ下るのではなく、西へ寄せておるとのことにござります」
西。
遠賀は、豊前の西にある。
「白水衆からの知らせにござります」
わたしは、膝の上で手を握った。
「いつ」
「早ければ、旬日のうちかと」
心臓が速くなった。速くなったのに、頭のほうは妙に冷えていた。
数えろ。
兵は七人。屋敷の下男が四人。湊の男は五人。合わせて十六人。そのうち弓を引けるのは五人。
籠城できる構えではない。板塀と櫓が一つあるだけの、屋敷ですらないものだ。
逃げるしかない。
「父上」
「なんじゃ」
「船で、お逃げなされませ」
父は、何も言わなかった。
「湊に舟は三艘ござります。屋敷の者と、湊に残った者を乗せれば足ります。潮を見て、夜のうちに出れば——」
「千代」
「博多へ回れば、宗徳殿が」
「千代」
父が、遮った。
「船は、出せぬ」
「……なぜでござりますか」
「河口に、砂が寄っておる」
足の裏から、力が抜けた。
「この春は、雨が少なかった。川の水が細うて、砂が押し流されておらぬ。荷を積んだ舟は、河口で腹をこする」
指の先から、血の気が引いた。
知っていた。
三年前から、知っていた。
三年前、初めて潮を書きつけた夜に書いた。潮が満ちて、河口の砂を水が越えていく音を聞きながら、この砂はいつか厄介なことになる、と思った。書いて、爪で線を引いた。
去年も一昨年も、砂の寄り方を書き続けた。何月にどれだけ寄って、雨のあとにどれだけ流れたか、全部書いた。
書いて、それだけだった。
砂を浚うことも、船を軽くする段取りを組むことも、別の逃げ道を用意することも、何ひとつしていない。
書けば、残る。残れば、比べられる。比べられれば、狂いが見える。
見えたところで、動かなければ、何も変わらない。
「父上」
声が、掠れた。
「申し訳ござりませぬ」
父は、しばらくわたしを見ていた。
それから、こう言った。
「千代。盛久は、わしが筋を選ぶ男じゃと申したそうじゃな」
「……はい」
「お前も、そう思うておるか」
わたしは、答えられなかった。
思っていた。ずっと思っていた。この人は損得より筋を取る。取るから、家が傾く。そう思って、それでも言えずにいた。
父は、わたしの沈黙を見て、少しだけ笑った。
笑った顔を、わたしは初めて見た気がした。
「筋というものはな、千代」
「はい」
「選ぶものではない」
「……」
「ほかに選べるものが無いときに、そう呼ぶだけじゃ」
炭のはぜる音もしなかった。四月で、火鉢はもう片づけてあった。
「下がって、支度をせよ」
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四日目の夜だった。
犬が鳴いた。
湊のほうで一匹鳴いて、それが屋敷の下まで上がってきた。二匹になり、三匹になり、それから、ぱたりと止んだ。
止んだのが、いちばん怖かった。
さよが、わたしの手を握った。
納戸は真っ暗だった。四方が板で、明かり取りの穴が一つだけある。米櫃と、古い漁具と、油の甕。かびと魚油の匂いがした。夜具を敷いても、床板の冷たさが背中に来た。
外で、板の割れる音がした。
一つ。それから、続けざまに三つ。
門ではなかった。門はもっと遠い。もっと近くで、もっと軽い音だった。
——搦手だ。
裏の木戸だ。屋敷の北側、崖に面したほうにある小さな戸で、普段は閂がかけてある。
閂は、内から掛ける。
外からは開かない。
——誰かが、内から開けた。
さよの手が、震えていた。わたしの手も震えていた。どちらが震えているのか分からなかった。
足音が入ってきた。
草鞋の音。板敷きを走る音。一人ではない。十人はいる。もっといるかもしれない。
誰かが叫んだ。言葉は聞き取れなかった。
七人。わたしは、暗闇の中で数えていた。
こちらは弓を引ける者が五人。相手は少なくとも十。
もう終わっている。
始まる前に、終わっている。
弦の音がした。一度だけ。
短い悲鳴。それから、何か重いものが倒れる音。
そのあとは、音が増えた。
木が割れる音。金物のぶつかる音。誰かが誰かを呼ぶ声。障子が倒れる音。
一つ一つは分かるのに、それが全部でどういう景色になっているのか、まるで見えなかった。
見えないほうが、はるかに怖かった。
「姫様」
さよが、耳元で言った。
「息、してくださいまし」
わたしは、そのとき初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
吸ったら、油の匂いで咽せそうになった。
咽せてはいけない。音を立ててはいけない。
袖を口に押し当てて、肩だけで息をした。
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どれくらい経ったのか、分からない。
そのうち、音が変わった。
叫び声が減って、かわりに、低い声で何かを言い合う音が増えた。それから、物を引きずる音。荷を運ぶ音だ。
乱取りだ。
家財を運び出している。米も、鍋も、布も。持てるものは全部。
そのうち、匂いが変わった。
煙だった。
板の隙間から入ってくる。最初は薪の匂いに似ていたけれど、すぐに違うものが混じった。生木の焦げる匂い。それから、もっと嫌な匂い。
さよが、わたしの袖を掴んだ。
「姫様」
「……」
「焼かれよります」
納戸は、屋敷の東の隅にある。土蔵ではない。板の小屋だ。火が回れば、ここも焼ける。
でも、出れば見つかる。
わたしは、暗闇の中で数えた。
火が屋敷の西から出たとすると、東の納戸まで届くのに、どれくらいかかるか。風は北から。西から東へは、流れにくい。
保つ。たぶん、保つ。
保たなかったら、そのときだ。
そう思ったとき、自分の声が頭の中で聞こえた。
「そのときは、そのときじゃ」
兄が、あの夜、廊下でそう言った。
わたしは、それを愚かだと思った。数えられない者の言うことだと思った。
いま、わたしも同じことを言っている。
数えて、数えて、最後に残るのはそれだけだった。
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朝になった。
明かり取りの穴が、灰色になった。それから白くなった。
音は、しなくなっていた。
さよが動こうとしたのを、わたしは止めた。
もう半刻待った。それから、もう半刻。
昼近くになって、外で人の声がした。
「姫様」
与三次の声だった。
さよが泣きだした。わたしは、動けなかった。
戸が開いた。
光が入ってきて、目が痛かった。
与三次が立っていた。片方の袖がなかった。腕に布を巻いて、それが赤黒く滲んでいた。顔の半分が煤で黒かった。
「……与三次」
「ご無事で」
老人は、そう言って、その場に膝をついた。
「父上は」
与三次は、答えなかった。
「与三次。父上は」
「……櫓の下に」
わたしは、外へ出ようとした。
与三次が、腕を伸ばして止めた。片方しか使えない腕で。
「なりませぬ」
「離せ」
「なりませぬ」
「離せと申しておる」
「姫様」
老人は、言った。
「弥太郎様のときと、同じにござります」
わたしは、そこで動けなくなった。
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屋敷は、半分焼けていた。
座敷と、台所と、廊下。父の座敷は柱だけになっていた。あの脇息も、火鉢も、文机も、何も残っていなかった。
門は開いたままだった。
板塀は三か所で破られていた。搦手の木戸は、蝶番ごと外れて地面に落ちていた。
閂は、切られていなかった。
外されていた。
わたしは、それを長いあいだ見ていた。
「与三次」
「はい」
「誰が、外した」
与三次は、破れた木戸を見ていた。
「屋敷の者か」
「……」
「与三次」
「わしには、分かりませぬ」
三度目だ。
この老人が「分かりませぬ」と言うのを聞くのは、三度目だった。
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湊へ下りた。
十九軒あった家のうち、焼けたのは六軒だった。
残りは、焼けていなかった。
焼くものが、何もなかったからだ。
わたしは、空き家の一つに入った。板戸が外れていて、中はがらんとしていた。囲炉裏の灰が冷えていた。ずいぶん前から火が入っていない。
「与三次」
「はい」
「この家の者は、いつ出た」
「……二月の初めかと」
「どこへ」
「博多でござります」
わたしは、老人を見た。
「博多」
「はい」
「なぜ、博多と分かる」
与三次は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「殿が、お書きになりましたゆえ」
え、と思った。
「殿は、十二月から、湊の者に暇を出しておられました。一軒ずつ、夜に呼んで、博多の宗徳殿を頼れと。文を持たせて」
耳が、遠くなった。
「四十二軒のうち、二十三軒までは出しました。残りは、行く先のない者と、老いた者にござります」
「……なぜ」
声が、うまく出なかった。
「なぜ、わたくしに教えてくださらなかった」
「殿は、こう仰せられました」
与三次は、燃えた屋敷のほうを見ていた。
「千代に言えば、算えはじめる。算えれば、間に合うか間に合わぬかが分かってしまう、と」
わたしは、囲炉裏の縁に手をついた。
冷たい灰の匂いがした。
——見放されたんじゃ、なかった。
家が減っていくのを、わたしは三月かけて数えた。四十二軒が十九軒になったのを、きれいに書きつけた。
書いて、それを「この家は終わる」という数として読んだ。
同じ数を、父は「二十三軒は逃がした」という数として作っていた。
十二月から。兄が死んだ月から。
わたしが二十二艘の話を持っていって、「わしにはどうにもならぬ」と言われた、あの月から。
あの人は、その夜からずっと、できることをしていた。
わたしには、何も言わずに。
数えるな、という、たったそれだけの理由で。
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三日かけて、骸を埋めた。
穴を掘ったのは与三次と、下男が二人と、湊に残っていた老人が三人。わたしとさよは土を運んだ。
父の骸を、わたしは見なかった。
見せてもらえなかったのではない。見なかった。
見たら、たぶん、そのあと何もできなくなると思った。
莚の上から手を置いた。厚い莚ごしでも、下にあるものが冷たいのは分かった。
「父上」
そう呼んだ。
そのあとに続ける言葉が、何もなかった。
申し訳ないとも、恨みますとも、ありがとうとも、どれも違った。
わたしはただ、こう思っていた。
——わたしが数えたことは、全部当たっていた。
升のことも。芦屋のことも。八人が抜ければ湊が空になることも。香月が転ぶことも。二十二艘のことも。河口の砂のことも。
一つも外れなかった。
一つも、間に合わなかった。
---
四日目の朝、海に船が来た。
わたしは丘の上に立っていた。焼けた櫓の残骸に凭れて、響灘を見ていた。
四月の海は、白っぽく凪いでいた。
北から、船が入ってくる。
一艘ではなかった。三艘。次いで、二艘。
帆に印が出ていた。
波を三つ、重ねたような形。
「与三次」
「……はい」
「白水衆じゃ」
「さようで」
「約定がある」
わたしは言った。
言いながら、声が自分のものではないように聞こえた。
「島門の印を掲げた船は襲わぬ。他の賊が出れば追う。そういう約定を結んでおる」
「姫様」
「五つの約定にござります。兄上が、三日かけて結んでこられた」
「姫様」
与三次が、わたしの袖を引いた。
「船が、五艘にござります」
わたしは、海を見た。
賊を追いに来た船が、五艘も要るだろうか。
追う相手は、もういない。大内方の兵は昨日のうちに引き揚げている。
では、五艘で何をしに来るのか。
荷を積みに来たのだ。
焼け残った家は十三軒。米はもう持っていかれた。鍋も、布も。
積むものは、あと一つしかない。
わたしは、五つ目の約定を思い出した。
白水衆は、島門の者を取らぬこと。
三日戻らなかった兄が、日に灼けた顔で笑って、「五つとも通ったぞ」と言った。
そして、五つ目のところで、少しだけ言葉を止めた。
わたしは、それを追及しなかった。
四つ通れば船が動くと思ったから。
そうか。
丘の上で、わたしは膝が笑うのを感じた。
一つだけ、外れていた。
いま、そのことに気がついた。




