第七話 内応
応永二十一年(一四一四)十一月 筑前国遠賀郡 島門
十一月に入って、湊に鯖が上がりはじめた。
冬の魚だ。脂が乗って、腹が銀色に光る。さよの父が持ってきたのを、屋敷の台所で捌いていた。血の匂いに混じって、潮の匂いがした。
婚儀は、春に決まっていた。
三月の吉日。打掛の直しは博多から戻ってきていて、桐の箱に入って納戸に置いてある。一度だけ袖を通した。丈が長すぎて、裾を踏んだ。
それきり、開けていない。
わたしは毎日、番屋へ通っていた。関の帳面を付けるためだ。嫁ぐまでは付けようと決めていたし、付けているあいだは、他のことを考えずに済んだ。
その日も、与三次と荷を検めていた。
「与三次」
「はい」
「近ごろ、北へ上る船が多い」
「多うござりますな」
「どこへ行っておる」
老人は、荷札を検める手を止めなかった。
「門司でしょう」
門司。
指が、止まった。
門司は豊前の入口だ。関門の瀬戸を渡れば、そこはもう周防になる。
そして周防は、大内の膝下だった。
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その日から、わたしは北へ上る船を数えはじめた。
数えるのは簡単だった。島門の湊には白水衆の見張りが立つようになっている。約定の四つ目——他の賊が出れば追い払う——を果たすために、彼らは響灘の入口に船を置いている。
つまり、どの船がどこへ行ったか、彼らは全部見ている。
「与三次。白水衆に訊いてくれぬか」
「何をでござります」
「この一月、芦屋から北へ上った船が何艘あったか。積み荷は何であったか」
老人は、そこで初めて手を止めた。
「……姫様」
「訊いてくれぬか」
「訊けば、あちらも姫様が何を気にしておるか察しまする」
「察してもよい」
与三次は、しばらくわたしを見ていた。
それから、荷札を置いた。
「……相分かりました」
三日後、答えが来た。
芦屋から北へ上った船は、十一月の一月で二十二艘。
積み荷は、ほとんどが米だった。
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わたしは、自分の部屋で帳面を並べた。
三年ぶんある。応永十九年の九月から、いまに至るまで。
去年の十一月、島門を通って北へ上った船は、四艘。積み荷は麻布と、干魚と、荏胡麻。
米は、一艘もなかった。
北へ米を運ぶ理由がないからだ。米は南から北へは動かない。遠賀の米は、遠賀の奥か、博多へ流れる。門司の先は山ばかりで、田がない。田がないところに米を持っていくのは、そこに人が集まっているときだけだ。
兵だ。
わたしは筆を置いた。
大内が、豊前に兵を置いている。冬を越すのに米が要る。だから買っている。
そして、売っている者がいる。
芦屋が。
麻生の宗家が。
指の先が冷えた。今度は寒さのせいではなかった。
待って。落ち着いて。
米を売るのは商いだ。商いをしたからといって、味方だということにはならない。銭を出す相手に売る。それだけのことかもしれない。
そう思おうとして、思えなかった。
理由が二つあった。
一つ。芦屋の御屋形は、去年の春、少弐から兵を出せと言われて動かなかった。動かずに様子を見た。
二つ。二十二艘は、多すぎる。
商いなら、値を見て少しずつ売る。値が上がるのを待つ。一月で二十二艘というのは、商いの動きじゃない。約束の動きだ。約束があるから、まとめて運ぶ。
——通じている。
わたしは帳面を閉じた。
閉じて、しばらく座っていた。
障子の外で、風が鳴っていた。
もう一つ、思い出したことがあった。
半年前、湊の人足が話していたことだ。香月の若い衆が門司まで行って、大内方の役人と飯を食っていた、と。
香月。わたしの嫁ぎ先。
叔父が持ってきた縁組。
繋がってる。
芦屋が大内に米を売る。香月が大内方に近づく。そして島門は、香月と縁を結ばされる。
そのあと、少弐方が敗れたとき。
芦屋は「島門は敵方と縁づいた家である」と言える。言って、切る。名分が立つ。
自分の手は汚さず、義理だけは果たしたことにする。二十日のうちに豊前へ出ろと言われたときと、同じ形だった。あのときは兵で、今度は縁組。使う道具が違うだけで、やっていることは一つだった。
去年の冬に叔父が言ったことを、そのまま思い出した。
「兄上は筋を選ばれる。わしは家を選ぶ」
あの人は、嘘をついていなかった。一度も。
最初から、全部言っていた。
そこまで考えて、わたしは、もう一つのことに突き当たった。
待って。
芦屋自身が、大内に米を売っている。芦屋自身が、既に大内へ傾いている。
だとしたら、香月が大内方に転んだとして、それは本当に「敵方」なのだろうか。
少弐方が敗れれば、勝つのは大内だ。香月は、勝つほうに縁づいていたことになる。芦屋もまた、同じ側に立っていたことになる。
——切る名分が、立たない。
島門が香月と縁を結んでいても、それは「敵に通じた家」ではなく、「早くから、正しい側に付いていた家」になってしまう。
叔父の描いた罠は、芦屋自身が最後まで少弐方に留まる前提でしか、罠として働かない。だが、その芦屋自身が、もう傾いている。
ならば、なぜ、いまも縁組は進んでいるのだろう。
その問いに、答えは出なかった。出ないまま、わたしは帳面を閉じた。
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その夜、わたしは父の座敷へ行った。
帳面を三冊、抱えていた。
父は火鉢の前にいた。炭が赤く、時折はぜた。座敷は寒くて、息が白かった。
「父上」
「……千代か」
「お聞き届けいただきたき儀がござります」
父は、わたしの抱えた帳面を見た。
見て、それから、目をそらした。
分かった、と思った。
この人は、わたしが何を言いに来たか、もう察している。
「申せ」
「十一月の一月に、芦屋から北へ上った船が二十二艘にござります。積み荷は、ほとんどが米」
「……」
「去年の同じ月、島門を通って北へ上った船は四艘。米は一艘もござりませぬ。北へ米を運ぶのは、そこに兵がおるときだけにござります」
炭が、はぜた。
「芦屋は、大内方に兵糧を売っておられます」
父は、火箸を握っていた。
握ったまま、動かなかった。
「これは、商いにござりましょうか」
「……」
「一月で二十二艘は、商いの動きではござりませぬ。約束があってのことにござります」
「千代」
「父上」
わたしは膝を進めた。
「芦屋は、大内方と通じておられます」
長い沈黙があった。
火鉢の炭が、ゆっくり白くなっていくのが見えた。
「証は」
父が言った。
「船の数にござります」
「船の数は、証にならぬ」
「なりませぬ。されど——」
「ならぬ、と申した」
父の声は、静かだった。
去年、わたしを叩いたときと同じ静かさだった。
「千代。米を売った。それだけのことじゃ。誰に売ろうと、銭を払う者に売るのが商人じゃ」
「芦屋は商人ではござりませぬ」
「……」
「麻生の宗家にござります」
父の指が、火箸の柄をきつく握った。
「では訊く」
父が言った。
「その二十二艘を、誰が数えた」
「白水衆にござります」
「賊か」
「はい」
「賊の申すことを、証と申すか」
わたしは黙った。
正しい。これも、正しい。海賊の見たものは、どこへ持っていっても証にならない。訴える先もなければ、訴えたところで誰も取り合わない。
「千代」
父が、火箸を火鉢の縁に置いた。
「わしは、盛久を疑わぬ」
「疑うておられぬのではござりませぬ」
「なに」
「疑うのが、お嫌なのでござります」
言ってしまった、と思った瞬間には、もう遅かった。
父が、こちらを見た。
叩かれる、と思った。頬が、去年の痛みを覚えていた。
でも、父は手を上げなかった。
かわりに、こう言った。
「……そうかもしれぬ」
そして、火鉢の炭を見た。
「一族を疑う家に、誰がついて参る。わしはそう言うた。前にも言うた」
「はい」
「その通りじゃと、いまも思うておる」
「はい」
「じゃが、千代」
父は、そこで少し黙った。
「疑うても、どうにもならぬのじゃ」
わたしは、顔を上げた。
「疑うたとして、わしに何ができる。芦屋に問い質すか。問い質して、否と言われたら、どうする。少弐様に訴えるか。訴えて、賊の数えた船の数を証といたすか」
「……」
「この家には、兵が七人しかおらぬ」
炭が、また白くなった。
「千代。お前の申すことは、たいてい当たっておる。去年もそうじゃった。一昨年もそうじゃった」
「父上」
「当たっておっても、わしにはどうにもならぬ」
父は、そこで初めて、疲れた顔をわたしに見せた。
「下がってよい」
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廊下に出て、障子を閉めた。
閉めてから、わたしは動けなくなった。
——負けた。
数を作った。三年ぶんの記録を突き合わせて、白水衆に訊いて、理屈を組んで、持っていった。
そして、父は正しかった。証にならないものは、証にならない。兵が七人しかいない家には、できることが何もない。
全部、正しい。
正しくて、どうにもならない。
じゃあ、わたしは何のために数えたんだろう。
膝が、震えていた。
廊下は暗くて、寒かった。板が足の裏から冷たさを吸い上げてくる。しばらくそこに立っていた。
そのとき、廊下の奥で、板の鳴る音がした。
振り向いた。
兄が、立っていた。
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「……兄上」
「聞いた」
兄はそう言った。
灯を持っていなかった。暗がりで、顔がよく見えない。
「どこから」
「二十二艘のところから」
全部だ。
わたしは、袖の中で手を握った。
「兄上。あれは——」
「千代」
兄が、近づいてきた。
「叔父上が、大内方と通じておるのか」
「……分かりませぬ」
「お前は、そう思うておるのじゃろう」
わたしは答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
兄は、動かなかった。
それから、言った。
「確かめてくる」
え、と思った。
「何を、でござりますか」
「叔父上に訊く」
心臓が、跳ねた。
「兄上。それはなりませぬ」
「なぜじゃ」
「訊けば、こちらが気づいておることを教えることになりまする」
「気づいておると教えて、何が悪い」
兄は、当たり前のことのように言った。
「叔父上は身内じゃ。身内に訊いて、何が悪い」
分かっていない。この人は、疑うということが何なのか分かっていない。疑いを相手に見せるということが、どれだけ危ういことか分かっていない。
「兄上。父上は、疑わぬと仰せられました」
「聞いた」
「では——」
「じゃが、父上は疑うておられる」
わたしは、口を止めた。
「疑うても、どうにもならぬと仰せられた。どうにもならぬから、疑わぬことにしておられる」
兄は、そう言った。
「わしは、そういうのが好かん」
「兄上」
「訊いて、違うと言われたら、それでよい。それで安心できる」
「……もし、そうだと言われたら」
「そのときは、そのときじゃ」
そのときは、そのとき。
さよが言ったのと同じ言葉だった。同じ言葉なのに、まるで違う音に聞こえた。
「兄上。危のうござります」
「なにが」
「叔父上は、兄上が来られた理由をすぐに察されます。察すれば、こちらが気づいたと知られます。知られれば——」
「千代」
兄が、わたしの言葉を遮った。
「お前は、いつもそうじゃな」
「……」
「先の先まで数えて、それで動かんようになる」
暗がりの中で、兄の声だけが聞こえた。
「わしは数えられん。じゃから、動く」
そう言って、兄は行こうとした。
わたしは、袖を掴んだ。
掴んでから、何と言えばいいのか分からなかった。
危ない。行かないでほしい。父上に相談してほしい。せめて、誰かを連れて行ってほしい。
言うべきことは、いくらでもあった。
でも、そのとき、頭の中の別のところが、こう考えていた。
兄上が訊いたときの、叔父上の答え方を見れば、分かる。
否と言うか。怒るか。笑うか。話をそらすか。
どう答えるにせよ、あの人がどう出るかで、こちらの読みが当たっているかどうかが分かる。
いま欲しいのは、それだ。
証が欲しい。父上を動かせる証が。
袖を掴んだ手が、緩んだ。
「……お気をつけて」
わたしは、そう言った。
兄は笑った。暗がりでも、笑ったのが分かった。
「案ずるな。俺がおる」
---
**同年十二月 島門**
兄は、翌朝、舟で芦屋へ渡った。
供は連れなかった。連れて行けば問い詰めに来たと思われる、と言った。
去年の夏、白水衆のところへ行くときにも、兄は同じことを言っていた。三人以上で行けば討ちに来たと思われる、と。あのとき、わたしはそれを「この人は数は読めないのに、そこだけ読めている」と思った。
わたしが、いつか同じことを言うたのを、覚えていたのだろうか。
そうに違いないと、そのときは思っていた。だが、確かめたことは一度もない。もし兄が、誰に教わったのでもなく、自分の頭でそこへ辿り着いていたのだとしたら。
その可能性を、わたしはちゃんと数えていなかった。数えていれば、袖を掴む手にもう少し力が入ったかもしれない。
丘を下りていく背中を、わたしは濡れ縁から見ていた。
十二月の朝で、霜が降りていた。息が白かった。
兄は一度も振り返らなかった。
---
その日、わたしは番屋へ行かなかった。
自分の部屋で、帳面を開いて、閉じて、また開いた。字が頭に入ってこなかった。
夕方になって、さよが来た。
「姫様。お夕餉です」
「いらぬ」
「食べんと、体に障りますばい」
「いらぬと言うておる」
さよは、膳を置いて、そのまま座った。
「……姫様」
「なに」
「弥太郎様は、明日にはお戻りになります」
「そうか」
「芦屋まで、舟で半日ですけん」
「そうじゃな」
さよは、それ以上言わなかった。
わたしは膝を抱えて、壁に凭れていた。
なぜ、止めなかったんだろう。
袖を掴んだ。掴んで、緩めた。
緩めたとき、わたしが考えていたのは、兄の身のことではなかった。
叔父の答え方を見れば分かる。証が手に入る。父上を動かせる。
そう考えていた。
去年の夏と、同じだ。
あのとき、わたしは兄が承知することも、行けば必ずやり遂げることも、全部勘定に入れて説いた。そして湊に船が戻ってきて、父に任された。
うまくいったから、気持ちが悪くなっただけで済んだ。
——今度は。
膝を抱える腕に、力が入った。
「姫様」
「さよ」
「はい」
「わたくしは、兄上を止められた」
「……」
「止められたのに、止めなかった」
さよは、すぐには何も言わなかった。
それから、こう言った。
「弥太郎様は、止めても行かれましたよ」
「そうかもしれぬ」
「そうです」
「じゃが、わたくしは止めなかった」
言ってから、喉が詰まった。
そこから先が、言葉にならなかった。
さよは、何も言わずに、膳を押してよこした。
「食べんと、明日、迎えに出られませんばい」
---
翌日、兄は戻らなかった。
翌々日も、戻らなかった。
三日目の朝、父が舟を出した。
与三次が同乗した。芦屋まで半日。夕方には何か分かる、と言って出ていった。
わたしは湊の石段に座っていた。三段目だった。
潮が引いていた。杭が四本、泥から突き出している。今日は二つ目までしか見えなかった。
数えることは、いくらでもできた。
芦屋まで半日。往復で一日。三日戻らないということは、二日ぶんどこかで止まっているということだ。
止まる理由は三つある。
一つ。芦屋で歓待されて、長居している。
二つ。何かの事情で足止めされている。
三つ。
三つ目を、わたしは数えなかった。
数えれば、そこに行き着くと分かっていたから。
夕方になった。
日が落ちて、干潟が黒くなった。潮が満ちてきて、杭が一本ずつ沈んでいった。
四本目が沈んだころ、北から舟が入ってきた。
一艘だった。
さよが、横で立ち上がった。
わたしは立ち上がれなかった。
舟が、河口を回り込んでくる。
灯りが揺れていた。
灯りの下に、人影が二つ見えた。
父と、与三次。
二人だけだった。
舟の底に、細長いものが横たえられていた。
莚が掛けてあった。




