第六話 縁組
応永二十一年(一四一四)三月 筑前国遠賀郡 島門
叔父は、桜の散る頃に来た。
去年の正月と同じ、急がない足取りで丘を上ってきた。供は三人に減っていた。減っていることのほうが、増えているより気になった。
わたしは濡れ縁で出迎えた。
「千代殿。大きゅうなられた」
「……恐れ入ります」
「幾つになられた」
「十三にござります」
「十三か」
叔父はそれだけ言って、座敷へ通った。
その日の夕方まで、父と叔父は二人で話していた。わたしは襖の外に行かなかった。
行かなかったのは、行儀を覚えたからではない。
去年の正月に襖の外で聞いてしまってから、聞いたことが全部、良くない方向にしか転がらなかったからだ。聞けば知る。知れば動きたくなる。動けば、また誰かが叱られる。
だから座らなかった。
座らなくても、夕餉のあとに呼ばれた。
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「千代」
父の座敷だった。叔父もいた。
「はい」
「縁組の話がある」
ああ。そう思っただけだった。
驚かなかった。十三である。この体は、去年の秋に月のものが来た。武家の娘なら、そろそろそういう話が出る歳だ。この体の千代も知っているし、前の生のわたしも、そういう時代があったことは知っている。
知っていることと、自分の話として聞くのとは、少し違った。
指の先が、冷たくなった。
「香月の家じゃ」
父が言った。
「遠賀の東、底井野の先を領しておる。麻生とは古い付き合いでな。当主の弟に、孫六郎という者がおる。二十四じゃ」
「……」
「悪い話ではない」
わたしは畳を見ていた。
頭が、勝手に動きはじめていた。
香月。東隣。遠賀川の中流。田が多い家だ。関の商いはしていない。だから島門と競合しない。競合しないから、縁を結んでも損はしない。むしろ川の上流を押さえている家と繋がるのは、荷の道を確かめる上でも都合がいい。
待って。わたしは、なにを計算しているんだろう。
「千代殿」
叔父が言った。
「顔を上げられよ」
顔を上げた。
叔父の目は、瞬きが少なかった。去年と同じだった。
「この縁組は、御屋形様のお勧めにござる」
「……」
「香月は、いま少弐方と大内方のあいだで揺れておられる。麻生と縁を結べば、少弐方に留まる目が出る。麻生にとっても、東に味方がおるのは悪うない」
理屈は、通っていた。
通りすぎていた。
「叔父上」
「なんじゃ」
「揺れておられる家に、なぜ島門の娘を出すのでござりますか」
叔父の目が、動いた。
わずかに、面白がる色が出た。
「ほう」
「揺れておられる家を繋ぎとめるなら、宗家の娘を出されるのが筋にござりましょう。島門は、麻生の枝にござります。枝の娘では、香月は繋ぎとめられませぬ」
「千代」
父が制した。
わたしは止まらなかった。
「もし香月が大内方に転ばれたとき、そこに嫁いだ者は敵方の身内になります。麻生宗家にとっては、島門が敵方と縁づいたということになりまする。そのとき、宗家は島門を——」
「千代」
父の声が高くなった。
わたしは口を噤んだ。
叔父は、笑っていた。
昼間の作法としての笑いではなかった。去年の夜、庭を見ながら見せたのと同じ、素の笑いだった。
「兄上。わしは前に申しましたな」
「……」
「この姫は、面白い」
叔父はわたしのほうを向いた。
「千代殿。仰せの通りにござる。何一つ間違うておられぬ」
——え。
「香月が転べば、島門は敵方と縁づいた家になる。そのとき宗家は島門を切る。切る名分ができるゆえ、むしろ切りやすうなる」
叔父は、平然と言った。
「そこまで読んでおられるとは、正直、思わなんだ」
わたしは、何も言えなかった。
反論されると思っていた。「そのようなことにはならぬ」と言われると思っていた。言われたら、次の数を出すつもりだった。
認められるとは、思っていなかった。
「千代殿。それでも、この縁組は進みまする」
「……なぜでござりますか」
「御屋形様がお決めになったゆえ」
叔父は、それだけ言った。
わたしは、膝の上の手を握った。
「わたくしの申し上げたことは、間違うておらぬと仰せられました」
「間違うておらぬ」
「では、なぜ」
「間違うておらぬことと、通ることとは、別の話にござる」
そのとき、わたしは初めて、数が何の役にも立たない場所があることを知った。
数を作った。三月かけた。二十俵の欠けを見つけた。白水衆との約定をまとめた。船が戻ってきた。
数を作れば通る。二度、そう思った。
でも、それは相手が数で動く場面だったからだ。
これは違う。
御屋形様がお決めになった。それだけで、この話は動く。わたしが三百の数を並べても、その一行には勝てない。
わたしは、駒だった。
盤の上に置かれるほうだった。
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その夜、わたしは寝つけなかった。
さよが、部屋の隅で繕い物をしていた。灯を一つ点けている。父が戻ってから、油は元通り叱られるようになったけれど、この日は誰も何も言わなかった。
「姫様」
「なに」
「香月さんは、いい家ですばい」
「……知っとるのか」
「うちの叔母が、あっちに嫁いどります」
わたしは天井を見ていた。
「孫六郎という人は」
「会うたことはなかです。けど、悪か話は聞きません」
「そう」
「姫様」
さよが、針を止めた。
「よかったですね」
わたしは、返事をしなかった。
しばらくして、さよが小さく言った。
「……よかった、ですよね」
わたしは起き上がった。
灯の光で、さよの顔が半分だけ見えた。この子は十七になっている。漁師の娘で、たぶん来年か再来年には、湊の誰かのところへ行く。
「さよ」
「はい」
「そなたは、嫁ぐ相手を自分で決められるか」
さよは、目を丸くした。
それから、笑った。
「決められるわけなかでしょう」
「そうか」
「父が決めます。決めて、相手の家と話をつけて、そんで、わたしは行きます」
「嫌ではないのか」
「嫌とか、そういうもんじゃなかです」
さよは、また針を動かしはじめた。
「みんなそうですけん」
みんなそうです。
その一言が、しばらく耳に残った。
みんなそうだから、嫌かどうかを考えたことがない。考えたことがないから、嫌だと思うこともない。
そういうものだ。
わたしは知っている。前の生でも、そういう場所を見た。生まれた村を出られない人たち。畑を継ぐことに疑いを持たない人たち。それを不幸だと決めつけるのは、外から来た者の傲慢だと、あのとき誰かに言われた気がする。
誰だったかは、やっぱり出てこない。
でも、と思った。
わたしは、みんなではない。
「さよ」
「はい」
「わたくしは」
言いかけて、止まった。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
わたしは、みんなと違う。だから嫌だ。そんなことは言えない。言えば、この子を傷つける。
わたしは、自分で決めたい。それも言えない。言ったところで、どうにもならない。
わたしは。
「姫様?」
「……なんでもない」
「なんでもなかことなかでしょう」
さよが、繕い物を置いた。
膝で近寄ってきて、わたしの顔を覗き込んだ。
「姫様。泣いとらすとですか」
「泣いておらぬ」
「泣いとらすです」
「泣いておらぬ」
顔を背けた。背けたけれど、さよはそのまま座っていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
灯の芯が、ぱちりと鳴った。
「さよ」
「はい」
「わたくしは、賢いか」
さよは、少し考えた。
「賢かです」
「賢ければ、何かできると思うか」
「……」
「賢ければ、家を守れると思うか」
さよは、答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「姫様。わたしは、賢うなかです。だけん、分からんことは、分からんまま置いときます」
「……」
「置いとくと、そのうち、どうにかなっとります」
「どうにもならなんだら」
「そんときは、そんときですたい」
わたしは、笑ってしまった。
笑って、それから、目の奥が熱くなった。
——ずるい。
その生き方が、ずるいと思った。羨ましい、ではなく、ずるいと思った。
わたしにはできない。分からないことを分からないまま置いておくことが、わたしにはできない。全部数えて、並べて、狂いを見つけて、それでどうなるかを最後まで考えてしまう。
考えて、それで何も変えられなかったことが、この一年で二度あった。
三度目が、今度だ。
「さよ」
「はい」
「灯を消してくれ」
「はい」
灯が消えた。
暗くなってから、わたしは言った。
「……嫌じゃ」
小さい声だった。自分でも聞き取れないくらいの。
さよは何も言わなかった。
言わずに、しばらくして、わたしの褥の横に自分の褥を敷いた。
そういうことを、この子はする。
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同年 夏 島門
縁組の話は、それから進んだ。
香月から人が来て、父と話をした。日取りが決まった。婚儀は来年、応永二十二年の春。わたしが十四になってからということになった。
支度が始まった。
母の遺した打掛が出されて、虫干しをした。染みがあったので、博多から人を呼んで直させることになった。宗徳が手配してくれた。
宗徳は、直しの品を届けに来たとき、わたしを縁側に呼んだ。
「千代殿」
「はい」
「おめでとうござる」
「……ありがとう存じます」
宗徳は、しばらくわたしの顔を見ていた。
それから、こう言った。
「千代殿。商いにはな、どうにもならぬ相場というものがござる」
「相場」
「値というものは、こちらがどれだけ理を尽くしても、動かぬときは動かぬ。銭を積んでも、頭を下げても、道理を説いても、動かぬ」
「……」
「そういうときは、待つのでござる」
「待つ」
「相場は、いつか動きます。動いたときに動けるよう、手だけ空けておく。それだけにござる」
わたしは、その言葉を、そのときは慰めだと思った。
商人が、嫁に行く姪に言う慰めだと。
そうでなかったと分かるのは、ずっと後のことになる。
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支度が進むあいだ、わたしは関の帳面を付け続けた。
やめる理由がなかった。嫁げばやめることになるのだから、それまでは付けようと思った。
その頃には、与三次に言われなくても、荷の量から次の月の入りが読めるようになっていた。読んで、外れると、なぜ外れたかを調べた。調べていると、時間が早く過ぎた。
早く過ぎるのが、ありがたかった。
八月に、白水衆への払いをした。五貫。約定の通りだった。
九月に、関の帳を繰っていると、父が座敷に呼んだ。
「千代」
「はい」
父は、書状を持っていた。
封が切ってある。誰からのものかは分からなかった。
「香月のことじゃが」
「はい」
「……いや」
父は、書状を伏せた。
「なんでもない。下がってよい」
わたしは頭を下げて、下がった。
下がってから、廊下でしばらく立っていた。
なんでもない、ということはない。父は嘘が下手だ。兄ほどではないけれど、下手だ。
書状を伏せたのは、わたしに見せられないものだったからだ。
香月のこと、と言いかけて、やめた。
やめたということは、香月について、良くない知らせが来たということだ。
わたしは、自分の部屋に戻って、帳面を開いた。
開いて、しばらく何も書けなかった。
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同年十月 島門
十月に、噂が入った。
湊の荷揚げ人足が、与三次に話しているのを聞いた。
「香月さんとこの若い衆が、門司まで行っとったげな」
「門司」
「大内方の役人と、飯ば食うとったちゅう話ですたい」
わたしは、筆を持つ手を止めた。
与三次が、こちらを見た。
老人は何も言わなかった。人足も、そこで話をやめた。わたしがいることに気づいたらしい。
その日、湊からの帰り道で、わたしは丘の途中に立ち止まった。
海が見えた。
響灘は、秋の色をしていた。青ではなく、鉛の色だった。
揺れている家に、嫁ぐ。
叔父は言った。この縁組で香月を少弐方に繋ぎとめる、と。
でも、繋ぎとめられなかったら。
香月が大内方へ転んだとき、そこに嫁いだ島門の娘は、どうなるのか。
わたしは、それを叔父の前で言った。言って、「何一つ間違うておられぬ」と言われた。
間違っていないと分かっていて、それでもこの縁組は進んでいる。
——駒だ。
もう一度、そう思った。
盤の上に置かれて、そこがどんな目になるかを、置く側は分かっている。分かった上で置いている。
そして、わたしは。
ふと、去年の夏のことを思い出した。
兄に説いて、賊のところへ行かせたときのことだ。
兄が承知することも、行けば必ずやり遂げることも、全部勘定に入れて説いた。あのとき、もし兄が戻らなかったら、と考えなかったわけではない。考えて、それでも説いた。
そのほうが、湊が保つからだ。
——同じだ。
叔父がわたしにしていることと、わたしが兄にしたことは、同じだ。
わたしは、丘の途中でしばらく動けなかった。
風が冷たくなっていた。
海のほうから、船が一艘入ってくるのが見えた。帆に、波を三つ重ねた白い印が出ていた。
白水衆の船だった。
近ごろは、島門の湊に堂々と入ってくる。約定を結んでいるのだから、当然のことだった。
その船の舳先に、腕を組んで立っている男がいた。
去年よりずっと近かったので、今度は顔が見えた。
三十前くらいの、日に灼けた男だった。
その男は、丘の途中に立っているわたしを、まっすぐに見上げていた。
そして、少しだけ、笑ったように見えた。




