第十七話 阿蓮、来る
応永三十一年(一四二四)五月 伊予国 怒和島 下怒和
久蔵の一族が窯の普請にかかったころ、思いがけない船が、湊に着いた。
明の船だった。帆の形が、日本の船とは、はっきりと違う。見張りの手下が、慌てて報せに来たときには、既に、その船は、湊の近くまで寄せていた。
「明の船が、何用で」
弥九郎が、そう言いながら、湊へ向かった。わたしも、その後を追った。
船から降りてきたのは、見覚えのある顔だった。
「阿蓮」
わたしは、思わず、その名を呼んだ。
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阿蓮は、こちらを見て、少し笑った。
「久しぶりだな」
その声も、口調も、変わっていなかった。ぶっきらぼうな平叙、丁寧語を使わない話し方。だが、身なりは、以前よりも、ずっと整っていた。独立した商人としての貫禄が、その立ち姿に滲んでいた。
「よう、この島が分かったな」
弥九郎が、そう訊ねた。
「噂は、耳に入る。怒和島の一党が、忽那の名を得て、大きゅうなったと。あんたらのことだ、遠からず訪ねてくると思うておったろう」
その言い草に、わたしは、少し笑った。相変わらずの物言いだった。
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阿蓮を、館へ迎えた。
供の者を、船に二人ほど残し、身一つで上がってきた。以前の、陳家の書役として動いていた頃の、控えめな物腰は、もう見る影もなかった。歩き方にも、話し方にも、自分の商いを自分で回している者だけが持つ、ゆとりのようなものが滲んでいた。
弥九郎が、板間に座を用意させた。松吉が、茶を運んでくる。阿蓮は、その茶を、一口含んでから、口を開いた。
「陳家没落から、幾年になる」
わたしが、そう訊ねると、阿蓮は、少し考えた。
「もう、六年半ほどか。あれから、独りで商いを始めた。いまは、泉州で、幾つかの品を扱う店を構えておる」
「繁盛しておられますのか」
「まずまずだ。あんたに貰った知恵のおかげで、値の違いには理由があると、いつも肝に銘じておる」
その一言に、わたしは、以前、阿蓮が別れ際に渡してくれた言葉を思い出した。値の違いには理由がある。あの言葉が、いま、こうして商いという形になって、目の前に立っている。
「陳文興殿は、その後、どうしておられる」
わたしは、そう訊ねた。ずっと、気にかかっていたことだった。
阿蓮の顔から、一瞬、笑みが消えた。
「詳しいことは、俺も知らぬ。海禁の詮議のあと、江南のどこぞへ流されたと聞いたきりだ。生きておるかどうかも、いまとなっては、確かめようがない」
その答えに、わたしは、しばらく、何も言えなかった。温厚で礼儀正しく、それでいて、人を荷として扱うことに一切の躊躇のなかったあの商人。彼のもとで学んだことが、いま、こうして、自分の帳を作る土台になっている。その恩と、その罪とを、どう秤にかければよいのか、いまだに、答えが出ないままだった。
「あんたは、まだ、あの人のことを、気にかけておるのか」
阿蓮が、そう訊ねた。
「気にかけておるというより、忘れられずにおる、というのが、正しゅうござりましょう」
阿蓮は、それを聞いて、小さく頷いた。それ以上は、何も言わなかった。
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「今日は、何用で参った」
弥九郎が、そう切り出した。
「商いの話だ」
阿蓮は、そう答えて、懐から一枚の紙を取り出した。
「あんたらが、瀬戸内で何をしておるか、大方の噂は掴んでおる。塩、磁器、そして、近ごろは、山で何かを掘っておるとも聞く」
その一言に、わたしと弥九郎は、思わず、顔を見合わせた。
「よう、そこまで知っておるな」
弥九郎の声に、警戒の色が滲んだ。
「商人の耳は、あんたらが思うより、遠くまで届く。案ずるな。この耳は、俺一人のものだ。誰にも漏らしてはおらぬ」
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「それで、何が望みにござりましょう」
わたしは、そう訊ねた。
「望みは、単純だ。あんたらが掘り出すもの、焼くもの、その売り先になりたい」
阿蓮は、はっきりと、そう言った。
「銅であれば、明は、いつも欲しがっておる。銭を鋳るための銅が、いつも足りぬ。磁器であれば、質さえ良ければ、唐物として、日本でも高う売れる。あんたらは、島で作るところまでは、既にやっておろう。だが、その先、明での目利き、売り先を見つける仕事までは、まだ、手が回らぬはずだ」
その言葉に、わたしは、頭の中で数を組んだ。阿蓮の言うことは、正しかった。島で銅山を経営し、精製までを行うことはできる。だが、その先、明での売買の目利きまで、こちらの手だけで担うのは、荷が重すぎる。
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「なぜ、お前に任せる」
弥九郎が、そう訊ねた。
「俺は、陳家で、値付けを学んだ。あんたも、それは知っておろう」
阿蓮は、そう言って、わたしのほうを見た。
「千代、あんたが、一番よう知っておるはずだ。俺が、どれだけ物の値を見る目を持っておるか」
その言葉に、わたしは、頷いた。陳家での日々、阿蓮の目利きの確かさは、幾度も見てきた。値の違いには理由がある——その理屈を、誰よりも深く理解しているのが、この男だった。
「それに」
阿蓮は、続けた。
「俺とあんたらは、既に、幾年もの縁がある。初めて会う商人より、よほど信を置けるはずだ」
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「値の取り分は、どうする」
わたしは、そう訊ねた。商いの話は、情ではなく、数で詰めるべきだった。
阿蓮は、少し考えてから、答えた。
「島で荒く精製したものを、俺が明へ運び、そこで売る。売った値から、俺の取り分を引いた残りを、あんたらに戻す。取り分は、二割でどうだ」
「二割は、いささか高い」
わたしは、そう返した。
「高いか。だが、俺は、明での売り先を、一から探す手間を、あんたらに負わせずに済ませる。その手間賃だと思えばよい」
わたしは、しばらく考えた。二割は、確かに安くはない。だが、島で銅山経営から製錬、明での売買までを、一貫して抱え込めば、こちらの手が、あまりに広がりすぎる。阿蓮に委ねることで、こちらは、島の中の仕事に、力を集められる。
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「一割五分では」
わたしは、そう切り返した。
阿蓮は、少し笑った。
「相変わらず、値切るのがうまいな」
「値の違いには理由がある。阿蓮殿に教わった理屈にござります」
その言い返しに、阿蓮は、声を立てて笑った。
「よかろう。一割五分で手を打つ。ただし、初めのうちだけだ。品が捌けるようになれば、もう一度、話し合う」
「それで構わぬ」
弥九郎が、そう言って、頷いた。
「銅は、どれほどの質を求める」
わたしは、続けて訊ねた。まだ別子の産出は本格化していないが、いずれ量が増えたときのために、明側の求める基準を、いまのうちに掴んでおきたかった。
「明が欲しがるのは、銭を鋳るための地金だ。銀が多少混じっておっても構わぬが、あまりに粗悪だと、値がつかぬ。灰吹きの技を、あんたらが持っておると聞いたが」
「持っております。銅に混じった銀を、分けて取り出す技にて」
「それなら、心配はいらぬ。灰吹きを経た地金なら、上物として扱える」
その答えに、わたしは、頭の中で、これまで積み上げてきた技術の一つ一つが、こうして商いの言葉に変換されていくのを、静かに実感していた。
「磁器のほうは」
阿蓮が、そう続けた。
「いまはまだ、新しい窯を築いておる最中にて。何一つ、焼けてはおりませぬ。ですが、いずれ、明の技に近い白磁を、焼くつもりでおります」
「まだ、これからか。気の長い話だな」
「気の長い話にござります。ですが、焼き上がった暁には、必ず、阿蓮殿のもとへ、真っ先にお届けいたしまする」
「楽しみにしておこう」
阿蓮は、そう言って、微かに笑った。
「もう一つ、話しておきたきことが」
阿蓮は、そう続けた。
「なんでござりましょう」
「行きの荷を、空にしておくのは、もったいない話だ。博多を通じて、明の品と、博多で仕入れた品とを、こちらへ運んでくることもできる」
「それを、こちらで、どうせよと」
弥九郎が、そう訊ねた。
「引き取って、都合よう、売り捌けばよい。ただし」
阿蓮は、そう続けた。
「京や堺まで、あんたら自らが、乗り込むのは、まだ、早い。あちらには、古うからの問丸や、水軍の縄張りが、幾重にも張り巡らされておる。新参者が、いきなり、京や堺の深いところまで踏み込めば、良うは思われまい」
その言葉に、わたしは、頭の中で、素早く数を組んだ。銅や磁器を出すだけの、一方通行の商いより、行き帰り両方に荷を積める商いのほうが、船の稼ぎは、よほど厚くなる。だが、阿蓮の申すとおり、いきなり中央の深いところまで踏み込めば、思わぬ反発を招きかねなかった。
「では、どこまでなら」
「尾道か、鞆の浦。あの辺りには、古くからの問丸が、幾つも構えておる。まずは、そこへ卸す形にしておくのが、無難であろう」
「京や堺は、いずれ」
わたしは、そう続けた。
「いずれ、ござります。ですが、それは、こちらの後ろ盾が、もっと確かなものになってからの話にて。いまは、堅実に、尾道・鞆の浦止まりにしておくがよい」
阿蓮は、そう言って、笑った。
「されば、まずは、尾道・鞆の浦への卸しから、少ない量で、試させていただきとうござります」
その言葉に、阿蓮は、深く頷いた。
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「一つ、訊いてもよいか」
わたしは、阿蓮に、そう続けた。
「阿蓮殿は、なぜ、これほどまでに、こちらとの縁を、大事になさる」
阿蓮は、しばらく、黙っていた。
「陳家が潰えたとき、俺には、何もなかった。字を教えてくれたのは、あんただ。値の違いに理由があると、初めて気づかせてくれたのも、あんただ。あの時分の借りを、俺は、まだ返しきれておらぬと思うておる」
その言葉に、わたしは、少し胸が熱くなった。
「借りなど」
「借りは、多いほうが、後で高う売れる。俺の口癖だ。忘れたか」
その言い草に、わたしは、思わず笑った。阿蓮らしい、照れ隠しの物言いだった。
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阿蓮を送り出す前に、綾にも、顔を合わせてもらった。
綾は、明の商人と接するのは、これが初めてだった。少し緊張した面持ちで、阿蓮に頭を下げた。
「弥九郎様の御正室にござります」
わたしが、そう紹介すると、阿蓮は、少し驚いた顔をした。
御正室、という一言を、わたしは、幾度も、他人に向けて口にしてきた。だが、自分自身を、阿蓮に、どう名乗るべきかは、いまだ、正しい言葉を持っていなかった。書役として、商いの相手として、あるいは、ただの「あんた」として。名乗りようのない立場のまま、こうして人に紹介する側に回ることには、もう慣れたはずだった。それでも、今日は、その慣れの底に、小さな引っかかりを覚えた。
「あんたが、正室を娶ったとは、噂には聞いておったが」
阿蓮は、そう言って、弥九郎のほうを見た。
「思うたより、しっかりした顔つきの奥方だ」
その物言いに、綾は、少し戸惑いながらも、微かに笑った。
「明の御方に、そう言われるのは、初めてにござります」
「明の者と申しても、俺の母は、博多の生まれだ。日本の言葉は、母から習うた」
その一言に、綾は、意外そうな顔をした。
「では、半分は」
「半分は、こちらの血だ。もっとも、明で育ったゆえ、こちらの作法には疎い」
阿蓮は、そう言って、屈託なく笑った。その笑い方に、綾も、少しずつ、警戒を解いていくのが見て取れた。
わたしは、その遣り取りを、少し離れた場所で聞きながら、阿蓮が、自分の生まれを、これほどあっさりと口にするのを、初めて見た気がした。陳家にいた頃は、母のことを、あまり語りたがらなかった。この数年で、この男もまた、何かが変わったのかもしれなかった。
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商いの取り決めは、その日のうちに固まった。
別子の銅は、荒く精製したものを、阿蓮の船に積む。磁器は、まだ量産には至っていないが、いずれ焼き上がったものを、同じ船で運ぶ。取り分は一割五分。品が捌ける量に応じて、幾年か先に、あらためて見直す。あわせて、行きの船には、博多で仕入れた唐物・明の品を積み、こちらが引き取って、尾道・鞆の浦の問丸へ卸す道も、少ない量から試す。京や堺への進出は、いまは見送る。
「次に来るのは、いつ頃だ」
弥九郎が、そう訊ねた。
「半年後には、また来る。銅が、どれだけ溜まっておるかにもよるがな」
阿蓮は、そう答えて、船へ戻る支度を始めた。
阿蓮が船へ戻るのを、綾も、湊まで見送りに来た。
「また、いずれ参る。その折には、奥方殿にも、明の話を、いろいろ聞かせよう」
阿蓮は、綾に、そう声を掛けた。綾は、少し驚いた顔をしながらも、丁寧に頭を下げた。
「楽しみにしております」
その遣り取りを、わたしは、少し離れた場所で見ていた。綾が、こうして異国の商人と、自然に言葉を交わす姿を見るのは、初めてのことだった。島は、少しずつ、外へ向けて開かれていく。その一つの証を、いま、目の当たりにしている気がした。
湊まで見送りに出ると、阿蓮が、ふと、振り返った。
「千代」
「何にござりましょう」
「あんたは、思うたより、遠くまで来たな」
その一言に、わたしは、少し虚を突かれた。
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「阿蓮殿も、遠くまで来られました」
わたしは、そう答えた。
「陳家の書役から、独りで商いを構える商人になられた。誰も、そこまでは、見通しておられなんだでしょう」
阿蓮は、それを聞いて、微かに笑った。
「見通したわけではない。ただ、目の前のことを、一つずつ片づけてきただけだ」
「それは、わたくしも、同じにござります」
その遣り取りに、二人とも、しばらく、黙って笑い合った。
船が、沖へ出ていく。帆が風を受けて、大きく膨らんだ。その姿が、遠ざかっていくのを、わたしは、しばらく見送った。
皆が寝静まったころ、帳を広げ、この日のことを書き留めた。
阿蓮、再来。明との商いの窓口として取り決め。銅・磁器、一割五分の取り分。博多経由の唐物を引き取り、尾道・鞆の浦へ卸す道も試す。京・堺は、いずれ。半年後、再訪。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。明で拾った縁が、いま、こうして海を越えて、この島の行く末を支える柱の一つになっている。その巡り合わせを、わたしは、静かに噛みしめた。
弥九郎が、部屋の外から、声を掛けてきた。
「阿蓮とは、長い付き合いになりそうだな」
「はい。信を置ける相手にござります」
「お前が、そこまで言い切るのは、珍しい」
わたしは、その指摘に、少し考えた。確かに、これまで、誰かをこれほどはっきりと信を置けると言い切ったことは、あまりなかった。得で動く者かどうかは、幾度も見立ててきた。だが、阿蓮のように、恩義と得の両方を、同じ重さで抱えている者は、そう多くはなかった。
「阿蓮は、恩を返そうとしております。同時に、それが自らの得にもなると、正しく数えております。その両方が、同じ方を向いておる相手は、滅多におりませぬ」
「なるほど。だから、信を置けると」
「はい」
弥九郎は、それを聞いて、頷いた。
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夜が更けても、湊のほうから、微かに、潮の匂いが漂ってきた。阿蓮の船が去った海の色を、わたしは、しばらく、思い浮かべていた。
明という国は、遠い。だが、遠いはずのその国と、この小さな島とが、いま、一本の細い糸で繋がっている。その糸を保つのは、これから先、決して容易なことではないだろう。だが、糸を結ぶきっかけを得られたことそのものが、この数年の積み重ねの、確かな実りだった。
半年後には、また阿蓮の船が、この湊へ戻ってくる。その日までに、島は、どれほどの銅を、どれほどの磁器を、積み出せるようになっているだろうか。頭の中で、その先の算段を、また静かに組みはじめながら、わたしは、灯を吹き消した。
灯を消してほどなく、弥九郎の渡りがあった。阿蓮のこと、明との商いのこと、話は尽きなかったが、渡りの床では、いつのまにか、その話も、静かに途切れていった。




