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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第十二話 詮議の手

応永三十年(一四二三)十二月 伊予国 怒和島 下怒和


隠れ里に、二度目の一団が入って、しばらく経った頃、行然が、慌ただしく館を訪れた。


いつもの静けさが、その日は、消えていた。


「何事にござります」


わたしが問うと、行然は、珍しく、息を整えるのに、少しの間を要した。


「堺で、それがしどもの仲間の一人が、間者に目をつけられ申した」


その一言に、館の中の空気が、一瞬にして張り詰めた。


隠れ里の話が持ち上がってから、ここまで、大きな波風は立っていなかった。老人と女子供を匿うという、比較的軽い頼みから始まったこの縁が、いま、初めて、その裏に潜んでいた危うさを、はっきりと見せはじめていた。


わたしは、行然の顔を、あらためて見つめた。いつもの静けさの奥に、隠しきれない焦りが滲んでいる。この僧が、こうまで動じるのを見るのは、初めてだった。


---


「捕らわれたのか」


弥九郎が、鋭く訊ねた。


「いや、まだ捕らわれてはおらぬ。逃げおおせたと聞いており申す。だが、その者が、追われる途中、いずこかへ逃げ込んだという噂が、既に幕府方の耳に入っておる由」


「いずこかとは、この島のことか」


「まだ、そこまでは知られておらぬはず。だが、時が経てば、どこまで辿られるか分かり申さぬ」


行然の声には、これまでにない焦りが滲んでいた。この僧が、これほど取り乱すのを、わたしは初めて見た。


「その者は、いま、どこに」


「堺を出て、こちらへ向こうておるはず。ただ、道中、追手が幾人か、後を追うておるとの報せもあり申す」


---


わたしは、頭の中で、素早く、次々に数を組みはじめた。


追われている者が、この島を目指している。その者を、無事に迎え入れられるかどうか。追手が、既にどこまで迫っているのか。そして何より、隠れ里そのものの所在が、外に漏れていないかどうか。


「その者の名は」


「藤内と申す。堺で、都の情勢を探る役目を担うておりました」


「藤内殿は、この島のことを、どこまで知っておる」


「隠れ里の場所までは、知らせておりませぬ。ただ、この島に、それがしどもの縁があるということだけは」


その答えに、わたしは、いくらか安堵した。すべてが知られているわけではない。だが、油断はできなかった。


---


「弥九郎殿」


わたしは、そう呼びかけた。


「船を出しとうござります。藤内殿を、こちらから迎えに参りましょう」


「危うい話だ」


弥九郎が、そう返した。


「追手のついた者を、こちらから迎えに行けば、その道すがら、こちらの動きも、外に見られかねん」


「見られぬよう、動きまする」


わたしは、そう答えながら、頭の中で、既に策を組みはじめていた。


「見つからぬための道筋を、考えとうござります。潮の流れをうまく使えば、追手の目を、いくらか逸らせましょう」


---


策は、その日のうちに固めた。


藤内が向かっているという道筋を、行然から詳しく聞き出し、途中で落ち合う場所を定めた。潮の流れが速く、追手の船が入り込みにくい水道を選び、そこで藤内を拾い上げる。拾い上げたあとは、来た道とは違う筋を通って、島へ戻る。


囮も立てることにした。似たような船を一艘、別の方角へ走らせ、もし追手が目を光らせていれば、そちらへ気を引かせる。


「囮に乗る者は」


弥九郎が、そう訊ねると、三郎次が、すぐに名乗り出た。


「それがしが」


「危ういぞ、と申しておる」


「危うくとも、姐さんの策なら、外れますまい」


その一言に、わたしは、少し胸が詰まった。信を置かれることの重みが、こういうとき、いつも、こちらの胸に、静かに、そして深く沈み込んでくる。


策が外れれば、三郎次の命に関わる。分かっていながら、こちらは、その命を、駒として動かそうとしている。その事実を、頭のどこかで、はっきりと自覚していた。


「必ず、無事に戻す」


わたしは、はっきりと、そう言った。三郎次に向けてというより、自分自身に言い聞かせるような声だった。


「姐さんが、そう仰るなら、案じておりませぬ」


三郎次は、そう言って、屈託なく笑った。その笑顔が、かえって、こちらの胸を、いっそう重くさせた。


---


その夜のうちに、船が二艘、出た。


一艘は、三郎次を乗せた囮の船。もう一艘は、弥九郎とわたしが乗る、藤内を迎えるための船だった。


夜の海は、暗かった。灯を点さず、潮の流れだけを頼りに、船を進める。わたしは、この島に根を張ってから、幾年もかけて書き溜めてきた潮の表を、頭の中で辿りながら、舵取りに、細かく指図を出した。


「ここより先、潮が速うなります。舵を右へ」


「分かった」


弥九郎の一党は、これまでの積み重ねで、こうした夜の航行にも、随分と慣れていた。声を潜めながらも、迷いのない動きで、船を進めていく。


---


落ち合う場所に着いたのは、夜半を過ぎた頃だった。


小さな漁船が一艘、岩陰に潜んでいた。乗っていたのは、痩せた、疲れきった顔の男だった。歳の頃、三十半ば。これが藤内だろうと、すぐに分かった。


「行然殿の、御縁の方々にござるか」


藤内は、震える声で、そう訊ねた。手には、小さな守り袋を、固く握りしめている。


「さよう。安心されよ」


弥九郎が、そう答えると、藤内は、崩れ落ちるように、船縁に手をついた。肩が、大きく震えていた。堺を出てから、幾日、まともに眠れていないのか、その顔つきからは、窺い知れないほどの疲労が滲んでいた。


「水を、まず」


わたしは、そう言って、竹筒を差し出した。藤内は、震える手で、それを受け取り、貪るように口をつけた。


「追手は」


わたしは、そう訊ねた。


「後ろに、二艘。だが、この暗さでは、見失うておりましょう」


「油断はできませぬ。すぐに、こちらの船へ」


---


藤内を、こちらの船に移し、漁船は、そのまま流した。証を残さぬためだった。


帰り道は、来た道とは違う筋を通った。島々のあいだを縫うように進み、潮の流れの複雑な水道を、幾つも越えていく。この道筋を選んだのは、こちらの土地勘があってこそだった。余所者には、まず辿れない道だった。


夜が明ける頃、怒和島の湊に、無事に着いた。


藤内は、船を降りると、すぐに崩れ落ちるように、地面に座り込んだ。


「かたじけない……かたじけのう存ずる」


その声は、涙で震えていた。地面に額をつけんばかりに、頭を下げ続けている。その姿を見て、わたしは、しばらく声を掛けられなかった。


---


「三郎次の船は、どうなった」


わたしは、弥九郎に、そう訊ねた。


「まだ、戻っておらぬ」


その答えに、わたしの胸に、冷たいものが走った。囮として出した船が、まだ戻っていない。もし、追手に見つかっていたら。


半日ほど待って、ようやく、三郎次の船が、湊に姿を見せた。


「遅うなりました」


三郎次は、そう言いながら、疲れた顔で船を降りた。


「追手に見つかったか」


「見つかりました。じゃが、こちらの船足のほうが、いくらか速うござりました。まいて参りました」


その報せに、わたしは、ようやく肩の力を抜いた。全身から、張り詰めていたものが、一気に抜けていくのが分かった。


「怖くはなかったか」


わたしは、三郎次に、そう訊ねた。


「怖くのうては、ござりませなんだ」


三郎次は、そう答えてから、少し照れたように笑った。


「じゃが、追手の船が近づいてきたときは、さすがに、肝が冷え申した。あのときばかりは、姐さんの潮の見立てが外れておらぬことを、ひたすら祈っておりました」


「外れておったら」


「外れておったら、こうして笑うてはおりますまい」


その物言いに、わたしは、思わず笑った。三郎次の軽口には、いつも、こちらの張り詰めた気持ちを、いくらか和らげる力があった。その力に、これまで、何度も救われてきた。


弥九郎が、その遣り取りを聞きながら、頷いていた。


「よう戻った」


弥九郎の一言に、三郎次は、深く頭を下げた。


---


藤内は、隠れ里へ送られた。行然が、その手続きを、丁寧に取り仕切った。


その日の夜、館で、行然と、あらためて向き合った。


「此度は、まことに、かたじけのう存ずる」


行然は、深く頭を下げた。


「命がかかった一件にござりました。何もお礼のしようがござらぬが、この御恩は、生涯忘れませぬ」


「礼は、要りませぬ」


わたしは、そう答えた。


「ただ、一つだけ、伺いとうござります。この先も、こうした一件は、幾度も起こりましょうか」


行然は、しばらく黙っていた。


「起こりましょう。それがしどもは、追われる身にて。追手が、いつ、どこから伸びてくるかは、こちらにも読みきれませぬ」


行然は、そう言って、静かに、深く目を伏せた。その表情には、これまで幾度も、同じような危機を潜り抜けてきた者の、諦観に似た色が滲んでいた。


その答えに、わたしは、頭の中で、また新たな数を組みはじめた。今後も、こうした危うい一件が、幾度も起きるかもしれない。そのたびに、こちらは、命の危うさと、島の秘密を、天秤にかけねばならない。その天秤が、いつまで、正しく釣り合い続けるのかは、誰にも分からなかった。


---


「後悔しておられるか」


弥九郎が、そう訊ねた。行然を見送ったあとだった。


「後悔とは、違いまする。ただ、この縁を結んだことの重さを、あらためて感じております」


その言葉は、嘘ではなかった。危うさを承知の上で結んだ縁だったが、実際に人の命が懸かる場面を経ると、その重みは、頭で分かっていたものとは、また違う質感を伴って迫ってくる。


「重いか」


「はい。人の命が、直に懸かる話にござりますゆえ」


弥九郎は、それを聞いて、しばらく黙っていた。


「お前は、こういうとき、いつも、そういう顔をする」


「どういう顔にござりますか」


「重さを、独りで背負おうとする顔だ」


その一言に、わたしは、何も言い返せなかった。


「独りで背負わずとも、よい。手下も、行然も、共に背負う話だ」


弥九郎は、そう続けた。


「共に、と申されましても、決めるのは、いつも、わたくしにござります。それゆえ、重さも、いつも、わたくし一人のものにござります」


「決めるのは、お前でよい。だが、決めたあとの重さまで、独りで抱え込むな。それは、傲りに近い」


弥九郎の声は、静かだったが、確かな重みを持っていた。


その一言に、わたしは、はっとした。傲り。これまで、自分の判断の重さを、独りで抱えることが、当然のことだと思っていた。だが、弥九郎の言葉は、その当然を、少し違う角度から照らしていた。


「肝に、深く銘じまする」


「銘じるだけでは、駄目だ。次からは、実際に、誰かに寄りかかれ」


その言葉に、わたしは、何と答えてよいか分からず、ただ、小さく頷くだけだった。


灯を消す前に、帳に、この日のことを、簡潔に書き留めた。


藤内、無事に隠れ里へ。追手、まく。行然の言、こうした一件、今後も起こりうる。


書きながら、藤内の震える声を、もう一度思い出した。かたじけない、かたじけのう存ずる。あの震えの中に、命を拾われた者の、本当の重みが、確かにあった。


弥九郎の言葉も、もう一度、頭の中で繰り返した。誰かに寄りかかれ。これまで、寄りかかるということが、どういうことなのか、正しく分かっていなかった気がした。数を数え、策を組み、決める。それが、自分の役目だと思ってきた。だが、決めたあとの重さまで、独りで背負う必要はないのかもしれなかった。


その重みを、これから何度、この島は、引き受けていくことになるのだろうか。答えの出ない問いを抱えたまま、わたしは、灯を吹き消した。窓の外、冬の海鳴りが、遠く、低く響いていた。


その言葉を残したまま、弥九郎は、その夜、渡ってきた。危うい仕事を終えたばかりの夜は、渡りが来ることのほうが多い。そんな決まりを、いつのまにか、自分の中に持っていることに、わたしは、ふと気づいた。


翌朝、隠れ里を見に行くと、藤内は、既に、他の匿われた者たちの輪に、静かに加わっていた。老いた者たちに交じって、水汲みの手伝いをしている。その姿には、昨夜の怯えとは、また違う、どこか落ち着いた色が見えた。


「よう眠れたか」


わたしが声を掛けると、藤内は、びくりと肩を震わせてから、こちらを見て、ようやく表情を緩めた。


「久方ぶりに、朝まで眠れ申した。かような心地は、幾月ぶりか、覚えておりませぬ」


その一言に、わたしは、少し安堵した。命を拾っただけでなく、この者に、久方ぶりの安らぎを与えられたのだと思うと、昨夜の危うさが、いくらか報われた気がした。


「この島には、いつまで」


「行然殿の御判断次第にて。それがしは、ただ、置いていただけるだけで、ありがたい限りにて」


藤内は、そう言って、深く頭を下げた。その仕草に、これまでの逃亡の日々の重みが、滲み出ているようだった。


その後ろで、幸松が、水汲みの手を止めずに、藤内の様子を、そっと窺っていた。新しく流れ着いた者を、遠くから見守る目。かつて自分もそうされたことを、この子は、忘れずにいるのだろう。


館に戻ると、綾が、藤内のための着物を、既に何枚か仕立てていた。


「まだ、体つきも存じませぬのに」


わたしが、そう言うと、綾は、少し笑った。


「大きさは、あとで直せば済むことにござります。ただ、着る物がないまま、今日を越させとうはござりませなんだ」


その手際の速さに、わたしは、また一つ、教えられた気がした。

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