第八話 南朝の縁
応永三十年(一四二三)九月 伊予国 怒和島 下怒和
中島が加わってから、幾日か経った夜、館に、見慣れぬ僧が訪ねてきた。
歳の頃、五十がらみ。墨染めの衣は、あちこち擦り切れている。旅を重ねてきた者の匂いが、その身から漂っていた。潮風だけではない、山の匂いと、埃の匂いが混じっている。
「この館の主に、ぜひとも、お目通り願いたい」
門口で、そう告げた僧の声を、わたしは奥の間で聞いていた。取り次ぎに出た松吉が、少し戸惑った顔で戻ってきた。
「姐さん。妙な僧が来ております。棟梁にお目通りをと」
「どこの僧だ」
「それが、名乗りませぬ。ただ、忽那義範公の御代よりの縁と申せば、通じるはずだと」
その一言に、わたしは、手を止めた。
忽那義範。南北朝の昔、征西将軍宮を迎え入れたという、忽那の先祖の名だった。義重の代よりずっと前、下怒和に根を張ったばかりの頃、孫兵衛の昔語りで、その名を聞いたことがある。正月には必ず使いが来ていたという、遠い縁の話として。あのときは、ただの昔語りとして聞き流していた。まさか、その縁が、いま、こうして戸口に立つとは、思ってもみなかった。
紙を置いて、立ち上がった。胸の奥で、何かが、小さく波打っていた。危うさへの警戒と、それに勝るとも劣らない、興味に似た何かとが、同時に湧き上がってくる。
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弥九郎に取り次ぐと、しばらく考えたのち、僧を通すことにした。
館の一室で対面すると、僧は、深々と一礼した。
「行然と申す。この名も、真の名ではござらぬが、いまはこれで通しておりまする」
「真の名を隠す理由でも」
弥九郎が、そう訊ねると、行然は、微かに笑った。
「隠さねばならぬ理由が、こちらにはござる。追われる身にてな」
その一言で、わたしは、この僧が、単なる遍歴の坊主ではないと悟った。
「誰に、追われておられる」
わたしが、そう問うと、行然の目が、こちらへ向いた。値踏みするような、それでいて、どこか懐かしむような目だった。
「幕府にござる」
その一言は、あまりにあっさりと、しかも静かに発せられた。館の中の灯が、一つ、風もないのに揺れたような気がした。幕府に追われる身であると、これほど平然と口にする者を、わたしは、まだ見たことがなかった。
弥九郎の眉が、わずかに動いた。表には出さないが、腹の底で、警戒の音が鳴っているのが、長年の付き合いで分かった。
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「幕府に追われる身が、なぜ、この島へ」
弥九郎の声に、警戒の色が滲んだ。当然の反応だった。幕府に追われる者を匿えば、こちらもまた、その咎を負うことになりかねない。
「忽那義範公は、南朝の御方を、この島の縁で庇われたと聞き及ぶ。それがしどもも、同じ流れを汲む者にござる」
「同じ流れとは」
行然は、しばらく黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。
「楠木の名を、御存じか」
その名に、わたしは、思わず息を止めた。
楠木正成。教科書の太字に載る名だった。千早城の籠城戦。寡兵で大軍を翻弄した戦い方。前の生で、確かに習った覚えがある。だが、それ以上の詳しいことは、霞んでいた。いつ、どこで、どのように滅んだのか。その子孫が、いま、どうしているのか。分かっているのは、太字の一行だけだった。
その一行の重みを、目の前の僧は、身をもって背負っている。知っているのに、その先の詳しい歴史を語れない自分の立場が、いつになく、もどかしく感じられた。知っていることを、誰にも明かせないまま、ただ黙って聞いているしかなかった。
「楠木党の、残党か」
弥九郎が、そう訊ねた。行然は、頷いた。
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「本家は、既に潰えて久しゅうござる。それがしどもは、その傍流。いまなお、都のさる筋の御方を、密かにお支えする役目を負うており申す」
「都のさる筋、とは」
「それは、ここでは申せませぬ」
行然の口ぶりは、丁寧だったが、その一線だけは、はっきりと引かれていた。それ以上踏み込むことを、この僧は許さない構えだった。
わたしは、その線引きに、かえって得心した。何もかもを話す者より、話せぬ一線を持つ者のほうが、信を置きやすい。すべてを差し出すふりをして裏切る者よりは、よほど筋が通っていた。
「なぜ、この島へ、参られた」
わたしは、そう続けて訊ねた。
「二神の家が、いま、この島の一党と結びついておると、風の噂に聞き及びました。忽那義範公の御代よりの縁、そして二神の家の格が、いま新たに強まっておるという話。それを頼りに、参上した次第にて」
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「頼み、とは」
弥九郎が、単刀直入に訊ねた。行然は、少し間を置いてから、答えた。
「金子の無心では、ござらぬ。まず、それだけは、お分かりいただきたい」
「では、何だ」
「老いた者、戦えぬ女子供を、しばらくのあいだ、この島の一角に、匿うてはいただけぬかと」
その言葉に、わたしは、少し意外な思いを抱いた。てっきり、資金の援助か、あるいは何か大きな政の後ろ盾を求めてくるものと思っていた。だが、行然が最初に口にしたのは、もっと切実な、しかし控えめな頼みだった。
「戦えぬ者ばかりを」
「はい。方々に散った残党の中には、戦力にならぬ縁者を抱えて、庇いきれずにおる者が、少なからずおり申す。老いた親、幼い子、病を抱えた妻。そうした者たちを、どこか、まだ表に出しておらぬ場所に、しばし置いていただければ、それで十分にござる」
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弥九郎は、しばらく黙って、行然の顔を見ていた。
「なぜ、こちらが、それを引き受けねばならぬ」
その問いに、行然は、静かに答えた。
「引き受けていただく理由は、ござらぬ。ただ、お願いに参っただけにて。断られれば、それまでのこと」
その言葉の裏に、駆け引きの気配がなかった。強く出るでもなく、哀れみを誘うでもない。ただ、事実を、事実として差し出しているだけだった。その静けさが、かえって、こちらの胸に重く響いた。
だが、理由がないまま引き受ければ、ただの施しになる。施しは、いずれ形を変えて、こちらに負い目として返ってくる。わたしは、そう判じて、口を開いた。
「一つ、こちらから、持ちかけたき儀がござります」
行然が、目を上げた。
「この島には、身寄りのない子らを、幾人か置いております。字と算えを教えてはおりますが、それだけでは、いずれ手が回らのうなりましょう。もし、匿うていただく代わりに、行然殿の御裁量の及ぶ範囲で、子らに学びと、体の動かし方を、教えてはいただけませぬか」
「学びと、体の動かし方、とは」
「読み書き、あるいは、御一党に伝わる技のうち、行然殿が、御自身の判断で、明かしてよいと見立てたものだけで結構にござります。強いては申しませぬ」
行然は、しばらく、こちらの顔を見ていた。値踏みするような目ではなかった。むしろ、思いがけない申し出に、少し驚いているような目だった。
「その中に、見込みのある子が、おりましたら」
わたしは、そう続けた。
「その子は、行然殿の御一党に、引き取っていただいて構いませぬ」
その一言に、行然の目が、初めて、はっきりと動いた。
「それがしどもに、子を、育てさせよと」
「はい。老いた者の命だけが、大切とは、思うておりませぬ。育つ命もまた、同じだけ、大切にござりましょう。それに」
わたしは、少し間を置いて、続けた。
「ただ匿うだけでは、行然殿の御一党にとって、得るものが何もござりませぬ。それでは、いずれ、この縁も、細うなりましょう」
行然は、しばらく黙っていたが、やがて、静かに頷いた。
「……千代様は、施しを、施しのままにはしておかれぬ御方のようだ」
「施しは、長うは続きませぬゆえ」
その遣り取りを、弥九郎が、黙って聞いていた。口は挟まなかったが、その目には、こちらの申し出を、悪くない話だと見ている色があった。
わたしは、頭の中で、素早く数を組みはじめた。
隠れ里を一つ設けるには、まず場所が要る。人目につかぬ入江か、小島。次に、その者たちを養う米と魚。そして、幕府方の詮議が及んだときの用心。得るものは、まだ見えない。だが、この一件が、こちらにとって、何か値打ちのあるものに繋がるかもしれないという勘だけは、確かにあった。
だが、決めるのは、わたくし一人ではなかった。隠れ里を抱えるということは、一党すべてを、その危うさに巻き込むということだった。
「すぐには、決められぬ」
弥九郎が、そう言った。
「一党の者たちにも、諮らねばならぬ。子らのことも、隠れ里のことも、俺一人で決めてよい話ではない」
「無理にとは申しませぬ」
行然は、頷いた。
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「一つ、伺うてもよろしいか」
わたしは、続けて口を開いた。
「行然殿は、なぜ、金子ではなく、まず人を匿う頼みから、始められた」
行然の目に、初めて、はっきりとした感情の色が浮かんだ。それは、疲れとも、悲しみとも違う、もっと静かな、それでいて深いものだった。
「金子であれば、いずれ尽きまする。じゃが、老いた者、幼い者の命は、尽きれば、二度と戻りませぬ。それがしどもにとって、いま最も重いのは、その命にござる」
その答えに、わたしは、何も言い返せなかった。
弥九郎も、しばらく黙っていたが、やがて、口を開いた。
「今日のところは、これまでにしよう。答えは、いま少し、待たれよ」
「かたじけのう存ずる」
行然は、そう言って、両手を合わせた。僧としての作法か、それとも、心底からの安堵の仕草か、わたしには判じかねた。
行然は、深く頭を下げて、それ以上は何も求めず、館を辞していった。
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行然が去ったあと、わたしは、綾のもとへも、この話を伝えに行った。館の奥、機の置かれた部屋だった。
「南朝の残党が、この島を頼ってきたと」
綾は、機の手を止めて、しばらく黙っていた。
「危うい話にござりますね」
「はい。幕府に知られれば、こちらも咎を負いましょう」
「それでも、迷うておられる」
綾の一言に、わたしは、少し虚を突かれた。
「なぜ、そう思われます」
「顔に、出ておりますゆえ」
綾は、そう言って、微かに笑った。
「断ると決めておられるなら、こうしてわざわざ伝えには来られますまい。迷うておられるからこそ、誰かに話して、頭の中を整えたいのでしょう」
その見立ては、正しかった。わたしは、それを認めるように、小さく頷いた。
「老いた者、女子供を匿うてほしいと、それだけの頼みにござりました。金子は求めず」
「それは、真に、それだけの頼みなのでしょうか」
綾のその一言に、わたしは、はっとした。
「と、申されますと」
「頼みごとというのは、大抵、初めに軽いものから始まるものにござります。軽い頼みを聞いてもろうたのちに、少しずつ、重い頼みへと移っていく。それが、人の常にござりましょう」
その言葉に、わたしは、頭の中で、行然の物腰を思い返した。駆け引きの臭みがないと見立てていた。だが、それこそが、最も巧みな駆け引きの形なのかもしれなかった。
「重宝な見立てにござります」
「見立てただけにて。あとは、千代殿が、どう動かれるかにござります」
綾は、そう言って、また機に手を戻した。糸を通す手つきは、いつもと変わらず、静かで滑らかだった。その落ち着きに、わたしは、いくらか救われる思いがした。
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弥九郎とわたしは、その夜遅く、館の一室で、しばらく黙って向かい合っていた。
「どう見る」
弥九郎が、そう訊ねた。
「信じてよいかどうかは、まだ分かりませぬ。ただ、あの僧の物言いには、駆け引きの臭みが、ござりませなんだ」
「駆け引きがないのが、かえって不気味か」
「不気味とは、少し違いまする。ただ、油断はできませぬ。南朝の縁は、幕府にとっては、忌むべきものにござります。関われば、こちらも、それ相応の危うさを背負うことになりましょう」
弥九郎は、その言葉に、しばらく黙って考え込んでいた。危うさと引き換えに、何を得られるのか。その勘定を、この男もまた、頭の中で組んでいるのだろう。
弥九郎は、腕を組んで、しばらく天井を見ていた。
「だが、断れば」
「断れば、それきりにござります。あの僧は、無理強いはいたしますまい」
その言葉に、弥九郎は、少し笑った。
「無理強いせぬ相手のほうが、かえって気になるものだな」
その一言は、弥九郎にしては、珍しく的を射た物言いだった。わたしは、それに小さく頷き返した。
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その夜、灯を消す前に、わたしは、帳に、今日の遣り取りを書き留めた。
楠木党残党、行然と名乗る僧、接触してくる。頼み、老人女子供の隠れ里。金子の無心にあらず。綾の見立て、軽い頼みは重い頼みの前触れやもしれず。
書きながら、行然の目を思い出していた。命が最も重いと言い切ったあの目には、政の駆け引きとは別の、もっと素朴な何かがあった。それが何であるかを、わたしは、まだ正しく数えられずにいた。
綾の指摘は、鋭かった。頼みごとは、軽いものから始まる。それは、こちら自身が、これまで幾度も使ってきた手管でもあった。焼き物を贈り、次に金を貸し、最後に力の差を見せつける。段を踏んで、少しずつ深く入り込む。その同じ型を、あるいは行然も、こちらに対して使おうとしているのかもしれなかった。
だが、そうだとして、それが悪いことだとは、言い切れなかった。段を踏んで信を積むのは、こちらのやり方でもある。行然が同じ型を使っているのなら、それはむしろ、こちらと同じ理屈で動く相手だという証でもあった。
得で動く相手なら、話は通じる。だが、行然の目にあったものは、得だけでは説けない何かだった。命を守るという、もっと切実な理由が、その裏にあるように見えた。
その二つの見立てが、頭の中で、なかなか一つに定まらなかった。定まらぬまま、静かに筆を置いた。
外では、風が出はじめていた。秋の風は、夏のそれよりも、幾分か鋭かった。板戸が、かたかたと小さく鳴っている。
答えを出すのは、まだ先でよい、と思った。焦って決めれば、見誤る。だが、この縁を、そのまま見送ってよいものかどうか、頭の隅で、まだ何かが引っかかっていた。
灯を吹き消すと、暗がりの中に、行然の静かな声だけが、しばらく残っていた。
答えは、まだ出なかった。だが、頭のどこかでは、既に、この縁を無下に断つことはできないだろうという予感が、静かに固まりはじめていた。危うさを承知の上で、それでも手を伸ばしたくなる何かが、あの僧の物腰には確かにあった。
外の風が、次第に強くなっていく。潮の匂いに混じって、遠く、山の木々が揺れる音が聞こえた気がした。気のせいかもしれない。だが、その音を聞きながら、わたしは、しばらく目を閉じたまま、闇の中で考え続けていた。
そのうちに、廊下を渡る、聞き慣れた足音が近づいてきた。弥九郎だった。行然のことを、まだ考えているのかと問われ、正直に頷くと、それ以上は、何も聞かれなかった。渡りの夜は、いつも、こうして、余計な詮索なしに始まった。その気安さに、わたしは、いつのまにか助けられていた。




