第七話 折れる島
応永三十年(一四二三)九月 伊予国 忽那諸島 中島
新居から戻って、幾日も経たぬうちに、中島から、思いがけない使いが来た。
来たのは、市造だった。今度は、こそこそと隠れるようにではなく、はっきりと名乗りを上げての来訪だった。
「宗兵衛様の、御用にて参りました」
「宗兵衛が、お前を寄越したのか」
弥九郎が、そう訊ねると、市造は頷いた。
「話をしたいと。ただし、船を出さず、こちらから出向くゆえ、と」
その一言に、わたしは、頭の中で数を組みはじめた。船を出さずに来る、という一言は、宗兵衛なりの譲歩の形だった。以前、宗兵衛自身が「船を出さずとも話はできよう」と言い放ったことを、今度は自分から実践する。それは、あの男が、まだ意地を捨ててはいないことの証でもあった。
「分かった。館で待つ」
市造を送り出したあと、弥九郎は、少し考え込むような顔をしていた。
「向こうから出向くとは、思うておらなんだ」
「わたくしも、いくらか意外にござります。ですが、悪い話ではござりますまい」
「どう出る」
「宗兵衛殿は、意地の張り方を知っておる御方にござります。負けを認める形では来ますまい。話し合いに来た、という体裁を、最後まで崩さぬはず」
弥九郎は、頷いた。
「なら、こちらも、勝ち誇った顔はせぬほうがよいな」
「それが、肝要にござります」
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宗兵衛が、館に姿を見せたのは、三日後のことだった。
供の者を、二人だけ連れていた。船で来たにしては、少ない供だった。館の前庭に立った宗兵衛は、以前会ったときより、いくらか痩せて見えた。
「荒瀬弥九郎殿」
宗兵衛は、そう言って、頭を下げた。深くはない。だが、以前の値踏みするような目つきは、いくらか和らいでいた。
「話とは」
弥九郎が、そう促すと、宗兵衛は、しばらく黙っていた。言葉を選んでいるようだった。
「近ごろ、我が島の者が、幾人か、こちらへ足を運んでおる由」
「聞いておる」
「詫びは、申さぬ。あれは、あれで、島の者なりに考えてのことにござろう」
その言い方に、わたしは、少し意外なものを感じた。詫びを求めて来たわけではない。それでいて、話に来た。その中間の姿勢が、宗兵衛という男の、いまの立ち位置を表しているように見えた。
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「宗兵衛殿」
わたしは、そこで口を開いた。
「時化の日、こちらの船は、一艘も失いませなんだ。中島は、幾艘か、流されたと聞き及びます」
宗兵衛の顔が、わずかに歪んだ。
「潮を読み違えたのは、わしの落ち度にござる」
「落ち度とは思いませぬ。ただ、勘だけに頼れば、いつか、こういうこともござります。書いたものがあれば、次はもっと、外れが減りましょう」
「書いたもの、か」
宗兵衛は、そう繰り返して、しばらく黙っていた。
「わしは、字が、あまり得手ではない」
その一言に、わたしは、初めて、宗兵衛という男の、もう一つの顔を見た気がした。強気で通してきたこの男が、実は、字という一点で、後れを取っていた。字が書けぬことは、この時代、恥ではない。だが、宗兵衛にとっては、それが、譲れぬ意地の裏に隠れた、小さな弱みだったのかもしれなかった。
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「字は、こちらの者が代わりに書きまする。宗兵衛殿は、見たまま、感じたままを、口に出していただくだけでよろしゅうござります」
わたしは、そう続けた。
「宗兵衛殿の勘は、確かなものにござります。三十年、四十年と、海を見てこられた勘は、一朝一夕には身につきませぬ。ただ、その勘を、紙に移せば、宗兵衛殿がおらぬ日でも、島の者が同じように海を読めるようになりまする」
宗兵衛は、しばらく黙って、こちらを見ていた。
「わしがおらぬ日、というのは」
「いつか、誰にでも、来る日にござります。宗兵衛殿が、いつまでも舟の上に立っておられるわけではござりませぬゆえ」
その言葉に、宗兵衛の目が、わずかに揺れた。
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「弥九郎殿」
宗兵衛は、弥九郎のほうへ向き直った。
「単刀直入に申そう。中島は、独りでは、いずれ立ち行かなくなる。それは、分かっておる。柱島も津和地島も、こちらへついた。他の島も、遠からずそうなろう。中島だけが、意地を張り続けることに、どれほどの意味があるのか」
「意味は、あると思うて、これまで張ってきたのだろう」
弥九郎が、そう返すと、宗兵衛は、少し苦い顔をした。
「祖父の代から、誰の下にもつかず、中島を守ってきた。その誇りを、易々とは捨てられなんだ」
「いまは、捨てられると」
「捨てるのではない。……預けるのだ。守り方を、変えるだけのこと」
その言い分に、弥九郎は、少し笑った。
「言葉の選び方だな」
「言葉でも、選ばねば、飲み込めぬこともある」
宗兵衛は、そう言って、一度、深く息を吐いた。肩の強張りが、わずかに緩んだのが見えた。この男が、ここへ来るまでに、どれほどの逡巡を重ねてきたのかが、その息の吐き方だけで、いくらか窺えた。
「宗兵衛殿」
弥九郎が、あらためて、名を呼んだ。
「悪いようにはせぬ。中島の名も、宗兵衛殿の顔も、潰す気はない」
「潰されぬための知恵は、そちらの御方が、お持ちのようだ」
宗兵衛は、そう言って、わたしのほうへ、初めて、値踏みとは違う目を向けた。
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「大祝家の名は、どうなさる」
わたしは、そこで、もう一つ、確かめておきたいことを口にした。
宗兵衛の顔に、驚いた色が浮かんだ。
「よう調べておられる」
「宗兵衛殿の御内儀の里が、大祝家の分家筋と伺いました」
「……その縁を頼みに、事を構えられぬかと、幾度も思うた。だが、大祝家は、遠縁の頼みに、そこまで力を貸してはくれぬ。所詮、それがしの、勝手な当てにすぎなんだ」
その白状に、わたしは、少し胸のうちで得心した。宗兵衛の強気の裏にあった備えは、思っていたよりも、はるかに細い糸だった。頼れると信じたい気持ちだけが、その糸を、実際より太く見せていたのだろう。
大祝家の名を、口先だけで借りて、島の者たちを鼓舞していた。その意地の張り方は、決して賢い手とは言えなかった。だが、島を守るために、手持ちの札を、精一杯大きく見せようとした心持ちそのものは、理解できぬものではなかった。
「大祝家に頼れぬと分かってなお、なぜ、あれほど強く出られた」
わたしは、そう訊ねた。
「他に、頼れるものが、なかったからだ」
宗兵衛は、そう答えた。
「頼れるものがのうても、頼れると皆に示さねば、島の者は、たちまち浮足立つ。わしは、自分の勘と、大祝家の名という、二つの張りぼてで、島を支えてきたに過ぎぬ」
その言葉に、わたしは、しばらく何も言えなかった。張りぼてだと分かっていながら、それを支え続けてきた重さは、こちらの物差しでは、正しく量りきれないものだった。
「大祝家には、いずれ、こちらから縁を結びとうござります。宗兵衛殿の御内儀の里ということであれば、なおのこと、良き橋渡しになりましょう」
宗兵衛は、それを聞いて、初めて、小さく笑った。
「使えるものは、何でも使われるお方だ」
「島を保つためにござります」
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話は、その日のうちに、大方まとまった。
問題は、既に宗兵衛自身が口にしていた。中島は、独りでは立ち行かなくなる。利は、こちらが示した。潮の表、塩の焼き方、溜池の仕組み、それらを分け与えれば、中島の実入りも増える。手段は、二神の名の下に、緩やかに一つの構えとして纏まること。
「島の者には、わしから話す」
宗兵衛は、そう言った。
「わしが決めたことだと、はっきり言うてやらねば、皆が得心せぬ」
「それが、よろしゅうござります」
わたしは、頷いた。宗兵衛が、最後まで自分の口で決着をつけようとしていることに、少し驚きながらも、それを止める理由はなかった。むしろ、そのほうが、島の者たちの心には、収まりがよいだろう。
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話がまとまったあと、館では、簡単な酒肴の膳が用意された。祝いというほどのものではなかったが、遠路来た客を、何も出さずに帰すわけにもいかなかった。
宗兵衛は、盃を一つだけ受けて、それ以上は口をつけなかった。
「祝いの席には、まだ早い」
「と、申されますと」
「島の者に、まだ話しておらぬ。話す前に、酔うわけにはいかぬ」
その一言に、弥九郎が、少し感心したような顔をした。
「律儀な男だな」
心底から、そう思っているような声だった。
「律儀でのうては、四十年も、島の頭は務まらぬ」
宗兵衛は、そう言って、盃を膳の上に戻した。
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宗兵衛が帰る前、館の前庭で、市造と、短く言葉を交わした。
「これで、よかったのか」
わたしは、そう訊ねた。市造の顔を、正面から見つめながらだった。
「宗兵衛様が、決められたことにござります。それがしどもは、従うのみで」
市造は、そう答えながら、少し目を伏せた。
「従うだけか」
市造は、少し考えてから、答えた。
「安堵しております。正直なところ」
その一言に、わたしは、頭の帳に、小さく書き足した。安堵。得でも、恐れでもない、もう一つの理由。
「時化の夜、怪我をした者たちは、いまはどうしておる」
わたしは、そう続けて訊ねた。
「幸い、命に関わる者はおりませなんだ。ただ、腕を折った者が一人。舟を出せぬ体になり、いまは、家の者に養われております。飯を稼げぬ身になったことを、日々、恥じておるようで」
「その者にも、いずれ、何か役目が回るとよいが」
市造は、その一言に、少し驚いた顔をした。
「そこまで、お気にかけていただけるとは」
「気にかけたところで、何ができるかは、まだ分かりませぬ。ただ、覚えておきとうござります。数に入れておかねば、いずれ、忘れてしまいますゆえ」
その言葉に、市造は、深く頭を下げた。頭を上げたとき、その目には、来たときにはなかった、いくらか晴れやかな色が浮かんでいた。
宗兵衛が、船に乗り込む前、こちらを振り返った。
「荒瀬殿。一つ、訊いてもよろしいか」
「何なりと」
「あの潮の表とやらは、いつから、書いておられる」
「怒和島に根を張ってより、幾年もにござります」
宗兵衛は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
「幾年も、な。わしの勘も、そのくらいの歳月を、掛けて育てたものだ」
「同じ歳月を、宗兵衛殿は、御自身の中に、こちらは紙の上に、それぞれ積んだだけにござります」
「……なるほど。道理だ」
宗兵衛は、そう言って、今度は、深く頭を下げた。
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船が去っていくのを見送りながら、弥九郎が言った。
「あっさり折れたな」
「あっさりではござりませぬ。宗兵衛殿は、幾月も、独りで抗い続けておられました。折れるまでの重さは、こちらには、量りきれませぬ」
「そういうものか」
「はい」
わたしは、そう答えながら、宗兵衛の最後の言葉を、頭の中で繰り返していた。同じ歳月を、それぞれの形で積んだだけ。その言葉は、勝ち負けの外側にある、何かを含んでいるように思えた。だが、それが何であるかを、その日のうちには、まだ言葉にできなかった。
夜、館に戻ってから、帳を広げて、この日の遣り取りを、一つずつ書き留めた。
宗兵衛、折れる。理由、時化の一件と、大祝家の頼みの細さ。字が書けぬことへの、密かな引け目。潮の表を、いずれ中島にも分け与えること。
書きながら、市造の「安堵しております」という一言を、もう一度思い出した。あの男は、宗兵衛が折れたことに、後ろめたさよりも先に、ほっとした顔を見せた。島の頭が、意地を張り続けることに、島の者たちもまた、疲れていたのかもしれなかった。
その疲れの正体を、わたしは、勝ち負けの数の中には、まだうまく組み込めずにいた。
弥九郎が、部屋の外から声を掛けてきた。
「まだ、書いておるのか」
「もう少しにござります」
「根を詰めすぎるな」
そう言い残して、足音が遠ざかっていった。
入れ替わるように、綾が、茶を運んできた。
「宗兵衛殿が折れたと聞き、皆、安堵しております」
「殿の御手柄にござります」
「いいえ。千代殿の御手柄と、皆、分かっておりまする。ただ、そう言うては、殿の顔が立ちませぬゆえ」
その一言に、わたしは、思わず、綾の顔を見た。誰に指図されたわけでもなく、こうして、こちらの立場と弥九郎の顔と、両方を同時に立てる言い回しを、自然に選び取る。その勘所だけは、いつまで経っても、わたしには真似できなかった。
綾が下がったあと、わたしは、筆を置いた。海の向こうで、中島の緑が、夕日を受けて、静かに色を変えていった。柱島、津和地島、そして中島。六島のうち、三島が、こうして加わった。残るは、まだ三島。だが、その先の話は、また別の日に組めばよかった。
灯を消す前に、もう一度、帳を見返した。宗兵衛の名の下に、折れる、という一文字だけが、静かに記されていた。その一文字の裏に、どれほどの逡巡があったかを、この帳は語らない。語るのは、いつも、数だけだった。
窓の外で、秋の虫の声が、夏のそれとは違う、細く澄んだ調子で鳴きはじめていた。季節が、また一つ、進もうとしていた。灯を吹き消すと、部屋は、すぐに闇に沈んだ。
今宵は、渡りのない夜だった。中島の一件が片づいたばかりで、弥九郎も、他に片づけねばならぬことが、いくつも溜まっているのだろう。渡りが来ぬ夜の数え方も、いつのまにか、体に馴染んでいた。




