第五話 差がつく
応永三十年(一四二三)七月 伊予国 怒和島 下怒和
新居から戻って半月、六郎太が、大祝家のことを、もう少し詳しく調べてきた。
「大祝家は、中島の宗兵衛と、遠い縁続きにござります。宗兵衛の妻の里が、大祝家の分家筋にあたるとか」
「遠い縁、か」
「はい。深く後ろ盾になっておるというほどではなさそうにて。ただ、宗兵衛が、大祝家の名を借りて、多少大きく見せておる節はござります」
その報せに、わたしは、少し息をついた。
大祝家そのものが、真正面から中島の肩を持っているわけではない。ただ、遠縁という細い糸を、宗兵衛が自分の強気の裏付けに使っている。それなら、力で押さずとも、いずれ差で押し切れる相手だった。
「それなら、急がずともよい」
わたしは、そう判じた。焦って中島を攻め立てれば、大祝家の名を持ち出されて、こじれる。だが、時をかけて差を見せつければ、宗兵衛のほうから折れてくる目算が立つ。
弥九郎に、その見立てを伝えると、しばらく黙って聞いていたが、やがて頷いた。
「待つのは、性に合わんが」
「待つと申しても、何もせずに待つわけではござりませぬ。差を、こちらから広げてまいりまする」
「広げる、とは」
「これまでどおりのことにござります。潮を読み、田を富ませ、塩を焼く。それを、これまでより、いっそう厚くする。中島の者の目に、それが自然と入るように」
弥九郎は、少し笑った。
「つまり、何も変えるなということか」
「何も変えぬまま、続けるだけで、差は開いてまいりまする」
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その差は、思いのほか早く、目に見える形で現れた。
七月の半ば、瀬戸内に、大きな時化が来た。
前触れは、幾日も前からあった。潮の色が、いつもより濁っていた。風の吹き方も、日によって落ち着きがなかった。わたしは、この島に根を張ってから幾年も書き溜めてきた潮の表と、この数年で覚えた風の癖とを照らし合わせて、時化の日を、ほぼ言い当てた。
「三日のうちに、大きく荒れましょう」
弥九郎に、そう告げた。
「船を出す者には、早う戻るよう触れを」
「分かった」
弥九郎の一党は、その日のうちに、沖に出ていた船を呼び戻し、湊に係留していた船も、すべて綱を増し締めした。塩浜の設備も、風に飛ばされぬよう、重石を積んで補強した。
新参の何人かは、そこまでする要があるのかと、不服そうな顔をしていた。晴れた空を見上げて、こんなに凪いでいるのに、と呟く声も聞こえた。
「文句があるなら、あとで言え」
三郎次が、そう言って、若い衆に綱を運ばせた。
「棟梁の言うことに、これまで外れはない。姐さんの見立ても、外れたことがない。今度も、そうだろうよ」
その言い方には、疑いよりも、慣れが滲んでいた。この数年のあいだに、こうした備えが幾度も功を奏してきた実績が、若い衆にはまだ見えていないだけだった。
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三日目の夜、時化は、告げたとおりの日に来た。
風が唸り、雨が横殴りに叩きつけた。館の板戸が、幾度も大きく鳴った。灯を消して、みなで息を潜めるようにして、一夜を過ごした。
翌朝、風がやんで外へ出てみると、湊の被害は、思っていたよりずっと軽かった。船は一艘も流されていない。塩浜の設備も、崩れたのは一角だけで済んだ。
だが、隣の中島からは、違う報せが届いた。
「中島の船が、幾艘か、流されたとか」
松吉が、そう伝えてきた。
「湊に繋いだままだったが、綱が保たなんだそうで。漁師が幾人か、怪我をしたと」
その報せに、わたしは、頭の中で数を組んだ。時化そのものは、双方に等しく来た。だが、備えの差が、そのまま結果の差になって出た。潮を読んで前もって備える技と、備えぬまま時化を迎える構えとの、明らかな違いだった。
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その日の夕方、思いがけない客が来た。
中島の漁師の一人だった。名を、市造といった。歳の頃、三十半ば。怯えたような、それでいて何かを頼りたそうな目をしていた。
「怒和島は、船を一艘も失わなんだと聞きました」
「そうだ」
弥九郎が、そう答えた。
「どうして、それが分かった。時化が来ることを」
弥九郎は、わたしのほうを一瞥した。答えるかどうかを、こちらに委ねる目だった。
わたしは、少し考えてから、口を開いた。
「潮の色と、風の吹き方を、幾年も書き留めてまいりました。今年の色は、幾年か前の、大きく荒れた年の色と、よう似ておりましたゆえ」
「書き留める、とは」
「紙にござります。潮の色。風向き。日にちごとに」
市造は、それを聞いて、しばらく黙っていた。何かを、頭の中で組み立てようとしているような顔だった。
「それがしどもは、そのような紙は、持ちませぬ」
「宗兵衛様は、お持ちにはならぬのか」
「持たれませぬ。宗兵衛様の頭の中には、幾十年ぶんの海の様子が、収まっておると聞いております。それで、これまで十分やってこられました」
「十分であったなら、今年も、それで足りたはず」
市造は、その言葉に、うつむいた。
「宗兵衛様は、確かに勘の鋭き御方にござります。じゃが、勘は、宗兵衛様のお一人のもの。宗兵衛様が舟に乗っておられぬときは、それがしどもは、自らの覚えで判ずるほかござりませぬ。此度は、まさにそれで、判じを誤りました」
その一言に、わたしは、宗兵衛の強気の裏にある、島の脆さを見た気がした。一人の勘に頼りきる仕組みは、その一人が居合わせぬ場では、たちまち力を失う。
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「宗兵衛様は、長年の勘で、海を読まれます。それがしどもも、それに従うてまいりました」
市造は、そう続けた。
「じゃが、今年の時化は、宗兵衛様の勘でも、読めなんだご様子で」
その一言に、わたしは、頭の帳に、一つの数を書き加えた。
宗兵衛の勘は、確かなものだった。これまで、それで中島を保ってきた実績がある。だが、勘は、一人のものだ。宗兵衛が読み違えれば、島全体が、そのまま読み違える。
「紙に書き留めた表は、一人のものではのうて、皆で分け合えまする」
わたしは、そう続けた。
「宗兵衛様の勘が、悪いとは申しませぬ。ただ、勘は、その人が死ねば、消えまする。書いたものは、残りまする」
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市造は、その言葉に、何か考え込むような顔をしていたが、やがて頭を下げて、帰っていった。
その背中を見送りながら、弥九郎が言った。
「あれは、宗兵衛の言いつけで来たのか、それとも、勝手に来たのか」
「勝手に来たのでござりましょう。宗兵衛様が寄越したにしては、あまりに実直すぎる問い方にござりました」
「なら、あれは、宗兵衛に内緒で来たわけだ」
「はい」
弥九郎は、少し笑った。
「島の中に、罅が入りはじめたか」
その笑い方に、わたしは、いくらか引っかかるものを感じた。罅が入る、というのは、こちらにとって都合のよい言い方だった。だが、市造の目にあったものは、罅というより、もっと切実な、何かへの助けを求める色だったように思う。
その色を、わたしは、その場では、勘定の中に正しく入れられなかった。
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その夜、綾のもとへ、挨拶に立ち寄った。市造のことを、伝えておこうと思ったからだった。
「中島の漁師が、内緒でこちらを頼ってきた、と」
綾は、機の手を止めて、こちらを見た。
「その者は、どのような顔をしておりましたか」
「怯えたような、それでいて、何かを頼りたそうな目にござりました」
「頼りたいのに、頼ってよいものか、迷うておる顔にござりましょう」
綾は、そう言って、また機に手を掛けた。
「己の島の頭を裏切るようで、心苦しかろうと思います。それでも来たのは、よほどのことにござりましょう」
その言葉に、わたしは、少し黙った。市造の心苦しさというものを、綾に言われて、初めてはっきりと形にできた気がした。だが、その形を、自分の勘定の中に、まだうまく組み込めずにいた。
「それを、どう使えばよいと思われます」
「使う、という考え方そのものが、千代殿らしゅうござります」
綾は、そう言って、微かに笑った。責めるような口ぶりではなかった。ただ、事実を、そのまま指摘するような声だった。
わたしは、それに、何も言い返せなかった。
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数日のうちに、似たような話が、二つ、三つと重なった。
中島の別の漁師が、塩の焼き方を訊きに来た。今年は、こちらの浜で焼いた塩のほうが、質がよいという噂が、島の外にも広まりはじめていたらしい。訊きに来た男は、焼き方を教えてほしいとは、なかなか口にできず、遠回しに、竈の形や薪の組み方を、それとなく眺めていくだけだった。それでも、帰り際には、深く頭を下げていった。
また別の者は、田の反数を増やす溜池の仕組みについて、遠回しに訊ねてきた。中島にも、痩せた田は幾つもある。溜池一つで、実りがどれほど変わるかを、その男は既に、噂で聞き知っている様子だった。
いずれも、宗兵衛には内緒の様子だった。皆、こちらの湊に、こそこそと立ち寄っては、短く話をして帰っていく。
夜、館に戻ると、弥九郎が、その日届いた報せをまとめて聞いていた。話を聞き終えると、しばらく腕を組んで黙っていたが、やがて口を開いた。
「島の内が、割れはじめておるな」
弥九郎が、そう言った。
「宗兵衛は、まだ気づいておらぬのか」
「気づいておりましょう。気づいた上で、まだ強く出られるだけの、何かが残っておるのやもしれませぬ」
それとも、気づいていながら、認められずにいるだけなのかもしれなかった。長年、島の頭として立ってきた誇りが、易々と譲るのを、許さぬのかもしれない。
そう答えながら、わたしは、宗兵衛の顔を思い出していた。値踏みするような、冷ややかな目。あの目の裏に、いま、何が動いているのか。焦りか、意地か、それとも、まだこちらの知らない備えか。
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夜、館の一室で、帳を広げながら、わたしは、この半年のことを、ざっと数え直した。
柱島と津和地島は、あっさりと加わった。中島は抗った。だが、抗いながらも、島の内では、こちらの技を欲しがる声が、少しずつ増えている。
技そのものより、書いて渡せることが差になる。潮の表も、塩の焼き方も、溜池の仕組みも、一人の勘ではなく、紙に残る形にしてきた。その積み重ねが、いま、こうして形になって出ている。
宗兵衛の腕は、確かなものだった。それは、認めねばならなかった。だが、腕だけでは、書いたものには敵わない。腕は、一代限りで途切れる。書いたものは、次の代にも渡せる。
その差が、いま、静かに、だが確かに、中島の内側から、こちらへ傾きはじめていた。潮の流れが、目には見えぬところで、じわりと向きを変えていくのに似ていた。
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灯を消す前に、帳の最後に、一行だけ書き足した。
中島、内より崩れはじめる。宗兵衛、なお強気。だが、いつまで保つか。
その一行を見つめながら、わたしは、市造の目を、もう一度思い浮かべた。
助けを求める目だった、と、いまさらのように思った。あの男は、ただ得を求めて来たのではなかったのかもしれない。時化の夜、怪我をした誰かのそばで、何もできなかった自分への、悔しさのようなものを、抱えていたのかもしれなかった。
その悔しさを、わたしは、差がつくという勘定の中に、ただ数として組み込んでしまっていた。
綾の声が、耳の奥に、まだ残っていた。使う、という考え方そのものが、千代殿らしゅうござります。
責める言葉ではなかった。それだけに、かえって、胸の底に、ちくりと刺さるものがあった。
市造も、他の漁師たちも、こちらを頼ってきたのは、得のためだけではないのかもしれなかった。誰かの島が、あの時化の夜、何も失わずに済んだという事実そのものに、羨望よりも先に、安堵に似た何かを覚えたのかもしれない。自分の島でも、そうであってほしいという、ただそれだけの願いが、根にあるのかもしれなかった。
そこまで考えて、わたしは、筆を置いた。
考えたところで、この帳に書き加えるべき数には、変わりがなかった。市造の悔しさも、綾の指摘も、勘定の外側にあるものだった。外側にあるまま、わたしはそれを、そっと帳の隅に置いた。
外では、蝉の声が、まだ絶え間なく続いていた。夏の盛りだった。中島の稲も、こちらの稲も、同じ日の光を浴びて育っている。それだけは、どちらの島にとっても、等しいことだった。
その等しさの中で、備えのあるなしだけが、静かに、両者を隔てていく。その隔たりが、この先、どこまで広がっていくのか。灯を消しながら、わたしは、まだその先を、はっきりとは見通せずにいた。
灯を消してほどなく、弥九郎が渡ってきた。市造のことも、綾の指摘のことも、口には出さなかった。ただ、いつもと変わらぬ足取りで、いつもと変わらぬ時分に、渡ってくる。その変わらなさだけが、今夜は、いくらか、ありがたかった。
翌朝、蝉の声の中を歩いていると、幸松が、稲の見回りをしている姿が目に入った。誰に言われたでもなく、田の水の減り具合を、指で確かめている。市造の島の稲のことを話すと、幸松は、しばらく考えてから、「こちらの田も、油断はできませぬ」とだけ言った。歳の割に、地に足のついた物言いだった。




