第四話 山を拓く
応永三十年(一四二三)六月 伊予国 新居郡 別子山中
中島の一件が、いったん落ち着いたところで、弥九郎は、新居の山へ、もう一度人を出すと決めた。
大祝家との縁については、六郎太からの調べが、まだ途中だった。宗兵衛の家が、祭りの折に船を出し合う程度の縁なのか、それとも、もっと深いところで結びついているのか、はっきりしたことは分からないままだった。急いて動けば藪をつつくと自分で言った手前、こちらから催促することもできず、ただ日々の勘定を進めながら、報せを待つよりほかなかった。
その宙ぶらりんな心持ちを、体を動かす仕事で埋めるように、わたしは新居の話に頷いた。
「伊佐次から文が来た」
弥九郎は、そう言って、板間に文を広げた。
「あの谷、もそっと奥まで見たいと。ただ、日帰りでは埒が明かぬ。幾日も山に籠もらねばならぬそうだ」
「幾日も籠もるとなれば、飯と水が要りましょう」
「そこだ」
弥九郎は、指で文を叩いた。
「奥へ人を張りつかせるには、麓から物を運ぶ道が要る。山道は、獣道しかない。担いで登るには、遠すぎる」
わたしは、頷いた。木を伐り出すにも、石を運び出すにも、同じ壁が立ちはだかる。道具のない土地で、いちばん最初にぶつかる壁は、いつも、これだった。人か、荷か、水か。そのどれかが、必ず足りない。
「道を、拓きましょう」
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船は、五艘に増えた。
伊佐次たちの他に、山慣れた者を新たに幾人か加え、道具も多く積んだ。斧、鋸、綱、それに、船大工から借り受けた滑車も幾つか積み込んだ。
新居の浦に着くと、権七が、また出迎えてくれた。前回よりも、幾らか表情が和らいでいるように見えた。土産の粟や干し魚が、村の暮らしに、いくらか益をもたらしていたのかもしれない。
「今度は、幾日ほど」
「十日ほどは、山に入る」
弥九郎が、そう答えると、権七は少し驚いた顔をした。
「あの谷に、十日も」
「案ずるな。祟りなら、祟りで構わん。祟りより先に、木か石か、何か出るかどうかを確かめる」
権七は、それ以上は何も言わず、案内の役を引き受けてくれた。
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山に入って、まず取りかかったのは、道そのものだった。
麓から、谷の入り口まで、獣道を少し広げるだけでも、思ったより手間がかかった。木の根を切り、石をどかし、傾いた斜面には、土を盛って足場を作る。
「まっすぐには、拓かぬほうがよい」
わたしは、道普請の場で、そう言った。
「急な道は、荷を担ぐ者の足を疲れさせます。つづら折りにして、勾配を殺したほうが、遠回りでも、結局は早うござります」
伊佐次が、少し怪訝な顔をした。
「遠回りが、早いと」
「はい。急な坂を、休み休み登るより、緩い坂を、休まず登るほうが、一日に運べる荷の数は、多うなりまする」
その理屈に、伊佐次はしばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。
「ならば、その通りにやってみましょう」
道は、蛇のように、幾重にも折れ曲がりながら、山肌を這い上がっていった。
土を運ぶのは、来た者たちのうち、力のある若い衆に任せた。木の根を掘り起こす者、石を積んで斜面を支える者、それぞれに役目を割り振ると、思ったより早く、道の形が見えはじめた。
汗が、絶え間なく背を伝った。六月の山は、海とは違う暑さだった。風が通らない。虫の羽音が、耳元でずっと鳴っている。
「姐さんも、休まれては」
伊佐次が、そう声を掛けてきたが、わたしは首を振った。道の傾き具合を、自分の足で確かめておきたかった。急すぎればやり直しになる。緩すぎれば、それも無駄な手間になる。ちょうどよい按配を、頭の中の数だけでなく、実際の足の疲れで確かめる必要があった。
三日ほどで、麓から谷の入り口まで、荷車一台がどうにか通れる道が通じた。粗い道だった。雨が降れば、すぐにぬかるむだろう。それでも、獣道しかなかったころに比べれば、格段の違いだった。
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道の目処が立ったところで、次に取りかかったのは、谷を跨ぐ綱だった。
谷の深いところでは、道を通すよりも、綱を張って、荷を吊り下ろすほうが早い。重い荷を上から下ろせば、その分の力で、反対側の空の籠が上がる。滑車と、綱と、山の傾斜だけでできる仕組みだった。
「これは、どこで見た仕組みで」
三郎次が、綱を担ぎながら、そう訊ねた。
「山里で見た。道具のない土地に、似たような仕組みがあった」
それ以上は答えなかった。詳しい仕掛けの理屈までは、覚えていない。ただ、重い荷を下ろせば、反対側が上がるという、その形だけを、体が覚えていた。
綱は、船の帆縄を扱う者たちが綯った。海の綱と、山の綱とでは、掛かる力の向きが違う。それでも、綱を綯う技そのものは、同じ手が使えた。
「海の技を、山で使うか」
弥九郎が、そう言って、面白そうに笑った。
「妙な使いようにござりましょうか」
「いや。お前らしい」
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初めて綱を張った日、最初の一荷を吊るしたところで、綱が切れた。
木箱が、谷底へ落ちて、乾いた音を立てて砕けた。中身は、ただの石だったので、怪我人は出なかった。だが、綱を綯った男の一人が、青ざめた顔で、切れた綱の端を握りしめていた。
耳の奥で、綱の切れる音が、まだ響いていた。ぶつりという、思っていたより軽い音だった。人の力で綯った綱が、あっけなく千切れる。その軽さが、かえって恐ろしかった。もし、あの木箱の代わりに、人が乗っていたら。
その想いを、口には出さなかった。出せば、山に籠もる者たちの足が、竦んでしまう。
「すまねえ、姐さん」
「詫びることはない」
わたしは、切れた綱の断面を見た。ささくれ立った繊維が、幾筋も飛び出している。
「掛かる力を、見誤っただけだ。この谷は、思うたより深い。綱にかかる重さも、思うたより大きい」
「もっと太い綱を綯えば」
「太くすれば、その分、重くなる。滑車も、大きゅうせねばならぬ」
その日は、それ以上、綱を張ることをやめた。夜になって、焚き火を囲みながら、綱を綯う男たちと、太さと、掛かる力の見当を、一つずつ数え直した。
一度で当てようとしないことだ、と、わたしは自分に言い聞かせた。何度も掛け違えて、初めて、正しい太さが分かる。
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翌日、太さを変えた綱で、もう一度試した。
今度は切れなかった。だが、滑車が、途中で焼き付いた。木で作った滑車の軸が、摩擦で熱を持ち、動かなくなったのだ。
「油を差せば」
伊佐次が、そう言うと、手の空いている者が、魚の油を軸に塗った。それで、いくらか滑りは良くなったが、半日も使うと、また同じことが起きた。
「木の軸では、いずれ擦り減る」
わたしは、そう言った。
「金物を使えるか」
「金物は、島から持ってこねば」
「次に来るときは、鍛冶の道具も積もう」
伊佐次は、頷きながらも、まだ焼き付いた滑車を、名残惜しそうに眺めていた。せっかく組み上げた仕掛けが、たった半日で使い物にならなくなる。その悔しさが、日灼けした顔に、はっきりと出ていた。
「悔しいか」
「悔しゅうござります。組んだときは、うまくいくと思うたのですが」
「うまくいくと思うたときほど、駄目になる。それが道理だ」
「姐さんは、それでも、平気な顔をしておられる」
「平気ではない。ただ、驚かぬだけだ」
その違いを、伊佐次が飲み込めたかどうかは、分からなかった。だが、翌朝には、また新しい軸を削りはじめていた。
その日も、結局、思うほどには荷を運べなかった。谷の向こうから、乾いた木の匂いと、油の焦げる匂いが、ずっと漂っていた。
夜になると、山に籠もる者たちは、谷の入り口に張った天幕の下に集まった。焚き火を囲んで、干し飯を湯で戻し、塩をふって食べる。海の上とは違う静けさが、あたりを包んでいた。波の音の代わりに、名も知らぬ鳥の声と、木々のざわめきだけが聞こえる。
「山は、耳が慣れませぬな」
三郎次が、ぽつりと言った。
「船の上なら、波の音一つで、どこにおるか分かる。ここは、何もかもが、同じように聞こえる」
「慣れれば、分かるようになる」
伊佐次が、そう答えた。
「木の音も、風の音も、獣の音も、じきに聞き分けられるようになる。おれも、初めはお前と同じだった」
その遣り取りを、わたしは火の傍で聞いていた。海の民である手下たちが、山という不慣れな場所で、それでも少しずつ、居場所を作っていく様子だった。
夜、伊佐次が、疲れた顔で言った。
「姐さん、こういうものは、いつも、こう何度も駄目になるものなので」
「大方は、そうだ」
「思うたより、根気の要る仕事にござりますな」
「根気だけが要る。それさえあれば、いずれ形になる」
伊佐次は、その言葉を、口の中で繰り返すように、小さく頷いた。焚き火の火が、疲れた顔を、赤く照らしていた。
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十日目、山を発つ前夜、権七が、焚き火の傍に来て、しばらく黙って座っていた。
「何日も、ご苦労にござりました」
そう言ってから、少し間を置いて、続けた。
「あの、祖父のことにござりますが」
わたしは、火を見つめたまま、耳を傾けた。
「祖父は、木を伐りに入って、崖から落ちて死んだと、後になって、村の年寄りから聞きました。祟りではなく、ただの、足の踏み外しだったと」
「そうか」
「それがしは、それを、詳しく知りとうなかったのやもしれませぬ。祟りだと思うておったほうが、諦めがついたのかもしれませぬ」
権七は、そこで、一度言葉を切った。膝の上で、両の手を、固く組んでいた。
その言葉に、わたしは、少し考えた。祟りだと思っていたほうが、諦めがつく。理屈の通らない死のほうが、かえって受け入れやすいということが、あるのかもしれなかった。
「して、なぜ、いま、それを話してくれた」
「……千代様が、あの谷に、真剣に向き合うておられるのを見たからにござります」
権七は、火を見つめたまま、続けた。
「祟りだ、近づくなと申すだけの余所者なら、伝える気にはなりませなんだ。じゃが、千代様は、石を拾い、水の色を確かめ、何日も山に籠もっておられる。祖父の死んだ理由を、正しく知っていただいたほうがよいと、そう思うたのです」
その言葉に、喉の奥が、わずかに熱くなった。
「教えてくれて、礼を申す」
「いえ」
権七は、それだけ言って、火の傍を離れていった。その背中を見送りながら、わたしは、この男が、十日のあいだ、ずっとこの話を切り出す機を窺っていたのだと気づいた。気づくのが、遅すぎた。
十日ものあいだ、権七は、こちらの働きぶりを、黙って見ていたのだろう。その見立てが、祖父の死の話を語る値打ちがあるかどうかを、権七なりに測っていたのだ。その測りの重さに、わたしはようやく思い至った。だが、それを、権七自身に確かめることはしなかった。確かめれば、この男は、また口を閉ざしてしまう気がした。
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浦へ戻る船の上で、弥九郎が、綱と滑車のことを訊ねた。
「次は、うまくいくか」
「分かりませぬ。金物の軸を使えば、幾らかましになりましょうが、それでも、また別のところで、何かが駄目になりましょう」
「駄目になるのが、前提か」
「はい。何度も駄目にして、その都度、直すよりほかに、道はござりませぬ」
弥九郎は、少し笑った。
「気の長い話だ」
「気の長い話にござります」
「だが、お前は、そういう話のほうが、得手だろう」
その一言に、わたしは、少し虚を突かれた。
「なぜ、そう思われます」
「島でも、そうだった。溜池も、田も、塩浜も、一度で仕上がったことは、一つもない。お前は、それを、嫌がる様子もなく、幾度でもやり直す」
「嫌うても、詮のないことにござりますゆえ」
「詮がないと分かっておっても、嫌う者は嫌う」
弥九郎は、そう言って、遠くの島影を眺めた。
「お前は、嫌わぬ。そこが、他の者とは違う」
その言葉を、どう受け取ればよいのか、わたしはすぐには分からなかった。褒められているのか、ただ事実を述べられているだけなのか。判じかねたまま、袂の中の、あの赤茶けた石を、また確かめた。冷たく、ざらついた感触は、変わらなかった。
道は、まだ半分も拓けていない。谷の奥に何が眠っているのかも、まだ分からない。それでも、道具のない場所で、少しずつ形を作っていくこの仕事だけは、手が覚えていた。
新居の浦が、水平線の向こうへ小さくなっていく。次に来るときは、金物の軸と、もっと太い綱を積んでこなければならない。頭の中の帳に、そのための算段を、一つずつ書き足していった。
海の色が、来たときよりも、幾らか濃くなっていた。夏が近い。
新居郡に泊まった三夜のあいだ、弥九郎の渡りはなかった。道普請の指図で、夜更けまで手下と地図を睨んでいる姿を、幾度も見た。島へ帰れば、また渡りの数が戻るのだろう。そう思うだけで、いまは十分だった。
湊に着くと、綾が、真っ先に出迎えに来た。
「山は、どうにございましたか」
「道は、まだ半分にござります」
そう答えると、綾は、それ以上は問わず、ただ、袂の石に気づいて、少し目を細めた。何も言わず見ているだけの、その静かな気づき方に、わたしは、いつも助けられていた。
弥九郎は、綾に一声かけると、すぐに、湊で待っていた伊佐次のもとへ足を向けた。金物の軸のことを、もう頭の中で組み立てはじめているらしい。誰に指図されるでもなく、自分で次の段取りを決めて動くこの男の性分は、島でも、山でも、変わらなかった。




