第三話 抗う島
応永三十年(一四二三)五月 伊予国 忽那諸島 中島
新居から戻って、ひと月が過ぎたころ、中島の漁場で、揉め事が起きた。
その間、柱島と津和地島との遣り取りは、静かに進んでいた。両島の乙名から、あらためて誓いの書付が届き、湊の使い方や、年貢に代わる納めの割合を定める段取りに入っていた。事は、思っていたより滑らかに進んでいる。滑らかすぎることに、まだ引っかかりを覚えながらも、日々の勘定は、それはそれとして進めねばならなかった。
睦月島と野忽那島からは、まだ何の音沙汰もなかった。二神島からも同じだった。三島とも、様子を見ているのだろう。柱島と津和地島が加わって、どう扱われるかを、遠くから窺っているに違いなかった。
報せを持ってきたのは、松吉だった。
「うちの網が、切られました」
「誰にやられた」
「中島の漁師にござります。境の岩場を越えたと、因縁をつけられて」
わたしは、帳面から顔を上げた。
境の岩場というのは、怒和島と中島のあいだにある、小さな瀬戸のことだった。潮の流れが速く、魚の寄る場所として、以前から双方の漁師が出入りしていた。境目は、はっきりと定まってはいない。
「うちの網が、境を越えたのか」
「越えたか越えぬかは、こちらにも分かりませぬ。潮に流されれば、多少はずれもしましょう」
「向こうの言い分は」
「越えた分だけでは済まさぬ、と。近ごろ、こちらの船があの瀬戸に多う出ておるのが、気に食わぬ様子で」
その言葉に、わたしは、頭の中で数を組みはじめた。
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中島は、六島のうちで最も大きな島だった。田も広く、人も多い。柱島や津和地島とは、格が違う。
柱島と津和地島が、あっさりとこちらへ加わったのは、あの二島が、もともと小さく、頼れる後ろ盾を持たなかったからだろう。中島は、そうではなかった。乙名の家は古く、島の内でも力があり、これまで誰の下にもつかずに立ってきた誇りがあった。
「乙名は、誰だ」
「宗兵衛と申す者にて。祖父の代から、中島を差配しておるとか」
「宗兵衛は、柱島と津和地島が加わったことを、知っておるか」
「知らぬはずはございますまい。同じ七島のうちにて」
わたしは、その答えに頷いた。
知っていて、なお動かない。あるいは、動かないと決めているからこそ、境の漁場で、あえて事を構えてきた。
そう見立てて、弥九郎のもとへ向かった。
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弥九郎は、庭先で、手下たちに指図を出していた。塩浜の普請のことだった。話が一区切りついたところで、わたしは、松吉から聞いた話を伝えた。
「網を切られたか」
「はい。向こうも、こちらの出方を見ておるのでしょう」
「境を越えたのは、こちらの落ち度でもある」
「さようにござります。ですが、それだけで済ませようとは、向こうも思うておりますまい」
弥九郎は、少し考えて、腕を組んだ。
「宗兵衛は、どういう男だ」
「祖父の代から島を差配しておる家柄にて。柱島や津和地島とは違い、後ろ盾を求める気配はないとのこと」
「なら、力を見せねば、話にならんな」
「勝ち切ってはなりませぬ」
わたしは、そう続けた。
「向こうを潰せば、他の島々が、こちらを恐れて離れましょう。差を見せる程度に留め、痛み分けで引く。その加減が肝要にござります」
弥九郎は、少し笑った。
「お前は、いつも勝つなと言う」
「勝ちすぎれば、次が続きませぬ」
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翌日、弥九郎は、船を三艘出して、境の瀬戸へ向かった。
わたしも、その一艘に乗った。
瀬戸へ真っ直ぐには向かわず、弥九郎は、船団を、中島の岸沿いに、ゆっくりと廻らせた。
「境の話をしに行くだけでは」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、舵を握る手下に目配せしながら答えた。
「話だけでは、宗兵衛は動かぬ。まず、目に入れておく」
三艘の船は、帆を絞り、櫓の調子を揃えて、この瀬戸特有の速い潮の中を、乱れなく進んだ。潮目を読み違えれば、たちまち流される場所だった。中島の浜に出ていた漁師たちが、手を止めて、こちらの船足を、じっと見ているのが分かった。何かを言い立てるでもなく、ただ、黙って見ていた。
一巡りしたあと、弥九郎は、船団を、境の瀬戸のちょうど真ん中——怒和島からも中島からも、等しく見渡せる場所に、錨を下ろさせた。
「ここに、しばらく留める」
「動かぬのですか」
「動かぬ。ただ、そこにおるだけでよい」
言葉を尽くすより先に、船の姿そのものに、語らせるつもりのようだった。潮の中でも崩れぬ船足と、両島のどちらからも見える停泊の位置。それだけで、こちらの構え——腕もあり、退く気もない、という構え——は、既に伝わっているはずだった。
程なくして、中島の側からも漁船が二艘出てきた。数では、こちらのほうがわずかに多い。だが、向こうの船には、腕に覚えのありそうな男たちが乗っていた。海の民の気配は、遠目にも分かる。
潮の流れが速い場所だった。船縁を握る手に、思わず力がこもった。足の裏に伝わる揺れが、いつもより荒い。この瀬戸の潮を読み違えれば、船同士がぶつかりかねない。双方とも、それを承知の上で、あえてこの場所に船を寄せていた。
「あれが、宗兵衛か」
弥九郎が、先頭の船を見て言った。
年の頃、四十半ば。肩幅の広い、日灼けした男が、船縁に立っていた。目つきは、こちらを値踏みするような、冷ややかなものだった。
「荒瀬弥九郎とやら」
宗兵衛の声が、水面を渡って聞こえてきた。
「怒和島の漁師が、境を越えて網を入れておる。詫びに参られたか、それとも」
「詫びには来た。網が越えたのなら、それはこちらの非だ」
弥九郎は、そう答えた。
「だが、網一枚切られて、それで済ますつもりもない」
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宗兵衛の顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
「二神の名を借りて、我らを従えるおつもりか」
その一言で、こちらの狙いを、既に見抜かれていることが分かった。
「柱島も津和地島も、名を恐れて頭を垂れたと聞く。あの島々は、もとより小さい。だが、中島は違う。我らは、誰の下にもついたことがない」
「下につけとは言うておらぬ」
弥九郎が、答えた。
「境の漁場を、正しく分けたいだけだ」
「分けるだと。この瀬戸は、我らが祖父の代から使うてきた漁場ぞ」
「怒和島の者も、同じだけ長う使うてきた」
宗兵衛は、しばらく黙って、こちらの船団を見渡した。数を数えているようだった。
「船を出して脅すか」
「脅しではない。話をしに来ただけだ」
「話なら、船を出さずとも来られよう」
宗兵衛は、そう続けて、船縁を軽く叩いた。
「それとも、船の数を見せねば、話もできぬ間柄か」
その言い草に、弥九郎の後ろに控えていた三郎次が、舌打ちを漏らした。
「棟梁、あの物言い」
「黙っておれ」
弥九郎は、短くそれだけ言って、三郎次を下がらせた。
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その言葉に、弥九郎は、少し黙った。
言い返す言葉を探しているようだった。船を出したこと自体が、既に脅しに見えることを、この場で言われて、初めて気づいたようでもあった。
わたしは、そこで、初めて口を開いた。
「宗兵衛殿」
声を上げると、宗兵衛の目が、こちらへ動いた。
「船を出したのは、脅しにはあらず。網を切られた側として、詫びを申し上げに参ったまで。詫びを申す相手に、素手で近づくは、かえって非礼にござりましょう」
「女子が、口を出すか」
「口を出しますのは、この場を、これ以上こじらせとうないゆえにて」
宗兵衛は、少し眉を寄せた。値踏みするような目が、今度は、わたしのほうへ向いた。
「詫びを申すと言うたな。ならば、境を侵した詫び料を出せ。それで、この場は収める」
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弥九郎が、頷いた。
「よかろう。詫び料は払う」
「その代わり」
宗兵衛の声に、力がこもった。
「今後、この瀬戸に、怒和島の船は入れさせぬ。境を越えるも越えぬもない。端から入るな、ということだ」
その言い分に、船に乗っていた手下たちの何人かが、色めき立った。詫び料を払ってなお、漁場を丸ごと締め出される。得心のいく話ではなかった。
弥九郎の顔に、はっきりと、険しさが浮かんだ。
「それは、飲めぬ」
弥九郎は、そう言い切った。
「詫び料は払う。だが、瀬戸を丸ごと明け渡せとは、虫が良すぎよう。網一枚の落ち度に対して、割に合わぬ」
「ならば、力ずくで、決めるか」
宗兵衛が、そう返した。
「それも、一つの道だ。だが、力ずくになれば、そちらも、ただでは済むまい。この潮を、双方、よう知っておる。決着がつくまで、双方の船が、何艘沈むか、見物だな」
その言葉に、宗兵衛は、しばらく、黙った。船の数を、あらためて、値踏みするような目で見ていた。
「では、どうしろと申す」
「瀬戸を、二つに割る。境より、こちら側の半分は、こちらの漁場。あちら側の半分は、そちらの漁場。境目は、あの岩の連なりを、目印にする」
弥九郎は、そう続けた。
「これまで通り、双方が全部を使うのではのうて、はっきり分ける。それで、こういう諍いは、この先、起こらぬ」
宗兵衛は、なおも、しばらく、考え込んでいた。
「詫び料は」
「払う。だが、瀬戸を半分手放す上に、詫び料まで丸損では、こちらの手下が、示しがつかぬ。詫び料は、半分にしていただこう」
その駆け引きに、宗兵衛は、微かに、口の端を歪めた。
「言うことよ」
「よかろう」
宗兵衛は、そう答えた。
「瀬戸は、二つに割る。詫び料は、半分。それで、手を打とう」
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船を返す道すがら、松吉が、まだ、いくらか不服そうな顔をしていた。
「瀬戸を、半分も、譲る形になり申した」
「半分は、向こうも、譲っておる。丸ごと取られるよりは、よほどましだ」
弥九郎は、そう答えた。
「力ずくで、押し通すことも、できたのでは」
「できたやもしれぬ。だが、この潮で、双方が本気でぶつかれば、こちらの船も、幾艘かは沈む。瀬戸の半分と、手下の命と、どちらが重いかという話だ」
その答えに、松吉は、しばらく、黙っていたが、やがて、深く頷いた。
わたしは、その横で、頭の中の帳に、今日の遣り取りを書き込んでいた。
宗兵衛は、力で押し返してきた。柱島や津和地島とは、明らかに違う出方だった。だが、その強気の裏に、何があるのかを、まだ測りきれていなかった。ただ誇りだけで動いているのか、それとも、他に頼れる何かを持っているのか。
「宗兵衛は、なぜ、あれほど強気に出られるのでしょう」
わたしは、そう呟いた。
「島が大きいからだろう」
弥九郎は、そう答えた。
「大きいだけで、あれほど言えるものでしょうか」
その問いに、弥九郎は答えなかった。ただ、遠ざかっていく中島の岸を、しばらく見ていた。
船が怒和島に着くと、綾が湊まで出てきていた。留守のあいだの様子を、簡単に伝えるためだった。田のこと、機のこと、鶴丸から文が届いたこと。それだけを短く話して、綾は、こちらの顔をじっと見た。
「浮かぬ顔をしておられます」
「中島との話が、思うたようには参りませなんだ」
「中島の宗兵衛殿なら」
綾は、そこで、少し言葉を切った。
「かつて、父の代からの付き合いがあると聞いたことがございます。詳しくは、又五郎兄上のほうが、ご存じかもしれませぬ」
その一言に、わたしは、目を上げた。
又五郎。柱島へ渡っていた又五郎。中島の宗兵衛とも、何か縁があるのかもしれなかった。だが、綾の口ぶりは、それ以上のことを知っている様子ではなかった。単に、思い出したことを、そのまま口にしただけのようだった。
わたしは、その一言を、頭の帳に書き加えた。だが、それをすぐに又五郎本人に確かめに行くことはしなかった。義重の家の内証に、こちらから踏み込む筋ではないと、またしても、そう判じたからだった。
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その日の夜、館に戻ってから、わたしは、松吉と六郎太を呼んで、中島のことを訊ねた。
「宗兵衛の家は、他とどういう縁があるか、調べられるか」
「調べてみますが」
松吉は、そう言って、少し首を傾げた。
松吉が、そう答えた。
「あの島は、こちらとは、あまり付き合いがございませぬので、時が掛かるかと」
「構わぬ。急ぎではない。焦って動けば、かえって藪をつつく」
「一つだけ、耳にしたことが」
六郎太が、そう口を挟んだ。少し言いにくそうに、間を置いてから続けた。
「何だ」
「宗兵衛の家は、代々、大三島の大祝家と、付き合いがあるとか。詳しくは存じませぬが、祭りの折などに、船を出し合う仲だと」
大祝家という名を聞いて、わたしは少し考えた。大三島の大山祇神社を預かる家柄で、瀬戸内でも古くから重んじられている。もし、中島がその大祝家と縁を持っているのなら、宗兵衛の強気の裏には、単なる島の誇りだけでなく、外に控えた大きな名があるのかもしれなかった。
「大祝家が、中島の後ろ盾になっておると」
「そこまでは、まだ分かりませぬ」
「調べてみよ。急がずともよいが、途切れさせるな」
六郎太は頷いて、下がっていった。
その背中を見送りながら、わたしは、松吉が最後まで浮かない顔をしていたことに気づいた。
「松吉、まだ何か」
「いえ……祖父の代から使うてきた瀬戸を、半分とはいえ、あの男に譲る形になったのが、どうにも腹に据えかねまして」
「腹に据えかねるのは、お前だけではない」
そう答えたが、それ以上は、慰めの言葉を継がなかった。松吉の不服を、いま宥めることよりも、宗兵衛の強気の根を突き止めることのほうが、先だと判じていた。
その判じ方が、松吉の胸の内をどれだけ置き去りにしているか、わたしはまだ、深くは気づいていなかった。
そう答えながら、わたしは、宗兵衛の目を思い出していた。
値踏みするような、冷ややかな目。あれは、単なる誇りの高さだけの目ではなかった。何か、こちらの知らない備えを、腹に持っている者の目だった。
だが、その正体を、その夜のうちには、まだ掴めなかった。
灯を消す前に、帳に一行だけ、書き加えた。
中島、抗う。理由、いまだ知れず。大祝家との縁、あるやなしや。
その一行を見つめながら、わたしは、この島だけが、他の島とは違う理屈で動いているのだと、改めて思った。得でも、恐れでもない何かが、あの島の底に、まだ隠れている。
もし大祝家が本当に後ろ盾になっているのなら、中島を力で押し込めることは、思っていたより難しくなる。大祝家は、こちらが将来、綾の弟の縁組で頼ることになるやもしれぬ家柄だった。その家と、真正面から事を構えるわけにはいかない。
指先が、帳面の上で止まった。
このまま力で押せば、思わぬところで、こちらの先々の目算を潰しかねない。かといって、中島を野放しにすれば、他の島々への示しがつかない。どちらの道を選んでも、どこかに無理が出る。
その無理をどう均すかを、まだわたしは、答えを持っていなかった。
灯芯が、じりじりと音を立てて燃えていた。その音だけを、しばらく聞いていた。
外では、風が出はじめていた。板戸が、かたかたと小さく鳴っている。明日は、天気が崩れるかもしれない。
崩れるなら崩れるでよい、と思った。天気のことなら、読み違えても、命に関わりはしない。だが、中島のことは、そうはいかなかった。読み違えれば、この先の何年もの道筋が、狂う。
その重さを、指の先の冷たさで、確かめながら、わたしは灯を消した。
この夜は、弥九郎の渡りはなかった。中島のことで、まだ手下と話し込んでいるのだろう。渡りが来ぬ夜も、数のうちだと、わたしは、静かに帳の隅に記した。




