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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二話 赤い水

応永三十年(一四二三)四月 伊予国 新居郡 別子山中


柱島と津和地島からの使いが帰ってから、十日ほどが過ぎていた。


その間に、弥九郎は、別の話を進めていた。


婚礼を経て、二神の名が河野方に改めて重みを増したことは、こちらにも別の道を開いていた。伊予国のうち、まだ手を伸ばしていない土地——新居郡は、その一つだった。


「木のことだ」


弥九郎は、そう言った。館の板間で、地図代わりの絵図を広げながらだった。


「島の木は、いずれ足りなくなる。塩を焼く。窯を焼く。船を造る。減る一方で、増える手立てがない」


「東の山なら、木が余っておりましょうか」


「余っているかどうかは、行ってみねば分からん。だが、伊予の東は、まだ誰も手を入れておらぬ土地が多いと聞く」


弥九郎は、絵図の上に指を這わせた。新居郡は、河野氏の勢力の端に近い。忽那から見れば遠いが、二神の名を通せば、まったく手の届かぬ場所でもなくなっていた。


「今までなら、遠すぎて考えもせなんだ土地だ。それが、いまは違う」


「本家の名の重みにござりますね」


「そうだ。せっかく重くなった名だ。使わねば、意味がない」


その一言に、頷いた。木の話は、まだ差し迫った危機ではなかった。だが、いずれ来ると分かっている危機に、早く手を打っておくのは、悪い判断ではなかった。


「わたくしも、参りとうござります」


弥九郎は、少し考えて、頷いた。


「留守は」


「六郎太に任せまする」


その名を出すと、弥九郎も頷いた。片足を引きずる男だが、帳の付け方も、島の差配も、この三年でずいぶんと身についている。任せて案じるところはなかった。


出立の日、湊まで見送りに出たのは、綾だった。


「東の山へ、行かれるのですね」


「はい。木を見に」


「気をつけて。山は、海と違って、勝手が分かりませぬ」


短い遣り取りだった。それ以上は、互いに何も言わなかった。綾の目が、少しのあいだ、こちらの荷を見ていた。何を持っていくのかを、確かめるような目だった。それだけで、見送りは終わった。


---


船は、三艘出た。


伊予灘を東へ進み、新居の浦に着いたのは、四日目の朝だった。


道中、海の色が幾度も変わった。怒和島の海は、島々に囲まれて、いつも凪いだ緑を湛えている。だが東へ進むにつれて、島影が減り、波の色が濃くなっていった。潮の速さも違う。舵を取る手下たちが、幾度も声を掛け合いながら、船足を確かめていた。


夜は、島陰に船を寄せて泊まった。焚き火を囲んで、干した魚と、麦の飯を分けた。手下の一人が、故郷はこの辺りかと訊かれて、いや、もっと先だと答える声が聞こえた。誰もが、それぞれに、生まれた場所から離れて、この一党に流れ着いている。その話を、聞くともなしに聞きながら、わたしは眠りに落ちた。


浦から見える山は、思っていたより近く、そして大きかった。緑の濃い山肌が、幾重にも折り重なっている。海からまっすぐ十数里ほど奥へ、山が連なっていた。


浦の集落は、思っていたより小さかった。漁師の家が二十戸ほど、浜に沿って並んでいる。船を寄せると、子どもたちが物珍しそうに集まってきて、すぐに大人に呼ばれて散っていった。見知らぬ船に対して、恐れと、値踏みの両方が入り混じった目を、大人たちは向けてきた。


弥九郎が、砂浜に降りて、大声で名乗りを上げた。伊予国怒和島の荒瀬弥九郎、二神の縁者、木を見に来ただけで他意はない。そう繰り返すうちに、遠巻きにしていた者たちの肩の力が、少しずつ緩んでいくのが見えた。荷を担いだ手下たちが、粟や干し魚を土産として配ると、子どもたちの目つきが、値踏みから、ただの好奇心に変わっていった。


案内には、地の漁師を一人雇った。名を、権七といった。歳は五十がらみ。日に灼けた顔に、深い皺が刻まれている。


「山へ入られるので」


権七は、そう訊ねた。声に、わずかな戸惑いがあった。


「木を見に参った。伐り出せそうな山があるかどうか」


弥九郎が、そう答えると、権七は、少し間を置いてから頷いた。


「あの山は、深うござります。奥まで入られたことのある者は、あまりおりませぬ」


「なぜだ」


「……別に、これという理由はござりませぬ。ただ、深いだけにて」


その答え方に、何かが引っかかった。理由がないと言いながら、目は、山のほうを見ていなかった。


---


山道は、思っていたより険しかった。


段々になった田が、麓の近くにだけ続いている。それを過ぎると、道はほとんど獣道になった。木の根が、地面を這うように盛り上がっている。


弥九郎の一党の中でも、山慣れた者が幾人か同行していた。木を見る目のある者たちだ。彼らは、道々、幹の太さや、木の種を確かめては、何事か言葉を交わしていた。


わたしは、その後ろについて歩きながら、別のものを見ていた。


谷を流れる水だった。


麓の川は、澄んでいた。だが、山を登るにつれて、支流の一つが、明らかに違う色をしていることに気づいた。


赤い。


正しく言えば、赤茶けた色だった。石の表面にも、同じ色が滲むようにこびりついている。


「権七」


わたしは、足を止めた。


「この水は、いつもこの色か」


---


権七は、こちらを振り返って、少し驚いた顔をした。女が、水の色を気にかけるとは思っていなかったのだろう。


「さようにござります。この谷だけは、いつも、この色をしております」


「他の谷は」


「澄んでおります。この谷だけが、違いまする」


わたしは、しゃがみ込んで、川底の石を一つ、拾い上げた。


表面が、赤茶けている。指でこすると、粉のように、色が落ちた。石そのものの質も、他の場所で見た石と違っていた。もろく、層になって剥がれる。


前の生で、こういう色の水を、一度だけ見たことがあった。


山里の井戸を掘っていたとき、赤く濁った水が出たことがある。土地の者は、それを「鉄気の水」と呼んでいた。飲めば腹を壊す水だと、皆が避けていた。


あのときは、井戸の場所を変えて、事なきを得た。掘り直した場所の水は、澄んでいた。ただの水脈の違いだと、そのときは片づけた。


その先の理屈までは、覚えていない。なぜ赤くなるのか、何が混じっているのか、詳しいことは分からなかった。ただ、こういう色をした水や石のある場所には、何か、普通とは違うものが埋まっていることがある——それだけを、手が覚えていた。


覚えているのは、理屈ではなく、手触りだった。石を割ったときの重さ。指にこびりつく粉の感触。前の生で、そういうものに幾度か触れた記憶が、体のどこかに残っている。だが、それが何であるかを、言葉にして誰かに説くことは、できなかった。


説けないまま、確かめる術だけを、頼りにするしかなかった。


---


「弥九郎様」


わたしは、少し先を歩いていた弥九郎を呼び止めた。


「この谷の水を、見ていただきとうござります」


弥九郎は戻ってきて、川面を覗き込んだ。それから、権七の顔を見た。


「いつもこうか」


「はい」


「木を見に来たが、これは、木の話ではないな」


弥九郎の目が、こちらを見た。


「何を疑っておる」


「分かりませぬ」


正直に、そう答えた。


「この谷の水は、なぜ、こういう色をしておるのか。この石は、なぜ、こうもろく剥がれるのか。それが分かりませぬ。ただ——」


言葉を切って、もう一度、石を見た。


「ただ、こういう色をした水や石のあるところに、何か、値打ちのあるものが埋まっていることを、わたくしは、知っております」


---


弥九郎は、しばらく黙って、川の上流を見ていた。


「掘れば分かるか」


「掘るのは、わたくしにはできませぬ。土の下に何があるかを言い当てるのは、山に慣れた者の勘と、経験にござります」


「お前の勘ではないと」


「わたくしの勘は、この谷が、他の谷と違うということまでにござります。その先は、山師の仕事」


弥九郎は、頷いた。それから、供の中にいた山慣れた者の一人、伊佐次という男を呼んだ。


「この谷を、少し探ってみよ。木のついでで構わん」


伊佐次は、怪訝な顔をしながらも、頷いた。谷に降りて、川底の石を幾つか拾い、それから土を少し掘って、匂いを嗅いだり、色を確かめたりしはじめた。


その様子を、権七が、少し離れた場所から見ていた。


顔色が、あまり良くなかった。


---


「権七」


わたしは、その顔を見て、声を掛けた。


「案じておるのか」


「……いえ」


「この谷に、何かあるのか」


権七は、少し迷ってから、口を開いた。


「昔、この谷の奥で、人が死んだと聞いております。もう、三十年ほど前の話にて」


「どういう死に方だ」


「詳しくは、それがしも存じませぬ。ただ、木を伐りに入った者が、二度と戻らなんだと。それからこの谷には、あまり人が近づきませぬ」


「お前の縁者か」


権七は、少し間を置いてから、頷いた。


「祖父にござります。それがしが、生まれる前の話にて」


その一言で、権七の顔色の理由が、少し分かった気がした。三十年前に死んだ祖父の話を、自分の生まれる前のこととして、他人事のように語る。だが、他人事なら、こうも顔色を変えはしない。


その落差に、わたしはもう一段深く踏み込むこともできたはずだった。だが、そうしなかった。


谷に近づかない理由。三十年前の死。祖父の死を、権七がどれほどの重さで抱えているか——そこまでは、その日、確かめなかった。


理由がある、と思った。だから深追いはしなかった。木を伐りに入った者が戻らなかった。谷が険しく、迷いやすいということだろう。それだけのことだと、そのとき、わたしは判じた。


権七の目に、まだ何か、別のものが残っていることには、気づかなかった。祖父を失った孫が、その死んだ場所へ、余所者を案内している。その心持ちがどういうものかを、わたしは、その日、数えの外に置いたままだった。


---


日が傾きかけたころ、伊佐次が、谷から戻ってきた。


「分かりませぬ」


まず、そう言った。


「ただ、この石、他所では見ぬ質をしております。色も、重さも、妙にござります。もそっと奥まで見ねば、何とも」


「奥へ入るには」


「もう幾日か、要りましょう。今日のところは、これまでかと」


弥九郎は、頷いた。


「よし。木のことも合わせて、また日を改めて来る。伊佐次、覚えておけ。この谷のことは」


「へい」


その遣り取りを聞きながら、わたしは、拾った石を、袂に一つ、しまい込んだ。


---


浦へ戻る道すがら、権七が、ぽつりと言った。


「あの谷には、もう、近づかれぬほうが」


「なぜだ」


「……よい話は、聞きませぬので」


それ以上は、何も言わなかった。


わたしは、その横顔を見た。日に灼けた皺の中に、迷いのようなものが、まだ残っていた。三十年前の死の話だけでは、説き切れない何かが、そこにあるように見えた。


だが、その先を、その日は問わなかった。


弥九郎が、少し先を歩きながら、伊佐次に何か話しかけていた。木のことか、石のことか、声までは届かなかった。二人とも、疲れた足取りながら、山を下りる足は速かった。日が落ちる前に、浦へ戻らねばならない。


浦に近づくにつれて、潮の匂いが強くなった。海が見えてくると、権七の顔つきが、少し緩んだように見えた。山を離れれば、この男は、いつもの漁師の顔に戻る。肩の強張りが解けて、歩き方まで、いくらか軽くなった。


船に乗り込みながら、わたしは、袂の中の石の重みを、指で確かめた。


冷たく、ざらついている。


弥九郎が、隣に立った。


「また来る。木のことも、この石のことも」


「はい」


「権七は、あまり乗り気ではなさそうだったな」


「山の水が悪いと、申しておりました」


それだけを、答えた。祖父の死のことは、口に出さなかった。話したところで、いま急いで詰めるべきことではないと、そう判じたからだった。


弥九郎は、それ以上は問わず、船縁に手を掛けて、沖のほうを見た。


この石が何なのか、まだ分からない。分からないまま、船は浦を離れた。振り返ると、山の緑が、夕日を受けて、赤く染まりはじめていた。


その赤さが、谷の水の色と、どこか似ているように見えた。


権七は、浜に立ったまま、こちらの船を見送っていた。手を振ることはなかった。ただ、山のほうを一度振り返って、それから、こちらへ深く頭を下げた。


その姿が、遠くなっていく。


船が沖へ出ると、潮の流れが変わった。舵を取る手下の声が、風に乗って聞こえてきた。西へ、島々のあいだへ、帰る道だった。


袂の石を、わたしは、もう一度確かめた。この石の正体が分かる日は、まだ遠いだろう。だが、遠いからといって、忘れてよいものではなかった。谷の水の色を、頭の帳に、しっかりと書き留めた。


その夜、弥九郎が渡ってきた。石の話も、木の話も、床に入れば、ひとまず脇に置かれた。渡りの間隔は、婚礼の前と、ほとんど変わっていない。その変わらなさを、わたしは、頭の隅で、小さく数えていた。

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