四部 一話 招く島
応永三十年(一四二三)三月 伊予国 怒和島 下怒和
朝のうちに、雨が上がった。
濡れた石段に、日が当たりはじめている。段の隅に溜まった水たまりに、空の色が映って揺れていた。土の匂いが、まだ強く残っている。
わたしは館の縁に座って、膝の上に紙を広げていた。
新しく建てた館は、以前の小屋とは、比べものにならない広さだった。綾の部屋、弥九郎の部屋、わたしの部屋。客を迎える広間。奉公の者たちの部屋も、幾つか。婚礼に間に合わせて建てたこの館に、もう三月ほど暮らしているが、いまだに、廊下の長さに慣れきらないことがある。船倉暮らしの長かった体には、この広さが、いまも、どこか、借り物のように感じられた。
塩の売れ高。田の反数。孤児たちに割り振った仕事の進み。数えるものは、婚礼が済んでからも、少しも減らなかった。むしろ増えた。二神の家と縁が結ばれたことで、動く銭と物の筋が、これまでより一本、太くなっていた。
婚礼から、三月が過ぎている。
冬のあいだは、静かだった。祝いの後片づけと、正月の支度と、また片づけとで、季節が過ぎていった。指の冷えも、あのころにはもう治まっていた。疲れが取れれば、体は元に戻る。そういうものだった。
紙をめくっていると、廊下の向こうから、機の音が聞こえてきた。
綾だった。祝言のあとも、あの機は片づけられていない。何を織っているのかは、今度も訊かなかった。訊けば、また同じ顔で、同じことを答えるだけだと分かっていたからだ。
正室と側室という並びは、婚礼を境に、外から見える形として確かに定まった。だが、二人のあいだで交わす言葉の数は、以前と、ほとんど変わっていない。互いに、そういう間合いを保つと決めたわけでもないのに、自然とそうなった。
機の音が、しばらく続いて、ふと止んだ。
「千代殿」
綾の声が、廊下から掛かった。
「田の反数、また増えましたか」
「はい。上怒和の分が、来月には仕上がりまする」
「それは、ようございました」
それだけの遣り取りで、機の音が、また鳴りはじめた。
わたしは、紙に目を戻した。反数の数字を書き足しながら、この落ち着き方が、思っていたより早く来たものだと思った。渡りの回数も、これまでと変わらない。並びが変わったところで、動くものは何もない——支度のあいだ、幾度も確かめてきたその勘定は、いまのところ、狂わずに続いている。
「姐さん」
弥助の声だった。
顔を上げると、息を切らして駆けてくるところだった。歳は、鶴丸よりだいぶ上だが、走り方には、まだ幼さが残っている。
「湊に、見慣れぬ舟が」
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湊に降りたときには、既に人だかりができていた。
小さな舟が一艘、荒瀬の一党の船に挟まれるようにして、岸に着けられている。乗っていたのは三人。烏帽子を被った初老の男が一人、供の者が二人。旗も帆印もない、地味な拵えの舟だった。
弥九郎は、既に岸に立っていた。
腕を組んで、舟の様子を眺めている。険しい顔ではなかった。ただ、値踏みするような目をしていた。
「どこの誰だ」
「柱島の者にござります」
初老の男が、そう名乗った。名を、甚兵衛といった。柱島の乙名の甥にあたるという。声が、少し震えている。
柱島は、忽那七島のうち、まだこちらの手が入っていない一島だった。六島のうちの一つ。中島・睦月島・野忽那島・二神島・津和地島、そして柱島。
「使いにござります。柱島の乙名より」
男は、そう言って、懐から書付を取り出した。
弥九郎は、それを受け取らなかった。代わりに、目でわたしを見た。
わたしは前へ出て、書付を受け取った。開いて、目を通す。
字は、達者ではなかった。だが、書かれている中身は、はっきりしていた。
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柱島は、二神の名の下に加わりたい、と書かれていた。
理由も、簡潔に記されている。二神本家の名が、河野方によって改めて強められていること。荒瀬の一党が、村上一党と互角以上に渡り合っているという噂が広く伝わっていること。両方を並べた上で、「もはや独りで持ちこたえるは難しく」という一文で締められていた。
わたしは、書付から顔を上げた。
「柱島の乙名殿が、みずから来られなかったのは」
「歳を召され、遠出が叶いませぬ。それゆえ、それがしが名代として」
「船を出すのも」
「難しゅうござります。柱島には、大きな船が、あまりござりませぬ」
男は、そう答えながら、目を伏せた。
恥じている、というより、疲れている目だった。長く、何かに耐えてきた者の目だ。
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その日のうちに、もう一艘、舟が着いた。
こちらは、津和地島からだった。乗っていたのは若い男が一人。名を、彦太郎といい、津和地島の乙名の三男だという。名乗りは同じだった。二神の名の下に加わりたい、と。
弥九郎は、二人の使いを、それぞれ別の部屋に通した。
同席させなかったのは、弥九郎の判断だった。二つの島が、互いにどう出るかを、まだ確かめていない段階では、顔を合わせないほうがいいという読みだった。
わたしは、その判断に頷いた。頷きながら、頭の中では既に、別のことを考えていた。
早すぎる、と思っていた。
柱島も津和地島も、これまで、こちらと縄張りを争ったことがない。摩擦らしい摩擦もなかった。差をつけて見せつける機会も、まだ一度もない。
それなのに、二つの島が、示し合わせたように、同じ月に、同じ申し出をしてきている。
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夜、二人の使いを帰したあと、館の一室で、弥九郎と二人になった。
灯が一つ、燃えている。外はもう暗い。潮の音だけが、板戸の向こうから聞こえていた。
「早い」
弥九郎が、そう言った。わたしと同じことを考えていたのだと分かった。
「これほど容易く来るとは、思うておりませんでした」
「向こうにも、理があるのだろう」
「理は、書付のとおりにござりましょう。二神の名と、村上を退けた噂と」
「それだけか」
弥九郎の目が、こちらを見た。疑うような目だった。この男は、察しが悪い。だが、一度勘が働くと、その先は早い。
「戦をなさる方は、二通りにござります」
わたしは、そう切り出した。
「戦がお好きな方と、戦をして得があるとお思いの方と。前の方は動きませぬ。後の方は、戦わぬほうが得だと分かれば、動きまする」
「柱島も津和地島も、後のほうだと」
「さようにござります。おそらくは」
「おそらく、か」
弥九郎は、そう繰り返して、少し笑った。
「お前が、言い切らぬのは珍しい」
指摘されて、喉の奥が、わずかに詰まった。
言い切れないのは、珍しいことではなかった。だが、それを弥九郎に見抜かれたことは、珍しかった。この男は、察しが悪い。数えることも、字を読むことも、得手ではない。それでも、こういうところだけは、時折、こちらの内側を正しく言い当てる。
「近ごろ、殿は、勘がお鋭うなられました」
「お前の傍におれば、嫌でも鋭うなる」
そう言われて、今度はわたしのほうが、しばらく言葉を継げなかった。
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言い切らなかったのには、理由があった。
書付の文面が、二通りとも、どこか似すぎていた。同じ型に嵌めて書いたような、よそよそしい整い方をしていた。差し出された理由が、あまりにきれいに揃いすぎている。
得で動く者なら、こうも揃った言い方はしない。損得の勘定は、島ごとに違う形をしているはずだった。田の広さも、人の数も、湊の使い勝手も、島ごとに違う。それなのに、二つの申し出は、まるで一つの筆で書かれたかのようだった。
「見せしめが、要るのやもしれませぬ」
わたしは、そう続けた。
「柱島と津和地島は、様子を見ておるのでしょう。他の島がどう動くかを。真っ先に加わっておけば、あとで来る島より、良い扱いを受けられると踏んでいるのやもしれませぬ」
「先に旗を挙げれば得、というわけか」
「はい」
弥九郎は、灯の火を見ながら、しばらく黙っていた。
「なら、残りの島は、どう出る」
その問いに、わたしはすぐには答えられなかった。
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答えられなかったのは、まだ数が足りないからだった。
六島のうち、二島が来た。残りは四島。中島、睦月島、野忽那島、そして二神島。それぞれの島が、どう出るかは、まだ見えていない。
だが、それとは別に、もう一つ、気にかかることがあった。
柱島の使いの男の目だ。書付を渡すときの、あの疲れた目。恥じているのではなく、耐えてきた者の目だと、わたしは見立てた。
その見立てを、勘定の外へ置いたまま、わたしは話を進めていた。
「四島のうち、幾つかは、様子見に回るはず。すぐには動きますまい。残る一つか二つが、あるいは」
「抗うか」
「はい」
言いながら、頭の中で数を組んでいた。柱島と津和地島が来た理由。得。噂。名。そのどれもが、勘定に合う理由だった。
だが、あの使いの目に映っていたものは、得の勘定とは、別の場所から来ているような気がしていた。何に耐えてきたのか。誰に、どれだけ長く。
その先を、わたしは、その夜、詰めなかった。
得で動く者として片づけて、そこで止めた。
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「弥九郎様」
戸の外から、松吉の声がした。
「六郎太が、戻ってまいりました」
「入れ」
戸が開いて、六郎太が入ってきた。片足を引きずる歩き方は、もう見慣れたものだった。
「柱島の様子を、見て参りました」
六郎太は、そう言って、片膝をついた。
「田は、痩せております。湊も、小さい。人は、思うたより少のうござりました。乙名は、確かに歳を召しておられる様子。跡取りが、まだ定まっておらぬとの噂も」
弥九郎が、わたしのほうを見た。
わたしは、その報せを、頭の中の帳に書き加えた。跡取りが定まっていない。それは、島の内側が揺れているという意味だった。揺れている島が、外から差す手を、真っ先に掴む。理屈は通っていた。
「もう一つ」
六郎太が、続けた。
「上怒和の又五郎様が、先だって柱島へ渡られたとの由。義重様の名代として、何やら話し込んでおられたとか」
その名を聞いて、指先が、わずかに冷えた。
又五郎が、既に動いていた。義重の名代として。その意味を、わたしはすぐには掴めなかった。二神の格が上がった以上、又五郎が名代として近隣の島々を回ること自体は、不思議ではない。だが、なぜ、それをこちらに先んじて知らせてこなかったのか。
「何を話したかは」
「そこまでは」
六郎太は、首を振った。わたしは、それ以上は問わず、帳に一行だけ書き足した。又五郎、柱島へ。
書き足しただけで、その意味を深く追うことはしなかった。義重の家の内証は、義重の家のものだ。婚礼を経ても、そこまで踏み込む筋はない——そう判じて、筆を置いた。
通っていたが、まだ何かが、足りなかった。
その足りなさを、わたしは、その夜のうちには、名づけられなかった。
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「決めよう」
弥九郎が、そう言った。
「二島とも、受け入れる。二神の名の下に。柱島と津和地島の乙名には、あらためて使いを出す。急いてはいかん。順を踏め」
「はい」
わたしは、答えながら、紙に書きはじめた。二島の名。受け入れる旨。順を踏むための段取り。
書きながら、心のどこかで、まだ引っかかっていた。
早すぎる。
得で動く者たちが、まとめて、同じ時に、同じ形で動く。それ自体は、理屈が通る話だった。だが、これほど容易く事が運ぶときは、たいてい、こちらの見えていない場所で、何かが既に動いている。
そう思いながらも、その夜、わたしはそれ以上、深くは考えなかった。
二島が、あっさり来た。それだけのことだと、帳に書いた。
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翌朝、湊に立って、去っていく二艘の舟を見送った。
柱島の使いの男が、こちらを振り返った。一度だけ、深く頭を下げて、それから顔を上げた。
その顔に、わたしは、束の間、見入った。
安堵の色があった。だが、それだけではなかった。もっと重いものが、その下に沈んでいるように見えた。
長く、何かに耐えてきた者の顔だ。
その正体を、わたしはまだ知らない。知らないまま、舟が沖へ出ていくのを見送った。
海の色が、朝の光を受けて、白く光っていた。風が出はじめている。今日も、天気は崩れないだろう。
背後で、砂を踏む音がした。
弥九郎だった。
「読めぬ顔をしておるな」
「読めておらぬのは、わたくしも同じにござります」
そう答えながら、又五郎のことは、口に出さなかった。まだ、勘定に加えるほどの目方がないと判じたからだった。
弥九郎は、しばらく黙って、沖を見ていた。
「まあいい。二島来た。悪い話ではない」
「柱島・津和地島、あわせて、船は十を数えぬ小勢にござりますが、人はおよそ百五十。こちらの二百と少しに合わせれば、四百近い数にござります」
「はい」
「残りは、様子を見るしかあるまい」
「様子を見た先で、抗う島も出ましょう」
「出るなら、出ればよい」
弥九郎は、そう言って、あくびを噛み殺した。眠そうな声だった。この男は、大きな決めごとのあとでも、いつまでも思い悩むということをしない。悩むのは、こちらの役目だった。
わたしは頷いた。頷きながら、胸の奥に、まだ小さな引っかかりが残っているのを感じていた。柱島の使いの目。又五郎の動き。どちらも、いまはまだ、形を持たない影だった。
そう見立てて、わたしは踵を返した。
館へ戻る道すがら、幸松が、井戸端で、年下の子らに、数の数え方を教えているのが見えた。柱島・津和地島の使いのことなど、まだ何も知らぬはずのその子らの声が、朗らかに響いていた。島の暮らしは、こういう小さな声の上にも、確かに成り立っている。
数えるべきものは、まだ、いくらでもあった。




