幕間 海 荒瀬弥九郎(二神定海)
応永三十年(一四二三)二月 伊予国 怒和島 下怒和
二神定海。
その名を、俺は、まだ、うまく自分のものだと思えずにいる。
書付に書かれた字を見るたびに、どこか、他人の名を見ているような心地がする。荒瀬弥九郎なら、生まれてこのかた、ずっと背負ってきた名だ。だが、二神定海というのは、義重殿から渡された、いわば、借り物の名だ。
借り物でも、島の者たちは、もう、その名で俺を呼びはじめている。
---
正月が明けて、千代は、もう次の絵図を描きはじめている。
因島。忽那の島々。その先の海全体。頭の中に、どれほどの数を溜め込んでいるのか、俺には、正しくは分からん。ただ、あいつが、朝、飯を食いながら、ふと、遠くを見るような目をするとき、俺は、たいてい、また何か新しい算段を組んでいるのだと察する。
「殿、島々から、また、書付が届きましてござります」
そう言って、あいつが差し出す紙を、俺は、いつも、右から左へ読めるふりをして受け取る。字は、いまだに、あまり得意ではない。だが、あいつは、それを、決して笑わない。ただ、大事なところだけを、かいつまんで、口で伝えてくれる。
その気遣いに、俺は、い つも、少しばかり、救われている。
だが、救われながらも、時折、思う。あいつが、かいつまんで伝えてくれる中身は、あいつが、大事だと判じたものだけだ。俺には見えていない、あいつの頭の中の全部を、俺は、決して見ることができん。
見えていない部分の大きさを思うと、頼もしさと、心細さが、同時に湧いてくる。
---
先だって、伊佐次が、酒の席で、こんなことを言っていた。
「殿は、千代様のことを、どこまで信じておられますので」
妙な問いだった。だが、伊佐次なりに、何か、思うところがあっての問いなのだろうと察して、俺は、少し考えてから、答えた。
「信じるも何も、あいつの言うことは、これまで、外れたことがない」
「それは、信じておられるのではのうて、頼っておられるだけにはござりませぬか」
その言葉に、俺は、しばらく、黙り込んだ。信じると、頼るとの違いを、俺は、うまく言葉にできなかった。ただ、伊佐次の指摘は、どこか、俺の腹の底にある、まだ、はっきりとは名付けていない何かに、触れているような気がした。
---
俺は、字が読めん。
読めんまま、ここまで来た。棟梁になったころは、それでも、何とかなった。数える口の数も、船の数も、指を折れば足りた。だが、いまは違う。抱える名が増え、書付も増え、俺の指では、とても足りん数を、あいつは、涼しい顔で扱っている。
正直、置いていかれる心地がすることがある。
置いていかれる、というのは、正しい言い方ではないかもしれん。あいつは、俺を置いていこうとしているわけではない。ただ、あいつの頭の速さに、俺の足が、追いつかんだけのことだ。
追いつかんくせに、俺は、その背中を、見失わんように、必死で追っている。
一度だけ、千代に、字を、教えてくれんかと、頼んだことがある。あいつは、驚いた顔一つせず、「よろしゅうござります」とだけ答え、その晩から、板間で、俺に、字を教えはじめた。だが、三日と続かなかった。俺の頭は、字よりも先に、海の潮目や、風の匂いを覚えるようにできているらしい。あいつは、それを、無理に続けさせようとはしなかった。「殿には、殿の、覚え方がござります」と、あっさり、諦めた。諦められたことに、俺は、少しだけ、安堵した。安堵しながら、少しだけ、情けなくもあった。
---
婚礼の夜、義重殿が、俺に、そう言った。
「これで、そなたも、忽那の一族の端くれじゃ」
端くれ、という言葉に、俺は、少し、苦笑した。端くれで十分だ、と思った。端くれでも、島門を焼かれ、荷として売られた女を、こうして、堂々と、妻として迎えられる立場になった。それだけで、俺にとっては、十分すぎるほどの上出来だった。
だが、千代は、端くれでは、満足せんのだろう。
あいつの頭の中にある絵図は、俺の想像よりも、ずっと遠くまで続いている。どこまで続いているのか、俺には、まだ、見えていない。見えていないが、あいつが、その絵図の先に、俺を、ちゃんと入れてくれているのかどうか、時折、ふと、気になることがある。
---
綾を正室に迎えたことについて、いまも、時折、考える。
千代が、自分から、側室に下がると言い出したときのことを、俺は、忘れていない。あのとき、俺は、はっきりと、腹が立った。お前は、それでいいのか、と、喉元まで出かかった言葉を、俺は、飲み込んだ。
飲み込んだのは、千代の理屈が、いつも、正しいからだ。正しい理屈の前では、俺の腹の中にあるものは、いつも、行き場を失う。
いまも、時折、あの飲み込んだ言葉が、胸の奥で、小さく疼くことがある。
あいつは、綾を正室に立てたことで、何も失っていないつもりでいる。策を組むのも、十年先を数えるのも、変わらず、あいつの役目のままだからだ。だが、俺の目から見れば、あいつは、何かを、確かに、手放している。それが何なのか、あいつ自身、まだ、気づいていないのかもしれん。
気づいていないなら、いつか、気づく日が来るのだろう。そのとき、俺は、どんな顔をして、あいつの隣に立てばよいのか、いまから、少しだけ、考えてしまう。
---
綾は、綾で、良い女房だ。
機を織る手が、いつも、静かに動いている。政のことは、あまり口に出さんが、時折、こちらが見落としているものを、ふと、一言で言い当てる。千代とは、まるで違う目を持った女だ。
二人の女房を持つというのは、こういうことか、と、いまさらながら、思うことがある。片方は、頭で、この島を支える。片方は、心で、この島を支える。俺は、その真ん中で、両方の重みを、それぞれの形で、受け止めていかねばならん。
重いか、と問われれば、重い。だが、この重さを、嫌だとは、思わん。
弟のことを、時折、思い出す。飢えて死んだ、あの小さな弟のことだ。二度と、誰も飢えさせぬ。それだけを、ずっと、胸に刻んで生きてきた。いま、この島には、飢える者がいない。子らは、腹を空かせずに眠れる。それだけで、俺は、十分に、報われている気がする。
その報いの半分以上は、千代の頭が生んだものだ。だが、残りの半分は、確かに、俺自身の手で、掴み取ったものでもある。飯を配る手、船を出す判断、皆の顔を覚え、名を呼ぶこと。それは、誰にも譲れん、俺自身の仕事だ。
三郎次が、近ごろ、不服そうな顔をしているのも、知っている。棟梁は、あの女子の言うことばかり聞く、という陰口も、耳に入っている。だが、俺は、それを、咎める気にはなれん。あいつの言い分にも、一理あるからだ。ただ、あいつには、まだ見えていないものがある。千代の言葉を聞くのと、千代に従うのとは、別のことだ。聞いた上で、最後に決めるのは、いつも、俺自身だ。その一線だけは、譲るつもりはない。
---
夜、板間で、独り、灯りを見つめていた。
二神定海。もう一度、頭の中で、その名を、繰り返してみた。借り物の名でも、これから先、ずっと背負っていく名だ。ならば、いずれ、この名が、俺自身のものになる日も、来るのかもしれん。
そのためには、千代の絵図を、ただ追いかけるだけでなく、俺自身の足で、俺自身の海を、見定めていかねばならんのだろう。
窓の外で、冬の海鳴りが、低く、響いていた。二神の海。荒瀬の海。どちらの名で呼ぶにせよ、この海は、これから、俺たちが、確かに、守っていかねばならん海だった。
隣の部屋から、千代の、独り言のような声が、微かに聞こえてきた。何かを、指折り、数えているらしい。その声に、俺は、灯りを消す手を、しばらく、止めた。
数えるのは、千代の役目だ。だが、その数を、実の形にするのは、いつも、俺の役目だった。二神定海。荒瀬弥九郎。どちらの名を背負うにせよ、その役目だけは、これから先も、変わらんのだろう。俺は、そう思いながら、灯りを消した。




