幕間 機 綾
応永三十年(一四二三)正月 伊予国 怒和島 下怒和
嫁いで、まだ十日と経たない。
機の前に座るのは、久しぶりのことだった。館の中の、あてがわれた部屋は、生まれ育った家とは、日の差し込む向きも、風の抜け方も、何もかもが、少しずつ違う。それでも、糸を張り、杼を通すと、指先だけは、いつもと同じ動きをした。
機だけは、変わらない。
そのことが、わたくしには、少しだけ、救いだった。
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猶子として、本家の籍に入ったのは、去年の九月のことだった。
その儀に、下怒和の父上は、立ち会えなかった。これから他家へ嫁ぐ身の猶子の儀に、実の父が、のこのこ顔を出しては、本家への義理が立たぬ、というのが、その理由だった。わたくしは、独りで、見知らぬ広間に座り、見知らぬ作法を、見よう見まねで真似た。
心細くなかった、と言えば、嘘になる。だが、心細さを、顔には出さなかった。出せば、この縁組そのものが、危うくなる。それだけは、よく分かっていた。
千代殿から、この話を初めて聞かされたときのことを、いまも、よく覚えている。
「綾殿を、二神本家の猶子として、お迎えいただきとうござります」
その申し出を、わたくしは、驚くよりも先に、静かに、頭の中で組み立て直していた。生まれた家を、嫁ぐ前に、もう一つ、持たされる。それが、どういう意味を持つのか、千代殿以上に、わたくし自身が、よく分かっていた気がする。
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千代殿は、いつも、人を、駒として見ておられる。
悪い意味で言うているのではない。あの方の頭の中には、常に、島の先々があり、その先々のために、誰を、どこに置けば、いちばん多くの者が救われるか、という絵図がある。わたくしを猶子にする策も、その絵図の一部だった。
正室として迎えられると聞いたとき、正直、戸惑った。千代殿は、既に、この島の実を、ほとんど一人で組み立てておられる。その方が、なぜ、自ら側室に下がると仰るのか、わたくしには、初め、飲み込めなかった。
「並びが変わるのは、島の者に見せる並びの上だけにござります」
千代殿は、そう仰った。その一言に、わたくしは、深い底知れなさを感じた。名を譲っても、実は、決して譲らない。譲ったように見せて、譲らない。そういうやり方を、この方は、事も無げにやってのける。
わたくしにできることではなかった。わたくしは、名も実も、両方を、正直に引き受けるしかない性分だ。
わたくしは、それを、承知の上で、乗った。
乗ったのは、千代殿に言われたからではない。この島の行く末を、自分の目で見て、自分の頭で考えて、これがいちばん良い道だと、そう判じたからだ。
千代殿は、そのことを、たぶん、正しくは分かっておられない。
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わたくしが機を織るのは、糸の向こうに、人の顔が見えるからだ。
この糸は、誰それの畑から穫れた綿。この染めは、誰それの家の伝で教わった色。一本一本の糸に、この島で生きてきた人の暮らしが、確かに織り込まれている。
千代殿は、数を見る。わたくしは、色を見る。同じ島を見ていても、見えているものが、違う。
千代殿の数える力がなければ、この島は、いまも、飢えたままだったろう。だが、数だけでは、掬いきれないものが、必ず、どこかに残る。鶴丸の、あの、姉を案じる子供らしい問いも、又五郎兄上の、行き場のない怒りも、千代殿の勘定には、正しくは、入らない。
わたくしは、その載らないものを、掬う役目を、自分から引き受けようと決めた。
祝言の少し前、又五郎兄上が、わたくしのもとを訪ねてこられた。
「本当に、それで、よいのか」
その問いに、わたくしは、よいも悪いもない、これがいちばん島のためになる道だと、そう答えた。答えながら、兄上の目の奥に、まだ、消えない怒りの色があるのを、はっきりと見て取った。
千代殿は、その色に、まだ気づいておられない。あるいは、気づいていても、いまは動かすべきときではないと、判じておられるのかもしれない。どちらにせよ、兄上の中にある、あの燻りは、いずれ、何かの折に、表へ出てくるだろう。そのとき、わたくしに、何ができるのか。まだ、答えは見えない。
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嫁いだ夜、弥九郎様が、そう仰った。
「これから、よしなに頼む」
短い一言だった。だが、その声に、これから背負う重さへの、確かな覚悟が滲んでいた。わたくしは、深く頭を下げた。
「こちらこそ、よしなに」
千代殿のことを、どう思うておられるか、いつか、この方に、直に訊いてみたいと思うことがある。訊いたところで、はっきりとした答えは、返ってこない気がする。あの方御自身、まだ、自分の中の答えに、気づいておられないだろうから。
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正月の朝、庭先で、鶴丸が、袖を引いてきた。
「あねうえ」
その声に、わたくしは、機の手を止めた。あの子は、もう、うちの子ではなくなったわたくしのことを、それでも、変わらず、姉と呼んでくれる。
「鶴丸は、これから、どうなるのでしょうか」
ふと、そう思わずにはいられなかった。父上の末の子として、いずれ、兄上の養子か、坊主か。誰も、はっきりとは決めていない、あの子の行く末。千代殿の勘定にも、まだ、入っていない先のことだ。
だが、いずれ、そこに入る日が来るだろう。そのとき、あの子の心が、置き去りにされることのないよう、わたくしが、しかと見ていよう。そう、心に決めた。
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母上のことを、ふと、思い出すことがある。
わたくしが十のとき、身罷った母上は、いつも、機の前に座っておられた。父上が、本家からの当たりの強さに、独りで頭を悩ませているとき、母上は、何も言わず、ただ、機を織っていた。子供心に、それを、少し、頼りなく思うたこともある。なぜ、父上を助けて差し上げないのだろう、と。
いま、こうして、自分も嫁いで、機の前に座ってみると、あのころの母上の心が、少しだけ、分かる気がする。母上は、頼りなかったのではない。ただ、政の場に立つ術を持たなかっただけだ。それでも、家の中の、誰も見ていない場所で、確かに、何かを支えていた。
わたくしは、母上とは、違う道を選んだ。政の場に、直に、足を踏み入れる道だ。だが、機を織る手だけは、母上から受け継いだ、大切な作法として、これからも、離さずにいようと思う。
染めの色一つにも、母上の教えが、いまも、生きている。藍の甕に浸す刻限、灰汁の加減、干す向き。どれも、口で説かれたものではなく、傍らで、幾度も見て、真似て、身につけたものだ。数えて覚えるものではない、この手の覚えを、千代殿は、恐らく、これから先も、持たれることはないだろう。そう思うと、わたくしにしか持てぬものが、確かに、この身の内にある、という、ささやかな誇らしさが湧いた。
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館の外から、子らの声が聞こえてくる。
千代殿が、私設に育てておられる孤児たちの声だ。あの子らもまた、この島に流れ着き、居場所を得た者たちだ。その声を聞きながら、わたくしは、この島が、これから、どこまで大きくなっていくのだろうかと、ふと、考えた。
大きくなればなるほど、掬いきれないものも、増えていくだろう。千代殿の数える力だけでは、いずれ、届かなくなる場所が出てくる。そのとき、わたくしの目が、少しでも、役に立てばよいと思う。
機の音が、また、部屋に響きはじめた。
糸を張り、杼を通す。この単純な繰り返しの中に、わたくしは、いつも、自分の頭を落ち着けてきた。数えることでは掬えないものを、この手で、一本ずつ、織り上げていく。
千代殿とわたくしは、たぶん、この先も、決して同じものを見ることはないだろう。だが、違う目を持つ二人がいるからこそ、掬えるものが、きっと、増える。
そう信じて、わたくしは、また、杼を通した。




