幕間 根 忽那又五郎
応永三十年(一四二三)正月 伊予国 怒和島
祝言から、まだ幾日も経っていない。
正月の膳を、父上と、二人だけで囲んだ。
綾の姿は、そこにない。もう、あちらの館の者だ。頭では分かっていたことなのに、いざ、膳の向かいに誰もいないのを見ると、腹の底が、ひやりとした。
「良い正月じゃ」
父上が、そう言った。声に、これまでにない軽さがあった。
わしは、何も言わず、箸を取った。
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年賀の挨拶にと、弥九郎が、館を訪れた日があった。
「此度は、いろいろと、お世話になり申した」
弥九郎は、そう言って、深く頭を下げた。義弟となった男を、わしは、正面から、しばらく、見つめた。倭寇上がりと聞いていたわりに、物腰に、無理な威張りがない。それが、かえって、腹立たしかった。侮れる隙があれば、少しは、気も楽だったろう。
「妹を、よろしゅう頼む」
わしは、それだけ、言った。それ以上、何を言えばよいのか、分からなかった。
「かたじけのう、存じます」
弥九郎は、そう答えると、それ以上、余計なことは、何も言わなかった。わしの内心を、探るような真似も、しなかった。ただ、深く一礼して、去っていった。その後ろ姿を見送りながら、わしは、妙な心地になった。憎むには、あまりに、隙のない男だった。
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半年、上怒和の親類の家に身を寄せていた。
戻ってきたのは、十月の半ばだ。父上に、もう遅うございました、とだけ言った。それ以上は、何も説けなかった。説く言葉が、見つからなかった。
半年のあいだ、下怒和の普請場を、幾度か、遠くから見に行った。誰にも声を掛けず、ただ、遠くから見ていた。
見るたびに、腹が立った。
腹が立つ理由が、自分でも、はっきりとは分からなかった。あの一党のやることは、確かに、島を富ませている。井戸は増え、田は広がり、塩は売れ、飢える者が減った。それは、認めねばならない。認めねばならないのに、腹が立つ。
理屈では、負けている。だが、腹の底では、ずっと、何かに刃を突きつけられているような心地がしていた。
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半年のあいだに見た普請場の様子を、いまも、はっきりと覚えている。
谷に堰を築き、段を切り、木を植える。海では、塩を焼く煙が、絶えず立ち昇っていた。孤児だという子らが、あの女子の傍らで、字を教わっている姿もあった。誰もが、忙しく、しかし、飢えた顔をしていなかった。
飢えた顔をしていない、というのが、いちばん、わしの胸に応えた。
わしが跡取りとして、何年も、何もできずにいたことを、あの一党は、たった一、二年で、成し遂げてしまった。それが、悔しくないと言えば、嘘になる。
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わしは、跡取りだ。
物心ついたころから、そう言われて育った。父上の跡を継ぎ、この島を守る。それが、わしの生きる意味だった。守るべきものが、何であるかは、深くは考えたことがなかった。考えるまでもなく、当たり前のことだったからだ。
その当たり前が、いつのまにか、揺らいでいた。
湊を貸すな、と言った。賊に理があるはずがない、と言った。潮のことなど、まぐれだ、と言った。言うたびに、外れた。外れるたびに、わしの言葉の重みが、少しずつ、目減りしていった。
気づけば、島の者たちは、わしの許しを待たずに、あの一党の指図で動くようになっていた。
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跡取りでありながら、わしには、継がせる相手がいない。
妻を娶ったのは、十九の年だった。父上が選んでくだすった、同じ島の家の娘で、口数の少ない、よく笑う女だった。その女が、嫁いで二年目の春に、風邪をこじらせて、あっけなく逝った。腹に子が宿ったことも、ついぞ、なかった。
以来、後添えの話は、幾度か持ち込まれた。そのたびに、わしは、断った。断る理由を、きちんと言葉にしたことは、一度もない。ただ、あの女の後に、別の女を迎える気には、どうしてもなれなかった。
それでも、家は、続けねばならない。
弟の鶴丸を、わしの養子に迎えたい。そう思い定めたのは、いつからだったか。鶴丸は、父上の末の子で、わしとは二十も離れている。まだ、五つだ。兄弟というより、ほとんど、我が子に近い歳の開きだった。あの子が、わしの跡を継ぎ、忽那の名を、次の代へ渡してくれるなら、それでよいと思っていた。
まだ、父上には、切り出せていない。切り出す前に、綾の縁組の話が降ってきた。
それが、いちばん、わしの腹に、堪えたのかもしれない。
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祝言の前の晩、鶴丸が、わしの部屋に、来た。
寝間着のまま、裸足で、廊下を渡ってきたらしい。戸口に立って、何も言わずに、わしを見上げていた。
「眠れぬのか」
わしが、そう訊ねると、鶴丸は、小さく、頷いた。
「あにうえは、どこにも、いかない?」
その声が、あまりに、頼りなくて、わしは、返す言葉に、詰まった。姉が、明日、この館を出ていく。それを、五つの子なりに、分かっているのだ。
「行かぬ。わしは、ここにおる」
そう答えて、鶴丸の頭に、手を置いた。小さな頭は、思っていたより、熱かった。
この子を、守らねばならぬ。そう思った。同時に、思った。妹を持っていったあの一党は、次に、この子まで、持っていくのではないか、と。
あの一党は、島の何もかもを、少しずつ、持っていく。そんな、根も葉もない疑いが、ふと、胸を掠めた。疑いだと、分かっていた。分かっていて、消せなかった。
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祝言の前、綾が、一度だけ、わしのもとを訪ねてきたことがある。
「兄上、御達者で」
それだけを言って、深く頭を下げた。わしは、何も言えなかった。言いたいことは、山ほどあった気がするのに、いざ、目の前にすると、言葉が出てこなかった。
「綾」
「はい」
「本当に、それで、よいのか」
わしが、そう訊ねると、綾は、少し微笑んだ。
「よいも悪いも、ござりませぬ。これが、いちばん、この島のためになる道にござりますゆえ」
その物言いに、わしは、少し、腹が立った。妹が、そこまで、割り切って物を言えるようになっていることが、悔しかった。悔しさの底には、自分だけが、いつまでも、割り切れずにいることへの、情けなさもあった。
「兄上は、いつも、優しゅうございました」
綾は、そう続けた。
「優しいだけでは、この島は、守れませぬ。それを、兄上に、分かっていただきとうはございませぬ。ただ、わたくしは、そう判じただけにて」
その一言を残して、綾は、去っていった。
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祝言の日、綾の顔を、遠目に見た。
正装に身を包み、緊張した面持ちで、盃を交わしていた。あの顔を見たとき、腹が立つ気持ちと、安堵する気持ちとが、同時に湧いた。あいつが、これで、少しでも安穏に暮らせるなら、それでよいのかもしれない。
そう思う一方で、あいつを政の駒として差し出した、この島の在り方そのものに、まだ、納得できずにいる自分がいた。
膳の向こうで、父上が、静かに盃を傾けている。
「又五郎」
「はい」
「これで、良かったと、そなたは思うか」
その問いに、わしは、しばらく、答えられなかった。
「分かりませぬ」
正直に、そう答えた。父上は、それを聞いて、深く頷いた。
「わしにも、分からぬ。分からぬが、他に、道がなかったことだけは、確かじゃ」
その一言に、わしは、何も返せなかった。道がなかった、という言葉が、これほど重く響くとは、思ってもみなかった。
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父上は、あの女子の言葉を、聞いておられる。
千代とかいう、あの一党の女。策を組むのはあの女子で、それを父上の前で語るのは、いつも、婿の弥九郎だ。だが、その裏に、あの女子の頭があることは、誰の目にも明らかだった。
跡取りであるわしよりも、赤の他人の女子の言葉のほうが、この島では、重い。
そう思うたびに、腹の底が、冷えた。
冷えながらも、口には出せなかった。出せば、また、外れる。外れれば、また、目減りする。もう、これ以上、目減りするものが、わしには、残っていない気がした。
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半年の家出のあいだ、何度も、考えた。
このまま、島を出て、どこかで、一からやり直そうか。跡取りという看板を捨てて、身一つで、生きていけないだろうか。
だが、そのたびに、父上の顔が浮かんだ。年老いて、痩せて、それでも、島の先々を、独りで背負ってこられた父上の顔だ。それから、あの小さな、熱い頭を思い出した。あの子を残して、島を出ることは、できない。
元服の折、父上から、名の一字をいただいた。義重の名を継いだ、確かな証だ。あの女子の夫となった弥九郎には、姓は渡っても、名の一字は、最後まで渡らなかったと聞く。血を分けた子であるわしにだけ、当然のように与えられた一字だ。
それを思うと、わしは、確かに、この家の正統な跡取りには違いない。違いないのに、この島の先々を決めるのは、その一字を持たぬ、余所者の一党だ。名は、わしにある。だが、力は、あちらにある。
その落差を、どう飲み込めばよいのか、わしには、まだ、分からずにいる。
結局、わしは、戻った。戻って、もう遅うございました、とだけ言った。
遅い、というのが、いちばん正しい言葉だった。半年前に守ろうとしたものは、半年前には、既になかった。それより、もっと前から、なかったのかもしれない。ただ、わしだけが、それに気づいていなかった。
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膳を終え、独りになって、庭に出た。
冬の澄んだ空に、星が瞬いていた。この島で、幼いころから、何度も見上げてきた同じ星だ。星は、何も変わっていない。変わったのは、この島の在り方と、わしの立ち場だけだ。
根、という言葉を、ふと思った。
この島は、わしの根だ。生まれてからずっと、ここに根を張って生きてきた。その根が、いつのまにか、余所者の手で、少しずつ、掘り起こされていく。掘り起こされた土の上に、あの一党は、新しい根を、着実に、張りはじめている。
いずれ、わしの根と、あの一党の根と、どちらが、この島に、より深く張るのか。
その答えは、まだ、出ていない。
出ていないが、わしには、渡さねばならぬ根が、一つだけ、ある。鶴丸だ。あの子に、忽那の名を、この島を、無傷のまま、渡してやりたい。妻を亡くし、子も持たぬわしには、それだけが、残されたものだった。
わしの中で、何かが、まだ、完全には消えていなかった。もう遅うございました、と口にしたあの日から、確かに、何かが変わった。だが、変わらなかったものも、確かに、あった。その変わらなかったものの正体を、わし自身、まだ、はっきりと名付けられずにいる。
星を見上げながら、わしは、しばらく、そこに立ち尽くしていた。




