幕間 影 松吉
応永三十年(一四二三)正月 伊予国 怒和島 下怒和
祝言から、まだひと月と経っておらん。
館の板間で、俺は帳面の整理をしていた。もう何年もやっている仕事だ。荷の出入り、塩の売れ高、田の反数。数えるのは姐さんの領分だが、書き写して回すのは、俺たち下の者の仕事になっている。
その帳面を見ながら、ふと、手が止まった。
隣の座敷から、幸松が、年下の子らに、数の数え方を教えている声が聞こえてきた。あの子も、いつのまにか、姐さんのやり方を、そのまま真似るようになっている。数えることが、この一党の中では、いつのまにか、当たり前の作法になっていた。
怒和島。忽那の本家。河野の両派。芸予の海の村上一党。
書き並べてみると、いつのまにか、恐ろしい数になっている。三年前、俺たちはまだ、鵜の子の入江で、たった八艘の船と二百と少しの口を、どう食わせるかだけを考えていた。それが、いまでは、名を並べるだけで、帳面の頁が埋まる。
俺は、その並びを、しばらく見つめていた。
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「松吉」
呼ばれて顔を上げると、弥九郎様が、板間の入り口に立っていた。
「はい」
「千代は」
「奥で、義重様からの文をお読みになっておられます」
弥九郎様は、それだけ聞いて、頷いた。それ以上は、何も訊かなかった。
俺は、その背中を見送りながら、思った。棟梁は、もう、姐さんのやることに、いちいち口を挟まなくなった。挟まなくなったのは、信じているからなのか、それとも、口を挟んでも追いつかんと、諦めなすったからなのか。
俺には、どちらなのか、よう分からなかった。
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姐さんを初めて見たのは、泉州の競り場だった。
痩せた、まだ十六かそこらの娘だった。売り物として並べられて、それでも、目だけは、周りの誰よりも動いていた。値をつける役人の手つきを見て、荷の並べ方を見て、頭の中で何かを数えているような目だった。
あのとき、まさか、こうなるとは思わなかった。
思わなかったが、いま思えば、あの目を見た瞬間、俺は、少しだけ、恐ろしいと思った気もする。荷にされた娘が、荷にした側の値の付け方を、値踏みし返している。そういう目だった。
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いまも、あの目は、変わっていない。
いや、変わったのかもしれない。あのころは、生き延びるために数えていた。いまは、生き延びるためだけではない数え方をしている。
先だって、姐さんが、伊佐次と、これから先のことを話しているのを、たまたま聞いた。
「因島より先に、忽那の島々に、まず、手を伸ばしとうござります。それぞれの乙名の性分を、近う、しかと、見極めねばなりませぬ」
そう言って、姐さんは、指を折って、まだ見ぬ島の名を、一つずつ並べていた。まるで、明日の献立でも決めているような口ぶりだった。
献立ではない。人の暮らす島の話だ。
俺は、その口ぶりに、少し、寒気を覚えた。
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俺自身、流れ着いた口だ。飢えて、行くあてもなく、たまたま棟梁に拾われた。あのころ、姐さんは、まだ、荷として扱われていた身の上だった。俺の名も、生まれも、そのころは訊きようがなかったはずだ。
だが、姐さんが、棟梁の傍らで、少しずつ物を言うようになってから、俺たち下の者の見られ方も、変わっていった。使えるかどうか、どこに置けば力を出すか。姐さんは、そういう目で、いつのまにか、皆を見るようになっていた。情はそのあとについてくる。あとからついてくる情も、決して薄くはない。だが、順番が、逆なのだ。
誤解しないでほしい。姐さんが、人でなしだと言いたいわけじゃない。
むしろ、逆だ。
甚六が女子に無体を働いたとき、姐さんは、誰よりも早く動いた。孤児の子らに、字と算えを教えたのも姐さんだ。困った者を、放っておいたことがない。
俺自身、字も算えも、ろくに知らなかった。拾われてから長らく、荷運びと力仕事しかできん男だった。それが、姐さんが、この一党に加わられてから、しばらく経ったある日、板間に呼びつけられ、「そなた、数を数えられるか」と訊かれた。数えられる、と答えると、姐さんは、塩の俵の数を、指で示しながら、書き付け方を、一から教えてくれた。教え方に、無駄がなかった。一度で飲み込めぬところは、二度でも三度でも、同じ調子で、繰り返してくれた。
あの日から、俺は、帳面の役目を得た。姐さんが、俺に何かを教えたのは、あの一度きりだ。だが、あの一度で、俺の暮らしは、確かに、変わった。恩がないと言えば、嘘になる。
ただ、その優しさと、あの、島を数として並べる目とが、同じ頭の中に、当たり前のように同居している。それが、俺には、まだ、うまく飲み込めずにいる。
普通の人間は、そうはできん。
情に流されるか、勘定に徹するか、どちらかしかできんものだ。姐さんは、その両方を、器用に、いや、器用というより、当たり前のように、両方とも本気でやっている。
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先月、伊佐次と、六郎太と、三人で、酒を飲んだ夜があった。
「忽那の島々も、いずれ、書付一つで転がりましょうな。姐さんの見立てじゃ」
六郎太が、そう言った。感心しているのか、恐れているのか、俺には、どちらとも取れる声だった。
「向こうが、もとより、転がりたがっておるのよ。姐さんは、その転がる方角を、少し見やすうしてやるだけのことだ」
伊佐次が、そう答えた。
「それが、恐ろしいと言うておる」
六郎太が、そう続けた。
俺は、黙って、盃を傾けていた。二人の言い分は、どちらも分かる気がした。姐さんは、無理に何かを動かしているわけではない。ただ、動きたがっているものの背を、そっと押しているだけだ。だが、その押し方が、あまりに正確すぎる。狂いがない。狂いのない手を、俺たちは、どこかで、当たり前だと思いはじめている。
当たり前だと思うことが、いちばん恐ろしいのかもしれない、と、その夜、ふと思った。
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三郎次が、酒の席で、そう漏らしたことがある。
「棟梁は、近ごろ、あの女子の言うことばかり聞きなさる」
その言い草に、俺は、少し腹が立った。だが、腹を立てながらも、心のどこかで、分かる、とも思った。
三郎次は、古い男だ。棟梁と十年近い付き合いがある。その男の目から見れば、いつのまにか、島の先々を決めるのが、棟梁ではなく、姐さんになっているように見えるのだろう。
見当違いだとは、俺には言い切れなかった。
策を組むのは姐さんだ。だが、その策を、皆の前で言うのは、いつも棟梁の口からだ。二人で、そう決めているらしい。
姐さんは、決して、前には出ない。
出ないが、出ないからこそ、余計に、恐ろしい。
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夜、帳面を仕舞いながら、俺は、もう一度、考えた。
この一党は、これから、どこまで大きくなるのだろうか。
大きくなること自体は、悪いことではない。飯が食えて、女房子供を持てて、死んだ仲間の分まで、まっとうに生きられる。それは、鵜の子の入江にいたころには、望むべくもなかったことだ。
だが、大きくなればなるほど、姐さんの頭の中にある絵図は、俺たちの誰にも見えなくなっていく。見えているのは、たぶん、棟梁だけだ。それも、全部ではないかもしれない。
外から見れば、この一党は、いまや、忽那の海に静かに根を張っていく、恐ろしい一党に見えるのだろう。
その中心に、あの、痩せた娘の目が、いまも変わらず、じっと数を数え続けている。
一度だけ、姐さんに、直に訊いたことがある。祝言の少し前、荷運びの途中、二人きりになった折だった。
「姐さんは、手が広がっていくのが、怖うはござらぬのですか」
姐さんは、少し考えてから、答えた。
「怖い、というのとは、少し違う。ただ、数えねば、間に合わぬだけのことだ」
「間に合わぬ、とは」
「島門で、間に合わなんだ。数えるのが、いつも、遅すぎた。数えていれば、防げたことが、幾つもあった」
その一言に、俺は、何も言い返せなかった。姐さんが、自分の生まれた島門のことを口にするのは、珍しいことだった。
「いまは、遅れとうないだけだ」
姐さんは、そう言って、それきり、何も続けなかった。俺も、それ以上は、訊かなかった。
その一言を、俺は、いまも、ときどき思い出す。恐ろしいと思っていたあの目は、もしかしたら、恐れているのではなく、恐れられまいとして、必死に前を見ているだけなのかもしれない。
そう思うと、少しだけ、見え方が変わる気がした。だが、見え方が変わったところで、あの目の鋭さそのものは、少しも変わらなかった。
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俺は、灯を消した。
明日も、帳面を整理せねばならない。数える島は、これからも、増えていくのだろう。その数を、姐さんが、どこまで正しく数え続けられるのか、俺には、まだ、見当もつかなかった。




