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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十八話 祝言

応永二十九年(一四二二)十二月 伊予国 怒和島 下怒和


婚礼の日は、晴れた。


冬にしては、風の穏やかな日だった。海が凪いでいて、湊に着いた舟が、揺れもせずに横づけになった。


館の前に、莚が敷き延べられていた。島の者と、一党の者と、外から来た使いとが、それぞれの場所に座っている。座らせる順は、わたしが組み、孫兵衛が手を入れたものだった。


河野の両派からの使いは、互いに顔を合わせずに済むよう、離れた場所に据えた。忽那本家からの使いは、最も上の座に。


その順を、朝のうちに、もう一度検めて回った。


検めながら、頭のどこかで、まだ数を数えていた。


膳の数。酒の量。刻限ごとの人の流れ。どれも、幾度も確かめたものだった。確かめる必要は、もうなかった。それでも、手が止まらなかった。


---


綾が、館から出てきた。


白い小袖に、白い被衣。顔は、よく見えなかった。


その白い布に、見覚えがあった。


夏のあいだ、あの機で、日ごとに少しずつ長くなっていた布だった。何に使うかは決めていないと、あのとき、綾は言った。落ち着くから織っているだけだ、と。


決めていなかったわけではないのかもしれない。


あるいは、決めていないまま織り続けて、織り上がったものが、たまたまこれに足りただけなのかもしれない。


どちらなのかは、訊かなかった。


訊くべき場ではなかったし、訊いたところで、あの女は、同じ顔で同じことを答えるだろうと思った。


弥九郎が、その前に立った。


いつもの粗末な身なりではなかった。誰が用意したのか、それらしい直垂を着せられている。居心地の悪そうな顔をしていた。手の置き場に困っているのが、遠目にも分かった。


儀は、短かった。


島の作法に従って、盃が交わされた。読み上げがあり、頭が下げられ、それで終わった。


わたしは、少し離れた場所から、それを見ていた。


見る場所も、あらかじめ決めてあった。正室の儀に、側室が近く寄るものではない。その作法も、孫兵衛に教わって、紙に書き留めてあった。


---


儀が済むと、島の者たちが、口々に何か言いはじめた。


その中に、聞き慣れない呼び方が、混じっていた。


婿殿。


誰かが、そう呼んだ。それを聞いた別の誰かが、また同じように呼んだ。


二年半、この島の者は、弥九郎を「棟梁」と呼んできた。あるいは「荒瀬の頭」と。どちらも、外から来た者への呼び方だった。


婿殿というのは、内の者への呼び方だった。


その呼び方が、いま、莚の上を、あちこちへ広がっていく。


わたしは、その広がり方を、耳で追っていた。


追いながら、指の先が、冷たくなっているのに気づいた。


冬だからだろう、と思った。


朝から外に立ちどおしだった。日は出ているが、風は冷たい。手が冷えるのは、当たり前のことだった。


---


祝いの席が始まった。


膳が運ばれ、酒が注がれた。わたしの前にも、膳が置かれた。


箸を取った。


取って、しばらく、そのままだった。


腹は減っているはずだった。朝から何も口にしていない。それなのに、目の前の飯が、どうにも喉を通りそうになかった。


一口だけ含んで、あとは、置いた。


置いたことに、誰も気づかなかった。


この半年、休む日はなかった。支度が始まってからは、なおさらだ。疲れが溜まれば、食が細るのは道理だった。


そう見立てて、椀を脇へ寄せた。


---


隣に座っていた誰かが、何か面白いことを言った。


まわりが、笑った。


わたしも、笑おうとした。


口の端を持ち上げようとして、うまく形にならなかった。


三年、この顔で、幾人もの男を動かしてきた。笑い方を、意図して選べるようになっていたはずだった。


その笑い方が、その日は、どこにもなかった。


うまくいかないので、諦めて、目を伏せた。


疲れているのだろう、と、もう一度思った。


婚礼が済めば、しばらくは落ち着く。落ち着けば、体も戻る。それだけのことだった。


伏せたまま、膳の上の椀を、しばらく見ていた。


---


莚の隅に、鶴丸が座っていた。


改まった身なりをさせられて、背筋を伸ばしている。膳には、ほとんど手をつけていなかった。


姉のほうを、じっと見ている。


その目を、わたしは、少しのあいだ、見ていた。


正月に、この子は、姉がどこかへ行くのかと訊いた。夏には、姉はもう家の子でなくなるのかと訊いた。今日、その両方の答えが、目の前で形になっている。


五つになったばかりの子どもが、それを、どう飲み込んでいるのかは、分からなかった。


分からないまま、わたしは、目を逸らした。


この席で、この子に何かを言うのは、順として正しくない。言うべきことがあるとしても、今日ではなかった。


そう判じて、片づけた。


---


宴の半ばで、義重が立った。


「婿殿に、一つ、渡すものがござる」


そう言って、紙を一枚、弥九郎の前に置いた。


莚の上が、少し静まった。


弥九郎は、その紙を手に取った。


字は、読めないはずだった。だが、そこに書かれているのが何かは、周りの者の顔つきで、すぐに分かったのだろう。


姓だった。


二神。


その二文字だけが、そこに書かれている。


義重自身の名の一字は、渡されなかった。渡されなかったことに気づいた者は、この席に、どれだけいただろうか。


わたしは、少し離れた場所で、その紙を見ていた。


弥九郎は、しばらく黙って、その紙を見ていた。


それから、居心地悪そうに、義重に頭を下げた。


---


「二神弥九郎殿」


誰かが、そう呼んだ。


弥九郎は、はっきりと嫌な顔をした。


まわりが、また笑った。


「手下の前では、弥九郎でよい」


そう言って、盃を空けた。


その一言に、手下たちが、どっと笑った。松吉が、何か囃し立てるようなことを言い、弥助が笑い転げている。


その笑い声を、わたしは、遠くで聞いていた。


---


事が起きたのは、その少しあとだった。


河野方から来た使いの一人が、義重のところへ寄って、何か訊ねている。


聞くともなしに聞いていると、書付の話らしかった。祝いの品を届けた記を、あちらの帳に残す。そのために、婿殿の名乗りを正しく書き留めておきたい、というようなことだった。


「二神——」


そこまで書いて、使いの筆が、止まった。


「その先は、いかように」


義重が、答えなかった。


わたしは、その一瞬で、何が起きているかを掴んだ。


姓だけでは、名乗りにならない。


弥九郎というのは、通称にすぎない。元服のころに付く呼び名の域を出ない。正式な書付に載せる名は、それとは別に要る。実名である。


官位を持っていれば、それで代えられる。だが、この男は、官位も持たない。


姓はある。通称もある。そのあいだが、空いていた。


---


義重は、しばらく黙っていた。


黙っている時が、思っていたより長く続いた。この人が、いま初めてこの問いに突き当たったのではないと、その間の長さで分かった。


「……定海」


義重は、そう言った。


「海を定める、と書きまする。婿殿には、その字が、よろしかろうと存ずる」


使いは、頷いて、筆を進めた。


「二神 定海 殿」


その一行が、書付の上に、静かに収まった。


わたしは、少し離れた場所から、その文字の並びを見ていた。


姓と、通称のあいだに空いていた場所に、いま、確かな二文字が入った。


義重は、この日のために、既にその字を用意していたのだろう。姓だけを渡すと決めたときから、あるいは、もっと前から。渡す順を、この人も、こちらと同じように、頭の中で組んでいたのかもしれなかった。


---


わたしは、頭の中で、その形を組み直した。


この縁組で、格は上がった。上がった格で、河野の両派まで動いた。それは、確かに数の上で計れる成果だった。


格が上がったからこそ、次の欄が空いていることが、一瞬、露わになりかけた。


これまでは、要らなかった。この島の内で、塩を焼き、田を耕し、湊を貸し借りしているうちは、弥九郎という呼び名だけで足りた。外の家と、書付で遣り取りするようになれば、足りない。一つ登れば、次の段が見える。見えたところが、そのまま次の穴になる。


その穴を、義重は、こちらが気づく前に、静かに埋めていた。


いつか、名を立てねばならない——そう頭の中の帳に書き込むつもりでいた一行が、書かれる前に、消えた。


---


宴が崩れかけたころ、孫兵衛が、こちらへ来た。


隅の、莚の端だった。


「……姐さん」


「孫兵衛どの」


老人は、しばらく、こちらの顔を見ていた。


それから、短く、こう言った。


「姐さんは、これで、報われなさったか」


---


わたしは、答えられなかった。


答える言葉を探して、見つからなかったのではない。


その問いが、問いの形をしているだけで、答えを求めていないことが、分かってしまったからだった。


孫兵衛は、答えを待たなかった。


しばらく黙って立っていて、それから、小さく頷いて、離れていった。


その背を、わたしは、見送った。


いつぞや、井戸端で、この老人が同じように背を向けたことがあった。掟を作った日の夕方だ。あのとき、わたしは「得だからにござります」と答えた。


今日は、何も答えなかった。


どちらが正しかったのかは、分からなかった。


---


宴が終わって、人がまばらになってから、館の裏の廊下で、弥九郎と行き合った。


二人きりだった。


弥九郎は、あの紙を、まだ手に持っていた。持て余している、という手つきだった。


わたしは、その紙を見て、口を開いた。


「二神の殿は、今宵はどちらへ」


弥九郎の顔が、露骨に歪んだ。


「よせ」


「なにゆえにござりますか」


「姓で呼ばれると、尻がむず痒い」


「立派な姓にござりますが」


「立派すぎる。俺には、合わん」


弥九郎は、そう言って、紙を懐に押し込んだ。


わたしは、少し笑った。


その笑い方は、うまくいった。


---


笑いながら、頭の中で、別のものを数えていた。


姓が、渡った。


名は、渡らなかった。


義重は、初めから、そのつもりだった。そして、そのことを、あの人は、既にわたしに告げてある。二人だけの部屋で、はっきりと。


この男の代では、半分だ。


残りの半分は、まだ生まれてもいない者の代に、渡ることになっている。約束は、握られている。


弥九郎は、それを知らない。


知らないまま、姓で呼ばれるのを嫌がっている。尻がむず痒いと言って、笑っている。


わたしは、その顔を見ながら、勘定の帳尻が合っていることを、静かに確かめていた。


合っていた。


一分の狂いもなく、合っていた。


---


「行かれませ」


わたしは、そう言った。


「……ああ」


弥九郎は、少し、口ごもった。


何か言おうとした素振りが、一瞬あった。


だが、結局、何も言わなかった。


「では」


そう言って、廊下を歩いていった。


わたしは、その背を見送った。


見送りながら、思ったより平気だ、と思った。


平気だった。


支度のあいだ、幾度も、この瞬間のことを考えた。考えるたびに、勘定の上では何も損をしていないことを、確かめてきた。


損はしていない。得ばかりだ。


策を組むのは、これまでどおりこちらだ。十年先を数えるのも、こちらだけだ。並びが変わったところで、そこは何一つ動いていない。


だから、平気だった。


---


廊下の角を曲がるところで、綾と行き合った。


白い被衣は、既に取られていた。


綾は、こちらを見た。


何も言わなかった。


わたしも、何も言わなかった。


言うべきことは、既に、六月と七月のあいだに、すべて言い尽くしてあった。それ以上の言葉は、要らないはずだった。


綾の目が、こちらの顔の上を、一度だけ、静かに動いた。


見られている、と感じた。


浜で初めて言葉を交わした日と、同じ目だった。


綾は、それから、わずかに頭を下げて、通り過ぎていった。


何も、訊かれなかった。


訊かれなかったことに、わたしは、なぜか、しばらく足を止めていた。


止めてから、それも疲れのせいだと思うことにして、歩き出した。


---


自分の部屋に戻ったのは、夜半近くだった。


灯を点けて、紙を広げた。


いつもの手順だった。三年、この島で、毎晩そうしてきた。その日にあったこと、動いた数、次に組むべき手。書くべきことは、いつも、幾つもあった。


筆を執った。


そのまま、しばらく、動かなかった。


書くことが、なかった。


婚礼は、済んだ。招く順も、座らせる場所も、贈り物も、すべて予定どおりに動いた。狂いは、一つもなかった。次の欄は、まだ作っていない。作る必要が、まだない。


書くことがない夜が、四年ぶりだった。


四年前、泉州の陣屋で、三つの策を通したあの夜も、わたしは書けなかった。あのときは、書けば取引に見えてしまうから、書かなかった。


今夜は、違う。


書こうとして、書くべきものが、一つも浮かばないのだ。


---


一つだけ、書けることがあった。


名のことだ。


 二神定海。


そう記して、しばらく、その字面を見ていた。


義重が渡した二文字は、思っていたより、この男に似合っていた。海を定める。損得だけで動く男が、いつか、この字にふさわしい何かに変わっていくのかどうか、いまはまだ、分からなかった。


分からないまま、筆を置いた。


置いたあとも、しばらく、白いままの紙の余白を見ていた。


胸の底に、何かが残っていた。


それが何かを、数えようとした。


損か、得か。増えたか、減ったか。いつもの物差しに掛けようとして、掛からなかった。


掛からないものは、これまで、勘定に入れないことにしてきた。


疲れているのだ、と、その日、三度目に思った。


三度も同じことを思ったことには、気づかなかった。


---


灯を吹き消した。


暗がりの中で、しばらく目を開けていた。


外は、静かだった。


宴の名残の声も、もう聞こえない。冬の海の音が、遠くで、絶えず鳴っているだけだった。


九年前、島門の納戸で、わたしは同じように暗がりの中にいた。あのとき、隣にはさよがいた。何も言わずに、褥を敷いてくれた。


いまは、誰もいない。


いないことを、わたしは、いま初めて、はっきりと数えた。


数えて、その数を、どこにも書かなかった。


書く欄が、なかったからだ。


明日になれば、また、書くことが幾つも出てくるだろう。田のこと、塩のこと、木のこと、子どもらのこと。村上のことも、いずれ動く。名のことだけは、今日、片づいた。


数えるべきものは、まだ、いくらでもあった。


数えられるものだけを数えていれば、それで足りるはずだった。


——第三部 完

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