第二十六話 織る
応永二十九年(一四二二)六月 伊予国 怒和島 下怒和の館
綾に話したのは、六月の初めだった。
館の奥の一間で、綾は、機に向かっていた。
こちらが入っていっても、手は止めなかった。杼が右へ渡り、左へ戻る。筬が、規則正しい音を立てる。その音のあいだに、話をした。
「先だっての約束にござります」
「約束」
「切り出す日が来たら、お聞かせすると」
杼が、止まった。
綾は、こちらを見ずに、機の上に手を置いたままだった。
「その日が、参りましたか」
「参りました」
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わたしは、順を追って話した。
弥九郎が承知したこと。義重に正式に申し入れたこと。義重と又五郎が、弥九郎とともに本家へ赴いたこと。返事は、まだ届いていないこと。
綾は、途中で一度も口を挟まなかった。
話し終えると、しばらく、筬の音だけが戻ってきた。
「兄が、館を出ましたのは、それゆえにござりましたか」
「そのように伺っております」
「そうにござりますか」
綾の声は、平らだった。
驚いていない。そのことが、こちらには、すぐに分かった。
「いつから、御存じでしたか」
「はっきりとは、去年の暮れから」
「なにゆえ」
「あなた様が、そういう顔をしておられましたゆえ」
わたしは、答えられなかった。
顔に出ていた、ということだろうか。半年、誰にも一言も漏らさなかったはずだった。漏らさなかったつもりで、この女には、初めから見えていたらしい。
「どのような顔にござりましょうか」
「人を、見る顔にござります」
綾は、そう答えた。
「あなた様は、人を見るとき、その方が何をできるかを見ておられます。いつも、そうにござります。じゃが、去年の秋ごろから、わたくしを御覧になる目が、少し変わりました」
「変わりました、と」
「何をできるかではのうて、どこに置けるか、という目に」
わたしは、何も言い返せなかった。
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「もう一つ、申し上げねばならぬことがござります」
わたしは、そう切り出した。
「綾どのは、下怒和の娘のままでは、お迎えいたしませぬ」
杼が、また止まった。
「二神の御本家の猶子として、籍をお移しいただきまする」
長い沈黙があった。
綾は、機の上の布を、指でなぞっていた。まだ半分ほどしか織られていない、白い布だった。
「わたくしは、下怒和の娘のままでは、嫁げぬのですか」
「嫁げぬ、ということではござりませぬ」
わたしは、理を説いた。
「忽那の、末端の家の娘としてお迎えすれば、この怒和島一島の縁組にしかなりませぬ。本家の娘としてお迎えすれば、忽那の一族すべてに話が届きまする。釣島にも、中島にも。格が、まるで違いまする」
「格」
「はい」
「その格は、誰のために要るのでござりますか」
その問いに、わたしは、すぐに答えた。
「この島のためにござります。格が上がれば、島の立場も上がりまする。本家の娘を出した島として、忽那の一族の中で、下怒和の名も重うなりまする」
嘘ではなかった。
そう答えながら、頭のどこかで、別の勘定が動いていた。格が上がって最も得をするのは、弥九郎の一党である。そのことは、口には出さなかった。
出す必要が、なかったからだ。
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綾は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……生まれた家を、嫁ぐ前に、もう一つ、持たされるのですね」
恨みの声ではなかった。
責める色も、なかった。ただ、その言葉の重みを、口に出して、確かめているような声だった。
「ご不服にござりますか」
わたしは、そう訊いた。
「不服という言葉が、当たるのかどうか、わたくしにも、まだ分かりませぬ」
綾は、そう答えた。
「ただ、生まれた家というものは、一つきりのはずにござります。それが、嫁ぐ前に、もう一つ増えるという話は、これまで、考えたこともござりませなんだ」
「籍を移すだけにござります。実の父君も、兄君も、変わりませぬ」
「変わりませぬな」
綾は、そう繰り返した。
繰り返しただけで、それ以上は、何も言わなかった。
わたしは、その繰り返しの中に、何かがあるような気がした。気がしたが、それが何なのかは、分からなかった。
分からないまま、次の話へ移った。
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「なにゆえ、わたくしなのです」
しばらくして、綾のほうから、そう訊いてきた。
わたしは、用意していた答えを、順に並べた。
「一つ、綾どのは、島の者を動かせる方にござります。この島で、あなた様の言葉ほど届く言葉は、ほかにござりませぬ。二つ、忽那の血を引く娘であられまする。血の筋が要りまする。三つ、齢が釣り合いまする」
綾は、聞いていた。
聞いて、最後に、こう言った。
「数の話にござりますな」
「はい」
「わたくしには、数のことは分かりませぬ」
その一言を、綾は、これまで幾度も口にしてきた。
同じ言葉のはずだった。
だが、この日のそれは、これまでとは、少し違って聞こえた。何が違うのかは、掴めなかった。
「では、何であれば、お分かりになりますか」
わたしは、そう訊いた。
綾は、少し考えてから、答えた。
「今年の田と、目の前におる人だけにござります」
「それだけにござりますか」
「それだけにござります。それより先のことは、わたくしには、見えませぬ」
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「お受けいただけまするか」
わたしは、そう訊いた。
綾は、機の上の布に、また手を置いた。
「受けまする」
即答ではなかった。だが、迷った末の返事でもなかった。
「有難う存じます」
「ただ」
綾は、続けた。
「一つだけ、申し上げておきまする」
「何なりと」
「わたくしは、この島のために受けまする。あなた様のためでも、荒瀬殿のためでもござりませぬ」
その声には、初めて、はっきりとした硬さがあった。
「もし、いつか、あなた様がたのなさることが、この島を損なうようになりましたら」
綾は、そこで、一度言葉を切った。
「わたくしは、島の側に立ちまする」
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わたしは、その言葉を、頭の中で書き留めた。
脅しではない。取引でもない。ただ、初めから条件を明かしているだけだった。
そういう相手のほうが、扱いやすい。隠して構える者より、はるかに読みやすい。
「承知いたしました」
わたしは、そう答えた。
「その日が来ぬよう、努めまする」
「来ぬとよろしゅうござります」
綾は、そう言って、少しだけ笑った。
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館を辞するとき、庭で、鶴丸に呼び止められた。
小さな手が、また袖を掴んできた。
「あねうえ、きまった?」
正月に、この子と交わした約束を、思い出した。決まったら教える、と答えたはずだった。
「決まりました」
「どこいくの」
「遠くではござりませぬ。この島の内にござります」
「じゃあ、あえる?」
「会えまする」
そう答えると、鶴丸は、少し安堵した顔をした。
安堵した顔をしてから、こう続けた。
「あねうえ、にがみさまのむすめになるって、ばあやがいってた」
わたしは、その一言に、少し驚いた。
四つの子どもの耳にも、既に届いている。
「まことにござります」
「じゃあ、あねうえ、もう、うちのこじゃなくなるの」
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その問いに、わたしは、すぐには答えられなかった。
籍を移すだけだ、と綾には説いた。実の父も、兄も変わらない、と。それは、書面の上では正しい。
だが、四つの子どもに、書面の理屈は通じない。
「籍が移るだけにござります。父君も、兄君も、そなたも、姉上の血の繋がりは変わりませぬ」
「でも、うちのこじゃなくなるんでしょう」
「……そうなりまする」
答えてから、それが答えになっていないことに、自分でも気づいた。
鶴丸は、しばらく、こちらの顔を見上げていた。
それから、何も言わずに、館の奥へ駆けていった。
わたしは、その背を見送った。
一つ、勘定に入れ忘れていた。
この縁組で、綾が失うものは、幾度も考えた。だが、綾を失う側のことは、数えていなかった。
義重の欄はあった。又五郎の欄もあった。この子の欄は、作っていなかった。
作らねばならない、と思った。
思って、船倉へ戻ってから、紙を広げた。広げて、その欄を作ろうとして、手が止まった。
この子が何を失うのかは、書ける。姉が、家の者でなくなる。それだけだ。
だが、それを書いたところで、この策の形は、何一つ変わらない。
変わらぬものを書き込む欄は、帳には要らなかった。
わたしは、その紙を、書かずに閉じた。
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なぜ、綾は承知したのだろう。
その夜、そのことを考えた。
答えは、すぐに出た。家が保つと分かったからだ。
下怒和の家は、年貢に窮している。本家からは十年、使いも来ない。このままでは、いずれ立ち行かなくなる。婿を迎えれば、島には水軍が付く。田も守られる。父の面目も立つ。
損得の勘定として、綾は正しく数えた。数えて、受けた。
数のことは分からないと言いながら、この女は、いつも、いちばん確かなところだけは数えている。
そう見立てて、わたしは、その欄を埋めた。
去年から空白のままだった、綾の欄だった。
——家が保つ。
そう書いて、閉じた。
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同年七月 怒和島 下怒和の館
その後も、幾度か、綾の機の前に座った。
婚礼の支度の相談をするためだった。誰を招くか、どういう順で座らせるか。この島の作法は、わたしには分からない。綾に訊くほかなかった。
訊けば、綾は、丁寧に答えてくれた。
答えながら、手は止めなかった。杼が右へ渡り、左へ戻る。白い布が、日ごとに、少しずつ長くなっていく。
「それは、何にお使いになりますか」
一度、そう訊いたことがある。
「まだ、決めておりませぬ」
「決めずに、織られるのでござりますか」
「織っておりますと、落ち着きますゆえ」
そう言って、綾は、また杼を渡した。
わたしは、その手つきを、しばらく見ていた。
同じ動きが、寸分違わず繰り返されている。右へ渡し、筬を打ち、左へ戻す。そのあいだに、何を考えているのかは、顔からは、まるで読めなかった。
「綾どのは」
「はい」
「その手が、迷われることはござりませぬか」
「迷いませぬ」
綾は、手を止めずに答えた。
「一度、通す糸を決めましたら、あとは通すだけにござります。迷えば、目が揃いませぬ」
「決めるまでは、迷われるのでござりますな」
「迷いまする」
そう言って、綾は、初めて手を止めた。
「決めてしもうたあとで迷うのは、いちばん、いけませぬ。布が歪みまする」
わたしは、その言葉を、頭の中で反芻した。
決めるまでは迷う。決めたあとは迷わない。
自分も、そのようにやってきたつもりだった。半年かけて形を組み、組み終えてから切り出した。切り出したあとは、一度も迷っていない。
同じことをしているはずだった。
同じはずなのに、なぜか、いま聞いたその言葉が、こちらに向けて言われたもののように聞こえた。
聞こえただけだ、と思うことにした。
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七月の終わり、話が、ひととおり片づいた日のことだった。
帰り際、綾が、機から顔を上げた。
「一つ、お伺いしてもよろしゅうござりますか」
「何なりと」
「あなた様は、それでよろしいのですか」
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わたしは、即座に答えた。
「よろしゅうござります」
考える間はなかった。考えるまでもなかった。
答えてから、綾が、こちらを見ていることに気づいた。
何かを確かめるような目だった。あの、浜で初めて言葉を交わした日と、同じ種類の目だった。
「そうにござりますか」
綾は、それだけ言って、また杼を手に取った。
わたしは、頭を下げて、部屋を出た。
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帰り道、その遣り取りを、頭の中でもう一度なぞった。
よろしいのですか、と訊かれた。よろしい、と答えた。
それだけのことだった。
得と損を並べれば、得のほうが、はるかに大きい。名の並びが下がるだけで、島の田も、娘も、忽那一族への足がかりも、まとめて手に入る。策を組む役目は、これまでどおりこちらにある。
割の合わぬ話ではなかった。
だから、よろしい。
そう答えたのは、正しかった。
考えずに答えられたのは、既に答えが出ていたからだ。半年かけて組んだ形の中に、その問いの答えも、初めから入っていた。
入っていたのだから、迷う理由がない。
そう片づけて、わたしは、歩く速さを、少しだけ上げた。
浜へ出ると、夏の日が、まだ高かった。
塩浜のほうから、人の声が聞こえていた。誰かが笑っている。子どもの声も混じっている。わたしが字を教えている子らのうちの、幾人かだろう。
その声を聞きながら、わたしは、船倉へ戻った。
戻って、紙を広げた。
書くべきことは、幾つもあった。婚礼の順、招く相手、贈り物の見立て。
一つずつ、書き並べていった。
書きながら、綾の機の音が、まだ耳の奥に残っていることに気づいた。
右へ渡り、筬を打ち、左へ戻る。同じ動きの、途切れることのない繰り返し。
決めたあとで迷えば、布が歪む。
その一言だけを、なぜか、幾度も思い返していた。




