第二十四話 格
応永二十九年(一四二二)三月 伊予国 怒和島
順は、二月のうちに決まった。
問題から入る。利を示す。手段を最後に出す。三年、幾度も使ってきた形だった。
綾には、切り出す日が来たら聞かせると約束した。だが、先に話す相手は、綾ではない。弥九郎の承知が取れなければ、この策は、そもそも存在しない話になる。存在しない話を綾に聞かせるのは、順として誤りだった。
そう判じて、わたしは、弥九郎の小屋へ向かった。
夜だった。渡らせた翌朝ではなかった。この話だけは、そういう順で通してはならない気がした。
理由は、はっきりしていた。
閨を使って通した話は、通ったあとで、必ず一度、揺り返しが来る。翌朝は頷いても、幾日か経って、なぜあれを呑んだのかと考え直す。小さな話なら、それでも構わない。今度の話は、考え直されては困る。
一度で、根まで通さねばならなかった。
そう組んで、わたしは、戸を叩いた。
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「話がござります」
床几に腰を下ろしていた弥九郎が、顔を上げた。
「形になったか」
「なりましてござります」
わたしは、板間に膝をついた。頭は、下げなかった。
「この島に参りまして、二年になりまする。湊は借りられ、塩は焼け、溜池は水を湛え、木も植わりました。数の上では、確かに積み上がっておりまする」
「そうだな」
「されど、二つだけ、動かぬものがござります」
わたしは、指を折った。
「田が、預けられませぬ。娘が、出ませぬ」
弥九郎は、黙って聞いていた。
「二年、得を積んでまいりました。実入りも増え、島の暮らしも、以前よりは楽になっております。それでも、この二つだけは、初めの日から、寸分も動いておりませぬ」
「なぜだ」
「余所者だからにござります」
わたしは、そう答えた。
「先だって、田の数だけを書かせてほしいと、義重どのに申し入れました。米も、田そのものも要らぬ。数を書かせていただくだけでよいと」
「断られたか」
「断られました。田の数は島の者の腹の内である、腹の内を外の方にお見せする筋合いはない、と」
弥九郎は、少し眉を寄せた。
「損は、どこにも出ぬ話にござります。それでも、断られました。断る理由が、損得の外側にござりましたゆえ」
「外側」
「内と外を分ける線にござります。得を積めば人心は動く、とわたくしは考えておりました。動きました。ですが、動いただけにござります。その線は、得の量では、びくとも動きませぬ」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
「それが、問題か」
「それが、問題にござります」
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「では、利を申せ」
「この線が消えれば、田は預けられまする。娘も出まする。島の田と、こちらの手とが、初めて一つの勘定になりまする」
わたしは、そこで、少し間を置いた。
「そして、血を流さずに済みまする」
「血を」
「力ずくで獲る道も、ござります。この島の武は、こちらの敵ではござりませぬ。三日あれば、獲れましょう」
弥九郎の眉が、動いた。
「じゃが、獲ったところで、残るのは焼けた島にござります。人心を失えば、塩も、田も、木も、すべて元手を割りまする。それは、去年の掟の折に、既に申し上げました」
「覚えておる」
「血を流さずに、この線を消す道が、一つだけござります」
「言え」
わたしは、息を吸った。
「婚姻にござります」
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弥九郎の顔から、表情が消えた。
「忽那の娘を、お迎えなされませ」
言い切った。語尾を、濁さなかった。
長い沈黙があった。
「……誰を」
「忽那綾どのを」
弥九郎は、床几の上で、身じろぎもしなかった。
それから、低い声で言った。
「お前は、何を言うておるか、分かっておるのか」
「分かっておりまする」
「分かっておらん」
弥九郎は、立ち上がった。
「俺には、女房がおる。お前だ」
「存じております」
「その女房が、俺に、別の女を娶れと申すのか」
「申しております」
「では、お前はどうなる」
来た、と思った。
「わたくしは、側室に下がりまする」
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弥九郎が、こちらを見た。
これまで見たことのない顔だった。
「……なんじゃと」
「正室は、綾どのに。わたくしは、その下に入りまする」
「ふざけるな」
初めて、この男が、声を荒らげた。
「女に上下をつけて、何の得がある」
「格が要るのでござります。島の者に、婿として認めさせるには」
「認めさせるために、お前を下げるのか」
「はい」
「お前を下に置け、ということか。俺に、それをやらせるのか」
わたしは、その問いに、頷いた。
弥九郎は、小屋の中を、二度、往復した。
「綾とやらを迎えるのはよい。それが要るというなら、迎えよう。じゃが、お前を側室と呼べとは、なんじゃ」
「順を、正さねばなりませぬ」
「順」
「正室と側室の順にござります。この順が曖昧では、島の者は、どちらを本当の婿と見てよいか、判じかねまする。判じかねるものに、田は預けませぬ」
「……」
「形が要るのでござります。形が」
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弥九郎は、床几に戻らなかった。立ったまま、こちらを見下ろしていた。
「一つ、訊く」
「はい」
「お前は、それを、いつから考えておった」
「秋の終わりから」
「半年か」
「半年にござります」
「半年、俺に一言も言わずに、その形を組んでおったのか」
「はい」
弥九郎は、そこで、口を閉じた。
閉じたまま、しばらく動かなかった。
わたしは、その沈黙のあいだに、次の一手を出すことに決めた。ここで押し切らねば、この話は、今夜のうちに潰れる。
「もう一つ、申し上げねばならぬことがござります」
「まだあるのか」
「綾どのは、下怒和の娘のままでは、お迎えいたしませぬ」
弥九郎が、こちらを見た。
「二神の御本家の猶子として、籍を移していただきまする」
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弥九郎の口が、少し開いた。
「……本家の娘ということにする、と申すか」
「はい」
「おい」
弥九郎は、そこで、初めて、言葉に詰まったような顔をした。
「そこまでやるのか」
「そこまでやらねば、格が足りませぬ」
わたしは、続けた。
「下怒和の、末端の家の娘を娶っただけでは、この怒和島一島の話にしかなりませぬ。本家の娘を娶れば、忽那の一族すべてに、話が届きまする。釣島にも、中島にも」
「……お前は」
弥九郎は、そこまで言って、また黙った。
「本家に、そのような話が通るのか」
「通りまする」
わたしは、そう答えた。
「本家は、河野の御家の揉め事で、既に年頃の娘を、両派の有力な家へ嫁がせ尽くしておられます。守護様の御一族に直にではのうて、その下におる、力のある武将のところへ。自前の武を持たぬ家に、いま要るのは、庇護にござります。猶子を一人立てて嫁がせれば、家格は保たれ、実の血筋は減らず、庇護だけが増えまする。損のない話にござります」
「そこまで、調べたか」
「調べました」
弥九郎は、長い息を吐いた。
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「千代」
名を呼ばれたのは、久しぶりだった。
「はい」
「一つだけ、答えよ」
「はい」
弥九郎は、そこで、こちらの顔を、長く見た。
これまで、この男が、これほど長くこちらを見たことはなかった。値踏みの目でもなく、面白がる目でもなかった。何かを、確かめようとしている目だった。
口が、動きかけた。
動きかけて、そのまま、閉じた。
「……いや」
「弥九郎殿」
「よい。何でもない」
弥九郎は、そう言って、床几に腰を下ろした。
「よかろう」
「お聞き入れくださりますか」
「聞き入れる。お前の申すことは、いつも、腹に落ちる」
弥九郎は、そう言って、少しだけ笑った。
いつもの笑い方ではなかった。
「腹に落ちるのが、癪だと申したこともあったな」
「四年前に、伺いました」
「いまも、癪だ」
弥九郎は、そこで、少し考える顔をした。
「一つ、面倒がある」
「何にござりましょう」
「手下だ」
弥九郎は、そう言った。
「あいつらは、お前を姐さんと呼んでおる。二年半、そう呼んで、そう扱うてきた。そこへ、余所から正室が来て、お前が下がると聞かされたら、どう思う」
わたしは、その問いに、答えを持っていた。
「不服に思う者は、おりましょう」
「おるだろうな」
「されど、割りが変わるわけではござりませぬ。分け前も、飯も、これまでどおりにござります。手下衆にとって、実の損は、一つも出ませぬ」
「損は出ん。じゃが、面白うはない」
「面白うない、で人が離れまするか」
「離れはせん」
弥九郎は、そう答えた。
「離れはせんが、腹に溜まる。溜まったものは、いつか、別の形で出る」
その一言を、わたしは、頭の中に書き留めた。
書き留めて、いま解く問いではないと判じた。分け前が変わらぬ以上、これは急ぐ話ではない。溜まるものがあるとしても、溜まってから測ればよい。
「そのときは、また組み直しまする」
そう答えると、弥九郎は、少し笑った。
「お前は、たいてい、そう言うな」
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「弥九郎殿」
わたしは、そこで、もう一言だけ、付け足すことにした。
「一つ、申し上げておきたき儀がござります」
「まだあるのか」
「順が変わりますのは、島の者に見せる並びの上だけにござります」
弥九郎が、顔を上げた。
「正室が綾どの、側室がわたくし。祝いの席の座り方も、呼ばれ方も、そうなりまする。それは、変えられませぬ」
「それが、どうした」
「変わりますのは、そこまでにござります」
わたしは、言い切った。
「策を組みますのは、これまでどおり、わたくしにござります。十年先に何が来るかを数えるのも、わたくしにござります。綾どのは、今年の田と、目の前の人しか御覧になりませぬ。それは、これまで幾度もお話しした様子から、見て取れておりまする」
「……」
「並びが変わったところで、それは動きませぬ。動かぬものを、動いたように見せる。それが、この策の要にござります」
弥九郎は、しばらく、こちらを見ていた。
それから、鼻を鳴らした。
「お前は、下がると言いながら、一つも下がっておらん」
「下がっておりませぬ」
わたしは、そう答えた。
「下がるのは、名だけにござります」
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小屋を出ると、外は、まだ寒かった。三月といっても、夜の風には、冬の名残があった。
通った。
三年前、泉州の陣屋で、三つの策を通したときと、同じ形だった。問題を示し、利を示し、手段を出す。押し切って、承知を取る。
膝は、震えなかった。
腹の底の熱も、あのときほどではなかった。
同じ形の策でも、通したときの手応えは、毎度違う。三年前は、自分の身の上が懸かっていた。今度は、既に固まった形を、あとは相手に呑ませるだけの話だった。
賭けの大きさが違えば、手応えも違う。
そう見立てて、片づけた。
見立てて、歩き出した。
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歩きながら、弥九郎が、何を言いかけてやめたのかを、少し考えた。
半年黙っていたことを、責めるつもりだったのかもしれない。あるいは、綾を娶ることそのものへの、まだ言い足りない不服だったか。
どちらにせよ、口には出さなかったのだ。
出さなかったものを、こちらから掘り返す必要はない。
そう決めて、その一件は、そこで閉じた。
閉じてから、別のことが、頭をよぎった。
この二年、わたしは、人を二通りに分けて数えてきた。得で動く者と、そうでない者。その分け方は、幾度も当たり、幾度も外れた。
この男だけは、一度も、その物差しに掛けたことがなかった。
掛けるまでもなかったからだ。
——なぜ、掛けるまでもなかったのか。
その問いが浮かびかけて、わたしは、そこで考えるのをやめた。
いま考えるべきことではなかった。明日から、義重への申し入れが始まる。組むべき順は、まだ幾つも残っていた。
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船倉に戻って、紙を広げた。
三月十日 夜 話、通る。
それだけ書いて、次の紙を出した。
これから動かすべき順を、書き並べていく。義重への申し入れ。本家への働きかけ。猶子の儀の段取り。婚礼の支度。
一つずつ、欄を作って、埋めていく。
埋めながら、ふと、九年前のことを思い出した。
香月へ嫁げと言われた夜、わたしは、灯を消してから、嫌だと呟いた。さよは、隣に褥を敷いてくれた。何も言わずに。
あのとき、わたしを盤の上に置いた者も、こういう紙を書いたのだろうか。
書いたのだろう。
家と家、格と格、得と損。同じように欄を作って、同じように埋めたはずだ。
違うところが、一つある。
あのとき、わたしは、置かれる側だった。置かれた先で何が起きるかを、知らされずに置かれた。
今度は、置く側だ。置く場所も、置いたあとに何が起きるかも、すべてこちらが決めている。
同じ盤の、違う側に座っている。
そう思うと、九年前の夜のことも、いくらか違って見えた。
わたしは、紙の上の欄を、もう一度見下ろした。
義重の欄。本家の欄。弥九郎の欄。手下の欄。島の者の欄。
綾の欄は、去年から、空白のままだった。
自分の欄は、初めから、作っていなかった。
作る必要が、なかったからだ。この策で、わたしが失うものは、名の並びだけだ。並びは、勘定に入れる値打ちのあるものではない。
そう数えて、わたしは、次の欄を埋めはじめた。




