↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/129

第二十三話 又五郎の目

応永二十九年(一四二二)正月 伊予国 怒和島 下怒和


噂が立ったのは、正月の松が明けたころだった。


わたしは、まだ、誰にも一言も切り出していなかった。


それなのに、島には、既に話が回っていた。


余所の頭が、綾様を娶りたがっている。


そういう形の噂だった。誰が言い出したのかは、分からない。分からないまま、十日ほどのあいだに、上怒和にまで広がっていた。


「どこから出た話にござりましょう」


松吉に問うと、松吉は、困った顔をした。


「はっきりとは。ただ、去年の秋ごろから、手下の何人かが、それらしいことを言うておったようです」


「それらしいこと、と申しますと」


「棟梁と、綾様が、普請場で話しておられたのを見た者がおりまして。あのお二人は、なかなか釣り合いが取れておる、というような」


わたしは、その言葉に、しばらく黙った。


一年半も前の、あの夕刻のことだ。谷の水がいつ溜まるか、畑にいつ回せるかを、二人が話していただけの、短い遣り取りだった。


見ていた者がいた。


見ていた者が、そこに、こちらの考えていなかったものを見た。そして、それを、こちらの知らないところで、幾度も語り継いだ。


数えていなかった。


紙の上に、そういう欄を作ったことが、一度もなかった。


---


噂の回り方を、わたしは、幾日か追ってみた。


追ってみて、分かったことがある。


この噂は、こちらの一党の側から出て、島の側へ渡り、島の中で形を変えて、また戻ってきていた。


初めは「釣り合いが取れておる」という、ただの見立てだった。それが島へ渡ると「あの頭は、綾様を望んでおる」に変わり、上怒和まで行くと「義重様の御館は、綾様を差し出すつもりらしい」になっていた。


同じ話が、渡るたびに、少しずつ形を変える。


渡した者の数だけ、話は変わる。


そういうものだということを、わたしは、頭では知っていた。知っていて、その速さと、変わり方の幅を、勘定に入れていなかった。


策を組むとき、わたしは、いつも、誰に何をどの順で伝えるかを組んできた。伝える経路を、こちらで押さえられるものとして扱ってきた。


押さえられないものが、島には既にあった。


---


その噂が、下怒和の館に届いたとき、又五郎が、はっきりと怒った。


わたしが館へ向かうと、門の前で、その声が聞こえた。


「賊に、妹をくれてやれと申すか」


低い声ではなかった。館の外まで届く声だった。


「誰がそのようなことを申した。言うた者を、この場に引き出せ」


義重の声は、聞こえなかった。何か答えているようだったが、言葉までは届かない。


「父上は、なぜ黙っておられる。否と、一言仰ればよいことにござりましょう」


その一言に、しばらく間があった。


間があったこと自体が、義重の答えだった。


完全には、否定していない。


わたしは、門の前に立ったまま、その間の長さを、頭の中で数えていた。


---


門の脇に、鶴丸が立っていた。


木の枝も持たず、庭の隅で、じっと館のほうを見ている。兄の大声に、驚いて動けなくなっているようだった。


こちらに気づくと、しがみつくように、袖を掴んできた。


「にいさま、こわい」


そう言った。


わたしは、その手を、どうしてよいか分からなかった。振り払うことも、握り返すこともせず、ただ立っていた。


「姉上のことで、少し、揉めておられるのでしょう」


そう答えた。答えになっていないと、自分でも分かっていた。


鶴丸は、しばらく、こちらの顔を見上げていた。


「あねうえ、いなくなるの」


その一言に、わたしは、詰まった。


四つの子に、どう答えれば、嘘にならず、傷つけずに済むのか。持ち合わせがなかった。


「まだ、何も決まっておりませぬ」


「きまったら、おしえて」


その言い方に、わたしは、頷くしかなかった。


頷いてから、いま、この子と何を約束したのかを、あらためて考えた。


決まったら、教える。教えるということは、この子にも、この話が届くということだ。届いたときに、この子が何を思うかは、わたしの帳には、書かれていない。


書く欄が、ない。


そう気づいて、わたしは、その場を離れた。


---


又五郎が、門から出てきた。


こちらを見て、足を止めた。


初めて、正面から向かい合ったことになる。二年半、この島に通いながら、この男とまともに口を利いたことは、一度もなかった。


「お前か」


低い声だった。


「千代と申しまする」


「知っておる。荒瀬の女房だろう」


又五郎は、そう言って、こちらを上から下まで見た。


「あの噂は、お前が流したのか」


「いいえ」


「では、誰が」


「存じませぬ」


「知らぬはずがなかろう」


わたしは、そこで、少し言葉を選んだ。


「まことに、存じませぬ。わたくしも、聞いたのは十日ほど前にござります」


又五郎は、しばらくこちらを見ていた。


それから、吐き捨てるように言った。


「妹は、売り物ではない」


---


その言葉を、わたしは、頭の中で二つに分けようとした。


この男は、どちらの側の人間か。


得で動くのか。それとも、戦を好むのか。


二年半、幾度も使ってきた分け方だった。相手がどちらかが分かれば、動かし方も決まる。得で動く者には利を示す。戦を好む者には、避けられぬ形を作る。


だが、目の前の男は、どちらにも嵌まらなかった。


得の話をしているのではない。この縁組が家にとって得か損かを、この男は一度も口にしていない。


かといって、戦がしたいわけでもない。この二年半、又五郎が武を振るう機会を求めた形跡は、どこにもなかった。


得でもなく、好きでもない。


では、何なのか。


分からなかった。


分からないまま、わたしは、この男を「動かせぬ側」の欄に入れた。理で説けぬ相手は、説くだけ無駄だった。


「わたくしは、何も申し上げておりませぬ」


そう繰り返して、頭を下げた。


「その顔だ」


又五郎が、そう言った。


「その、何も申しておらぬという顔で、お前は、この島の何もかもを、少しずつ持っていった」


わたしは、顔を上げた。


「湊を借り、山を借り、浜を借り、いつのまにか島の者と同じ蔵の米を食うておる。どれも、こちらが承知したことだ。承知したはずなのに、気づけば、この島は、半分ほどお前たちのものになっておる」


「そのようなつもりは」


「つもりの話は、しておらん」


又五郎は、そこで、一度、息を吸った。


「お前らが来て、島は富んだ。それは認める。塩も焼けた。溜池も掘れた。飢える者も減った。父も、そのことは、幾度も口にしておる」


「有難う存じます」


「礼を言われる筋合いではない」


又五郎は、そう言って、こちらを見た。


「富んだ。富んだうえで、次は妹か」


わたしは、その問いに、答えなかった。


答えるべき言葉を、持っていなかったからだ。


又五郎は、それ以上何も言わず、こちらの脇を抜けて、歩き去っていった。


---


わたしは、しばらく、その場に立っていた。


言われたことのうち、半分は、正しかった。


湊も、山も、浜も、確かに、少しずつこちらの手の内に入っている。そう仕向けたのは、わたしだ。


だが、それは、島を損なうためではない。島が富めば、こちらも富む。その形を作ってきたつもりだった。


そのことを、あの男に説く術を、わたしは持たなかった。


いや、説いたところで、通じないだろう。


体面の話をしているのだ、と、わたしは判じた。賊に妹をくれてやったとなれば、忽那の名に傷がつく。あの男が守りたいのは、家の面目だ。面目の話であれば、格を整えれば済む。


本家の猶子として立てれば、格は整う。


ならば、あの男を説く要はない。義重を通して、話を進めればよい。


そう決めて、わたしは、館に背を向けた。


決めたことに、迷いはなかった。


---


同月 半ば


島の側の反応は、一様ではなかった。


孫兵衛のような年寄の何人かは、この話に、悪い顔をしなかった。


「格が合いさえすれば、悪い話ではござりませぬな」


井戸端で、そう漏らすのを聞いた。


「格、と申されますと」


「忽那の娘を出すのでござります。相手が、どこの誰とも知れぬ余所者では、島の者が承知いたしませぬ」


「では、格が合えば」


「合えば、話は別にござります」


孫兵衛は、それ以上は言わなかった。


その一言を、わたしは、頭の中に書き留めた。


この老人は、既に、この縁組の要がどこにあるかを見抜いている。賊か賊でないかではない。格が合うか合わないか、その一点だと。


わたしの組んだ策と、同じところを見ていた。


若い者の中には、あからさまに不快な顔をする者もいた。娘を持つ親は、特に硬かった。


その顔ぶれを、わたしは、一つずつ数えた。


数えて、紙に書き並べた。誰が賛じ、誰が渋り、誰が黙っているか。


書き並べれば、動かせる者と、動かせない者が、はっきりと分かれた。


分かれたところで、動かせない者を動かす術は、やはり、なかった。


---


その騒ぎのあいだも、朝の半刻は、変えなかった。


船倉の隅で、子どもたちに字を教える。もう半刻は、弥助が体を鍛える。人の口がどれだけ騒がしくても、この二つの半刻だけは、絶やさぬことにしていた。


幸松は、木刀の素振りでも、既に人並みの構えができるようになっていた。弥助が「筋がいい」と言っていたのを、耳にしたこともある。


流れてきた五人のうち、上の子は、幸松という名だった。


年が明けてから、この子が、少し変わった。


字を覚えるだけでなく、下の子に教えるようになった。わたしが教えた手順を、そのまま、下の子になぞらせている。教え方は、わたしのそれと、寸分違わなかった。


「そなたが、教えておるのか」


「はい。姐さんの手が、足りませぬゆえ」


「誰に、そう言われた」


「誰にも」


幸松は、そう答えた。


わたしは、その答えを、頭の中に書き留めた。


誰にも言われずに、そうしている。返さねばならぬと言ったのは、こちらだ。返し方までは、教えていない。教えていないのに、この子は、自分で返し方を見つけて、実行している。


そういう者が、いずれ、いちばん深く根を張る。


島の噂がどう転んでも、この半刻だけは、こちらの手の内にあった。


そのことに、わたしは、いくらか落ち着きを取り戻した。


---


弥九郎の耳にも、噂は届いていた。


「妙な話が回っておるらしいな」


夕刻、船倉に顔を出して、そう言った。


「島の者が、俺が綾とやらを娶りたがっておると申しておるそうだ」


「聞いております」


「俺は、そのようなことは、一言も申しておらん」


「存じております」


弥九郎は、床几に腰を下ろした。


「お前は、何か知っておるか」


その問いに、わたしは、少し間を置いた。


「噂の出所は、存じませぬ」


「そうか」


弥九郎は、それ以上、追わなかった。


追わなかったが、しばらく、こちらを見ていた。


「お前は、近ごろ、何か考えておるな」


「いつも、何かは考えておりまする」


「そうではない」


弥九郎は、そう言って、少し首を傾げた。


「言いたいことを、抱えておる顔だ。言えばよかろう」


わたしは、答えなかった。


まだ、順が決まっていなかった。順の決まらぬ話を出せば、必ず、崩れる。


「まだ、形になっておりませぬ」


そう答えると、弥九郎は、鼻を鳴らした。


「形になってから言うのが、お前の癖だ」


「悪うござりますか」


「悪くはない。じゃが、形になってから聞かされる側は、いつも、逃げ場がない」


その一言を、わたしは、聞き流した。


聞き流して、次の日には、忘れていた。


---


同月 末


綾と二人になったのは、井戸端でのことだった。


水を汲みに来た綾が、こちらに気づいて、手を止めた。


「噂のこと、お聞き及びにござりますか」


わたしのほうから、そう切り出した。


「聞いております」


綾は、桶を置いて、こちらを見た。


「兄が、荒れておりました」


「存じております。門の外まで、お声が届いておりました」


「お聞きになりましたか」


「はい」


綾は、少しだけ、目を伏せた。


それから、静かに顔を上げて、こう言った。


「その話、いずれ、あなた様からなさるおつもりでしたか」


---


わたしは、答えられなかった。


その問いは、噂の出所を訊いているのではなかった。噂が本当かどうかを訊いているのでもなかった。


この縁組を企てているのは誰か。それを、この女は、既に知っていた。


知った上で、こちらに、正面から訊いている。


「……」


言葉が、出てこなかった。


これまで、答えに詰まったことは、幾度もあった。だが、その多くは、答えを持っていて、出す順を測っていただけだった。


いまは、違った。


出す順を測る余裕がない。この問いに、どう答えても、こちらの手の内を明かすことになる。否と言えば嘘になる。是と言えば、こちらが企てたことを認めることになる。


そのどちらでもない答えを、わたしは、すぐには組めなかった。


綾は、急かさなかった。


ただ、桶に手をかけたまま、こちらの答えを待っていた。


その待ち方が、静かで、揺るがなかった。


「……いずれ、と考えておりました」


ようやく、そう答えた。


「そうにござりますか」


綾は、それだけ言って、桶を持ち上げた。


「では、なさるおつもりの日が来ましたら、わたくしにも、お聞かせくださりませ」


そう言って、歩き去っていった。


---


わたしは、その背を、しばらく見送っていた。


いまのは、承知したという返事ではなかった。断ったわけでもなかった。


ただ、話の順を、決められた。


こちらが切り出す前に、切り出す約束をさせられた。それも、こちらから頼んだのではなく、向こうから求められる形で。


二年半、この島で、幾度も間合いを測ってきた。誰に、いつ、何を言うか。その順を組むことこそが、わたしの仕事だった。


その順が、いま、初めて、他人の手に移った。


井戸端に立ったまま、わたしは、指の先が冷たくなっているのに気づいた。


冬の水に触れたからだろう、と思った。


思って、船倉へ戻った。


戻って、紙を広げ、次の順を組みはじめた。


順は、組み直せる。一度移ったからといって、二度と戻らないわけではない。


そう考えれば、この一件は、大したことではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。