第二十三話 又五郎の目
応永二十九年(一四二二)正月 伊予国 怒和島 下怒和
噂が立ったのは、正月の松が明けたころだった。
わたしは、まだ、誰にも一言も切り出していなかった。
それなのに、島には、既に話が回っていた。
余所の頭が、綾様を娶りたがっている。
そういう形の噂だった。誰が言い出したのかは、分からない。分からないまま、十日ほどのあいだに、上怒和にまで広がっていた。
「どこから出た話にござりましょう」
松吉に問うと、松吉は、困った顔をした。
「はっきりとは。ただ、去年の秋ごろから、手下の何人かが、それらしいことを言うておったようです」
「それらしいこと、と申しますと」
「棟梁と、綾様が、普請場で話しておられたのを見た者がおりまして。あのお二人は、なかなか釣り合いが取れておる、というような」
わたしは、その言葉に、しばらく黙った。
一年半も前の、あの夕刻のことだ。谷の水がいつ溜まるか、畑にいつ回せるかを、二人が話していただけの、短い遣り取りだった。
見ていた者がいた。
見ていた者が、そこに、こちらの考えていなかったものを見た。そして、それを、こちらの知らないところで、幾度も語り継いだ。
数えていなかった。
紙の上に、そういう欄を作ったことが、一度もなかった。
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噂の回り方を、わたしは、幾日か追ってみた。
追ってみて、分かったことがある。
この噂は、こちらの一党の側から出て、島の側へ渡り、島の中で形を変えて、また戻ってきていた。
初めは「釣り合いが取れておる」という、ただの見立てだった。それが島へ渡ると「あの頭は、綾様を望んでおる」に変わり、上怒和まで行くと「義重様の御館は、綾様を差し出すつもりらしい」になっていた。
同じ話が、渡るたびに、少しずつ形を変える。
渡した者の数だけ、話は変わる。
そういうものだということを、わたしは、頭では知っていた。知っていて、その速さと、変わり方の幅を、勘定に入れていなかった。
策を組むとき、わたしは、いつも、誰に何をどの順で伝えるかを組んできた。伝える経路を、こちらで押さえられるものとして扱ってきた。
押さえられないものが、島には既にあった。
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その噂が、下怒和の館に届いたとき、又五郎が、はっきりと怒った。
わたしが館へ向かうと、門の前で、その声が聞こえた。
「賊に、妹をくれてやれと申すか」
低い声ではなかった。館の外まで届く声だった。
「誰がそのようなことを申した。言うた者を、この場に引き出せ」
義重の声は、聞こえなかった。何か答えているようだったが、言葉までは届かない。
「父上は、なぜ黙っておられる。否と、一言仰ればよいことにござりましょう」
その一言に、しばらく間があった。
間があったこと自体が、義重の答えだった。
完全には、否定していない。
わたしは、門の前に立ったまま、その間の長さを、頭の中で数えていた。
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門の脇に、鶴丸が立っていた。
木の枝も持たず、庭の隅で、じっと館のほうを見ている。兄の大声に、驚いて動けなくなっているようだった。
こちらに気づくと、しがみつくように、袖を掴んできた。
「にいさま、こわい」
そう言った。
わたしは、その手を、どうしてよいか分からなかった。振り払うことも、握り返すこともせず、ただ立っていた。
「姉上のことで、少し、揉めておられるのでしょう」
そう答えた。答えになっていないと、自分でも分かっていた。
鶴丸は、しばらく、こちらの顔を見上げていた。
「あねうえ、いなくなるの」
その一言に、わたしは、詰まった。
四つの子に、どう答えれば、嘘にならず、傷つけずに済むのか。持ち合わせがなかった。
「まだ、何も決まっておりませぬ」
「きまったら、おしえて」
その言い方に、わたしは、頷くしかなかった。
頷いてから、いま、この子と何を約束したのかを、あらためて考えた。
決まったら、教える。教えるということは、この子にも、この話が届くということだ。届いたときに、この子が何を思うかは、わたしの帳には、書かれていない。
書く欄が、ない。
そう気づいて、わたしは、その場を離れた。
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又五郎が、門から出てきた。
こちらを見て、足を止めた。
初めて、正面から向かい合ったことになる。二年半、この島に通いながら、この男とまともに口を利いたことは、一度もなかった。
「お前か」
低い声だった。
「千代と申しまする」
「知っておる。荒瀬の女房だろう」
又五郎は、そう言って、こちらを上から下まで見た。
「あの噂は、お前が流したのか」
「いいえ」
「では、誰が」
「存じませぬ」
「知らぬはずがなかろう」
わたしは、そこで、少し言葉を選んだ。
「まことに、存じませぬ。わたくしも、聞いたのは十日ほど前にござります」
又五郎は、しばらくこちらを見ていた。
それから、吐き捨てるように言った。
「妹は、売り物ではない」
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その言葉を、わたしは、頭の中で二つに分けようとした。
この男は、どちらの側の人間か。
得で動くのか。それとも、戦を好むのか。
二年半、幾度も使ってきた分け方だった。相手がどちらかが分かれば、動かし方も決まる。得で動く者には利を示す。戦を好む者には、避けられぬ形を作る。
だが、目の前の男は、どちらにも嵌まらなかった。
得の話をしているのではない。この縁組が家にとって得か損かを、この男は一度も口にしていない。
かといって、戦がしたいわけでもない。この二年半、又五郎が武を振るう機会を求めた形跡は、どこにもなかった。
得でもなく、好きでもない。
では、何なのか。
分からなかった。
分からないまま、わたしは、この男を「動かせぬ側」の欄に入れた。理で説けぬ相手は、説くだけ無駄だった。
「わたくしは、何も申し上げておりませぬ」
そう繰り返して、頭を下げた。
「その顔だ」
又五郎が、そう言った。
「その、何も申しておらぬという顔で、お前は、この島の何もかもを、少しずつ持っていった」
わたしは、顔を上げた。
「湊を借り、山を借り、浜を借り、いつのまにか島の者と同じ蔵の米を食うておる。どれも、こちらが承知したことだ。承知したはずなのに、気づけば、この島は、半分ほどお前たちのものになっておる」
「そのようなつもりは」
「つもりの話は、しておらん」
又五郎は、そこで、一度、息を吸った。
「お前らが来て、島は富んだ。それは認める。塩も焼けた。溜池も掘れた。飢える者も減った。父も、そのことは、幾度も口にしておる」
「有難う存じます」
「礼を言われる筋合いではない」
又五郎は、そう言って、こちらを見た。
「富んだ。富んだうえで、次は妹か」
わたしは、その問いに、答えなかった。
答えるべき言葉を、持っていなかったからだ。
又五郎は、それ以上何も言わず、こちらの脇を抜けて、歩き去っていった。
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わたしは、しばらく、その場に立っていた。
言われたことのうち、半分は、正しかった。
湊も、山も、浜も、確かに、少しずつこちらの手の内に入っている。そう仕向けたのは、わたしだ。
だが、それは、島を損なうためではない。島が富めば、こちらも富む。その形を作ってきたつもりだった。
そのことを、あの男に説く術を、わたしは持たなかった。
いや、説いたところで、通じないだろう。
体面の話をしているのだ、と、わたしは判じた。賊に妹をくれてやったとなれば、忽那の名に傷がつく。あの男が守りたいのは、家の面目だ。面目の話であれば、格を整えれば済む。
本家の猶子として立てれば、格は整う。
ならば、あの男を説く要はない。義重を通して、話を進めればよい。
そう決めて、わたしは、館に背を向けた。
決めたことに、迷いはなかった。
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同月 半ば
島の側の反応は、一様ではなかった。
孫兵衛のような年寄の何人かは、この話に、悪い顔をしなかった。
「格が合いさえすれば、悪い話ではござりませぬな」
井戸端で、そう漏らすのを聞いた。
「格、と申されますと」
「忽那の娘を出すのでござります。相手が、どこの誰とも知れぬ余所者では、島の者が承知いたしませぬ」
「では、格が合えば」
「合えば、話は別にござります」
孫兵衛は、それ以上は言わなかった。
その一言を、わたしは、頭の中に書き留めた。
この老人は、既に、この縁組の要がどこにあるかを見抜いている。賊か賊でないかではない。格が合うか合わないか、その一点だと。
わたしの組んだ策と、同じところを見ていた。
若い者の中には、あからさまに不快な顔をする者もいた。娘を持つ親は、特に硬かった。
その顔ぶれを、わたしは、一つずつ数えた。
数えて、紙に書き並べた。誰が賛じ、誰が渋り、誰が黙っているか。
書き並べれば、動かせる者と、動かせない者が、はっきりと分かれた。
分かれたところで、動かせない者を動かす術は、やはり、なかった。
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その騒ぎのあいだも、朝の半刻は、変えなかった。
船倉の隅で、子どもたちに字を教える。もう半刻は、弥助が体を鍛える。人の口がどれだけ騒がしくても、この二つの半刻だけは、絶やさぬことにしていた。
幸松は、木刀の素振りでも、既に人並みの構えができるようになっていた。弥助が「筋がいい」と言っていたのを、耳にしたこともある。
流れてきた五人のうち、上の子は、幸松という名だった。
年が明けてから、この子が、少し変わった。
字を覚えるだけでなく、下の子に教えるようになった。わたしが教えた手順を、そのまま、下の子になぞらせている。教え方は、わたしのそれと、寸分違わなかった。
「そなたが、教えておるのか」
「はい。姐さんの手が、足りませぬゆえ」
「誰に、そう言われた」
「誰にも」
幸松は、そう答えた。
わたしは、その答えを、頭の中に書き留めた。
誰にも言われずに、そうしている。返さねばならぬと言ったのは、こちらだ。返し方までは、教えていない。教えていないのに、この子は、自分で返し方を見つけて、実行している。
そういう者が、いずれ、いちばん深く根を張る。
島の噂がどう転んでも、この半刻だけは、こちらの手の内にあった。
そのことに、わたしは、いくらか落ち着きを取り戻した。
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弥九郎の耳にも、噂は届いていた。
「妙な話が回っておるらしいな」
夕刻、船倉に顔を出して、そう言った。
「島の者が、俺が綾とやらを娶りたがっておると申しておるそうだ」
「聞いております」
「俺は、そのようなことは、一言も申しておらん」
「存じております」
弥九郎は、床几に腰を下ろした。
「お前は、何か知っておるか」
その問いに、わたしは、少し間を置いた。
「噂の出所は、存じませぬ」
「そうか」
弥九郎は、それ以上、追わなかった。
追わなかったが、しばらく、こちらを見ていた。
「お前は、近ごろ、何か考えておるな」
「いつも、何かは考えておりまする」
「そうではない」
弥九郎は、そう言って、少し首を傾げた。
「言いたいことを、抱えておる顔だ。言えばよかろう」
わたしは、答えなかった。
まだ、順が決まっていなかった。順の決まらぬ話を出せば、必ず、崩れる。
「まだ、形になっておりませぬ」
そう答えると、弥九郎は、鼻を鳴らした。
「形になってから言うのが、お前の癖だ」
「悪うござりますか」
「悪くはない。じゃが、形になってから聞かされる側は、いつも、逃げ場がない」
その一言を、わたしは、聞き流した。
聞き流して、次の日には、忘れていた。
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同月 末
綾と二人になったのは、井戸端でのことだった。
水を汲みに来た綾が、こちらに気づいて、手を止めた。
「噂のこと、お聞き及びにござりますか」
わたしのほうから、そう切り出した。
「聞いております」
綾は、桶を置いて、こちらを見た。
「兄が、荒れておりました」
「存じております。門の外まで、お声が届いておりました」
「お聞きになりましたか」
「はい」
綾は、少しだけ、目を伏せた。
それから、静かに顔を上げて、こう言った。
「その話、いずれ、あなた様からなさるおつもりでしたか」
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わたしは、答えられなかった。
その問いは、噂の出所を訊いているのではなかった。噂が本当かどうかを訊いているのでもなかった。
この縁組を企てているのは誰か。それを、この女は、既に知っていた。
知った上で、こちらに、正面から訊いている。
「……」
言葉が、出てこなかった。
これまで、答えに詰まったことは、幾度もあった。だが、その多くは、答えを持っていて、出す順を測っていただけだった。
いまは、違った。
出す順を測る余裕がない。この問いに、どう答えても、こちらの手の内を明かすことになる。否と言えば嘘になる。是と言えば、こちらが企てたことを認めることになる。
そのどちらでもない答えを、わたしは、すぐには組めなかった。
綾は、急かさなかった。
ただ、桶に手をかけたまま、こちらの答えを待っていた。
その待ち方が、静かで、揺るがなかった。
「……いずれ、と考えておりました」
ようやく、そう答えた。
「そうにござりますか」
綾は、それだけ言って、桶を持ち上げた。
「では、なさるおつもりの日が来ましたら、わたくしにも、お聞かせくださりませ」
そう言って、歩き去っていった。
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わたしは、その背を、しばらく見送っていた。
いまのは、承知したという返事ではなかった。断ったわけでもなかった。
ただ、話の順を、決められた。
こちらが切り出す前に、切り出す約束をさせられた。それも、こちらから頼んだのではなく、向こうから求められる形で。
二年半、この島で、幾度も間合いを測ってきた。誰に、いつ、何を言うか。その順を組むことこそが、わたしの仕事だった。
その順が、いま、初めて、他人の手に移った。
井戸端に立ったまま、わたしは、指の先が冷たくなっているのに気づいた。
冬の水に触れたからだろう、と思った。
思って、船倉へ戻った。
戻って、紙を広げ、次の順を組みはじめた。
順は、組み直せる。一度移ったからといって、二度と戻らないわけではない。
そう考えれば、この一件は、大したことではなかった。




