第二十話 頷きが早い
出ないまま、わたしは、灯りを吹き消した。応永二十八年(一四二一)六月 伊予国 怒和島
弥九郎が、用もないのに、船倉へ顔を出すことが増えた。
「潮の記録は、どうなっておる」
そう言って入ってくるが、大抵は、記録そのものより、他の話をしに来ているようだった。溜池の進み具合、塩の量、島の者の様子。取り立てて急ぎでもないことを、ひとしきり話して、帰っていく。
「これは、用にござりますか」
一度、そう訊いてみたことがある。
「用がなければ、来てはならんのか」
弥九郎は、そう言って、少し笑った。
答えに詰まって、わたしは、それ以上訊かなかった。
弥九郎は、腰を下ろすと、たいてい、島の景色を眺めながら、しばらく黙っていた。
「谷の水は、増えたか」
「増えておりまする。あと幾月かで、段畑にも回せましょう」
「そうか」
それだけの遣り取りが、幾度も繰り返された。以前なら、稼ぎの算段や、次の一手を話すためだけに、この男は船倉へ来ていた。いまは、それとは違う理由で、来ているように見えた。
その違いに、わたしは、気づいていながら、深くは考えなかった。忙しさに紛れて、考える暇を、自分から作らなかった。
弥九郎の話す中身も、いつのまにか、稼ぎや策以外のものが増えていた。手下の誰それが釣った魚の大きさ。若い時分に見た嵐の話。飢饉の年の、二度目には触れなかった続きの一片。
一つ一つは、他愛のない話だった。
だが、そういう話を聞かせる相手として、この男が選んでいるのは、いつも、わたしだった。手下には、こういう話はしないだろう。孫兵衛にも、綾にも、こういう話をしているところは見たことがなかった。
なぜ、わたしにだけ話すのか。
その問いを、わたしは、頭の中で幾度か立てかけて、そのたびに、他の仕事に押し流された。
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策を切り出すときの返事も、以前より、格段に早くなっていた。
塩浜を広げる話も、椎茸の技を試す話も、以前なら、二日、三日と間を置いてから、ようやく頷きが返ってきた。いまは、話し終えたその場で、頷きが返る。
「よかろう。やってみよ」
その速さの理由を、わたしは、正しく知っていた。渡ってきた夜の翌朝に切り出せば、大抵の話は、その場で通る。理屈が同じでも、通る速さが違う。ならば、通したい話は、渡らせた翌朝に持っていけばよい。
いつからか、それを、いちいち考えずにできるようになっていた。夜、灯りを吹き消す前に、明日の話の順を、頭の隅で組んでおく。それだけのことだった。
その速さを、わたしは、成果として数えた。
説く言葉の順が、こなれてきたということだろう。あるいは、これまで積み上げてきた策が、幾度も外れずに通ってきたことで、こちらの見立てそのものに、信が置かれるようになったのかもしれない。
どちらにせよ、頷きが早いということは、島の動きが早くなるということだ。数の上では、明らかな益だった。
その益を、わたしは、素直に、快く受け取っていた。
夜、紙に書き留めるとき、頷きが早くなった日数を、数えることもあった。塩浜の話は、その日のうちに通った。椎茸の話も、半日で通った。数を並べるほどに、この一党を動かす手応えが、確かなものとして積み上がっていくのが分かった。
その手応えを味わうことが、いつのまにか、船の傷みを見立てたときや、分け前の割り方を組んだときと同じくらい、心の奥に居座るようになっていた。策が通るたび、指の先が、じんわりと熱くなる。その熱さを、わたしは、久しく忘れていなかった。
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「棟梁は、近ごろ、あの女子の言うことばかり聞きなさる」
三郎次が、そう漏らすのを、井戸端で耳にした。
わざと聞かせようとしたのか、それとも、独り言のつもりだったのか、判じかねた。
三郎次は、古参の一人だった。弥九郎とは、十年近い付き合いだと聞いている。その男が、こうした言葉を漏らすということは、他の古参のあいだでも、似た見方が広がっているのかもしれなかった。
古参の目に、こちらがどう映っているのか。それを、正面から訊く相手は、いなかった。
わたしは、その言葉に、口の端を、わずかに持ち上げた。
策が、当たっているという証だった。当たっているからこそ、頷きが早くなる。当たり続ければ、いずれ、この一党の動き全体が、こちらの見立てに沿って回るようになる。
その道筋が、既に半ば形になりつつあることが、誇らしかった。三年前、荷として値を付けられていたころのことを思えば、ここまで来られたことは、確かに一つの成果だった。
目は、笑っていなかった。誇らしさの中身が、何であるかを、自分でも、まだ正確には掴めていなかった。掴めないまま、その笑みだけを、顔に残した。
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同月 半ば
だが、頷きが早くなったといっても、すべてが、そのまま通るわけではなかった。
塩浜を、もう一つ増やそうと説いたとき、弥九郎は、初めて、はっきりと首を振った。
「これ以上、塩に薪を回すな」
「なにゆえにござりますか」
「輪伐と萌芽更新で、いくらか薪は保つようになった。じゃが、際限なく増やせるわけではない。塩と、普請と、まだ奪い合いになっておる」
わたしは、頷いた。分かっていた。分かっていたが、塩の実入りの大きさに気を取られて、木の勘定を、いくらか甘く見ていた。
「では、塩浜は、いまの数に留めまする」
「そうしろ」
その一言に、迷いはなかった。頷きが早くなったのは、こちらの言うことすべてを、無条件に呑むようになったからではない。理が通れば早く頷き、理が通らねば、変わらず押し返してくる。その線引きは、以前と、何一つ変わっていなかった。
わたしは、その事実に、いくらか安堵した。同時に、押し返されたことに、わずかな悔しさも覚えた。二つの気持ちが、同じ胸の内に、並んで座っていた。
「木の勘定は、お前がいちばん詳しいはずだ」
弥九郎が、そう続けた。
「詳しい者が、いちばん見落とす。近くばかり見ておると、遠くが見えん」
「肝に銘じまする」
「銘じるだけでは、また同じことになる」
弥九郎は、そう言って、少し笑った。
「たまには、俺にも見張らせよ」
その一言は、これまでのこの男らしくなかった。損得だけで語るなら、木の勘定は、細かければ細かいほどよいはずだった。それを、こちらに委ねきらず、自分でも見張ると言う。
役目を分けようとしている。
そう気づいて、わたしは、少し戸惑った。この二年半、算段のすべてを、こちらが一人で担ってきた。担うことに、慣れすぎていた。
「有難う存じます」
そう答えるほかなかった。
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「弥九郎殿は、なにゆえ、近ごろ、こうも足繁く参られるのでしょうか」
わたしは、綾に、そう訊いてみたことがある。
綾は、少し考えるような顔をした。
「あなた様は、なにゆえだと思われますか」
「策が、当たり続けておりますゆえ」
綾は、それ以上、何も言わなかった。ただ、少し、目を細めただけだった。
その目の色に、何か引っかかるものがあった。だが、それが何なのか、わたしには、掴めなかった。
策が当たれば、頷きが早くなる。頷きが早くなれば、この一党は、より速く動く。その筋道に、間違いはないはずだった。
間違いはない。だが、それがすべてでもないのかもしれない、という予感だけが、頭の隅に、小さく残った。
「あなた様は、いつも、そういう風に数えられますのね」
綾が、そう続けた。
「数える以外に、確かめる術を、存じませぬゆえ」
「存じませぬ、ではのうて、使わぬ、のではござりませぬか」
その一言に、わたしは、何も言い返せなかった。
数えることは、わたしにとって、いちばん確かな杖だった。杖を手放せば、何を頼りに歩けばよいのか、分からなくなる。だから、手放さなかった。手放せなかった、というほうが、あるいは近いのかもしれなかった。
「綾どのは、数えずに、どうやって確かめられるのですか」
わたしは、そう訊き返した。
「見まする」
「見る、と申しますと」
「顔つき、声の張り、目の動き。そういうものが、日によって、少しずつ違いまする。違いを覚えておれば、次に会うたとき、変わったかどうかが分かりまする」
「それは、数えるのと、何が違いますのか」
綾は、少し考えるような顔をした。
「数は、紙に書けまする。わたくしが見ておりますものは、書けませぬ」
その答えに、わたしは、しばらく黙った。
書けないものを、この女は、日々、確かに使っている。書けないからといって、当てにならないわけではない。むしろ、書けないものだからこそ、他人には奪えず、まねもできない。
わたしの帳とは、根本から違う場所に、綾の技はあった。
その違いを、わたしは、まだ、自分のものにする術を持っていなかった。
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同月 末
夕刻、弥九郎が、また用もなく顔を出した。
「今日は、何を話しに参られましたか」
「別に、何も」
そう言って、床几に腰を下ろした。
「潮の色が、変わってきた」
「季節が、変わりますゆえ」
「そうか」
それだけの遣り取りだった。長くはなかった。だが、わたしは、その短いやり取りの中に、なぜか、心地よさを覚えた。
策の話でも、数の話でもない。ただ、潮の色の話だった。
その心地よさの正体を、わたしは、深くは考えなかった。考える前に、次にやるべきことが、頭の中に幾つも並んでいたからだった。
弥九郎が帰ったあと、船倉に一人残って、わたしは、その日の帳を閉じた。
閉じてから、しばらく、灯りを見つめていた。
何を考えていたわけでもなかった。ただ、灯りの揺れを、しばらく眺めていた。そういう時間が、この一党に来てから、少しずつ増えていることに、その夜、初めて気づいた。
前は、こうではなかった。日が暮れれば、次の日の段取りを組み、それが終われば、すぐに眠った。無駄な時は、一刻もなかったはずだった。
いまは、こうして、何をするでもない時が、ときどき、混じっている。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、判じかねた。判じかねるまま、灯りを消した。
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夏の終わりが近づいたころ、雨の少なさが、気にかかるようになった。
溜池の水位が、思うほど上がらない。段畑の土も、いつもより乾いていた。
「今年は、雨が少のうござります」
わたしが告げると、弥九郎は、頷いた。
「見れば分かる」
その声に、これまでとは違う硬さが混じっていた。
わたしは、頭の中で、今年の実入りの見込みを、急いで組み直しはじめた。雨が少なければ、溜池の水も、段畑の実りも、目減りする。目減りすれば、この夏、積み上げてきたものの幾らかが、揺らぐ。
溜池の縁に立って、水位を検めた。堰いた石の、いつもなら水に隠れている部分が、いまは薄く姿を見せていた。
段畑の土を、指で挟んでみた。乾いている。孫兵衛から聞いていた、この時期のあるべき湿りとは、明らかに違っていた。
数を並べるまでもなく、目と指だけで、今年の異変が分かった。
その懸念を、紙に書き留めながら、わたしは、ふと、三郎次の言葉を思い出した。
棟梁は、近ごろ、あの女子の言うことばかり聞きなさる。
その言葉が、いま、少し違う響きで、頭の中に残った。頷きが早いことは、確かに益だった。だが、その益に頼りきって、この先も同じように事が運ぶと見込んでいいものかどうか、わたしには、まだ判じかねた。
分からないことは、そのまま置いておく。
そう思って、わたしは、雨の少なさに備える算段を、紙の上に、一つずつ書き並べはじめた。
水の割り振りを、いま一度、見直す。塩を焼く量を、当面は増やさない。溜池に残った水を、どの順で、どこへ回すか。数を組むほどに、指の先が、いつもの落ち着きを取り戻していく。
策を組んでいるあいだは、頷きの早さも、三郎次の言葉も、綾の目の色も、すべて頭の隅に退いた。いま考えるべきは、雨の少ない夏を、どう乗り切るかだった。それ以外のことは、また後で、時があれば考えればいい。
灯を吹き消す前に、書き並べた紙を、もう一度読み返した。数は、揃っていた。だが、数だけで、この夏を乗り切れるのかどうかは、まだ、わたし自身にも分からなかった。
分からないことが、以前より、増えている気がした。
水のこと、木のこと、島の者の腹の内のこと。数えられるものは、これまでどおり、正しく数えられる。だが、その周りに、数えられないものが、幾重にも取り巻いていることを、この一年で、幾度も思い知らされてきた。
取り巻くものの正体を、いつか、すべて掴めるようになるのだろうか。
その問いに、答えは出なかった。




