第十九話 因島の船
応永二十八年(一四二一)五月 伊予国 怒和島の東・芸予の瀬戸
東の海域で、縄張りが接する一党があると聞いたのは、五月のはじめだった。
「因島の南に入った一党だそうです。頭は、村上孫六と申す男」
松吉が、そう報せてきた。
村上。
その名を聞いた瞬間、頭の奥で、何かが微かに震えた。
前の生で、聞き覚えのある響きだった。どこで、どういう形で聞いたのかは、思い出せない。ただ、この名が、いずれ大きな一党の名として、遠い記憶のどこかに刻まれている気がした。
思い出せないものを、頼りにはできない。それでも、この名だけは、頭の隅に留め置いた。いま目の前にいる、まだ小さな一党の頭が、その「いずれ大きくなる村上」と同じ一族なのかどうか、確かめる術は、まだなかった。
「まだ小さな一党にござります。因島に入ったばかりで、船も十に満たぬと」
「頭の孫六とやらは、どのような男にござりましょうか」
「歳は三十前後と。因島の南に流れ着いて、まだ二年ほどらしく、地の者との揉め事も、幾度かあったようです」
「ほかに、何か聞いておらぬか」
「さして役に立つ話ではござりませぬが。北九州の方から流れてきた船乗りが、大内と少弐の睨み合いが、このところ、また強うなっておると申しておりました」
「こちらには、関わりのない話であろう」
「はい。ただ、そのあたりの海が荒れると、回り回って、瀬戸内の船賃にも障ると、船乗りたちがぼやいておりました」
わたしは、その二つを、頭の中に並べた。三十前後。因島に来て二年。船十艘に満たず。
自分たちが、この島に来たときと、よく似ていた。
余所から流れ着いて、地に足がかりを作ろうとしている。その形が、鏡のように重なる。
似た形の一党が、東の縄張りに、いる。
弥九郎に、そのことを伝えた。
「ほぼ、こちらと同格にござります」
「同格か」
弥九郎は、少し考える顔をした。
「深追いする気は、あの男にはなかろう」
「なにゆえ、そう思われますか」
「勘だ」
それだけしか、言わなかった。
わたしは、その勘を、まだ、証のない言葉として、頭の隅に置いた。
証のないものを、そのまま信じることは、これまで、あまりしてこなかった。数を組み、証を並べ、それでようやく動く。それが、この四年で身についたやり方だった。
弥九郎の勘は、証にならない。だが、この男の勘が、これまで幾度も、外れなかったことも、わたしは知っていた。証がないことと、当てにならないこととは、別のことなのかもしれなかった。
それでも、わたしは、自分の物差しのほうを、頼りにした。潮の表を組み、船足を計り、相手の一党の大きさを数えた。数えれば、道筋が見える。見えた道筋を、疑う理由がなかった。
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縄張りの端、二つの一党の船が、初めて出会ったのは、その旬の終わりだった。
わたしは、潮の表を、幾晩もかけて組んでいた。この海域の潮は、日によって、刻限によって、細かく向きを変える。あの一党の船が、いつ、どちらから来るか、正確には分からない。だが、潮の変わり目を読めば、こちらに都合のよい刻限へ、相手を誘い込む道筋は組める。
「潮が、申の刻に変わりまする。それまでに、あちらの船足を鈍らせれば、退路を塞げましょう」
弥九郎に、そう説いた。
「船は、幾艘出す」
「八艘のうち、五艘にござります。残る三艘は、鵜の子の守りに、留め置きとうござります。相手も十に満たぬ船数、同格の勝負にて、こちらの手の内を、すべて晒す要はござりませぬ」
「その刻限まで、保つのか」
「保ちまする」
言い切った。
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当日、二つの一党の船が、瀬戸の狭まったあたりで、向かい合った。
わたしは、弥九郎の船の、艫近くに立って、その様子を見ていた。
相手の船は、十艘に満たなかった。だが、動きに、無駄がなかった。
こちらの船が近づくと、相手の船団は、すぐに陣を組み替えた。速い。組み替える速さが、こちらの倍近くあった。
「あれは」
わたしが呟くと、弥九郎が、短く答えた。
「腕が違う」
その一言に、わたしは、頭の中の数を、急いで組み直した。船足、風向き、潮の変わり目。数の上では、こちらに分がある刻限のはずだった。だが、船を操る腕の差までは、数に織り込んでいなかった。
矢が、幾筋か、こちらの船に届いた。手下の一人が、肩をかすめて、呻き声を上げた。
弥九郎が、舳先に立って、大声で指図を飛ばしていた。
「弓、右へ寄せろ。三郎次、そっちの舷を固めよ」
その声に、手下たちの動きが、一つにまとまっていく。ばらばらに見えた船足が、少しずつ、揃いはじめた。数で組んだ陣形が、この男の声一つで、初めて生きた形になる。それを、わたしは、間近で見ていた。
相手の船は、こちらの船団の隙間を縫うように動き、深く踏み込んでは、すぐに引く。一艘、また一艘と、矢を放っては離れる。腕の差は、見るたびに、はっきりしていった。それでも、こちらの被害が大きく広がらなかったのは、弥九郎の指図が、その都度、隙を塞いでいたからだった。
深追いをしない、あの動きだけが、こちらの数の勘定を、静かに崩し続けていた。
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潮が変わりはじめる刻限が、近づいていた。
「もうすぐにござります」
わたしは、弥九郎にそう告げた。潮が変われば、相手の退路は、大きく回り込まねば取れなくなる。数の上では、そこで詰む形だった。
だが、相手の船は、潮が変わる前に、既に退きはじめていた。
「なぜ」
わたしは、思わず声を漏らした。
まだ潮は変わっていない。数の上では、まだ攻め続けられる刻限だった。それなのに、相手は、深追いする気配を、微塵も見せなかった。
「言うたろう」
弥九郎が、静かに言った。
「あれは、深追いせぬ男だ」
わたしは、何も言い返せなかった。
潮は、読めていた。だが、人の動きを、読み違えていた。相手は、こちらの数の外側で、自分の判断で退いていた。理屈ではなく、海の勘だった。
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その日は、痛み分けで終わった。
どちらの船も、大きくは沈まなかった。奪われた荷も、奪った荷も、さしたる量ではなかった。
負った傷は、こちらのほうが多かった。矢傷が三つ、打ち身が幾つか。手当てをする松吉の手つきを、わたしは、少し離れたところから見ていた。
「痛みますか」
肩を射られた手下に、そう声をかけた。
「これしき、大したことはありません」
そう言って、笑って見せた。だが、傷に触れられるたび、顔がわずかに歪んだ。
わたしは、その歪みを、数には数えなかった。数えるべきものではない気がした。
代わりに、頭の中で、別のことを数えていた。今日の傷の数と、次に同じ相手とぶつかったときに増えるだろう傷の数と。
腕の差が縮まらない限り、この傷は、幾度でも繰り返される。
抱き込む道を急がねばならない理由が、また一つ増えた。
戻る道すがら、わたしは、頭の中で、今日のことを、幾度も並べ直していた。
潮の読みは、外れなかった。だが、それだけでは、勝ち切れなかった。
相手の船の動きの速さ、腕の差、そして、深追いをしない判断の速さ。数だけでは掴めないものが、確かにあった。
戻る船の上で、傷ついた者たちが、それでも軽口を叩き合っているのが聞こえた。強がりなのだろう。それでも、その声に、気落ちした色はなかった。
「弥九郎殿は、初めから、ああなると御存じでしたか」
わたしが問うと、弥九郎は、頷いた。
「見れば分かる。ああいう男は、稀にいる。得も損もない場でも、退くべきときを、体が知っておる」
「なぜ、そうと仰せられたときに、わたくしは、聞き流しておりましたのでしょう」
弥九郎は、少し笑った。
「お前は、証のない話を、信じにくい質らしい」
その一言は、痛いところを突いていた。
「証がなくば、動けぬ質にござります」
「悪いことではない。証があれば、外れは少ない」
弥九郎は、そう言って、少し間を置いた。
「じゃが、証の届かぬところにも、理はある。今日、それを見たろう」
わたしは、頷くしかなかった。証のない理を、証のある理と同じ重さで扱うことは、まだ、わたしにはできそうになかった。それでも、今日という日は、その重さの違いを、はっきりと教えてくれた。
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戻ってから、わたしは、あらためて、村上孫六という男のことを、頭の中で組み直した。
深追いをしない。損を見込めば、迷わず退く。得のない争いを、長引かせない。
それは、これまで幾度も使ってきた物差しに、確かに嵌まる形だった。得で動く男。損得を、正しく数えられる男。
——だとすれば、いずれ、盟約が結べる。
そう見込んだ。
証はなかった。だが、今日の退き方には、確かな理があった。理のある退き方をする男は、理のある約束も、守るはずだった。
得で動く者は、約束を違えれば、次から取引の相手にされないことも、身に染みて知っている。だからこそ、得で動く者ほど、約束は違えない。損得だけで動く弥九郎が、これまで一度も約束を違えなかったのと、同じ理屈だった。
あの、頭の奥で震えた記憶と、同じ一族なのかどうかは、いまも分からないままだった。それでも、確かめられぬまま、この一党は伸びると見込んで、手を打つと決めた。
潰さない。抱き込む。証の要らない道を、いずれ探る。
その道筋を、いま実行するには、まだ材料が足りなかった。今日は、まず、そう見込んだという事実だけを、頭の中の帳に、静かに書き留めた。
弥九郎に、その見込みを話してみた。
「いずれ、抱き込むおつもりか」
「そのつもりにござります。潰せば、こちらも損をいたしまする。腕のある一党を、腕のあるまま抱き込めるなら、それが、いちばん得にござります」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
「あちらが、頷くとは限らんぞ」
「限りませぬ。ただ、あちらも、いつまでも根無し草ではおられますまい。根を張る場所を探しておるはずにござります」
「なぜ、そう言い切れる」
「同じ形をしておりますゆえ」
わたしは、そう答えた。
「二年半前、わたくしどもも、根を張る場所を探しておりました。あの一党も、いま、同じところに立っておるように見えまする」
弥九郎は、そこで、少し表情を緩めた。
「お前は、他人の中に、自分を見るのか」
「見えてしまいまする。見えたものを、使わぬ手はござりませぬ」
「業の深いことだ」
そう言って、笑った。
笑いながらも、弥九郎は、それ以上、この話を退けなかった。退けなかったことが、わたしには、承知の返事に近いものに思えた。
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同月 末
湊に戻ると、島の暮らしは、いつもと変わらず続いていた。
溜池の水は、着実に増えていた。塩も、月ごとに焼く量が増えていた。島に、確かな実入りが出はじめている。それは、数の上でも、はっきりと見て取れた。
だが、田は、まだ預けられていなかった。
湊は獲れた。塩も出た。それでも、島は、最後のところで、こちらに預けてこない。その一線が、どこにあるのか、わたしには、まだ、はっきりとは見えていなかった。
孫兵衛も、義重も、変わらず礼儀正しく接してくれる。だが、その先にある何かには、まだ手が届いていなかった。数えれば数えるほど、実入りは増える。それでも、増えた実入りの分だけ、島の内側に入れているかといえば、そうとも言い切れなかった。
その隔たりを埋める道筋は、まだ、頭の中にも紙の上にも、形になっていなかった。
翌朝、傷を負った手下の様子を見に行った。
肩に晒しを巻いて、それでも普請場に出ようとしている。
「今日は、休まれよ」
「これしきで休んでは、他の者に示しがつきませぬ」
その言い分は、聞き覚えがあった。船を漕ぐ者の意地だ。四年前、水手たちの前で見た、あの気骨と、根が同じだった。
「休むことも、勤めのうちにござります。傷んだまま働けば、治りが遅れ、次に働ける日が、かえって延びまする」
そう説くと、手下は、少し渋りながらも、小屋へ戻っていった。
その背を見送りながら、わたしは、思った。
この者たちは、命を懸けて戦い、傷を負い、それでもすぐに働こうとする。この一党を支えているのは、こういう者たちの意地だった。
数の上では測れない、確かな重みだった。
夜、船倉で紙を広げた。
村上孫六、深追いせず。潮は読めたが、人は読み違えた。弥九郎殿の勘、正しかりし。
書きながら、今日一日で、幾つのことを思い知らされたかを、数え直した。
潮だけでは足りない。人の勘は、数の外側にある。それでも、退き方に理があれば、いずれ通じる道はある。
その二つを、同じ紙の上に、並べて書いた。矛盾しているようで、矛盾していないと、わたしには思えた。
数で組める場所と、数では組めない場所と。この島に来てから、その境目を、幾度も思い知らされてきた。今日もまた、その境目の一つを、確かに踏んだ日だった。
灯を吹き消す前に、もう一度、村上孫六という名を、頭の中で呟いた。
いつか、あの一党が、こちらの縄張りへ入ってくる日が来るだろうか。それとも、こちらから、あちらへ手を伸べる日が先に来るだろうか。
どちらが先になるかは、まだ分からない。
分からないが、いずれ来ることだけは、確かな気がした。
外は、静かだった。傷を負った手下たちの寝息が、小屋のほうから、微かに聞こえていた。




