第十七話 名を呼ぶ
応永二十八年(一四二一)二月 伊予国 怒和島
弥助が、島の若者たちと、いつのまにか親しく口を利くようになっていた。
溜池の普請の合間、土を運びながら、何か軽口を叩き合っている。笑い声が上がることも、珍しくなくなった。
わたしが気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。誰と誰が親しくなったか、いつから言葉を交わすようになったか、その経緯を、わたしは何も知らなかった。知らないうちに、島の側から、こちらへ近づいてくる者が出はじめていた。
指図した覚えはない。数を組んだ覚えもない。それでも、確かに、輪が広がっている。
わたしの目の届かぬところで、何かが動いている。
その感覚に、少しの落ち着かなさと、それ以上の安堵とが、同時にあった。
ある朝、弥助が、島の若者の一人と、連れ立って井戸端を歩いているのを見た。
「弥助」
声をかけると、弥助は、少し照れたような顔をした。
「姐さん。こいつは、下怒和の伊佐次と申します。石の積み方を、教えてもろうておりまして」
伊佐次という若者は、頭を下げた。目を合わせるのを、まだ少し避けているように見えた。それでも、逃げる素振りはなかった。
「石の積み方」
「はい。海の潮の当て方と、山の石の据え方とは、また違う理があるようで」
伊佐次が、脇から付け足した。
「弥助どのは、覚えが早うござります。三日教えれば、もう独りでできなさる」
「そなたが、良い師なのでしょう」
「いえ、教えるのは初めてで」
伊佐次は、そう言って、少し赤くなった。
初めて人に何かを教える者の顔を、わたしは、この島に来て、何度も見てきた。教える側になって、初めて分かることがあるらしい。自分の手が、どういう順で動いているのかを、あらためて確かめる作業になるのだろう。
いつか、自分もそういう場に立つことがあるだろうか。
そう思いかけて、わたしは、その考えを、頭の隅に置いた。いまは、まだ、思いつきにすぎなかった。
弥助は、そう言って笑った。海の男が、陸の技を、素直に学ぼうとしている。その姿を、わたしは、少し眩しく思った。
理屈を並べて説くのではなく、ただ、隣に立って、手を動かす。それだけで通じるものが、ここにはあった。
わたしには、その通じ方が、まだよく分からなかった。数を組んで、証を示して、初めて人を動かせると思ってきた。だが、この二人のあいだには、証も理屈も要らないらしかった。
「弥助は、変わりましたな」
松吉が、そう漏らしたことがある。
「変わった、と申しますと」
「泉州におった時分は、あれほど人懐こい男ではござりませんでした。荷を運ぶだけで、余計な口は利きませなんだ」
「なにゆえ、変わったのでしょう」
「さて。島の水が合うたのやもしれませぬ」
松吉は、そう言って笑った。
冗談のつもりだったのだろう。だが、わたしは、その一言を、頭の中に留めた。
水が合う、という言い方には、数では測れないものが含まれている。合う水と、合わぬ水がある。人にも、合う場所と、合わぬ場所がある。
弥助にとって、この島は、合う場所になりつつあるらしい。
なぜ合うのかを、理屈で説くことは、わたしにはできなかった。できないまま、その事実だけを、正しいものとして受け取った。
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孫兵衛が、初めて、島の昔語りをしたのは、井戸端で行き合った、ある夕刻のことだった。
「姐さんは、この島の昔を、どれほど御存じか」
「忽那の御本家が、南北朝の頃、栄えておられたと聞いております」
「よう御存じで」
孫兵衛は、少し驚いた顔をした。
「義範公という御方が御当主であられた頃、この島は、いまとは比べものにならぬほど、賑わっておったそうにござります。懐良親王様をお迎えしたほどに」
「その頃のことを、孫兵衛どのは」
「わしが生まれる前の話にござります。じゃが、爺様から、幾度も聞かされました」
孫兵衛の声は、いつもより、少し柔らかかった。
「正月には、御本家から必ず使いが来て、酒の一樽も置いていきなさった。そういう話を、爺様は誇らしげに語っておられました」
「いまは」
「いまは、御本家も、昔ほどの力はござりませぬ。伊予守護の河野様の下に、家名を保つのが精一杯と聞いております」
わたしは、その話を聞きながら、頭の中で、別のことを考えていた。
島門の与三次も、こういう話をしたことがあった。麻生の家が、四代、湊を預かってきたという話を。落ち目になった家が、それでも昔語りだけは、誇らしげに語る。その形は、島門でも、ここでも、同じだった。
落ち目の家が、余所者に取り込まれていく形は、どこでも同じだ。
そう気づいたが、口には出さなかった。出したところで、孫兵衛の心を軽くする言葉にはならないだろう。
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「昔は、この島も、忽那の一族として、まとまっておったそうにござります」
孫兵衛は、続けた。
「二神の御本家を頭に、この怒和島も、釣島も、中島も、みな、一つの家のように繋がっておった。じゃが、いまは、それぞれが、それぞれの暮らしを守るのに精一杯にござります」
「まとまりが、失われたのでござりますか」
「失われた、というより……薄うなった、というほうが近いやもしれませぬ」
孫兵衛は、そこで、少し言葉を切った。
「本家は、いまも、あるにはある。ござりますが、正月の使いも、もう十年、来ておりませぬ」
「なにゆえ、薄うなったのでござりますか」
わたしが問うと、孫兵衛は、少し考えてから、答えた。
「跡目を巡って、御一族の中で、揉め事が続いたと聞いており申す。義範公が亡うなられたあと、誰が本家を継ぐかで、幾年も、争いが絶えなんだそうにて」
「争いが」
「はい。争うておるあいだに、水軍を束ねる力も、船を組む技も、少しずつ、擦り減っていったのでござりましょう。気づいたときには、伊予守護の河野様に、頭を下げねば立ち行かぬところまで、来ておったと」
孫兵衛は、そこで、一度、息をついた。
「争えば、内から擦り減る。外から攻められずとも、家は傾く。爺様は、そう申しておりました」
その一言に、わたしは、頭の中で、静かに、数を組み直した。争いで擦り減った力は、外の敵に奪われた力とは、また違う重みを持つ。取り戻すべき相手が、外にではなく、内の、既に失われた過去そのものにある。
十年。
その数は、既に知っていた。上怒和の伊平から、去年の秋、同じ数を聞いている。だが、伊平の口から出た十年と、孫兵衛の口から出た十年とでは、重みが違って聞こえた。伊平は、ただの年寄りの繰り言として語った。孫兵衛は、いま、もっと深いところから、その数を取り出している。
同じ数字が、語る者によって、まるで違う顔をする。
そのことに気づきながら、わたしは、頭の中で、あらためて数を組み立てなおしていた。忽那諸島の各島が、それぞれ独立して暮らしている。まとまりが薄い、ということは、まとめる力を持つ余地がある、ということでもある。
そこまで考えて、わたしは、孫兵衛の顔を見た。
孫兵衛は、こちらを見ていなかった。井戸の縁に手を置いて、遠くを見るような目をしていた。
「孫兵衛どの」
「……なんでもござりませぬ」
孫兵衛は、そう言って、話を打ち切った。
その打ち切り方に、何か引っかかるものがあった。だが、それが何なのか、わたしには、うまく掴めなかった。
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その夜、船倉で紙を広げた。
義範公の代、忽那諸島まとまる。いまは薄し。本家の使い、十年途絶ゆ。
書きながら、昼間の孫兵衛の顔を思い返した。
遠くを見るような、あの目。
昔語りを、懐かしむための話として聞いていた。だが、あの目は、懐かしむだけの目ではなかったのかもしれない。
もう一度、孫兵衛の言葉を、頭の中で辿り直した。まとまりが薄うなった。使いが、十年来ていない。それを語る声に、誇らしさだけではない、何か別のものが混じっていた気がする。
それが何かを、確かめる術は、いまのわたしにはなかった。
分からないことは、そのまま置いておく。
そう思って、筆を置いた。だが、置いたあとも、孫兵衛の目のことが、しばらく頭から離れなかった。
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同月 末
孫兵衛の話を、綾に伝えてみた。
「孫兵衛どのが、御本家の昔語りをなされました」
「そうにござりますか」
「昔の栄華の話にござりました。いまは、まとまりが薄いと」
綾は、しばらく黙っていた。
「孫兵衛どのは、昔の話をなさりたかったのでは、ないのやもしれませぬ」
「と、申されますと」
「いま、また同じことが起きようとしておる。孫兵衛どのは、それを案じておられたのやもしれませぬ」
その言葉に、わたしは、少し虚をつかれた。
「同じこと、とは」
「余所者が、島に根を張ろうとしております。それが、良いか悪いかは、まだ誰にも分かりませぬ。じゃが、孫兵衛どのの爺様の代にも、同じような形が、あったのやもしれませぬ」
わたしは、何も言い返せなかった。
昔語りを、歴史の話として聞いていた。だが、綾の見立てが正しければ、あれは、いまの不安を語る言葉だったことになる。
聞き流していた。
その事実に気づいたのは、綾に言われてからだった。自分の耳で、直に掴み取ることはできなかった。
数の狂いなら、誰に言われずとも見抜ける。升の底に貼られた板も、帳の中に隠された二重の記も、目にした瞬間に、そこだけ手触りが違うと分かる。
人の声の色は、そうはいかなかった。
同じ声に聞こえるものが、実は違う。違うものを、同じだと聞き流す。その隔たりを、綾はいつも、事もなげに埋めてみせる。
埋め方を、教えてほしいと思ったことは、一度や二度ではなかった。
だが、これは、教えて身につくものではないのかもしれなかった。長く聞き続けた者だけが、いつのまにか手にする類の技なのだろう。
わたしには、その長さが、足りていなかった。
「なにゆえ、それにお気づきに」
わたしが問うと、綾は、少し考えてから答えた。
「孫兵衛どのの声が、いつもと違うておりましたゆえ」
「声が」
「懐かしむ声と、案じる声とは、似ておりますが、同じではござりませぬ。長う聞いておれば、いずれ違いが分かりまする」
その答えに、わたしは、また一つ、自分に欠けているものを思い知らされた。
数の違いなら、いくらでも聞き分けられる。だが、声の色の違いは、いくら耳を澄ませても、綾のようには聞き分けられなかった。
「孫兵衛どのに、何か、お伝えすべきでしょうか」
「いいえ」
綾は、そう言って、首を振った。
「案じておられることを、こちらが知っておると悟られれば、孫兵衛どのは、かえって口を閉ざしましょう。いまは、そっとしておくのが、よろしゅうござります」
わたしは、頷いた。伝えないことも、一つの答えなのだと、綾から教わった気がした。
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その月も、弥九郎は、幾度か渡ってきた。用のある夜も、ない夜もあった。断ったことは、なかった。夜のあいだに機嫌よく別れておけば、翌日の話が、いくらか通りやすくなる。それだけの勘定を、わたしは、いつのまにか、当たり前のこととして続けていた。
春になって、湊に、見慣れぬ帆印の船が入ってきた。
わたしは、その帆を、遠目に見た。
赤地に、黒い印。これまで、この海で見たことのない印だった。
「あれは」
近くにいた松吉に問うた。
「存じません。この湊に入るのは、初めて見る船です」
船は、湊の外れに碇を下ろした。積み荷を検める素振りも、島の者と何か話す素振りも見せなかった。ただ、しばらく碇泊して、様子を窺っているように見えた。
わたしは、その帆印を、頭の中に写し取った。赤地に黒。この先、また目にすることがあるかもしれない。そのときに、すぐに見分けられるように。
弥九郎に、そのことを報せに行こうとして、足を止めた。
孫兵衛の、あの遠くを見る目が、また頭をよぎった。
昔語りと、この見慣れぬ帆印とが、どこかで繋がっているのかもしれない。そう思ったが、確かめる術は、まだなかった。
わたしは、帆印のことだけを、弥九郎に伝えることにした。それ以上の推し量りは、いまはまだ、紙の上にも、言葉にも、載せられなかった。
「見慣れぬ帆にござります」
弥九郎の小屋で、そう告げた。
「赤地に、黒い印。この湊に入るのは、初めてと聞いております」
弥九郎は、少し考えるような顔をした。
「敵か、味方か」
「まだ、分かりませぬ。何も言わず、湊の外れに碇を下ろしただけにござります」
「様子見か」
「そのように見えまする」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
「見張りを、二人つけよ」
「承知いたしました」
その指図を伝えに行きながら、わたしは、頭の中で、また別のことを考えていた。
孫兵衛の昔語り。まとまりの薄れた本家。そして、見慣れぬ帆印の船。
三つの事柄が、まだ一つの線には繋がらなかった。だが、線になりかけている予感だけは、確かにあった。
その予感を、わたしは、まだ誰にも言わなかった。言葉にするには、材料が足りなかった。足りないまま口にすれば、ただの当てずっぽうになる。それは、この島で、これまで積み上げてきたやり方とは、違うことだった。
数日後、その船は、何も告げずに湊を出ていった。
見張りの二人に、そう報告を受けた。
「向こうは、何をしに参ったのでしょう」
わたしが問うと、報告に来た手下は、首を振った。
「分かりませぬ。上陸もせず、荷も検めず、ただ碇泊しておっただけです」
「様子を見に来ただけ、ということでしょうか」
「そのように思われます」
わたしは、その帆印を、もう一度、頭の中で描き直した。
赤地に黒。何かを探りに来て、探るだけ探って、去っていった。誰の一党かも、何を探りに来たのかも、いまはまだ分からない。
分からないことが、増えていく。
孫兵衛の昔語り。まとまりの薄れた本家。そして、正体の知れない船。
一つずつは、小さな欠片だった。だが、欠片が増えるほど、それらがいずれ一つの絵になる予感も、強くなっていった。
その絵の形を、わたしは、まだ描けなかった。
描けないまま、欠片だけを、紙の上に並べておくことにした。いつか、線がつながる日のために。




