第十六話 谷を堰く
応永二十七年(一四二〇)十二月 伊予国 怒和島
谷の水が、思うたより早う溜まりはじめていた。
十二月に入って、雨の日が続いた。堰いた谷の水位が、日ごとに上がっていく。それを見届けるたび、指の先が、じんと熱くなった。高低差を測り、堰を築き、段に土を切る——この一年、幾度も頭の中で組んできた形が、いま、目の前で、確かに水を湛えている。
数と、地の理と、水の動き。ここだけは、迷わなかった。迷う理由がなかった。
段畑の縁に、刈った草と、浜から運んだ海藻を、幾重にも敷き込んだ。緑肥にすれば、痩せた土も、幾年かで肥える。前の生で、幾度も見た手順だった。
「これで、来年の畑には」
わたしが問うと、綾は、少し考えてから答えた。
「口を糊するだけなら、来年のうちにも。銭になるほどのものが穫れますのは、再来年にござります」
「存じております」
その答えを、わたしは既に飲み込んでいた。谷の水が溜まるのは来年の梅雨、来年のうちに口を糊するだけの実りは見込めるが、銭になるほどのものは再来年。もとは、わたし自身が見立てて、綾に伝えた数だった。それを、綾は、島の者たちに、自分の言葉として、丁寧に語り直していた。急いても、土が水に馴染むには時がかかる。
急がば回れ、か。
弥九郎の、あの一言を思い出した。
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普請場には、手下と島の者が、同じ場所で働いていた。
土を運ぶ者、堰の芯に石を組む者、段の縁を叩き締める者。誰が何をするかは、綾が決めていた。
その配り方を、わたしは、少し離れたところから眺めていた。
弥助という手下と、下怒和の若者が、同じ石を担いでいた。担ぎながら、何か言葉を交わしている。聞き取れるほどの距離ではなかったが、時折、二人して笑う声だけが届いた。
半分は、動いていた。だが、半分は、まだ動かなかった。
上怒和の者たちの一部は、いまだに谷へ近づかなかった。作業の輪から、少し離れた場所で、こちらを窺うようにして立っているだけの者もいる。
「なぜ、あの者たちは動かぬのでしょうか」
わたしが綾に問うと、綾は、しばらく黙っていた。
「分かりませぬ」
「分からぬ、と申されますと」
「わたくしにも、分からぬことはござります」
その答えに、わたしは、少し意外の念を覚えた。人の心を読むことにかけては、この女は、いつも迷いがないように見えていた。
「上怒和は、下怒和より、水に困っておりませぬ。井戸が、まだましにござります」
「困っておらねば、動かぬ、と」
「困っておらぬ者を動かすには、困っておる者を動かすのとは、違う理が要りまする。それが何かは、わたくしにも、まだ見えておりませぬ」
分からぬ、という言葉を、綾がそのまま口にしたのは、初めてだった。
わたしは、それを、頭の中の帳に、正直に書き留めた。分からぬことを、分からぬまま置いておく。この土地で、少しずつ覚えつつあるやり方だった。
それでも、分からぬままにしておくことに、わずかな苛立ちも残った。理屈が通れば、人は動く。この一年、そう信じて数を組んできた。だが、理屈だけでは動かぬ者が、確かにいる。動かぬ理由を、いつか掴めるのか、それとも、掴めぬまま終わるのか、いまはまだ、見当がつかなかった。
一度だけ、上怒和まで足を運んでみた。
集落の井戸を見せてもらった。確かに、下怒和のものより深く、水も澄んでいる。旱の年でも、涸れたことはないという。
「では、溜池は要らぬ、と思うておられますか」
年寄の一人に、そう訊いた。
「要らぬとは、申しませぬ」
その答え方に、わたしは、少し引っかかった。
「では、なにゆえ」
「下怒和の谷にござりましょう」
そう言われて、初めて分かった。
谷は、下怒和の側にある。溜めた水も、下怒和の畑へ回る。上怒和の者が手を貸したところで、その水が自分たちの畑に来るわけではない。
同じ島の内でも、水の行く先は分かれている。
そのことを、わたしは、勘定に入れていなかった。島を一つのものとして数えて、下怒和と上怒和を分けていなかった。
「では、上怒和にも、別に溜められる場所があれば」
「あれば、動きましょうな」
その一言を、わたしは、頭の中に書き留めた。
理屈が通らなかったのではない。通す先を、間違えていた。
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木のことが、初めて顔を出したのは、堰の杭を立てる段になってからだった。
「杭が、足りませぬ」
普請場の差配をしていた男が、そう言ってきた。
「島の木を、伐ってはならぬのでしょうか」
「木は、伐れば伐っただけ、戻るまでに時がかかりまする。杭にも、段の土留めにも、それに、煮炊きの薪にも、木は要り用にござります」
わたしは、指を折った。
杭、土留め、薪。三つの用途が、同じ一つの木を奪い合っている。島に、木は多くない。段畑を切り開いたぶんだけ、山の緑は、既に薄くなっていた。
その一行を、わたしは、静かに帳の隅に置いた。いま解く問いではなかった。だが、いずれ、解かねばならぬ問いだった。
木の乏しさは、溜池の普請だけの話では終わらない。焼き物の窯にも、船の修理にも、木は要る。この島に根を張るということは、限られた木を、幾つもの要り用のあいだで、絶えず割り振り続けるということでもあった。
水の割りと、同じだ。
そう気づいて、少し可笑しくなった。四年前、博多沖の船で覚えたことが、形を変えて、また目の前に現れている。
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同月 半ば
木のことを切り出す前の晩、弥九郎が、渡ってきた。
用があってのことではなかった。それでも、断らなかった。木の話は、明日にでも通したい話だった。夜に機嫌よく別れておけば、翌朝の話は、いくらか通りやすくなる。そう判じただけのことだった。
灯りを吹き消す前、帯を解く手に、迷いはなかった。慣れているわけではない。それでも、迷う理由もなかった。
夜が明けてから、弥九郎に、木のことを話した。
「杭も、薪も、段の土留めも、すべて木にござります。このままでは、いずれ、島の山が丸裸になりまする」
「植えればよかろう」
弥九郎は、あっさりと言った。
「植えて、育つまでに幾年かかりまするか」
「知らん。木のことは、木に訊け」
その一言に、わたしは、少し考えた。
来年のうちに、口を糊するだけの実りは見込める。だが、銭になるほどのものが穫れるのは、再来年だ。その間を埋めるものがあれば、島の者たちにも、また一つ、目に見える証が示せる。
「木を、いまのうちから植えはじめとうござります」
「木を、植える」
「島に、元から自生しております柑橘や椿がござります。手入れをすれば、実入りに変わりましょう。それに加えて」
わたしは、少し間を置いた。
「明を発つ折に積みました、茶ノ木の苗がござります。それと、楠も」
弥九郎の眉が、動いた。
「楠は、樟脳にも、材にも使えまする。茶ノ木は、育てば、明の商人に高う売れましょう」
「植えるだけで、済むのか」
「済みませぬ。土を選び、日当たりを見、水はけを検めねばなりませぬ。ですが、田畑のように、水を溜め、土を馴染ませる年月は要りませぬ。木は、根を張るのに時はかかりますが、田より、乏しい水でも育ちまする」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
「田畑より先に、木か」
「時の軸が、違うだけにござります。田畑の実りを待つあいだにも、島には、何か動いておる証が要りましょう」
弥九郎は、少し笑った。
「お前は、待つあいだも、遊ばせておかぬ質らしい」
「性に合いませぬゆえ」
「よかろう。木のことも、任せる」
その一言で、また一つ、頭の中にあった算段が、この男の口を通って、島の仕事になった。
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同月 末
普請の合間、綾が、島の女たちを幾人か連れて、山へ入った。
わたしも、その後を追った。
自生の椿が、幾本も生えている一角があった。手入れもされず、伸び放題になっている。
「これは、実を絞れば、油になりまする」
綾が、そう言った。
「油に」
「灯にも、髪にも使えまする。手入れをすれば、いまより多う採れましょう」
女たちが、鎌を手に、伸びた枝を払いはじめた。慣れた手つきだった。この島で、幾代も繰り返されてきた手順なのだろう。
その光景を見ながら、わたしは、懐から茶ノ木の苗を包んだ布を取り出した。まだ小さな苗だった。船の中で、潮風に幾度もさらされながら、それでも枯れずに残った幾株かだった。
「これを、どこに植えれば」
わたしが問うと、綾は、しばらく苗を検めた。
「日の当たる、水はけのよい斜面がよろしゅうござります。谷の水路の脇に、少し空いた場所がござります」
案内された場所は、堰いたばかりの谷から、少し離れた斜面だった。段畑にするには急すぎるが、木を植えるには、ちょうどよい傾きに見えた。
土を掘り、苗を植える。手が土で汚れることに、もう戸惑いはなかった。
「育つでしょうか」
「育つかどうかは、木が決めまする。わたくしどもにできますのは、育ちやすい場所を選ぶことだけにござります」
その言葉に、わたしは、頷いた。
分からぬことを、分からぬまま置いておく。育つかどうかは、わたしの数では測れない。それでも、植えないよりは、植えたほうがいい。
楠の苗も、同じ斜面の、少し離れたところに植えた。
これらが、実を結ぶのは、まだ何年も先のことだろう。それでも、今日、確かに土に根を下ろした。その事実だけは、誰にも動かせなかった。
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正月 伊予国 怒和島
年が明けた。
島の年寄たちが、初めて、弥九郎の一党を、祝いの席に招いた。
集落の外れの、広場のような場所に、莚が敷かれていた。島の者たちと、手下衆とが、入り交じって座っている。末席だったが、確かに、席はあった。
孫兵衛が、その席の差配をしていた。誰をどこに座らせるか、それとなく気を配っている様子が見て取れた。
「これは、孫兵衛どののお計らいにござりますか」
わたしが問うと、孫兵衛は、少し目を逸らした。
「年寄の役目にござります。誰と誰を隣に座らせれば揉めぬか、それを見るのも」
その答えに、わたしは、綾がいつも口にする理屈と、同じ響きを感じた。数ではなく、人の性根で組む理屈だった。
弥九郎は、末席に座らされたことに、何も文句を言わなかった。出された粗末な酒を、うまそうに飲んでいた。
「棟梁」
若い島の男の一人が、恐る恐る声をかけた。
「谷の水は、うまく溜まっておりますか」
「うまく溜まっておる」
弥九郎は、短く答えた。
「来年の夏には、目に見える形になろう」
その一言に、幾人かが頷いた。
わたしは、その様子を、少し離れたところから見ていた。末席とはいえ、この輪の中に、確かに加わっている。三年前、初めてこの島に船を寄せたとき、浜で投げられた石のことを思い出した。あのときからは、遠くまで来た。
だが、まだ足りないことも、分かっていた。
湊は借りられた。塩も出た。木も植えた。それでも、田を預けてはもらえていない。この輪の中に座ることと、この島の内側に入ることとは、まだ別のことだった。
その隔たりの大きさを、わたしは、酒を注がれながら、静かに数えていた。
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夜、船倉で紙を広げた。
谷、堰く。水、溜まる。木を植う。柑橘・椿・茶ノ木・楠。正月、末席に座す。
書きながら、昼間の孫兵衛の言葉を、もう一度思い返した。
年寄の役目。誰と誰を隣に座らせれば揉めぬか。
その理屈は、綾の理屈と、根が同じに思えた。だが、綾が語るときとは、少し違う色があった気がする。それが何なのか、うまく言葉にできなかった。
分からないことは、そのまま置いておく。
灯を吹き消す前に、窓の外を見た。谷のほうから、微かに、水の音が聞こえた気がした。気のせいかもしれない。それでも、その音を、しばらく聞いていた。
木は、まだ根を張りはじめたばかりだった。育つかどうかは、まだ分からない。それでも、今日という日が、確かに一つ、積み重なった。
積み重なったものの上に、まだ積まれていないものがある。田を預けること。娘を出すこと。その二つだけが、いつまでも、こちらの手の届かぬところに残っていた。手が届かぬ理由を、いつか掴めるだろうか。掴めたとして、それを動かす術が、いまのわたしにあるだろうか。
答えの出ない問いを、頭の隅に置いたまま、わたしは莚に身を横たえた。谷の水音は、もう聞こえなかった。ただ、風の音だけが、板戸の隙間から、絶えず入り込んできていた。
上怒和の井戸のことも、頭の隅に残った。
いずれ、あちらにも、別の溜め場を作らねばならないだろう。谷の形は、下怒和のようにはいかない。上怒和は、地が平たく、水を堰き止められるだけの傾きがない。
代わりの形を、探さねばならない。
井戸を、いまより深く掘るか。あるいは、雨水を受ける桶を、家ごとに置かせるか。数はまだ、頭の中で組み上がっていなかった。
組み上がるまでは、この島は、まだ半分しか動いていないことになる。
そう思いながら、わたしは、目を閉じた。




