第十五話 斬るな
応永二十七年(一四二〇)十一月 伊予国 怒和島
十一月に入り、島の風は、日ごとに冷たさを増していた。溜池の普請も一段落し、島の者と手下が、共に働く光景が、少しずつ当たり前のものになりかけていた。孫兵衛が声をかけてくれてから、まだひと月と経っていない。
先月には、初めて焼いた塩が、外から来た商人に売れた。手にした銭は、まだ大した額ではなかったが、それでも、実際に銭が入ったという事実は、手下たちの間に、小さくない手応えを広げていた。「根を張る」という言葉が、絵空事ではのうて、実入りに変わりはじめている——そう思わせるだけの、初めての一つだった。積み上げてきたものは、まだ薄く、脆いものだった。それでも、まったくの空手形ではなくなっていた。
その夜のことを知ったのは、翌朝だった。
冬の入り口の朝は、いつもより一段と冷え込んでいた。息を吐くと、白く曇って、すぐに風にさらわれていく。
浜へ下りると、空気が違っていた。いつもなら、朝のうちは漁の支度で人の声が飛び交う刻限だった。その日は、誰の声もしなかった。戸という戸が閉まり、干してあるはずの網も出ていない。島全体が、息を潜めているようだった。
「何が、あったのでしょうか」
わたしが松吉に尋ねると、松吉は、珍しく言い淀んだ。
「……手下の一人が、昨夜、島の女子に、無体を働いたそうです」
指先が、すっと冷たくなった。
「誰の仕業にござりますか」
「新参の、甚六という男です。海戦のあとに加わった者で」
わたしは、その名を、頭の中で探した。顔が浮かばなかった。二百幾人もいる手下の中の、まだ数えるほどしか言葉を交わしていない一人だった。
「女子は」
「命に別状は。ですが……」
松吉は、そこから先を言わなかった。言わなくても、分かった。
「その女子の名は」
「……分かりません。まだ、誰も」
わたしは、その返答に、しばらく口を開けなかった。
わたしは、それ以上訊かなかった。名を知らないまま、この島にいる誰かが、昨夜、取り返しのつかない目に遭った。その事実だけが、腹の底に重く沈んだ。名も知らぬ誰かの痛みが、これほど重く感じられたのは、久しぶりのことだった。
浜を歩くと、あちこちで、島の者たちがこちらを見ていた。これまでの、遠巻きに窺う目とは違う。もっと鋭く、もっと冷たい目だった。子供らの姿は、一人も見えなかった。家の中に、押し込められているのだろう。
これまで積み上げてきたものが、一夜で崩れた。頭ではそう分かっていたが、実感として飲み込むには、少し時がかかった。喉の奥が、からからに乾いていた。
---
弥九郎は、既にその一件を知っていた。甚六は、船倉に縛られていた。
わたしは、弥九郎のもとへ向かった。
「島が、凍りついております」
「見れば分かる」
弥九郎の声は、これまで聞いたことのない硬さを帯びていた。
「このままでは、これまで積み上げてきたものが、一夜で焼けまする。溜池も、湊も、綾どのが繋いでくださった縁も、すべて」
「分かっておる」
「掟を、作らねばなりませぬ」
わたしは、そう切り出した。
「奪うな。斬るな。島の者に手を出すな。それを、この一党の掟として、はっきりと定めなされませ」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
「賊の一党に、掟を作れと申すか」
「はい」
「理を申せ」
わたしは、頷いた。
「人心は、この島における元手にござります。溜池も、塩も、綾どのの口添えも、すべて、島の者がこちらを信じはじめたからこそ、動いております。三年かけて積んだ信を、たった一夜で焼くようなことがあれば、この先、何年かけても取り戻せませぬ」
「それだけか」
「それだけにござります。損得の話にござります」
弥九郎は、その言葉に、片頬をわずかに歪めた。笑ったのか、それとも別の何かだったのか、判じがたい表情だった。
「損得か」
「損得にござります」
「……分かった」
弥九郎は、それだけ言うと、船倉のほうへ向かった。
わたしは、その背を見送りながら、これまでとは違う種類の緊張を覚えていた。溜池を掘る、湊を借りる、代官船を詰ませる——これまでの策は、いずれも、こちらが仕掛ける側の話だった。だが、今度は違う。既に起きてしまったことの後始末であり、しかも、身内を裁くという話だった。
身内を裁けば、必ず不満が出る。理は通っていても、腹の底では納得しない者が出る。それが、これまでのどの策よりも、危うい賭けであることは、わたしにも分かっていた。
それでも、他に道はなかった。掟を作らずに済ませれば、島の者は二度とこちらを信じない。掟を作れば、手下の一部が離れるかもしれない。どちらに転んでも、何かを失う。選べるのは、失うものの種類だけだった。
---
その日の昼過ぎ、弥九郎は、手下全員を浜に集めた。
わたしは、少し離れた場所から、その様子を見ていた。これは、公の場だった。わたしの出る幕はない。
「これより、この一党に掟を定める」
弥九郎の声が、浜に響いた。
「一つ、島の者から奪わぬこと。一つ、島の者に刃を向けぬこと。一つ、島の女子に無体を働かぬこと。破った者は、罰する」
浜がざわついた。
「賊に掟があるか!」
誰かが、そう叫んだ。
「掟を守るくらいなら、初めから賊などやらん!」
別の誰かが続いた。不満の声が、あちこちから上がった。
「棟梁は、あの女子に飼われておるのか!」
その一言に、わたしの背筋が、冷たくなった。声のするほうを見たが、誰が言ったのかは分からなかった。多くの目が、一斉にこちらへ向くのを感じた。
弥九郎は、その声を無視しなかった。
「飼われてなどおらん」
短く、そう言い返した。
「これは、俺が決めたことだ。この一党の頭は、俺だ。俺が、これを守れと言えば、守るのが筋だ。従えぬ者は、出ていけ」
浜が、静まった。
わたしは、その静まり方を、注意深く見ていた。得心して静まったのではない。ただ、頭の勢いに押し切られて、口をつぐんだだけの静けさだった。その違いは、数では測れないが、肌で感じ取れた。両手を握りしめると、爪が掌に食い込んで、鈍い痛みが走った。
弥九郎は、続けて、縛られたままの甚六を、皆の前に引き出させた。
「甚六。島の女子に無体を働いたこと、この場で認めるか」
甚六は、俯いたまま、何も答えなかった。
「認めるか、と訊いておる」
「……認めまする」
弱々しい声だった。
弥九郎は、腰の物に手をかけた。浜が、息を呑んだ。だが、弥九郎が下したのは、斬るという裁きではなかった。
「腕を、一本、使えぬようにする。二度と、同じことができぬように」
その言葉に、浜の空気が、また一段、張り詰めた。命を取るよりも、いっそ生かして、この先ずっと片腕のまま働かせることのほうが、あるいは酷なのかもしれなかった。だが、それは同時に、命だけは奪わないという、この一党なりの線でもあった。
その言葉のあと、何が行われたか、わたしはその場から見ていなかった。見る必要はなかった。低い呻き声と、それに続く重い沈黙だけが、風に乗って届いた。
弥九郎は、自らその手を下した。誰にも命じなかった。誰にも押しつけなかった。
浜に集まった手下たちは、誰も、それ以上何も言わなかった。だが、その沈黙の質は、先ほどまでとは違っていた。反発を呑み込んだ沈黙ではなく、何か、目の前で起きたことの重みに打たれた沈黙だった。
弥九郎は、返り血のついた手を、海水で洗った。その手つきに、迷いはなかった。だが、いつもより幾分か、動きが硬いようにも見えた。わたしの見間違いだったのかもしれない。
甚六は、二人がかりで船倉へ運ばれていった。呻き声だけが、しばらく浜に残った。
わたしは、その一部始終を、離れた場所から見ていた。目をそらしたい気持ちが、幾度も込み上げてきた。膝の裏が、かすかに震えていた。それでも、そらさなかった。そらせば、この重さを負うのは弥九郎一人になる。せめて、見届けることだけは、わたしにもできる仕事だと思った。
浜が散会したあと、松吉が、こちらへ近づいてきた。顔色が、いつもより白かった。
「棟梁は、これでよかったんでしょうか」
「よい、悪いの話ではのうて、要ることにござります」
わたしは、そう答えた。答えながら、自分の声が、いつもより硬いことに気づいた。
「姐さんは、こういうとき、いつも顔色一つ変えませんね」
松吉が、そう言った。皮肉ではなく、ただ、不思議そうな声だった。
「変えても、何も変わりませぬゆえ」
そう答えてから、その言葉が、いつか綾から聞いたのと同じ形をしていることに、わたしは遅れて気づいた。誰かの言葉を、いつのまにか自分の言葉として使っている。その事実に、わずかな戸惑いを覚えた。
---
同日 夕 下怒和 井戸端
夕刻、井戸端で、孫兵衛と行き合った。
「……姐さんは」
孫兵衛は、いつになく、こちらの目をまっすぐに見た。
「なにゆえ、あのようなことを申されたので」
「掟のことにござりますか」
「昼間の話は、もう島中に広まっておる。棟梁が、手下を自らその手で罰したと」
わたしは、頷いた。
「なにゆえ、と問われれば、得だからにござります」
孫兵衛は、しばらく黙って、こちらを見ていた。
「損得か」
「はい。人心を失えば、この島は富みませぬ。富まねば、わたくしどもも、島の方々も、共に立ち行きませぬ。それだけのことにござります」
孫兵衛は、それ以上、何も言わなかった。ただ、小さく頷くと、何も言わずに背を向けて、井戸端を離れていった。
わたしは、その背を見送りながら、今日の受け答えは、うまく運んだと思った。理を尋ねられ、理で答えた。孫兵衛は納得し、去っていった。それでよいはずだった。
だが、孫兵衛が本当に問いたかったのは、損得の理屈ではなかったのかもしれない。あの目には、理屈を確かめる色ではなく、何か別のものを探る色があった。得だからと答えたわたしの言葉が、あの老人の中で、どう響いたのか。それを、わたしは考えなかった。
不正解だったかもしれないという可能性に、わたしは、まったく気づかないまま、その日を終えた。
孫兵衛の背が、夕闇の中に溶けていくのを見送りながら、わたしは、今日一日の出来事を、頭の中でもう一度並べ直していた。
甚六の処罰、手下の不満、孫兵衛の問い。どれも、数に置き換えれば、それぞれ一つの事実として片づく。だが、片づけたところで、島の空気が、すぐに元へ戻るわけではなかった。凍りついたものが溶けるには、まだ時が要る。その時をどう数えればよいのか、わたしにはまだ、見当がつかなかった。見当のつかないまま、ただ日々を重ねていくしかなかった。
---
夜、船倉で紙を広げた。
掟、定まる。甚六、腕を封じられる。手下の不満、なお燻る。
書きながら、昼の弥九郎の姿を思い返した。
自らの手で、自ら罰を下したあの姿。誰かに押しつけることもできたはずだった。それをせず、自分の手を汚した。損得だけで動く男だと、これまで思ってきた。だが、あの重さの決定を、あの人は、損得だけでは下さなかったのかもしれない。
その考えを、紙には書かなかった。書けば、何かが崩れる気がした。
甲板から、低い話し声が聞こえてきた。松吉と、他に幾人かの手下が、まだ何か話し込んでいるらしい。今日の一件について、それぞれの胸の内を、確かめ合っているのだろう。わたしには聞こえない声で、わたしには立ち入れない場所で、この一党は、今日という日を、それぞれの形で飲み込もうとしていた。
灯を吹き消す前に、外の気配に耳を澄ませた。島は、まだ静かだった。凍りついたままなのか、それとも、ゆっくりと溶けはじめているのか、この一夜だけでは、まだ判じようがなかった。
莚に横になっても、なかなか寝つけなかった。甚六の呻き声と、浜の沈黙と、孫兵衛の目とが、代わる代わる、まぶたの裏に浮かんでは消えた。数えることでしか、恐ろしいものをやり過ごせなかった昔の癖が、ふと蘇りかけたが、今夜は、数える気力さえ湧いてこなかった。
---
その静けさの奥で、わたしの知らないところで、もう一つの動きがあった。
その夜、綾は、島の女たちの前で、初めて、はっきりと言葉を口にしていた。
女たちの輪の中で、誰かが「やはり余所者は信じられぬ」と漏らしたとき、綾は、それまで黙って聞いていた顔を上げ、静かに、しかしはっきりと言った。
「棟梁は、自らの手で、その者を罰しました。賊のままなら、そのようなことはいたしませぬ」
輪の中が、しんと静まったという。誰も、それに言い返さなかった。
そう語ったという話が、わたしの耳に届いたのは、ずっと後になってからのことだった。届いたときには、既に、島の空気は、少しずつ変わりはじめていた。誰が、どこで、何を口にしたのか——その一つひとつを、わたしは知らないまま、ただ結果だけを受け取ることになる。それが、この島での、わたしの立ち位置だった。




