第十四話 名を知らぬ女
応永二十七年(一四二〇)十月 伊予国 怒和島
十月に入り、朝夕の風に、はっきりとした冷たさが混じるようになった。潮の匂いも、夏のあいだの重さが薄れ、どこか澄んだ気配を帯びはじめている。
溜池の普請は、思っていたよりも早く形になっていった。
谷の両側から土を運び、堰の芯にする粗朶と石を組む。手下と島の者が、同じ場所で、同じ道具を使って働く。その光景を初めて目にしたとき、わたしはしばらく手が止まった。
つい先ごろまでは、想像もできなかった眺めだった。石を投げられていた手下と、家に引っ込んでいた島の女たちが、いまは並んで土を運んでいる。何が変わったのかと問われれば、答えは一つしかなかった。綾が、あいだに立ったからだった。
数を並べて三日かけても動かなかったものが、綾の一言で、半日で動いた。その落差を、わたしはまだ、正しく飲み込めずにいた。飲み込めないまま、その落差の正体を確かめたくて、わたしは、なるべく綾のそばで働くようにしていた。
朝、堰の縁に石を積む段取りを決めるとき、綾は、島の年寄りたちの輪に混じって、何事もないように働いていた。姫として振る舞う様子は、微塵もなかった。土で汚れた手を、気にする素振りも見せなかった。
割り振りの表は、わたしが作った。誰が土を運び、誰が石を積み、誰が水路を掘るか。人の数と、それぞれの得手不得手を紙に書き出し、無駄のないように組んだ。
綾が二度目に来たのは、その表を掲げて、皆に指図しているときだった。
「その割り振り、少し変えたほうがようございます」
綾は、そう言って、表をちらりと見た。ちらりと、というのは大げさではなかった。本当に、一度目を通しただけで、綾はそれ以上、紙を見なかった。
「あの婆様と、あちらの母御は、犬猿の仲にござります。同じ組に入れれば、仕事になりませぬ」
「表の上では、二人とも、力が同じほどにござります。組み合わせて損はないはずですが」
「力の話ではのうて、性根の話にござります」
わたしは、その一言に、少し詰まった。
「入れ替えれば、どうなりましょうか」
「あの婆様は、若い娘の言うことなら聞きまする。ただし、褒めながらでのうては、動きませぬ。あちらの母御は、逆に、褒められると図に乗る質にござりますゆえ、少し厳しめの年配と組ませたほうがよろしゅうございましょう」
綾は、そうやって、次々と組み合わせを変えていった。表を見返すことは、一度もなかった。頭の中に、島の者すべての性根が、既に入っているようだった。
その日の普請は、これまでで一番、はかどった。
日が高くなるにつれ、土を運ぶ声、石を積む音、堰の芯を組む槌の音が、谷いっぱいに響いた。手下の一人が、島の年寄りに水の運び方を教わっている場面もあった。教わっているのが、賊のほうだった。その光景を、わたしは少し離れた場所から眺めていた。
弥助が、汗を拭いながら、こちらへやってきた。
「姐さん、こういう仕事も、悪くありませんね」
「悪くはございませぬな」
「潮の上より、地に足がついてる感じがします」
弥助は、そう言って笑った。海の男が、土の上での仕事に、これほど素直な感想を漏らすのを、わたしは初めて聞いた気がした。数では測れない充足が、この谷には確かに満ちていた。
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わたしは、その夜、船倉で紙を広げながら、ふと考えた。
綾のことを、わたしはまだ、ほとんど何も知らない。
歳がいくつなのか。家の中で、どういう立場にいるのか。母がいるのかどうかさえ、訊いたことがなかった。数えることには長けていながら、目の前にいる人そのものを知ろうとしていない自分に、初めて気づいた。
——訊けば分かることを、なぜ訊かずにいたのだろう。
その問いに、はっきりとした答えは出なかった。忙しさのせいにするのは容易かったが、それだけではない気がした。人を、道具として、あるいは駒として見ている限り、その人自身の来し方を知る必要はない。使えるかどうかだけが分かれば、それで足りる。
そういう見方が、いつのまにか、自分の中に染みついていた。
その気づきを、深く掘り下げることはしなかった。掘り下げれば、何か、これまで積み上げてきたものの土台が揺らぐ気がした。わたしは、その予感から、静かに目をそらした。
それでも、翌日、綾に会ったとき、わたしは思い切って尋ねてみた。
「綾どのは、おいくつにござりますか」
唐突な問いだったはずだが、綾は驚いた様子も見せなかった。
「十九にござります」
「わたくしと、同い年にござりますな」
「そのようで」
綾は、それだけ答えて、少し目を細めた。値踏みされている、というより、面白がられているような目だった。
それだけの遣り取りだった。だが、名も知らぬ女、という思いが、少しだけ薄れた気がした。歳を知る。それだけのことで、目の前にいる人の輪郭が、わずかに濃くなる。数えることに慣れた指先が、初めて、数以外のものを掴もうとしていた。
「母上は、ご息災にござりますか」
続けて尋ねると、綾の顔が、一瞬だけ翳った。
「母は、わたくしが十のとき、身罷りました」
「……存じませず、失礼を」
「よろしゅうございます。訊かれねば、誰も知らぬままのことにござります」
その声には、寂しさよりも、諦めに近い落ち着きがあった。長いあいだ、誰にも訊かれず、誰にも語らずにきた重みが、その一言の底に沈んでいるようだった。
その一言に、わたしは、自分がこれまで、この女の来し方を、ただの一度も尋ねずにきたことを、改めて思い知らされた。使えるかどうかだけを見て、その人自身がどこから来たのかを、見ようとしていなかった。
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同月半ば 下怒和
綾が三度目に来た日、少しだけ、家のことを語った。
普請の合間、堰の縁に並んで腰を下ろしていたときだった。
「わたくしの父の代になってから、本家は、ほとんど顔を見せなくなりました」
綾は、そう切り出した。訊いたわけではなかった。綾のほうから、ふと漏らすように言った。
「昔は、正月には必ず使いが来たと聞きました。義範公の御代のお話をする年寄が、まだ何人か生きております」
「いまは」
「この十年、船一つ寄越しませぬ。忘れられたのか、見捨てられたのか、それとも、ただ庇う力が残っておらぬだけなのか。わたくしには、分かりませぬ」
その声に、恨みの色はなかった。ただ、事実を確かめるような、静かな響きだった。
「兄は、それを恥じております」
「又五郎どのが」
「本家に見捨てられた分家の跡取り、と陰で言われることがございます。兄は、それを聞くたび、顔色を変えます。わたくしは、聞き流せるのですが、兄は、聞き流せませぬ」
わたしは、その一言で、又五郎という男の輪郭が、また少し変わるのを感じた。
これまで、又五郎を「強硬な男」としてしか見ていなかった。だが、その強硬さの裏に、家の面目を一身に背負っているという重さがあるのだとすれば、松吉が打たれたあの日の拒絶も、ただの頑迷さではなく、追い詰められた者の反応だったのかもしれない。
義重が窮地の中で一人静かに文をしたためたように、又五郎もまた、自分なりの形で、この家を守ろうとしているのかもしれなかった。守り方が違うだけで、根にあるものは、案外同じなのかもしれない。
そう思いかけて、わたしは、その考えを紙には書かなかった。又五郎とは、まだ一度も、まともに言葉を交わしたことがない。会ったこともない相手の内側を、勝手に思い描くのは、危うい癖だという自覚もあった。それでも、その思いつきは、頭の隅に、静かに居座り続けた。
「あなた様は、恥じてはおられぬのですか」
わたしが尋ねると、綾は少し考えてから答えた。
「恥じても、何も変わりませぬゆえ」
それだけだった。だが、その短さの中に、綾という人の芯のようなものが見えた気がした。
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その日の夕刻、弥九郎が普請の様子を見に来た。
弥九郎が綾と直接言葉を交わすのは、これが初めてだった。わたしは、少し離れた場所で、その遣り取りを見ていた。
「谷の水は、いつごろ溜まる」
弥九郎が、ぶっきらぼうにそう問うた。
「来年の梅雨には、目に見える形になりましょう」
「畑には、いつから回せる」
「来年のうちに、口を糊するだけなら。銭になるほどのものが穫れますのは、再来年にござります。千代様が、そう見立てておられました」
「急がば回れ、か」
「急いで壊れたものを、何度も見てまいりました」
綾は、臆する様子もなく、そう答えた。武家の女らしい遠慮も、賊への恐れも、その声には混じっていなかった。ただ、事実を、事実として述べているだけだった。
弥九郎は、しばらく綾を見ていた。それから、短く頷いた。
「土地の見極めは、お前のほうが達者らしいな」
「わたくしは、数のことは分かりませぬ。ただ、この土地に生まれて育っただけにござります」
「それも、才の内だろう」
弥九郎は、そう言って、少し笑った。世辞ではなく、素直な感心の色がその声に混じっていた。わたしは、少し離れた場所で、その笑い方を見ていた。手下たちの前で見せる笑いとも、わたしと二人きりのときに見せる笑いとも、また違う種類の笑いだった。
「よかろう」
それだけで、二人の遣り取りは終わった。長くはなかった。だが、わたしはその短いやり取りの中に、何か、これまで見たことのない色を感じた。
弥九郎が去ったあと、綾がこちらへ来て、ぽつりと言った。
「あの御方は、正直者にござりますね」
「正直者、と申しますと」
「知らぬことを、知らぬと申されました。急ぐべきでないことを、急ぐべきでないと分かっておられます。この時代、それができる殿方は、そう多くはございませぬ」
わたしは、その評を、頭の中で書き留めた。綾の見立ては、いつも短く、それでいて的を射ていた。
「あなた様は、なにゆえ、あの男を選ばれたのですか」
綾が、ふと問うた。
「選んだ、と申しますと」
「夫として、にござります」
わたしは、少し考えてから答えた。
「得で動く男にござります。理を示せば、通じまする。この時代、そういう殿方は稀にござります」
「それだけにござりますか」
「それだけにござります」
綾は、それ以上、深くは訊いてこなかった。ただ、こちらの答えを、じっと見定めるような目で見ていた。その目の中に、何か、こちらの答えを疑っている色があった気がしたが、わたしはそれに気づかないふりをした。
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同日 夕 下怒和 井戸端
普請の帰り道、井戸端で、孫兵衛と行き合った。
これまで、孫兵衛のほうから声をかけてきたことは、一度もなかった。いつも、こちらが訊ねて、渋々答える、という形だった。
その日、孫兵衛は、こちらが通り過ぎようとするのを、呼び止めた。
「……姐さん」
わたしは、足を止めた。
孫兵衛は、しばらく黙っていた。何か言おうとして、言葉を選んでいるようだった。
「溜池が、水を持ったら、また来なされ」
それだけ言うと、孫兵衛は、さっさと背を向けて歩き去っていった。
わたしは、その背を、しばらく見送った。
多くを語る老人ではない。だが、その一言には、これまでとは違う何かが含まれている気がした。「また来なされ」というのは、少なくとも、拒絶の言葉ではなかった。
溜池が水を持てば、また会おうと言っている。それは、この老人なりの、譲歩の形なのかもしれなかった。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。数の答えでは説明のつかない温かさだった。孫兵衛の一言も、綾の一言も、どちらも、これまで積み上げてきた理屈とは別の場所から届いていた。理屈で島を富ませようとしていたはずが、いつのまにか、理屈の外側にあるもので、少しずつ足場を作られている。その事実に、わたしは戸惑いながらも、確かな手応えを感じていた。
夜、船倉で紙を広げた。
綾。父の代から本家、船を寄越さず十年。兄・又五郎、それを恥じる。
弥九郎、綾を「正直者」と評される。
孫兵衛「溜池が、水を持ったら、また来なされ」
書きながら、今日一日で知ったことの多さに、わたしは少し驚いていた。綾のこと、又五郎のこと、孫兵衛のこと。数では測れない話ばかりだった。それでも、これまでよりも、島の内側に、確かに一歩入り込めた気がした。
灯を吹き消す前に、もう一度、綾の顔を思い浮かべた。恥じても、何も変わらない——そう言い切った、あの静かな声を。
自分にも、同じように言い切れることがあるだろうか。そう考えかけて、答えの出ないまま、わたしは眠りに落ちた。
外では、まだ普請の名残の匂い——土と、汗と、乾いた草の匂いが、風に乗って船倉の隙間から漂ってきていた。




