↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
52/130

第十三話 鍬を持たぬ

応永二十七年(一四二〇)九月 伊予国 怒和島


秋の日差しが、少しずつ和らぎはじめていた。潮の匂いに、稲刈りの済んだ田の匂いが混じる季節だった。もっとも、この島に、稲刈りをするほどの田はない。段畑の作物が、乏しいながらも実りの時を迎えているだけだった。


谷を見つけたのは、九月の初めだった。


下怒和の奥、島の背骨にあたる山の裾に、三方を斜面に囲まれた窪地がある。雨の日、そこに水が溜まって、しばらく引かないのを、わたしはこの目で確かめていた。堰を築けば、雨水を留め置ける。段に土を切れば、畑にも回せる。理屈は、もう頭の中で組み上がっていた。


あとは、土を動かす手さえあればよかった。


わたしは、下怒和の集落の者を集め、谷の前で説いた。


「ここに堰を築けば、水を溜められます。溜めた水は、畑にも田にも回せます。今年のうちに手をつければ、来年の夏には、目に見える形になりましょう」


集まった者たちは、黙って聞いていた。反論はなかった。だが、頷く者もいなかった。


「銭は、こちらで持ちます。手間賃も出しまする。どうか、鍬をお貸しくださりませ」


それでも、誰も動かなかった。


一日目は、そういうものかと思った。二日目も、同じだった。三日目、わたしは同じ場所に立って、同じことを説いた。三日とも、同じ静けさが返ってきた。


誰も、腹を立てているわけではなかった。ただ、聞いて、頷かず、動かない。その反応の一貫性が、かえって不気味だった。



「言葉が、届いておらぬのでしょうか」


わたしが弥九郎に問うと、弥九郎はしばらく考えてから答えた。


「届いておらんのではない。届いた上で、動かんと決めておるのだろう」


「なぜ、動かぬと決めるのでしょう。得のある話にござります」


「得だと分かっても、動かぬときはある。お前は、それを知っておるはずだが」


わたしは、口を閉じた。分かっているつもりで、実のところ、腹の底からは分かっていなかった。


---


四日目、手下に掘らせようとした。


弥助を含めた数人が、鍬を担いで谷へ向かった。だが、いざ土を起こそうとすると、今度は手下たちの側が渋りはじめた。


「……なぜ、俺たちが土を掘らねばならんのです」


一人がそう漏らした。


「賊が、畑仕事とは。手下に示しがつきませぬ」


わたしは、その言い分に驚いた。掘る手が要ると言えば掘ってくれると、単純に思い込んでいた。だが、この一党にも、この一党なりの矜持があった。海の男が鍬を持つことは、彼らにとって、決して当たり前のことではなかった。


数の上では、誰が掘っても同じはずだった。だが、誰が掘るかということ自体に、意味を見出す者がいる。その意味を、わたしはまた、勘定に入れ忘れていた。



「では、いかがすれば」


わたしが弥九郎に訊くと、弥九郎は珍しく、はっきりとは答えなかった。


「さあな。俺にも分からん」


「棟梁にも、分からぬことがござりますか」


「山ほどある。分かった顔をしておるだけだ」


その一言に、わたしは少し驚いた。この人が、分からないと素直に口にするのを、あまり聞いたことがなかった。


「では、どうなさるおつもりで」


「待つしかあるまい。押しても、動かんものは動かん」


また、同じ答えだった。数を組んでも、理を並べても、最後には、待つよりほかに道がない場面が、この島では繰り返し現れる。


わたしは、その繰り返しに、少しずつ苛立ちを覚えはじめていた。苛立ちながらも、苛立つこと自体が、何かを見誤っている証のような気もして、その日は、それ以上何も言えなかった。


その日、谷は、誰の手も入らないまま、静かに雨を吸っていた。夕暮れの光が斜めに差し込んで、水を含んだ土が、鈍く光っていた。


夜、船倉で紙を広げても、書くことがなかった。空白の紙を睨みながら、わたしは、これまでの遣り口をもう一度、頭の中でなぞってみた。


理を示す。数を出す。損得を並べる。この一年、ずっとそうやって物事を動かしてきた。弥九郎も、松吉も、弥助も、その道筋で動いてくれた。だから、下怒和の者たちにも、同じ道筋が通じると、疑いもなく思い込んでいた。


だが、通じなかった。


通じなかった、という事実そのものが、わたしにはうまく飲み込めなかった。理屈が間違っているとは思えない。溜池を作れば、島は確かに富む。それなのに、誰も動かない。理屈と、人の動きとのあいだに、何か見えない隙間があった。



その隙間の形を、わたしはまだ、掴めずにいた。掴めないまま、朝が来れば、また同じ場所に立って、同じ言葉を繰り返すのだろう。それしか、いまのわたしにできることはなかった。


---


同月十日過ぎ 下怒和


事が動いたのは、思わぬところからだった。


その日も、わたしは集落の入り口に立って、同じ話を繰り返そうとしていた。だが、いつもと違って、人の輪の中に、見覚えのある顔があった。


——いつぞや、浜で揉め事を鎮めていた、あの女だ。


浜で揉め事を鎮めていた、あの若い女だった。名も知らないまま、頭の隅に残していた顔だった。


女は、集まった女たちのあいだを縫うように歩き、一人ひとりに、何か短く言葉をかけていった。何を言っているのかは、遠くて聞き取れない。だが、言葉をかけられた女たちの顔つきが、次々と変わっていくのが見えた。


「あの方は……」


わたしが尋ねると、松吉が首を振った。


「存じません。ただ、あの様子は、ただの女子じゃなさそうです」


半刻もしないうちに、家々の戸が開いた。出てきたのは、女たちだけではなかった。女房に急かされた亭主や、母に背を押された息子たちが、鍬や鋤を担いで、ぞろぞろと谷へ向かって歩き出す。数日、わたしがどれだけ説いても動かなかった男たちが、まるで潮が変わったように、当たり前の顔をして動いていた。


わたしは、その光景を、しばらく声もなく見ていた。



三日かけてできなかったことが、半日で起きた。


---


女が、こちらへ近づいてきた。


近くで見ると、思っていたより背が高く、目に強い光があった。歳は、わたしと、さほど変わらぬように見えた。


「忽那綾と申します」


女は、そう名乗った。


綾。


「荒瀬弥九郎の妻、千代と申しまする」


わたしがそう名乗ると、綾は、わずかに眉を動かした。それ以上の反応は見せなかった。


「あなた様が、この谷を掘らせようとしておられる方にござりますね」


「はい。谷を堰き、水を溜めまする。この島に、何より要るものにござります」


「それは、存じております。皆も、存じておりました」


わたしは、その言葉に、少し戸惑った。


「では、なにゆえ、これまで動かなんだのでしょう」


綾は、しばらくこちらを見てから、静かに答えた。


「あなた様は、この島を、どうなさりたいのですか」


問いに問いで返された形だった。わたしは、数で答えた。


「水を溜め、畑を作り、実入りを増やしまする。今年のうちに手をつければ、来年の夏には目に見える形になりまする。塩も、既に焼けはじめておりまする。三年もあれば……」


「わたくしには、数のことは分かりませぬ」


綾は、そう言って、わたしの言葉を静かに遮った。


「分かりませぬが、あなた様が、ここに根を張るおつもりなのだということは、分かりました」


「はい」


「それだけで、よろしゅうございました」


わたしは、その答えに、しばらく言葉を継げなかった。数を並べても届かなかった相手に、綾は、たった一言で道をつけていた。何をどう言えば人が動くのか、その勘所を、この女は生まれつき持っているように見えた。


——使える。



そう思った。思うと同時に、綾の目が、こちらの内側を静かに見透かしているような気がして、指の先が冷たくなった。


「何を、皆に申されたのでしょうか」


わたしは、訊かずにいられなかった。


「大したことは、申しておりませぬ。ただ、あなた様が、これまでどれほどこの島に通うてこられたか、水を汲む苦労も、石を投げられる辛さも、皆、見ておりました、と申しただけにござります」


「それだけで、動きましたので」


「それだけで、動きまする。人は、理では動きませぬ。誰が、どれだけの苦労を、自分たちのために払うたか——それが目に見えたときにだけ、動きまする」


その言葉は、わたしの理屈とは、まるで違う場所から出ていた。だが、間違っているとは思えなかった。むしろ、これまで数で説こうとして、いつも一歩届かなかった理由が、その一言で、初めて腑に落ちた気がした。


「あなた様の理屈は、正しゅうござります」


綾は、そう続けた。


「正しゅうござりますが、正しいだけでは、人は動きませぬ。それだけのことにござります」


「あなた様は、なぜ、皆を動かしてくださったのでしょうか」


わたしが問うと、綾は少し考えるような顔をした。


「島の得になると、分かりましたゆえ」


その答えを、わたしはそのまま受け取った。得になると分かったから、動かした。それならば、道理は通る。得心のいく答えだった。


だが、綾の目の色は、その言葉とは、どこか違うものを湛えていた。損得だけでは測れない何かが、そこにはあった。わたしは、その色に気づきながら、言葉のほうを信じることにした。分かりやすいほうを、選んでしまった。


---



日が傾きはじめ、谷では土を運ぶ声が、あちこちで上がっていた。


綾は、それを少し離れた場所から眺めていた。わたしも、その隣に立った。二人のあいだに、これといった会話は続かなかった。それでも、気まずさはなかった。


「あなた様は、あの一党の中で、どういうお立場にあられるのでしょうか」


綾が、ふとそう尋ねた。


「棟梁に、物を申す役にござります」


「それだけにござりますか」


「それだけにて」


「存じております。訊いたのは、御自分をどう思うておられるか、ということにござります」


わたしは、答えに詰まった。自分が何になるのか、そう問われたことは、これまでなかった。


「わたくしは、ただ、道理を組む者にござります。名を持つことは、望んでおりませぬ」


「望まぬのと、望めぬのとは、また違うことにござりますが」


綾は、それだけ言って、口を閉じた。踏み込んだ問いだったが、責める色はなかった。ただ、事実を確かめるような、静かな声だった。


わたしは、その一言に、何も返せなかった。



夕日が、谷の斜面を橙色に染めていた。土を運ぶ人々の影が、長く伸びている。三日かけても動かなかった谷が、いま確かに動いていた。


綾が、去り際に、ふと足を止めた。


「初めてこの島に船をお寄せになった時分……いえ、あの日」


言い直して、綾は続けた。


「浜で、揉め事を鎮めておりましたとき、あなた様に見られていたのは、存じておりました」


わたしは、目を見開いた。あのとき、遠目に見ていただけだった。名も、素性も知らないまま、頭の片隅に留めていただけの一場面だった。それを、綾のほうは、はっきりと覚えていた。


「見られておるのは、いつも分かりまする。見られることに、慣れておりますゆえ」


綾は、そう言って、小さく笑った。初めて見る笑みだった。それ以上は何も言わず、綾は集落のほうへ歩き去っていった。


わたしは、その背が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。



見られていたことに気づいていた女。数の物差しでは測れない何かで、人を動かす女。今日、初めて言葉を交わしたばかりのその女に、わたしは既に、自分でも説明のつかない何かを感じはじめていた。


谷では、まだ土を運ぶ声が続いていた。日が落ちれば、今日の分の普請は終わるだろう。それでも、明日もまた、同じ顔ぶれが鍬を持って集まってくれるかどうかは、まだ分からなかった。綾が、明日も同じように口添えしてくれるという約束は、どこにもなかった。


その頼りなさに、わたしは、少しだけ落ち着かないものを感じた。数で組んだ策なら、次にどう動くか、おおよその見当がつく。だが、綾という人が、次に何をするかは、まるで読めなかった。読めない相手に頼らねば前へ進めないという事実が、これまでにない種類の不安として、胸の奥に居座った。


夜になって、紙を広げた。


 忽那綾。歳、わたしとさほど変わらず。人を読む。使える。


嫁いでおらぬ、と松吉が言っていた。義重どのの家が年貢に窮しておることは、島の誰もが知っている。婿を取るにも、迎える支度一つ整わぬのだろう。それだけの理由に思えたが、綾自身の口から聞いたわけではなかった。


そこまで書いて、筆が止まった。使える、という一言の下に、何かもう一つ書き足すべき言葉がある気がした。だが、それが何なのか、言葉にできなかった。


結局、何も書き足さないまま、わたしは紙を閉じた。


灯を吹き消す前に、もう一度、綾の顔を思い浮かべた。数のことは分からぬと言い切ったあの声には、卑下の色も、誇りの色もなかった。ただ、事実を事実として述べているだけの、まっすぐな声だった。


自分にないものを、あれほど涼しい顔で言い切れる人間を、わたしはこれまで、あまり見たことがなかった。その涼しさが、少しだけ羨ましくもあり、同時に、得体の知れない重みを持って、胸の底に沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。