第十二話 戸の内
応永二十七年(一四二〇)八月 伊予国 怒和島 下怒和
湊は使える。だが、島は使わせない。
その按配のまま、八月に入った。日ごとに日差しが強くなり、船板が焼けて、素足では立てないほどになる日もあった。汗が首筋を伝い、着物の背が乾く暇もなかった。
水汲み場に近づくと、女たちはやはり家へ引っ込む。子供らは、遠くから石を投げてくることもあった。当たりはしない。当てるつもりもないのだろう。ただ、余所者が来たと知らせる、鳴子のような投げ方だった。
それでも、手下の中には、小石が肩をかすめて怒鳴り返す者も出てきた。
「賊が、賊らしゅうしておればよいものを。何のためにここまで我慢せねばならんのですか」
弥九郎の前で、そう食ってかかった若い手下がいた。名は知らない。冬の海戦のあとに加わった、まだ新しい男だった。
弥九郎は、それには何も言わず、ただ男の顔をしばらく見ていた。男は、目を逸らした。
「石は、当たっておらん。当たっておらんうちは、我慢しろ」
それだけ言って、弥九郎は背を向けた。
わたしは、その遣り取りを、少し離れた場所で聞いていた。理は通っている。だが、通っている理と、飲み込める理とは、別のものだった。若い手下の顔に残った不満の色は、そう簡単には消えそうになかった。
湊に船を寄せるたび、似たようなことが幾度も繰り返された。荷を運ぶ手下の背に、遠くから何か罵る声が飛んでくる。言葉までは聞き取れない。ただ、その響きだけで、歓迎されていないことは十分に伝わった。
古参の水手の一人が、船縁でぼやくのを、わたしは耳にした。
「湊が使えるようになったと聞いたときは、ようやく人並みの暮らしができると思うたんですがねえ」
「思うたようには、いきませぬか」
わたしが声をかけると、水手は苦笑いを浮かべた。
「石を避けながら水を汲むのが、人並みの暮らしとは言えますまい」
その言葉に、わたしは何も返せなかった。返す言葉が、手元になかった。数の上では、湊は開いている。水は汲める。塩も焼ける。だが、その数字だけでは、この男の疲れは量れなかった。
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その日の昼、わたしは久しぶりに、島の奥まで足を延ばしてみた。溜池を作れそうな谷を、いくつか目星をつけておきたかった。
段畑のあいだの細い道を歩いていると、老いた女が一人、腰をかがめて草を刈っていた。目が合うと、女は慌てて顔を伏せ、そのまま何も言わずに背を向けた。逃げるというより、関わりを避けるという動きだった。
わたしは、それ以上近づかず、道を変えた。
近づけば逃げられる。近づかなければ、何も進まない。その按配を、まだうまく掴めずにいた。前の生でも、似たような壁に何度もぶつかった記憶がある。言葉の通じない村で、道具も持たずに、まず信じてもらうところから始めねばならなかった。あのときは、時をかけて、少しずつ距離を詰めた。今度も、同じ道しかないのかもしれなかった。
ただ、今度は、時がどれだけあるのかが、はっきりしなかった。
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同月半ば 下怒和 井戸端
孫兵衛という老人が、初めてこちらに口を利いたのは、その半月ほどあとのことだった。
水汲み場の一つに、渋々ながら井戸を使わせてくれた老人がいる、と松吉が聞き込んできた。下怒和の乙名だという。乙名がどれほどの重みを持つ役目なのか、わたしにはまだよく分からなかったが、島の年寄りたちの中で一目置かれている者らしい、ということだけは察せられた。
その老人が待つという井戸端まで、わたしは一人で赴いた。手下は連れなかった。数を頼みにしないほうがよい相手だという勘が働いた。
老人は、日に灼けた顔をこちらへ向けると、しばらく何も言わなかった。
「……そなたは、ここに何をしに参られた」
やがて、そう言った。
「島を、富ませに参りました」
わたしは、正直に答えた。飾る理由がなかった。
孫兵衛は、鼻で笑った。
「余所者の富ませ方で、富んだ島を、わしは知らぬ」
その一言に、わたしは、すぐに反論を組み立てようとした。塩の値、溜池の見込み、湊の実入り。数を並べれば、この老人にも通じるはずだと踏んでいた。
だが、口を開く前に、孫兵衛が続けた。
「三十年前も、四十年前も、同じことを言うた者がおる。本家の使いも、河野方の代官も、みな同じことを言うて、島を良うすると申した。良うなったことは、一度もない」
わたしは、口を閉じた。
数の話ではなかった。
「それでも、井戸は貸してくださいました」
「桶に二つまでだ。それ以上は、貸さぬ」
孫兵衛は、それだけ言うと、腰を上げて、井戸端を離れていった。背中に、これ以上話す気はないという色が滲んでいた。
わたしは、その場にしばらく立ち尽くしていた。喉の奥が、少し渇いていた。日差しのせいだけではなかった。
言い返す言葉なら、いくらでもあった。塩の値の話、溜池の見込み、湊がもたらす実入りの数。どれも、この老人には届かないだろうという予感だけが、妙にはっきりとあった。数で押し返せない相手に出会ったのは、久しぶりのことだった。
井戸の水面を覗き込むと、揺れる水鏡に、自分の顔が映っていた。値踏みする顔だと、自分でも思った。孫兵衛の目に、この顔は、どう映っているのだろうか。考えても、答えは出なかった。
桶に水を二つ、汲んだ。重い桶を提げて浜まで戻る道すがら、島の子供たちが、遠くからこちらを窺っているのが見えた。近づくと、また逃げていくのだろう。試しに、足を止めずに歩き続けてみた。子供たちは、案の定、あっという間に散っていった。
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わたしは、その日の夕方、弥九郎にこの遣り取りを報告した。
「孫兵衛と申す乙名が、井戸を桶に二つまでは貸すと申しました。ただ、島を富ませるという言葉には、まるで取り合ってもらえませんでした」
「取り合わぬのは、当然だろう」
弥九郎は、そう言った。
「これまで、幾人もの余所者が、同じことを言うて、何も残さずに去ったのだろう。あの老人は、それを幾度も見てきたはずだ」
わたしは、その言葉に、腹の底で小さく引っかかるものを感じた。
「では、いかにして得心させれば」
「得心などさせずともよい。得を見せればよいだけだ。老人は、口では取り合わずとも、目では見ておる。井戸を貸したのが、その証だ」
わたしは、その理屈に頷いた。頷きながら、孫兵衛のあの目つきを思い返した。
冷たい目ではなかった。むしろ、疲れた目だった。何度も同じ約束を聞かされ、そのたびに裏切られてきた者の目だ。
——まだ、得を見せておらぬからだ。
わたしは、そう結論した。得さえ見せれば、あの目も変わる。塩が焼け、溜池が水を持てば、孫兵衛も、島の者たちも、態度を改めるだろう。そう見立てて、その日はそれで話を終えた。
だが、孫兵衛が本当に不信の底に抱えていたものは、得の有無ではなかったのかもしれない。何度も同じ言葉に裏切られてきたという、その記憶そのものが、得を見せたところで拭えるものではないのかもしれなかった。
その可能性に、わたしはまったく思い至らなかった。
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同月末 鵜の子より遅れて着いた便り 怒和島の沖
同じころ、船団の中で、静かな綻びが一つ生まれていた。
古参の一人が、船を降りると言い出した。
甚吉という、島門を出て以来ずっと弥九郎に付いてきた男だという。松吉より、さらに古い顔ぶれの一人だった。
「なぜだ」
弥九郎が問うと、甚吉は視線を落としたまま答えた。
「……疲れました。賊のまま奪って回っておったころのほうが、まだ気が楽でした。石を投げられて、それでも我慢しろと言われるのは、割に合いませぬ」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
甚吉は、目を伏せたまま、次の言葉を待っていた。その肩が、わずかに強張っているのが見えた。
「我慢できん者は、出ていけ」
短く、そう言った。
その声には、怒りも、蔑みもなかった。ただ、いつもと変わらぬ、平らな声だった。だからこそ、かえって重く響いた。
「……ようございました」
甚吉は、消え入るような声でそう答えた。責められると思っていたのが、拍子抜けしたようにも見えた。
「船を降りるなら、分け前は今日までの日割りで渡す。恨みはせん」
弥九郎は、それだけ付け加えた。
甚吉は、深く頭を下げて、その場を辞した。翌朝、小舟に幾ばくかの銭と食い物を積んで、一人、鵜の子のほうへ向かって漕ぎ出していった。
小舟が視界から消えるまで、弥九郎は甲板に立ったまま、それを見送っていた。表情は変わらなかった。だが、その背中に、いつもより力が入っているように、わたしには見えた。
「惜しゅうござりましたか」
わたしが問うと、弥九郎は振り返らずに答えた。
「惜しい惜しくないの話ではない。行くと決めた者を、引き止めれば、後に残る者の目が濁る」
「濁る、と申しますと」
「無理にでも留めるような棟梁の下では、次に誰かが同じことを言い出せんようになる。言い出せんまま腹に溜め込めば、いずれ悪いほうへ出る」
その理屈に、わたしは頷いた。だが、頷きながらも、弥九郎の背中に残っていたあの強張りの意味までは、掴めなかった。理で語ったことと、実際に一人の男を見送ったときの心の動きとは、また別のものかもしれなかった。
その背を見送りながら、わたしは考えていた。
甚吉が船を降りたのは、腹に据えかねてのことだったのか。それとも、この一党にいるより、余所へ行ったほうが得だと踏んだからだったのか。
——裏切る者にも、二通りある。腹に据えかねて裏切る者と、そのほうが儲かるゆえに裏切る者と。
前の生から拾ってきた物差しが、また頭の中を過ぎった。もし後者であれば、まだ手が打てる。分け前の割りを見直せば、留まる者が出るかもしれない。
わたしは、甚吉を後者だと見立てた。損得で動く一党にいたのだから、損得で出ていくのも道理だ、と。
だが、甚吉の目には、損得の色ではなく、ただ疲れた色だけがあった。その色を、わたしは見ていたはずなのに、数の物差しに掛けることを優先して、見なかったことにした。
この見立ては、後になって、外れていたと分かる。
甚吉が去ったのは、得を勘定したからではなかった。奪って生きるほうが、まだ人として分かりやすかったからだ。掟に縛られ、石を投げられても我慢する暮らしに、疲れ果てていただけだった。
そのことに、わたしはまだ気づいていない。
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甚吉が去った日の夜、船団の中は、いつもより静かだった。
古参たちが、幾人か、船縁に集まって、小声で何か話し込んでいた。近づけば話が止まるだろうと分かっていたので、わたしは離れた場所から、その気配だけを窺った。
松吉が、わたしのそばに来て、腰を下ろした。
「甚吉さんが抜けたのは、姐さんの掟のせいじゃありませんよ」
「……そうでしょうか」
「元から、無理をしてついてきておったんです。あの人は、根っから海の男じゃない。奪う暮らしそのものが、性に合わなんだんでしょう」
松吉のその見立ては、わたしの見立てとは、また違う角度からのものだった。損得でもなく、腹に据えかねてでもなく、そもそも合わなかった、という三つ目の理由。
わたしの物差しには、その欄がなかった。
「松吉どのは、なぜ、そう思われるので」
「なんとなく、ですよ。数じゃ出ないやつです」
松吉は、そう言って笑い、また持ち場へ戻っていった。
わたしは、その言葉を、しばらく反芻していた。数じゃ出ない。松吉は、何気なくそう言ったのだろうが、その一言が、いやに重く胸に残った。分かっているようで、まだ分かっていないことが、この一党の中に、いくつも埋もれているのかもしれなかった。
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夜、船倉で紙を広げた。
甚吉、一人。分け前の割り、見直しの要あり。孫兵衛、井戸桶二つ。得を見せれば変わる、と見立てる。
書きながら、指先の墨が、いつもより濃く滲んでいる気がした。何度も同じところをなぞってしまい、紙の端が黒く汚れていく。それを見て、自分がまだ何かに引っかかっていることに気づいた。
弥九郎が、船縁で誰かと低く話している声がしていた。何を話しているのかは、聞き取れなかった。
秋の気配が、潮の匂いに少しずつ混じりはじめていた。溜池の場所を、そろそろ見に行かねばならない。誰も鍬を持たない島で、水を溜める場所を探すという、次の仕事が待っていた。
わたしは、紙を閉じて、灯を吹き消した。闇の中で、孫兵衛の疲れた目と、松吉の「数じゃ出ない」という一言だけが、いつまでも頭の隅に残っていた




