第十話 入らせぬ
応永二十七年(一四二〇)六月 伊予国 怒和島の沖
雨が続いていた。
六月に入ってから、晴れた日が四日しかない。帆布も、綱も、寝床の莚も、何もかもが湿って重くなっている。船倉の空気には、人の脂と、濡れた麻と、黴の匂いが溶けていた。手下たちの機嫌も、日ごとに悪くなっていく。
その朝、物見が声を上げた。
「北から、船。三艘」
わたしは、書きかけの紙を巻いて懐に入れ、甲板へ上がった。
雨は小降りになっていたが、海面が一面に灰色で、島影も霞んでいる。その霞の向こうに、確かに帆が三つ、こちらへ向かって降りてきていた。
「賊ではないな」
弥九郎が、目を細めずに、まっすぐそちらを見て言った。
「揃いすぎておる。あの並びは、公の船だ」
三艘は、きれいに縦に並んで進んでいた。先頭がやや大きく、後ろの二艘は小ぶりである。帆に、白地の何かが染め抜かれている。遠すぎて紋までは読めない。
「河野方かと存じます」
わたしがそう言うと、弥九郎はこちらを見た。
「なぜ分かる」
「本家の二神は、この十年、上怒和にすら船を寄越しておりませぬ。三艘も出せる家ではござりませぬ。それに、賊の噂が立って、まず様子を見に来るのは、代官にござります。年貢を取り立てる側にとって、島に賊が居着くのは、取り分が減るということにござりますゆえ」
弥九郎は、ふん、と鼻を鳴らした。
「早かったな」
「早うはござりませぬ。使いを断られてから、ちょうど一月にござります」
言ってから、わたしは自分の口の中に、わずかな苦みが残るのを感じた。
一月前、わたしは押すなと言い、弥九郎は待てと言った。同じ結論に見えて、二つは別のものだった。わたしが押すなと言ったのは、押せば河野方が出てくると読んだからである。では、弥九郎が待てと言ったのは、何を見ていたからなのか。
「棟梁は、これをお待ちでござりましたか」
弥九郎は、答えなかった。しばらく船を見てから、口を開いた。
「断られたあとに、こちらから動けば、押し入った者になる。向こうが先に船を出してくれば、こちらは、応じただけの者になる」
「……はい」
「一月で来た。上出来だ」
わたしは、返す言葉を持たなかった。
わたしが数と紙で組み立てたものと、同じ形のものを、この男は数も紙も使わずに置いていた。しかも、それを一月のあいだ、一言も説明しなかった。
胸の底が、ちりちりと灼けるような感じがした。悔しさに似ていて、少し違うものだった。
「……して、いかがなされますか」
「お前が先に言え。どうせ、もう考えておろう」
そう言って、弥九郎は船倉のほうへ顎をしゃくった。
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船倉に下りると、雨音が遠くなった。
弥九郎は、荷俵に腰を下ろした。わたしは、その正面に膝をついて、紙を広げた。四月から書き溜めた潮の表である。もう七枚になっている。
「まず、申し上げておかねばならぬことがござります」
「言え」
「あの三艘と、正面から当たってはなりませぬ」
「勝てぬと申すか」
「勝てまする」
わたしは、はっきりと言った。
「船八艘、人二百二十。向こうは三艘。当たれば、勝ちまする。ただ、二十人から三十人、死にまする」
弥九郎の顔が動いた。数を出すと、この男は必ず動く。
「そして、勝ったあとが厄介にござります。公の船を沈めれば、河野方は面目のために、次は十艘で参ります。その次は三十艘で。ここは、伊予の内海にござります。向こうには、湊も、兵糧も、幾らでもござります。こちらには、この船の中にあるものだけにござります」
「では、どうする。逃げるか」
「逃げれば、二度と戻れませぬ。島の者は、賊は追えば逃げると覚えまする」
「勝つな、逃げるな。ずいぶん虫のいい注文だ」
「詰ませまする」
わたしは、紙を弥九郎のほうへ回した。
「釣島の水道にござります。この瀬戸は、幅が狭う、両側が岩にござります。潮は、朝のうちは南へ流れ、昼を四半刻ばかり過ぎたところで、逆さになりまする。速さは、逆さになってからのほうが上にござります」
指で、紙の上をなぞった。
「潮に乗って入れば、船は面白いように進みまする。ですが、入ったあとで潮が返れば、櫓では出られませぬ。帆も使えませぬ。両側は岩ゆえ、寄せることもできませぬ。ただ、その場に留まるほかなくなりまする」
「入るか、そんな瀬戸へ」
「入りまする。追えば」
わたしは、顔を上げた。
「小舟を三艘、囮に出しまする。荷を積んで、逃げる形にいたしまする。代官の船は、賊の船と見て、追いまする。追わねば、様子を見に来た甲斐がござりませぬ。手ぶらで帰れば、面目が立たぬのは向こうにござります」
弥九郎は、紙を見ていた。字は読めない。だが、線と印の並びを、じっと見ていた。
「詰めて、どうする」
低い声だった。
「詰めた船を焼かねば、意味があるまい。動かぬ船を、岩の上から矢で射れば、鹿を狩るより易い。二十人も殺せば、次は誰も来ん」
「焼いてはなりませぬ」
「なぜだ」
「焼けば、伊予一国を敵に回しまする」
わたしは、そこで一度、息を継いだ。
「棟梁。焼かずに、返しまする」
弥九郎の目が、こちらへ据わった。
「返す」
「はい。詰まったところへ、こちらから船を寄せまする。そして、綱を渡して、外まで曳き出して差し上げまする」
沈黙があった。
雨が、船板を叩く音だけが続いた。
「……助けるのか」
「助けまする」
「三艘を、わざわざ罠に嵌めて、そのあと助ける、と申すのか」
「はい」
「なぜだ」
わたしは、膝の上で指を組んだ。
「詰まった船の上で、代官はこう思いまする。この水道は、この者どもの庭だ、と。矢の一本も飛んでこなんだのは、飛ばさぬと決めた者がおるからだ、と。——生かされた、と」
指の関節が、少し白くなっていた。
「命を取れば、恨みが残りまする。恨みは、跡形もなく人に受け継がれまする。ですが、生かせば、負い目が残りまする。負い目は、受け継がれませぬ。その代官一人の腹の中で終わりまする。しかも、その代官は、松山へ戻って何と申しましょうか」
弥九郎は、答えなかった。
「『賊に負けた』とは、申せませぬ。負けておりませぬゆえ。『賊に助けられた』とも、申せませぬ。それこそ面目が潰れまする。ゆえに、こう申しまする。『潮が悪う、船が難儀した。あの島の賊は、手出しをしてこなんだ』」
「……何も起きなんだ、ということにするか」
「はい。何も起きなんだことにできる。それが、向こうにとって、いちばん得にござります。得のある道を一本だけ残して、あとを塞ぐ。人は、残された一本を通りまする」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
それから、太腿を一つ叩いて、立ち上がった。
「相変わらず、えげつない女だ」
「褒め言葉と、受け取ってよろしゅうござりますか」
「褒めておらん」
弥九郎は、船倉の梯子に手をかけた。かけてから、振り返った。
「刻限は」
「昼を四半刻過ぎたころ、潮が返りまする。囮を出しますのは、その半刻ほど前。追わせて、瀬戸の奥へ入れ、潮が返るのを待ちまする。今日は雨で、日の高さが読みにくうござりますゆえ、こちらは香を焚いて刻を計りまする」
「香」
「明の船で使うておりました。線香を一本、燃やし切るまでの長さが、いつも同じにござります。日が見えぬ日でも、刻が計れまする」
弥九郎は、少しのあいだ、こちらを見ていた。
「お前は、そういうものを、いくつ持って帰った」
「数え切れませぬ」
「そうか」
それだけ言って、弥九郎は上がっていった。
甲板から、すぐに声が響いた。
「弥助! 小舟を三艘出せ! 空俵に藁を詰めて、荷に見せろ! 松吉、お前が先頭を漕げ! 逃げ足は速すぎるな、追わせるんだ!」
わたしは、船倉に座ったまま、それを聞いていた。
下知は、弥九郎の声で出ている。手下たちは、棟梁がそう決めたと思っている。それでよかった。それでなければならなかった。
わたしは、紙を巻いて懐に入れ、それから、線香に火を移した。
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同日 昼 怒和島 北の物見の岩
雨が上がった。
上がったというより、雲が薄くなって、白い空になった。風は南から、弱く吹いている。岩の上は滑りやすく、わたしは草鞋の裏で苔を探りながら登った。
物見の岩は、島の北の端の、海へ突き出した崖の上にある。人の住む集落からは遠く、木こりすら滅多に寄りつかない、誰のものでもない岩場だった。湊を借りる話がまだついていないいまでも、ここに舟をつけて立つことだけは、誰にも咎められない。ここからは、釣島の水道が一望できる。弥助が、槍を一本持って後ろについてきた。
岩の上に腰を落ち着けて、線香を立てた。灰を入れた小さな竹筒に立てて、風を手で避ける。既に二本目である。
眼下に、三艘の帆が見えた。
代官の船は、南へ向かって、まっすぐ進んでいた。その前を、小舟が三艘、逃げている。距離は、四町ほど。松吉の櫓さばきは見事だった。速すぎず、遅すぎず、あと少しで届きそうな距離を、律儀に保っている。
追いつかれそうで追いつかれない船ほど、追う側の血を熱くするものはない。
水道が、狭くなりはじめた。
両側の岩が迫って、海の色が変わる。深い藍から、暗い緑へ。潮が締まっている証である。
小舟が、水道へ入った。三艘の代官船が、迷わず続いた。
線香の火が、灰の目盛りの二つ目に近づいている。
わたしは、膝を抱えて、その一点を見ていた。
心の臓が、耳の裏で鳴っているのが分かった。速い。速すぎる。落ち着けと自分に言い聞かせても、指の先が痺れたようになって、うまく力が入らなかった。
外れる可能性は、常にある。潮の返る刻限が、四半刻ずれることもある。雨のあとは、川からの水が入って、流れが変わることもある。七枚の紙は、まだ二月ぶんでしかない。二月の記録で、一年の海を語ろうとしている。
もし外れたら。
代官の船は水道を抜け、こちらの小舟を捕らえ、松吉は今度こそ斬られる。
——そこまで考えて、わたしは、はっとした。
松吉が斬られる。そう考えたとき、頭の中に浮かんだのは、策が崩れるという勘定ではなく、腫れた頬のままで櫓を握っていた、あの男の顔だった。
なぜいま、それが出てきたのか。
分からなかったので、脇へ置いた。いまは、水道を見ていなければならない。
線香が、二つ目の目盛りを越えた。
海面が、変わった。
最初は、ごく小さな変化だった。岩際に立っていた白い泡の筋が、ふっと消えた。次に、水の面に細かい皺が寄って、それが、これまでとは逆の向きへ流れはじめた。
潮が、返った。
先頭の代官船が、傾いだ。
帆が、いきなり後ろから押されて、船体が横を向く。慌てて帆を落とす。落とした途端、今度は流れに舳先を掴まれて、ゆっくりと後ろへ押し戻されていく。二番船が、それを避けようとして舵を切り、岩のほうへ寄りすぎた。三番船が、二番船の艫にぶつかりかけた。
櫓が出た。何十本もの櫓が水を叩く。白い水が跳ねる。
一町も進まなかった。
漕いでも漕いでも、船は同じ場所にとどまり、少しずつ後ろへ流されていく。速さが上がってきているのが、ここからでも分かった。岩際の水が、渦を巻きはじめている。
わたしは、線香の火を見た。目盛りの通りだった。四半刻の狂いもなかった。
腹の底から、熱いものがせり上がってきた。
嬉しいというのとは違う。もっと、質の悪いものだった。紙に書いた線の通りに、三艘の船と、そこに乗っている百人近い男たちが、動いている。動かされている。彼らは、なぜ動けなくなったのかも分かっていない。
わたしは、口を手で押さえた。押さえなければ、笑ってしまいそうだった。
「……姐さん」
弥助が、後ろで低く言った。
わたしは手を下ろし、何でもない顔を作った。
「潮が、返りました」
それだけ言った。声が、思ったより低く出た。
水道の南の口から、弥九郎の船が四艘、姿を現した。
こちらは、潮に乗っている。四艘は、詰まった代官船へ、なめらかに近づいていった。矢は一本も飛ばない。鬨の声も上がらない。
近づいて、止まった。
何か、声のやり取りがあったらしい。ここまでは届かない。しばらくして、綱が投げられた。一本、二本、三本。
弥九郎の船が、ゆっくりと曳きはじめた。
四艘が潮を斜めに切って、三艘を岩際から引き離していく。時がかかった。半刻近くかかった。そのあいだ、両方の船の上で、誰も刀を抜かなかった。
わたしは、それを最後まで見ていた。
見ながら、腹の底の熱が、少しずつ引いていくのを感じていた。引いたあとに残ったのは、疲れではなく、もう一度あれを見たい、というような、ざらついた渇きだった。
その渇きに、わたしはまだ、名をつけていなかった。
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岩を降りようとしたとき、下の草地に、人が三人立っているのに気づいた。
一人は年配の家人。二人は若い男で、そのうちの一人が、こちらへ背を向けて水道を見ていた。肩が張っている。
松吉が言っていた通りの背格好だった。
わたしは、岩の窪みに身を寄せた。弥助が、槍を下ろして、同じように屈んだ。
風下だった。声が、途切れながら聞こえてきた。
「……曳いております。若。あれは、曳いておりますぞ」
家人の声だった。震えていた。
返事はなかった。
「代官様の船を、賊が、曳いて……あの潮の中を、まるで、庭を歩くように」
「黙れ」
若い男の声だった。低く、詰まっていた。
それきり、しばらく何も聞こえなかった。
水面で、また櫓の音がした。曳かれた三艘が、ようやく水道の外へ出たらしい。帆が上がる音が、遠く風に乗って届いた。
「……たまたまよ」
若い男が、言った。
「潮が、たまたま、あのように動いただけのことよ。あの者どもが、潮を動かしたわけではあるまい」
家人は、何も言わなかった。
「詰んだのは、たまたまのことよ」
もう一度、そう言った。今度は、家人にではなく、水道に向かって言っていた。
そして、踵を返して、草地を下っていった。歩き方が、少し速すぎた。
わたしは、岩の窪みから、その背を見送った。
負け惜しみだ、と思った。
体面である。あの若い男は、家人の前で、いま見たものを認めるわけにいかない。認めれば、余所の賊が自分の家より海を知っていると、口に出して認めることになる。だから、たまたまということにする。人は、面目を守るために、目に見えたものすら書き換える。
そう見立てて、わたしは頷いた。頷いて、それで済ませた。
——だが、あのとき、又五郎が水道に向かって言った「たまたま」は、家人に聞かせるための言葉ではなかった。
自分の家が、何代にもわたって預かってきた海である。その海の刻限を、四年ぶりに東へ流れてきた余所者が、紙に書いて持っていた。自分は、生まれてから一度も、それを書こうと思ったことがない。
あの男が飲み込もうとしていたのは、面目ではなく、そのことだった。
わたしは、それに気づかなかった。気づかぬまま、岩を降りて、浜へ向かった。
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夕刻、沖の船に戻ると、手下たちが騒いでいた。
不満の声のほうが大きい。せっかく詰めたのに、なぜ助けた。荷の一つも取れたはずだ。棟梁は近ごろ手ぬるい。そういう声が、あちこちで上がっていた。
弥九郎は、それを一通り言わせてから、艫に立った。
「今日、死んだ者はおるか」
誰も答えなかった。
「手を折った者は。船に穴が空いたか」
「……おりません」
「銭を一文も使わず、血も流さず、公の船に、この水道は入るなと分からせた。それを手ぬるいと申す者は、明日から、松山まで泳いで行って、代官の首を取ってこい」
低い笑いが起きた。不満の色が、ほどけていく。
「よう漕いだ、松吉。逃げ足の按配が見事だった。よう飯を食え」
「へえ!」
わたしは、少し離れた船縁で、それを聞いていた。
策を出したのはわたしである。刻限を計ったのもわたしである。だが、いま手下たちが惚れ直しているのは、艫に立って笑わせたあの男であって、香の火を見つめていた女ではない。
それでよかった。それが、この形の値打ちだった。
——ただ、その「それでよかった」を、今日は、いつもより幾度も自分に言い聞かせている気がした。
夜になって、わたしは船倉で紙を広げ、今日の刻限を書き足した。
六月十七日 釣島水道 昼 四半刻過ぎ 潮返る 狂いなし
書いてから、その下に、もう一行足した。
三艘 人およそ九十 死者なし
死者なし、という三文字を、しばらく見ていた。
わたしは、今日、九十人を殺さなかった。殺さないことを選び、そのほうが得だと説き、その通りに事が運んだ。
それなのに、指の先には、まだ昼のあの熱が、わずかに残っていた。
紙を閉じて、灯を吹き消した。
暗くなってから、甲板で誰かが言うのが聞こえた。
「下の館の若殿が、今日、崖の上から見ておられたそうな」
「見て、何と」
「たまたまだ、と言うて帰られたと」
低い笑いが起きた。
わたしは、莚の上で、目を開けたまま、その笑いが収まるのを待った。
湊は、まだ借りられていない。門は閉まったままである。今日、水道は詰めた。けれど、あの家の戸は、指一本ぶんも開いていない。




