第九話 使者
応永二十七年(一四二〇)五月 伊予国 怒和島 下怒和
松吉に、三度、同じことを言わせた。
「『我ら、荒瀬弥九郎が手の者にござる。ご当家の湊を、しばしお借り申したい』」
「その次は」
「『借り賃は、米にて年に十五俵。湊に船が寄れば、島の魚も塩も、その場で捌けまする』……で、ようございましたか」
「順が違います」
わたしは、首を振った。
「借り賃を先に申してはなりませぬ。銭の話から入れば、こちらは商人になりまする。商人には、貸すか貸さぬかを値で決めればよい。値で決められる話にすれば、向こうは値を吊り上げるか、あるいは、値のつく相手ではないと言うて追い返しまする」
「じゃあ、何から」
「筋から」
松吉は、船縁に胡座をかいたまま、首の後ろを掻いた。
「筋、ですか」
「はい。『黙って湊を使うことも、できぬではござりませぬ。されど、それでは筋が通りませぬゆえ、まずお願いに参りました』。そう申しなされ」
「……それ、脅しじゃありませんか」
「脅しにござります」
わたしは頷いた。
「ただし、脅しの形をしていない脅しにござります。向こうは、脅されたと言えませぬ。こちらは、頭を下げに来ただけと言い張れまする。どちらも本当のことにござりますから、どちらも嘘にはなりませぬ」
松吉は、げんなりした顔をした。
「姐さんは、時々、恐ろしいことを平気な顔でおっしゃる」
「恐ろしいのは、言葉ではのうて、船が八艘あることにござります。言葉のほうは、ただそれを言い換えているだけにござります」
朝の海は、凪いでいた。五月に入って、風の匂いが変わっている。冬の刺すような潮の匂いが薄れ、代わりに、生ぬるい海藻の匂いが立つようになった。日差しが、板の上で白く跳ねている。
松吉は、四度目を、自分から復唱した。今度は順を間違えなかった。
「よろしゅうござります」
「へえ」
「もう一つ。断られましたら、食い下がってはなりませぬ」
松吉が顔を上げた。
「断られる前提ですか、これは」
「はい」
わたしは、そう答えた。答えてから、この男の顔を、もう少しよく見ておくべきだったと、後で思うことになる。
「断られましたら、『相分かり申した』とだけ申して、退きなされ。恨み言も、捨て台詞も、一切要りませぬ。ただ、退き際に、もう一度だけ頭を下げなされ。深く」
「そこまでして、何になるんです」
「見ておる者がおりまする」
わたしは、島のほうへ目をやった。
「館の中には、当主も、その一族も、家人もおりまする。台所の女もおりましょう。門の外には、村の者が集まって覗いておりましょう。そのうちの誰かが、必ずこう言いまする。『賊の使いのくせに、ずいぶん丁寧であった』と」
「……それが、何かの役に立ちますか」
「立ちまする。三月あとに、立ちまする」
松吉は、まだ腑に落ちない顔をしていた。それでも「へえ」と言って立ち上がり、髷を直し、袖の埃を払った。
小舟に乗り移るとき、弥九郎が艫から声をかけた。
「松吉」
「へえ」
「斬られるな」
それだけだった。松吉は、白い歯を見せて笑い、櫓を握った。
わたしは、その笑い方を見ていた。見ていて、何とも思わなかった。段取りは組んだ。言葉は仕込んだ。あとは、それが通るか通らないかの話だと、そう思っていた。
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わたしは、別の小舟で、浜の手前まで同行した。
上陸はしない。舟の上から見ているだけである。そう決めたのは、わたし自身だった。女が使者の後ろに立てば、話がそこで止まる。止まらないまでも、必ず話の中身が「あの女は何者か」に化ける。
だから、見えるところにいて、見えないところにいなければならなかった。
——これが、わたしの席である。
舟は、浜から半町ほど離れた岩陰に付けた。櫓を握っているのは、六郎太のかわりに付けられた若い水手で、名を弥助という。無口な男で、こちらが黙っていれば一日でも黙っている。
松吉の小舟が浜に着き、二人の男が下りていくのが見えた。松吉と、もう一人、手ぶらの若い者である。武器は持たせていない。持たせれば、それだけで話が終わる。
浜には、既に人が出ていた。十人ばかり。網を繕う手を止めて、二人が上がってくるのを見ている。子供が三人、後ろから駆けてきて、大人の脛のあたりに隠れた。
松吉が、浜の男の一人に何か言っている。男が、山手のほうを指した。
そこから先は、道が斜面を上がっていて、木立に入る。二人の背が木立に消えた。
それきり、見えなくなった。
わたしは、舟の上に座り直した。
日が高くなっていく。板が焼けて、手をつくと熱い。海面が白く光って、目を開けているのが辛くなってきた。
見える範囲を、片端から数えた。浜の舟、七艘。干し場の網、九枚。斜面の段畑、二十二段。館らしい屋根は、木立の向こうにわずかに見えるだけである。棟が二つ。思っていたより小さい。
数え終わると、することがなくなった。
することがなくなると、こういうときは、いつも同じことを考える。
いま、あの木立の向こうで、話が始まっている。わたしが順を組み、言葉を選び、三度復唱させた話である。だが、その場にいるのは松吉であって、わたしではない。松吉が一語を間違えても、直す者がいない。相手が思わぬことを言い出しても、返す言葉を継ぐ者がいない。
これを、四年前のわたしなら、耐えられなかっただろうと思う。
いや、四年前どころではない。島門にいたころ、父の座敷の襖の外に座って、中の話を聞きながら、幾度も膝の上で拳を握っていた。あそこで一言、こう言えば通るのに、と思いながら、言えなかった。言っても届かなかった。
いまは、少なくとも、言葉だけは中へ入っている。わたし自身は入れないままだけれども。
進んだのか、進んでいないのか。
分からなかった。分からないまま、水面の照り返しを見ていると、目の奥が痛くなってきたので、目を閉じた。
「姐さん」
弥助が、初めて口を利いた。
「日除けを」
濡れた布を差し出してきた。わたしは礼を言って、それを頭にかけた。水が首筋を伝って落ちて、思いのほか冷たかった。
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松吉が戻ってきたのは、日が中天を過ぎてからだった。
木立から二つの影が出てきて、浜を早足に下ってくる。走ってはいない。走れば、追われているように見える。歩き方まで仕込んだわけではないのに、松吉はそれを心得ていた。
小舟が近づいてくる。
顔が見えるところまで来て、わたしは、松吉の頬が赤黒く腫れているのに気づいた。
右の頬骨の上が、拳ほどの幅で腫れて、口の端が切れている。乾きかけの血が、顎まで一筋垂れていた。
「打たれましたか」
「へえ。まあ、一つだけ」
松吉は、腫れていないほうの頬で笑おうとして、うまくいかなかった。
「斬られなんだのは、ようございました」
わたしがそう言うと、松吉は「へえ」と答えた。
「首尾は」
「断られました。もう、こてんぱんに」
「順に、聞かせてくださりませ」
わたしは、懐から紙を出した。
松吉は、少しのあいだ、こちらの手元を見ていた。それから、口の中の血を海へ吐いて、話しはじめた。
「館は、思うたより小そうございました。門は立派ですが、板塀が半分ばかり傾いておって、修繕の手が回っておらん様子で。庭に、鶏が放してありました」
「よろしゅうござります。続けて」
「通されたのは、庭でした。座敷には上げてもらえません。こっちは沓脱の下に立ったまま、縁側に御一同が並んで座られる形で」
わたしは、それを書き留めた。庭。縁側。
「並んでおられたのは、幾人」
「三人です。真ん中に、四十半ばくらいの、痩せた御方。左に、若い、二十半ばくらいの、肩の張った御方。右の端に、年寄の家人が一人」
「真ん中の御方が、義重どのにござりましょう。左の若い御方は、又五郎どのと名乗っておられました」
「又五郎どの、とは。義重どのとの続柄は」
「そこまでは、まだ分かりませぬ。子か、弟か、あるいは、一族の別の筋か。追って調べさせまする」
わたしは、紙に三人の位置を書いた。中、左、右端。
「それで」
「言われた通りに申しました。『黙って使うこともできぬではないが、それでは筋が通らぬゆえ、まずお願いに参った』と。……そこまでは、言えました」
「そこまでは」
「言い終わるより先に、左の御方が立たれまして」
松吉は、そこで一度、口の端の血を手の甲で拭った。
「『賊に湊を貸す道理があるか』と」
「……そのままの言葉で、にござりますか」
「そのままです。それから、『貸せば、わしの家が賊の一味と見なされる。河野様にも、本家にも、申し開きが立たぬ。帰れ』と。ここで、庭に下りてこられて」
「打たれた」
「へえ。まあ、こっちが下から見上げて喋っておりましたんで、向こうも手が出しやすかったんでしょう」
松吉は、それを何でもないことのように言った。
「一つだけです。それも、拳で。刀は抜かれませんでした」
わたしは、筆を止めた。
刀を抜かなかった。
「打たれたあとは」
「言われた通りにいたしました。『相分かり申した』と申して、深く頭を下げて、退きました。頭を下げたときに、また来るのかと言われましたんで、『それは、我が棟梁の決めることにござる』とだけ」
「よく、言うてくださりました」
「それは、姐さんに言われた言葉じゃありませんが」
「よろしゅうござります。それでよろしゅうござります」
わたしは、そう言った。言って、次の問いに移った。
「では、真ん中の御方は。義重どのは、何と」
松吉は、少し考えるような顔をした。
「……何も」
「何も、と申しますと」
「一言も。座ったまま、こっちを見ておられただけです。左の御方が立たれたときも、打たれたときも、止めもせず、けしかけもせず。ただ、じっと」
わたしは、筆の先を紙から離した。
胸のあたりで、何かが、かちりと噛み合う音がした。
「最後まで、にござりますか」
「へえ。あ、いや」
松吉は、思い出したように顔を上げた。
「一度だけ、こっちを見て、目が合いました。頭を下げて、退こうとしたときです」
「そのとき、何かおっしゃいましたか」
「いえ。ただ、目が合っただけで。すぐに逸らされました」
わたしは、紙に書いた。
五月十九日 下怒和 館の庭
当主 義重 一言も発せず
兄 又五郎 立ちて拒む 打つ
退き際、義重、目を合わす
書きながら、指の先が、少し震えた。暑さのせいではなかった。
断られることは、分かっていた。それは織り込み済みである。わたしが欲しかったのは、断られたという事実ではない。どう断られたか、である。
そして、いま手に入ったものは、思っていたより、ずっと大きかった。
当主が、一言も発していない。
これは、当主が黙っていたという話ではない。当主が、自分の家の門前で、自分の名で断ることを、していないという話である。
断ったのは兄である。打ったのも兄である。当主は、ただ座って見ていた。
——なぜ、止めなかったのか。
止められなかったのか。止める気がなかったのか。あるいは、止めないことで、何かを残そうとしたのか。
どれであっても、共通していることが一つある。
あの家では、断るという役目を、当主が引き受けていない。
引き受けていないということは、承知するという役目も、当主一人では引き受けられないということになる。だが同時に、断ったのが当主でない以上、当主の口は、まだ塞がっていない。
門は閉まった。閉まったが、閂は下りていない。
「姐さん」
松吉の声で、われに返った。
「それ、何かの役に立ちますんで」
「立ちまする」
わたしは、顔を上げた。
「よく聞き取ってくださりました。座った位置も、誰が先に立ったかも、目が合ったことも。これだけあれば、あの家の内側が、おおよそ見えまする。上出来にござります、松吉」
松吉は、「へえ」と言った。
そして、それきり黙って、櫓に手をかけた。
わたしは、紙を巻いて懐にしまいながら、まだ頭の中で座敷の図を回していた。中、左、右端。誰が先に立ったか。誰が黙っていたか。
だから、気づかなかった。
打たれた頬のことを、わたしは、一度も訊いていない。痛むかとも、冷やせとも、言っていない。この男は、朝、斬られるかもしれないと分かっていて舟に乗り、実際に一発殴られて、それでも言われた通りに深く頭を下げて戻ってきた。
その労を、わたしは、聞き取りの上出来さとして数えた。
数えて、それで済ませた。
小舟は、沖の船団へ向かって、静かに進んでいた。弥助が櫓を押す音だけが、規則正しく水を叩いていた。松吉は、腫れた頬を潮風に晒したまま、島のほうを一度も振り返らなかった。
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同日 夕 怒和島の沖
弥九郎は、報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
それから、船縁を一度、拳で叩いた。低い、鈍い音がした。
「使いを打ったか」
「一つだけにござります」
松吉が慌てて言った。
「刀は抜かれませんでした。ほんの、挨拶みたいなもんで」
「挨拶で人を打つ家があるか」
弥九郎の声が、下がった。
わたしは、その声の下がり方を知っていた。鵜の子の入江で、彦次からの返答を聞いたときと、同じ下がり方である。あのときは、そのあとに「よかろう」が続いた。続いて、翌朝に人が死んだ。
指の先が、また冷たくなった。
弥九郎は、それ以上、松吉には何も訊かなかった。松吉に向かって、顎で船倉のほうを指した。
「顔を冷やせ。腫れたまま手下の前に出るな。示しがつかん」
「へえ」
「よう戻った」
松吉が、一瞬、動きを止めた。それから、深く頭を下げて、船倉へ下りていった。
わたしは、その背を見送った。
見送りながら、自分の胸のあたりに、名前のつかない、ざらついたものが残ったのを感じた。何がざらついているのか、そのときは分からなかった。分からないので、脇へ置いた。
松吉の足音が、船倉の奥へ消えるのを待って、わたしは口を開いた。
「棟梁」
「言え」
「打たれましたのは、こちらの使いにござります。斬られてはおりませぬ」
「斬られなんだから、よいと申すか」
「斬らなんだのは、向こうにも算段があるゆえにござります」
弥九郎の目が、こちらへ動いた。
「賊の使いを、庭に立たせたまま、拳で一つ打った。斬れば、こちらは必ず報いに来まする。打つだけなら、面目は立ち、事は起きませぬ。あの若い御方は、気は短くとも、そこの見境はついておりまする」
「見境のついた男が、使いを打つか」
「打ちまする。見境がついておるからこそ、打つのでござります。手下と、家の者と、門の外の村の者が見ておりまする。賊を追い返した、と、その場の全員に見せねばならぬ。斬るのは危ういゆえ、打つ。ちょうど、こちらが、脅しの形をしていない脅しを申し入れましたのと、同じにござります」
弥九郎は、鼻から息を出した。
「似た者どうし、というわけだ」
「似ておりますゆえ、話が続きまする」
しばらく、誰も何も言わなかった。
夕日が、船の帆に当たっている。帆布の目が、赤く透けていた。どこかで、飯を炊く匂いがしはじめている。
「押しては、なりませぬ」
わたしは、先に言った。
「いま押せば、あの家は、後ろの二つ、本家と河野方に泣きつく口実を得まする。泣きつかれた側は、体面のために動かざるを得ませぬ。動けば、こちらは、島一つの話ではのうて、伊予一国を敵に回しまする」
「では、どうする」
「潮を、使いまする」
わたしは、懐の紙に手を触れた。
「あの水道は、刻限で流れが逆さになりまする。入るときには追い風でも、出るときには壁になる。それを承知しておるのは、この四月のあいだ、毎日書き留めておりましたわたくしどもだけにござります」
「島の者は知っておろう」
「知っておりまする。ただ、体で知っておるだけにござります。刻限を数で言える者は、おりませぬ。数で言えるということは、他人に渡せるということにござります」
弥九郎は、干した魚に手を伸ばしかけて、やめた。
「その策を、いつ使う」
「早いほどよろしゅうござります。日を置けば、向こうも構えを固めまする」
「待て」
短かった。
わたしは、口を閉じた。
「もう一手、待て」
弥九郎は、それだけ言った。
「……何を、お待ちになるのでござりますか」
わたしは、訊いた。訊いてから、これは訊いてはいけない訊き方だったと、すぐに分かった。
弥九郎は答えなかった。答えるかわりに、島のほうを見た。
「棟梁」
「待て、と申した」
声は荒くなかった。荒くないぶん、動かなかった。
わたしは、そこで退いた。退くしかなかった。
「かしこまりました」
弥九郎は、それきりこちらを見なかった。夕闇の中、島のほうへ目を向けたまま、しばらく動かなかった。
いま考えるべきは、松吉の頬のことではない。弥九郎が何を待つと言ったのか、そちらのほうが、はるかに大きい。
一度断られたくらいで退く男ではない。それは知っている。押すなと言ったのはわたしのほうで、それを受け入れたにしては、あの「待て」は、受け入れた者の声ではなかった。
あれは、こちらの言い分を容れた「待て」ではない。この男の中に、こちらの見えていない筋が、もう一本ある。
その筋が何かは、いくら数を並べても出てこなかった。
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その夜、わたしは灯を近づけて、昼の紙を広げ直した。
当主 義重 一言も発せず
この一行を、幾度も読んだ。
読むたびに、あの家の形が、少しずつ変わって見える。当主が黙る家。兄が前に出る家。板塀が半分傾いたまま直されていない家。年貢を二つの筋から催促されている家。
門は閉まった。閂は下りていない。
そこまでは、確かに見えている。そのあとが見えない。閂の下りていない門を、こちらから押し開ければ、それは押し入ったことになる。押し入らずに開けさせるには、向こうの側に、開けねばならぬ理由が要る。
いまのところ、向こうには、その理由がない。
理由は、作れる。作れるが、作るには、まだ何かが足りない。
筆を置いて、灯を見た。
炎が、風もないのに、細かく揺れている。船板の隙間から、どこかで風が入っているらしかった。
上の甲板で、弥九郎が誰かと低く話している声がしていた。何を話しているかは、聞き取れなかった。聞き取ろうとして、少しのあいだ、息を詰めた。
聞き取れないまま、やがてその声も止んだ。




