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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第七話 釣島の潮

応永二十七年(一四二〇)三月 伊予国 怒和島


島影が、日を追うごとに、少しずつはっきりとしてきた。


低く霞んでいた連なりが、いまでは一つひとつの輪郭を持ちはじめている。山の稜線、入り江の切れ込み、白く砕ける波頭。船が近づくにつれ、地図の上だけの名だった「忽那諸島」が、実際にそこに存在する、目の前の土地へと変わっていった。


わたしは、船縁に立って、その輪郭を静かに目に焼きつけていた。あの中のどれかが、これから根を張ろうとしている怒和島のはずだった。潮風が、頬をかすめて過ぎていく。


「明日には、島影の下見に出す」


弥九郎は、そう言うと、腕を組んで島影を見つめた。


弥九郎が、後ろから声をかけてきた。


「小舟を二艘、松吉ともう一人が漕いでいく。船団の本体は、そのまま沖に留めておく」


「わたくしも、お連れくださいませ」


わたしは、間を置かずに、はっきりとそう言った。弥九郎は、片眉を上げた。


「危ない。手下たちの目もある、な」


「この島の水と土を見る目は、わたくししか持っておりませぬ。見ずして、この先の策は立てられませぬ。伝え聞きだけでは、必ずどこかで見誤りまする」


「それは分かる。だが、女子を連れていくのは、松吉たちも渋るだろう」


弥九郎は、それだけ言って、話を切り上げた。わたしは、それ以上食い下がらなかった。食い下がって通る話でないことは、これまでの付き合いで、既にはっきりと分かっていた。


---


その夜、わたしは弥九郎の寝所を訪れた。


理由を並べ立てて説くのではなく、ただ渡った。数を並べて説く昼の場と、渡る夜とでは、通る道筋が違う。それを、この数年で学んでいた。


灯りを吹き消す前、わたしは静かに帯を解いた。何も言わなかった。言葉にするまでもないことだった。夜の静けさだけが、部屋の中に満ちていた。


夜が明けて、身支度を整え直しているとき、弥九郎がぽつりと言った。


「……乗れ」


それだけだった。わたしは「かしこまりました」とだけ答え、それ以上、何も付け加えなかった。


船倉に戻り、帳面を開いた。真新しい紙の隅に、小さく「通った」とだけ書きつけた。何によって通ったのかは、書かなかった。書く必要のないことだった。筆先を紙から離すと、その一行だけが、静かに残った。


これは、判断を変えさせたのではない。連れていくこと自体には、もとから理があった。ただ、その理を通す間合いを、少しだけ早めただけのことだ。わたしは、そう自分に言い聞かせた。言い聞かせる必要があるということが、何を意味するのか、そのときはまだ深くは考えなかった。


朝の光の中で身支度をしながら、わたしは自分の掌を見た。何かが変わったわけではない。ただ、昼の理屈だけでは動かなかったものが、夜を挟んだことで動いた。それだけの、単純な事実がそこにあるだけだった。単純であるはずのその事実に、なぜか胸の奥が少しざわついた。理由は、まだうまく言葉にできなかった。


紙を閉じ、帳面を懐にしまいながら、わたしは今日という日を、これからも幾度か繰り返すことになるのだろうかと、ふと考えた。考えて、すぐにその考えを打ち切った。いまは、島を見ることのほうが先だった。


---


翌朝、まだ薄暗いうちに、小舟が二艘、島影に向けて漕ぎ出した。松吉と、もう一人の慣れた水手が櫓を握り、わたしと弥九郎が、それぞれ乗り込んだ。


近づくにつれ、潮の流れが目に見えて速くなっていくのが分かった。舟の舳先がわずかに斜めに流され、松吉が声をかけて漕ぎ方を変える。もう一人の水手も、慣れた様子で櫓の力を加減した。二人の息の合った動きに、これまで幾度もこうした水道を渡ってきたのだろう年季が滲んでいた。



「この辺りの水道は、潮の変わり目が読みにくいんです」


松吉が、額の汗を拭いながら言った。わたしは、その言葉に、耳をそばだてた。潮が読みにくい、というのは、余所の船が入りにくいということでもある。守りやすさに直結する話だった。聞き逃すわけにはいかなかった。


舟を寄せた浜辺で、わたしは冷たい石に腰を下ろし、潮の満ち引きをじっと見つめた。日の高さと、潮の高さを、丁寧に紙に書き留めていく。刻限ごとに、流れの向きが明らかに変わっていくのが見て取れた。朝は西へ、昼を過ぎれば東へ。その逆転の刻限を、一つ残らず正確に掴んでおかねばならない。


四年前、いや、もっと前——島門の干潟に座って、潮を書きつけていたころのことを思い出した。あのときは、誰に読まれることもない紙だった。父にも兄にも、見向きもされなかった。ただ、自分だけが知っていればいいと思って、書き続けていた。


いまは、この紙が、島を獲るための算段の礎になる。同じ手つきで、まったく違う重みを持つ仕事をしている。その落差に、わたしは静かな感慨を覚えた。


潮の流れは、思っていた以上に複雑だった。単純に満ちて引くだけでなく、島と島のあいだの狭い水道を抜けるとき、渦を巻くように向きを変える場所がいくつもある。わたしは、その一つひとつを、刻限と共に書き留めていった。日が高くなるにつれ、紙の上の数字が、少しずつ増えていく。


「姐さんは、飽きませんね」


松吉が、傍らで舟を繋ぎながら言った。


「飽きるも何も、これが仕事ですから」


「おいらには、ただの水にしか見えませんが」


「水にも、癖がございます。癖を知れば、余所の船を、思うところへ誘い込むこともできましょう」


松吉は、感心したような、それでいて少し恐ろしいものを見るような目でわたしを見た。わたしは、その視線に構わず、また潮の高さを紙に書きつけた。


---


「水が、出ませんね」


松吉が、島の奥をぐるりと見渡しながら呟いた。


わたしも、既に同じことに気づいていた。谷筋を歩いても、湧き水の気配が一向にない。田を作れるだけの広い平地も、どこにも見当たらなかった。わずかに段々に切られた畑だけが、斜面に貼りついているだけだった。


「これでは、田は、とても望めますまい」


「畑だけで、この先も食っていけるのか」


弥九郎が、厳しい声で訊いた。わたしは、少し考えてから答えた。


「畑だけでは、厳しゅうございましょう。ですが、水さえ溜められれば、話はまた変わってまいります」



「その水がない、といま申しておるのだが」


「降らぬわけではございませぬ。ただ、降った水を、溜める術がないだけかと」


弥九郎は、それ以上何も言わず、また島の奥へ目をやった。わたしは、その視線の先に、これから幾年もかけて作ることになるはずの溜池の姿を、頭の中に思い描いていた。谷を堰き、土を段に切り、雨水を溜める。前の生で幾度も繰り返してきた仕事だった。手順は、迷わず思い出せる。だが、それを実際にこの島の土で成し遂げるまでには、まだ長い道のりがあるはずだった。


段畑の畦に、痩せた作物がわずかに植わっていた。粟か稗の類らしい。土を摘んでみると、思ったより固く、水はけが悪い。緑肥を入れねば、まともな畑にはなるまいと、わたしは頭の中で見立てを組んだ。海藻を鋤き込む手もある。この島なら、材料には困らないはずだった。


島は、上と下、二つの集落に分かれているらしかった。松吉が、近くで漁をしていた老人から聞き出した話によると、この島全体を、忽那義重という一族の当主が統べているという。館は、下の集落——下怒和と呼ばれる一帯にあるらしい。


「忽那、というのは」


わたしが訊くと、松吉は首を傾げた。


「詳しくは分かりませんが、かつてはこの辺り一帯を束ねる大きな家だったとか。いまは、河野の下で細々と、という話です」


「当主の名は」


「義重、と申すそうです。この島全体を統べておるのが、その一族とのことで」


わたしは、その名を紙の端に書き留めた。忽那義重。まだ会ったこともない相手の名を、こうして先に記しておくことに、奇妙な感覚を覚えた。名を知ることは、いずれ関わることになるという予兆でもあった。


かつて栄え、いまは落ち目にある家。その響きに、わたしは島門を思い出さずにいられなかった。同じ形をした家に、今度は入り込む側として近づこうとしている。その皮肉を、噛み締めずにはいられなかった。


島門の麻生も、かつては遠賀の湊を束ねる家だった。それが、宗家の家督争いに巻き込まれ、あっけなく滅んだ。忽那の家も、河野の家督争いの中で、同じように弱っているのだという。守る力を失った家に、どこからか手を伸ばす者が現れる。それが、この時代の理なのかもしれなかった。



かつては、自分がその手を伸ばされる側だった。いまは、手を伸ばす側に回ろうとしている。その隔たりを思うと、複雑な味わいが胸に広がった。正しいとも、間違っているとも、言い切れない味わいだった。


弥九郎が、隣でそれとなく口を開いた。


「忽那とやらの家、丸ごと敵に回すつもりか」


「いいえ。ただ、力を貸してもらえる形が、あるいは見つかるやもしれませぬ」


「力を貸す、とは」


「まだ、分かりませぬ。まずは、この目で島を見てからでございます」


弥九郎は、それ以上訊かず、また黙って歩き出した。わたしは、その背を追いながら、頭の中で幾つもの筋道を巡らせていた。まだ形にならない考えばかりだったが、種は既に蒔かれはじめていた。


---


浜のほうで、人の声がした。


わたしが目をやると、漁師らしい男たちが数人、何やら言い争っている様子だった。網の分け前を巡る揉め事らしい、怒鳴り声が聞こえてくる。


その輪の中に、一人の若い女が入っていくのが見えた。遠目にも、身なりが漁師の女房たちとは違って見えた。女は、揉めている男たちのあいだに割って入り、何か短く言葉をかけている。すると、あれほど激しかった怒鳴り声が、次第に収まっていった。


「あれは、何者でございましょう」


わたしが呟くと、松吉も同じ方角を見た。


「さて……見たことのない顔です。この島の者でしょうか」


わたしは、しばらくその光景を見つめていた。何をしているのだろう、と思った。だが、それ以上考えている暇はなかった。潮の刻限が、また変わろうとしている。わたしは、その一行を頭の隅に置いたまま、また潮の高さに目を戻した。


女の名も、素性も、そのときのわたしには知りようがなかった。ただ、揉め事を鎮めるあの手際だけが、妙に印象に残った。数では測れない何かで、人を動かしていた。その何かの正体を、わたしはまだ、言葉にできずにいた。



漁師たちは、女が去ったあとも、しばらく大人しく網の手入れを続けていた。怒鳴り合っていたのが嘘のような静けさだった。わたしは、その変わりようを、遠目にもう一度確かめた。理屈で説き伏せたのでも、力で抑えつけたのでもない。何かもっと別の力が、あの場を鎮めたようだった。


自分が同じ場に居合わせたなら、どう収めただろうかと、ふと考えた。分け前の数を示し、道理を説く。それが、わたしのやり方だった。だが、あの女は、そうした道理を通した様子もなく、ただ数言で場を鎮めてみせた。その差が、何なのか。答えの出ない問いを抱えたまま、わたしは潮見の続きに戻った。


---


日が傾きはじめ、舟は沖の船団へと戻った。


「どうであった」


弥九郎に問われ、わたしは持ち帰った紙を広げた。


「水は出ませぬ。田も望めませぬ。ですが、潮の流れは、思うたより速うございます。余所の船は、容易には入れますまい。守りやすい地の形をしております」


「それだけか」


「島は、上と下、二つに分かれております。下は、忽那義重という一族が預かっておるとのこと。本家は落ち目で、河野の下にあるようです」


弥九郎は、腕を組んで、しばらく黙っていた。


「厄介な島だな。獲るだけの値打ちがあるのかどうか、まだ見えぬ」


弥九郎は、そう言いながらも、島影から目を離さなかった。厄介だと言いながら、その目には、値踏みの色がまだ残っていた。すぐに退ける気はないらしいことが、その様子から伝わってきた。


「値打ちは、これから作るものにございます」


わたしは、そう答えた。弥九郎は、その言葉に、片頬をわずかに緩めた。


「相変わらず、言うことだけは大きいな」


「大きく言わねば、大きくは動きませぬので」


弥九郎は、それに短く笑い、それ以上は何も言わなかった。だが、その笑いの奥に、まんざらでもないという色が、確かに滲んでいるように見えた。



日が、水平線に近づいていく。橙色に染まった海の向こうに、島影がまだ静かに横たわっていた。まだ何も獲れていない。だが、確かにそこに、これから幾年もかけて向き合うことになる土地があった。わたしは、その島影から、しばらく目を離せずにいた。


松吉が、船縁で網を繕いながら、独り言のように呟いた。


「水もねえ、田もねえ、忽那とやらの家も落ち目……そんな島に、これから根を張るんですね」


「値打ちのないものとして見過ごされている場所には、たいてい、まだ誰も気づいていない何かが眠っております」


わたしがそう答えると、松吉は感心したような、それでいて半信半疑の顔をした。


「姐さんの目には、この島が、そんなふうに見えるんですか」


「見えると申すより、そう見なければ、進めませぬので」


松吉は、それ以上何も言わず、また黙って網に目を戻した。わたしは、懐の帳面を取り出し、今日書き留めた潮の表を、もう一度端から読み返した。刻限ごとの流れの向き、速さ、渦の生じる場所。まだ粗い記録だったが、これが、これから幾年も積み重ねていくことになる、最初の一枚だった。


夜の帳が、静かに降りはじめていた。船団の灯りが、一つ、また一つと灯っていく。わたしは、その灯りの中で、明日からの段取りを頭の中で組み立てはじめた。まだ見ぬ島の姿は、今日だけでは、まだ半分も掴めていなかった。

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