第六話 東への風
応永二十七年(一四二〇)二月 周防灘〜伊予灘
三日の支度を終え、船団は東へ向けて船出した。
八艘のうち、六艘を連れていくことになった。残る二艘は、鵜の子の守りのために留め置かれる。二百二十人のうち、百七十を超える者が乗り込んだ。船腹には、水と兵糧、そして道中の入用に足るだけの銭が積まれている。
甲板に立つと、冬の海風が頬を刺した。わたしは、綿入れの襟をかき合わせながら、遠ざかっていく鵜の子の入江を見送った。取り返したばかりの湊を、また留守にする。留守のあいだに何が起きるか、誰にも分からない。それでも、進まねば冬を越せない。数字の答えは、いつも同じところに行き着いた。
留守を預かる残された二艘には、六郎太をはじめ、傷の癒えきらぬ者たちが乗り込んでいた。足を失った六郎太が、帳の付け方を覚える約束を交わしたのは、まだ三月ほど前のことだった。船出の朝、六郎太はわたしのところへ来て、深々と頭を下げた。
「留守は、しかとお預かりいたします」
その声には、以前の暗さがなかった。歩けなくなったことを嘆いていた男が、いまは留守を預かる役目を、しっかりと自分の役目として引き受けている。人は、居場所さえあれば、こうも変わるものかと、わたしは静かに驚いた。
「頼みます」
それだけ答えて、わたしは船に乗り込んだ。振り返ると、六郎太が、まだこちらを見送っていた。その姿が、だんだんと小さくなっていく。片足を失っても、この一党の中に確かな居場所を得た男の背中を、わたしは長く目で追った。
船縁に手をかけて、寄せては返す波を眺めていると、ふと、四年前の記憶が重なった。あのときも、こうして船に乗せられて、東から西へ、海を渡った。荷として、縄こそかけられていなかったが、行き先も、値も、何一つ自分では選べなかった。
いまは違う、と思った。行く先は自分が選んだのではないが、この船に乗ることは、自分の判断で決めたことだ。荷として運ばれるのと、意志を持って乗り込むのとでは、同じ揺れでも感じ方が違う。そのはずだった。
だが、ふと考え直した。行く先を決めたのは、結局は弥九郎だ。わたしが挙げた道理を、この人が選び取った。選ぶ権は、いまも自分の手にはない。持っているのは、選ばれるに足る道理を差し出す力だけだ。それは、四年前とは確かに違う。違うが、決して同じ高さにあるわけでもなかった。
その違和感を、うまく言葉にできないまま、わたしは帳面を開いた。考えても答えの出ないことは、いったん脇へ置くしかない。
甲板の隅では、古参の水手が数人、故郷の話をしていた。忽那諸島という名を、誰かが幼い頃に聞いたことがあるという。潮の速い、余所者を寄せつけない海だと、祖父から聞かされたそうだ。その話に、他の者たちが半信半疑の顔で耳を傾けている。噂と実物とが、どれほど違うものか、行ってみるまでは誰にも分からない。
わたしは、その話し声を聞きながら、帳面の余白に、聞こえてくる噂の断片を書き留めた。潮が速い。余所者を寄せつけない。どちらも、これから向かう島の姿を推し量る、貴重な手がかりだった。噂話一つも、聞き逃すわけにはいかなかった。
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道中の水と兵糧の割り振りは、わたしに任された。
泉州から日本へ渡ったときも、八艘ぶんの割り振りを、同じように任されていた。あのときの割り振りが、一度も外れなかったことを、弥九郎は覚えていたらしい。それでも、今度は戦支度を兼ねた船団だ。古参の水手たちの反発を、あるいは招くのではないかとさえ案じた。
「先だって渡った海でも、お前の帳に助けられた。今度も、それでよい」
弥九郎は、それだけ言って、あとは何も付け加えなかった。わたしは、その一言を胸の奥に留めて、すぐに割り振りに取りかかった。任された以上、期待を裏切るわけにはいかなかった。
六艘に積んだ水の量、干し飯と塩の残り、日数、乗せている人数。すべてを紙に書き出し、一人あたりの割り当てを決めていく。多すぎれば途中で余り、少なすぎれば途中で足りなくなる。ちょうどよい量を見極めるには、日数の見立てが要る。潮と風の様子を見ながら、幾度も数を組み直した。
船ごとに人数も積み荷も違うため、割り振りは一様にはいかなかった。荷を多く積んだ船には水を控えめに、人数の多い船には多めに。細かく調整するたびに、紙の上の数字が入れ替わっていく。夜通しかかって、ようやく六艘ぶんの割り当てが仕上がった。仕上げた紙を、松吉に一枚ずつ配って回らせた。
古参の水手たちは、はじめ、わたしの指図に半信半疑の顔をしていた。だが、割り振ったとおりに事が運び、途中で不足が出ないと分かると、次第に文句を言わなくなった。
「姐さんの割り振りは、間違いがねえ」
年嵩の水手の一人が、そう言ってくれたときは、少しだけ胸の内が温かくなった。鵜の子で見せた帳面が、こうして実務の中で信用に変わっていく。数えることは、いつか誰かの役に立つ。そう信じて、これまで帳面を放さずにきた。その信念が、少しずつ形になっていくのを感じた。
弥助が、水樽の並ぶ船倉で、わたしの割り振った表を覗き込んでいた。
「この樽から先に使えって、どうして分かるんです」
「古い樽の水から、傷みはじめます。日付を刻んでおけば、どれから使うべきかが一目で分かります」
「日付を、刻む……」
弥助は、感心したように樽の縁を撫でた。当たり前のようでいて、誰もこれまでやってこなかったことだった。手で覚えた勘だけを頼りにしてきたこの一党にとって、書き留めるという行いそのものが、まだ目新しいものらしかった。
「姐さんがおられると、船の中の物が、みんな行儀よくなりますね」
弥助は、そう言って笑った。わたしは、その言葉に、少しだけくすぐったいものを感じた。数える者が一人加わるだけで、こうも違うのかと、自分でも驚いていた。島門の湊でも、明の泉州でも、同じように数を数えてきた。だが、その数がこれほど素直に受け入れられる場所は、思えばこれが初めてかもしれなかった。
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伊予灘に近づいたころ、航路を巡って、わたしと弥九郎の意見が分かれた。
「このまま、真っ直ぐ進めば、二日は早うございます」
わたしは、地図の一点を指しながら言った。最短の航路を採れば、水と兵糧の消費も、それだけ抑えられる。数字の上では、誰の目にも明らかにこちらが得だった。
だが、弥九郎は首を振った。
「この時期のこの風では、危ない」
「危ない、と申されますのは」
「二月のいまの伊予灘は、北西の風が強う吹く。まっすぐに突っ切れば、横波を受け続けることになる。船足の遅い荷船も混じっておる、いまの船団では、いつ転覆してもおかしゅうない」
わたしは、すぐには納得できなかった。数字の上では、遠回りの航路のほうが、明らかに損だった。日数がかかれば、その分、水も兵糧も余分に食う。
「二日の遅れは、それなりに大きうございます」
「二日の遅れと、船が一艘沈むのと、どちらが大きい」
その一言に、わたしは詰まった。船が沈めば、積んだ荷も、乗っていた人も、一度に失われる。数字にして考えれば、二日の遅れよりも、はるかに大きな損失になる。だが、わたしの見立てには、その「沈むかもしれない」という不確かな危険を、正しく織り込む目盛りがなかった。確かなものだけを数えてきた自分の癖が、いま、初めてその限界を見せていた。
「……分かりました。頭の仰るとおりにいたしましょう」
わたしは、そう答えるしかなかった。弥九郎は、それ以上何も言わず、遠回りの航路を選んだ。
その決定を、松吉が手下たちに伝えて回った。中には、日数がかかることに不満を漏らす者もいたが、弥九郎の名で伝えられた命令に、表立って逆らう者はいなかった。不満げな顔をしていた若い水手も、松吉の一睨みで、それ以上は口を噤んだ。棟梁の決めたことに、逆らう理由がないと、誰もが承知している様子だった。
わたしは、船縁に凭れて、灰色に沈んだ西の空を見た。風の匂いが、心なしか変わってきている気がした。潮の匂いに、湿った重さが混じりはじめていた。数字には表れない、体で感じる兆しというものがあるのだと、そのとき初めて意識した。これまで、そうした兆しを、自分はどれほど見落としてきたのだろうか。
夜になると、風はさらに強さを増した。船が大きく揺れ、船底から軋む音が響いてくる。わたしは、船倉の隅で帳面を胸に抱え、揺れに耐えていた。もし最短の航路を採っていたら、いまごろどうなっていただろうか。考えるだけで、指先が冷えた。
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その判断が正しかったと分かったのは、翌日のことだった。
海が荒れはじめた。灰色の雲が空を覆い、風がうなりを上げて吹きつけてきた。もし最短の航路を採っていたなら、この横波を、まともに受けていたはずだった。遠回りの航路は、島影を縫うように進む分、風の当たりが弱くなる。
「頭の申されたとおりでした」
わたしは、揺れる甲板の上で、素直にそう告げた。
弥九郎は、短く頷いただけだった。誇る様子も、勝ち誇る様子もなかった。ただ、当然のことをしたまでだ、という顔をしていた。
わたしは、その横顔を見ながら、自分の見立ての甘さを、静かに噛み締めた。数字にできるものだけを頼りに、これまで策を組んできた。だが、海の上には、数字にならない危うさが、いくつも潜んでいる。その危うさを読む目を、この人は持っている。わたしには、まだない目だった。
「頭は、なぜ、風の変わり目が分かるのですか」
わたしが訊くと、弥九郎は少し考えるような顔をした。
「分かる、というより……子供の頃から、毎日見てきただけだ。雲の形、風の匂い、鳥の飛び方。理屈で覚えたわけじゃない」
弥九郎は、そう言いながら、遠くの雲の流れをちらりと見た。その仕草には、長年の癖が滲んでいた。
その答えに、わたしはしばらく考え込んだ。理屈で覚えたのではない知恵。体に染みついた勘。それは、帳面に書き写すことのできない種類の識だった。前の生で覚えた技術も、明で見た技術も、すべて理屈にして持ち帰ることができた。だが、この人が持っている海の勘だけは、どれだけ数えても、写し取ることができない。
「……羨ましゅうございます」
思わず、そう漏らした。弥九郎は、意外そうな顔をした。
「お前が、俺を羨むのか」
「はい。わたくしには、数えられぬものは、なかなか掴めませぬので」
弥九郎は、それに何も答えず、ただ短く笑っただけだった。その笑いに、からかいの色はなかった。
風はその日一日荒れ続けたが、翌朝には収まった。船団は、一艘の損傷もなく、その荒れを乗り切った。甲板に出ると、洗われたような青空が広がっていた。手下たちの間に、あちこちで安堵の声が漏れる。わたしは、その青い空を見上げながら、昨夜の判断の重さを、改めて噛み締めていた。
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数日後、伊予灘に入った。
海の色が、また変わった。周防灘よりも穏やかで、島影がいくつも霞んで見える。潮の流れも、これまでよりゆったりとしているようだった。
「あれが、忽那の島々だ」
舳先近くに立っていた水手の一人が、遠くを指さして言った。
わたしは、その方角に目を凝らした。低く霞む島影が、いくつも連なっている。どれが目指す怒和島なのか、この距離では見分けがつかなかった。地図にすら載らない小さな島だと聞いている。あの島影のどれかに、その島はあるはずだった。
風に乗って、潮の匂いがまた変わった気がした。これまで嗅いできた潮とは、どこか違う。土地ごとに潮の匂いが違うことを、わたしはこの数年で知った。この匂いの先に、どんな島が待っているのか、想像しても、答えは出なかった。
弥九郎が、隣に来て、同じ方角を見た。
「あの中の、どれかだな」
「はい」
「見てくれば、分かる」
それだけ言って、弥九郎はまた船の奥へ戻っていった。わたしは、しばらくその島影を見つめ続けた。水のない、田もない、誰も欲しがらない島。そこに、これから自分たちの居場所を、一から築こうとしている。
松吉が、いつのまにか隣に立っていた。
「姐さん。着いたら、どこから手をつけるおつもりで」
「まずは、島の形を見ませんと。湊になる入江があるか、水はどこにあるのか、それを確かめるのが先です」
「見るだけで、分かるものですか」
「分かることもあれば、分からぬこともございます。分からぬことは、住んでおる者に聞くしかございません」
松吉は、少し驚いたような顔をした。
「島の者に、頭を下げて聞くと」
「頭を下げずとも、聞く道はございましょう。ただ、いきなり奪いに来た余所者だと思われては、何も聞き出せませぬ」
松吉は、それきり黙り込んだ。わたしの言葉の意味を、噛み締めているようだった。奪うのではなく、根を張る。そのために、まず知らねばならないことが、まだいくつも残っている。奪うだけなら、これまでの一党のやり方で十分だった。だが、根を張るとなれば、勝手が違う。
まだ見ぬ島の輪郭を、わたしは目に焼きつけようとした。だが、遠く霞んだ島影は、いつまでも輪郭をはっきりとは見せてくれなかった。それでも、その霞んだ形の向こうに、これから幾年もかけて築いていくことになるはずの何かが、確かに待っている気がした。
風が強くなり、帆が大きくはためいた。船は、その島影に向かって、まっすぐ進んでいった。甲板に立つ手下たちの間にも、静かな緊張が広がっていくのが分かった。誰もが、それぞれの思いを抱えながら、同じ島影を見つめていた。
わたしは、懐の帳面をそっと確かめた。ここまで書き溜めてきた数字が、これから先、どれほど役に立つのか。それを試す日が、もうすぐそこまで近づいていた。島影は、まだ遠く、霞んだままだった。




