第五話 地図にない島
応永二十七年(一四二〇)正月 鵜の子の入江
年が明けた。
正月の祝いといっても、この一党の中では、酒と少しばかりの米が余分に配られる程度のものだった。それでも、陣屋全体の空気は、いつもより緩んでいた。子供たちが焚き火のまわりを走り回り、女たちが遠くで笑う声が聞こえた。
わたしは、その賑わいから少し離れた場所に、莚を敷いて座っていた。膝の上には、書きかけの紙が幾枚も広がっている。
正月とはいえ、休んでいる余裕はなかった。鵜の子の入江は、あくまで仮の根城でしかない。冬が明ければ、また彦次の残党のような者が現れる。腰を据えられる場所を見つけるまで、この一党は、いつまでも綱渡りを続けることになる。
寒風が、莚の隙間から吹き込んできた。わたしは、羽織った綿入れの前をかき合わせた。指先が、かじかんで筆先が思うように動かない。それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
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日が傾きかけたころ、弥九郎が車座を集めた。松吉、弥助、それに古参の水手が数人。わたしも、少し離れた場所に莚を敷いて座った。紙と筆だけを持って。
「腰を据える場所を探しておる。心当たりのある者は言え」
弥九郎が、そう切り出した。
「芸予の島々はどうです」
松吉が、そう挙げた。弥九郎が、首を振る。
「あそこは、既に人がびっしり住み着いておる。それぞれに縄張りを持つ海の衆もおる。手を出せば、いくつもの一党を同時に敵に回すことになろう」
わたしは、その名の上に線を引いた。却下、と書き添える。誰も、こちらを見なかった。それでよかった。
「では、響灘寄りは」
弥助が挙げた名に、弥九郎が首を振った。
「あちらは、白水衆の縄張りに近い。もし白水三郎が今も動いておるなら、いずれ当たる」
その名を耳にするとき、胸の奥に、小さな痛みのようなものが走った。四年前、自分をあの海で売った男。忘れたつもりでいても、名を聞く瞬間だけは、その痛みが顔を出す。わたしは、その痛みに気づかないふりをして、また紙に線を引いた。
「他に、心当たりのある者は」
弥九郎が、車座を見渡して訊いた。しばらく、誰も口を開かなかった。
古参の水手の一人が、思い出したように口を開いた。
「北のほうに、小さな無人の島がいくつかございます。ですが、水がまったく出ぬと聞きます。あれでは、人を根付かせられますまい」
「その島の名は」
弥九郎が訊いた。水手は首を傾げた。
「名など、聞いたことがございません。漁師が仮の宿にするだけの、岩場に毛が生えた程度の島です」
「掘ってもみずに、水がないと決めつけておるのか」
弥九郎が、そう返すと、水手は言葉に詰まった。
「さて……そこまでは」
「北の海路は、行き来する船の目が多い。水があろうとなかろうと、腰を据えるには人目につきすぎる」
弥九郎が、そう言って、その名を退けた。わたしは、紙の端に「無名・水無し・却下」とだけ書きつけた。誰も、その手元を見ていなかった。
弥助が、別の名を挙げた。
「南のほうにも、いくつか島はございますが、あちらは潮の流れがひどく荒く、船を寄せるだけでも一苦労だと聞いております」
「渦を巻くような潮は、使いようによっては守りにもなる。だが、使いこなせるようになるまで、幾年もかかる。いまは賭けが過ぎる」
弥九郎が、そう言って退けた。わたしは、また線を引いた。
こうして、一つずつ名が挙げられては、消えていった。良さそうに見える島には、必ず何かの難があった。難のない島には、既に誰かが住み着いていた。両方を満たす島など、そう都合よく見つかるものではなかった。
車座の中に、次第に重い沈黙が満ちていった。誰の顔にも、行き詰まりの色が浮かんでいた。焚き火のはぜる音だけが、やけに大きく響く。誰かが、ため息をついた。
「今日は、ここまでにする」
弥九郎が、そう言って、腕を組んだまま立ち上がった。
「他に当てのある者は、夜のうちに考えておけ。埒が明かねば、来月も同じことをやることになる」
車座は、静かに解けていった。松吉と弥助が、火の始末をしながら、何か小声で言い合っている。誰も、答えを持たないまま散っていった。
わたしは、一人その場に残り、線を引いた紙を見返した。芸予、却下。響灘寄り、却下。無名の島、却下。南の荒潮、却下。残った名は、一つもなかった。
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その夜、わたしは弥九郎の陣幕を訪ねた。
「棟梁。少し、お耳を拝借できますか」
弥九郎は、片眉を上げたが、黙って外へ出てきた。誰もいない船の陰まで来ると、足を止めた。
「まだ何かあるのか。今日は、出尽くしたはずだが」
「一つ、申し上げておらぬことがございます」
「言え」
「松吉が、正月前に、拾うてきた話がございます」
弥九郎の眉が、わずかに動いた。
「なぜ、今日の車座で言わなんだ」
「今日は、まだ、確かめきれておりませんでした。いま、確かめました」
嘘ではなかった。松吉の話を、頭の中で幾度も組み直し、使える形にできたのは、車座が散ったあとのことだった。
「言え」
「鵜の子に流れ着いた漁師の一人が、伊予の生まれだと申しておったそうにござります。伊予の沖に、忽那諸島という島群があると。かつては忽那の一党が栄えておったが、いまは落ち目で、伊予守護の河野の下にあると」
「聞かん名だな」
「わたくしも、初めて聞きました。ただ、続きがござります。その忽那の分かれが、七つある島のうちの一つを、細々と預かっておるとか。名は、怒和島」
「その島が、どうした」
「水が出ず、田もない、小さな島だと聞きました」
弥九郎は、片眉を上げた。
「今日、いくつも退けた島と、同じではないか。水のない島は、根城にならぬと、俺自身が言うたばかりだ」
「他の島とは、一つだけ違いまする」
「何が違う」
「他の島は、値打ちがないから、誰も見向きもしませぬ。この島は、値打ちがないと見えて、実は違いまする」
弥九郎の目が、こちらへ据わった。
「どう違う」
「値打ちのないものとして見過ごされている場所にこそ、拾えるものがございます。余所が欲しがらぬ島だからこそ、誰も取り合いに来ませぬ。潮の流れが速ければ、余所の船も入りにくうございます。取られにくい場所は、そのまま守りやすい場所にもなりまする」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
「水は」
「溜められまする。谷を堰き、雨を溜め、段に土を切れば、田は作れずとも、畑くらいは持てましょう。明におりました頃、山里で幾度も見聞きした仕事にござります」
「一年二年、飯を食い延ばせと申すか」
「その間も、湊での商いは続けられます。塩も、魚も、それなりの実入りになりましょう。溜池は、根を張るための足がかりであって、明日の飯そのものではございませぬ」
「水だけの話でもございませぬ」
わたしは、続けた。
「明で見聞きした技のいくつかは、いまだ、この身の内にしまったままにござります。硝石を積む法も、磁器を焼く法も、弩の図面も——どれも、腰の据わらぬ陣屋では、試すことすらできませぬ」
「なぜだ」
「技を形にするには、人手が要ります。しかも、その日暮らしで雇う人手ではのうて、何年もかけて、同じ場所で、同じ者たちに仕込まねばなりませぬ。今日ここ、明日あそこでは、仕込んだ者もついてまいりませぬ」
弥九郎の目が、わずかに動いた。わたしは、言葉を継いだ。
「それに、土地そのものを、こちらの思い通りにできねば、堆肥を積む場所一つ、窯を築く場所一つ、決めることもできませぬ。よそさまの土地を借りたままでは、いつ出ていけと言われるとも知れず、腰を据えた仕事にはなりませぬ」
「持ち帰った技を、まだ一つも使うておらぬ、ということか」
「使えずにおります。宝の持ち腐れにござります」
弥九郎は、しばらく黙っていた。それから、短く言った。
「島がなければ、お前の技も、宝の持ち腐れのままか」
「はい」
「よかろう。それも、頭に入れておく」
弥九郎は、腕を組んだまま、しばらくこちらを見ていた。その目に、疑いと、それでいて何か期待に似たものが混じっているのが分かった。
「その河野が、揉めておるとも申しておったか」
「はい。二十年ほど前から、家督が定まらぬとか。当主が急に亡くなって以来、跡目があちこちに分かれて争っておると、松吉は聞いたそうにござります」
在地の統制が緩んでいる。その一言に、わたしの中で、何かが繋がった。守る者の目が緩んでいる場所にこそ、入り込む隙がある。それは、島門の家督争いが、結局は麻生の家を呑み込んでいったのと、同じ形の話だった。
「河野の内側が揉めておるあいだなら、余所からの目も、そう厳しくはございますまい。いまが、動くべき時かと存じます」
弥九郎は、まだ何か言いたげな顔をしていたが、やがて短く言った。
「……分かった。明日、車座に諮る」
「わたくしの名で、諮るのではのうて」
「言われずとも分かっておる」
弥九郎は、それだけ言うと、踵を返して歩き出した。わたしは、その背を見送りながら、懐の紙をもう一度確かめた。ここから先は、この人の言葉で語られる話になる。わたしにできるのは、書き留めることだけだった。
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翌朝 鵜の子の入江
朝、弥九郎は、昨日と同じ顔ぶれを、もう一度集めた。
「一つ、心当たりがある」
車座の全員が、そちらを見た。
「伊予の沖、忽那諸島の一つに、怒和島という島がある。忽那の分かれが、細々と預かっておる。水も出ぬ、田もない、小さな島だ」
「地図にすら、名の載らぬような島でございますか」
松吉が、そう訊いた。
「らしいな。だが、それでいい」
弥九郎は、そこで、わずかに間を置いた。
「値打ちのないものとして見過ごされておる場所にこそ、拾えるものがある。余所が欲しがらぬ島だからこそ、取り合いにならぬ。潮の流れが速ければ、余所の船も入りにくい。取られにくい場所は、そのまま守りやすい場所でもある」
わたしは、筆を持つ手を止めた。
弥九郎の口から出ているのは、昨夜、船の陰で交わした、わたしの言葉そのものだった。だが、その声は、わたしの声ではなかった。この男自身の考えとして、車座の全員に届いていた。それでいい、と自分に言い聞かせた。言い聞かせる必要があること自体が、まだ何かを飲み込みきれていない証だったが、それを考えている間はなかった。
「忽那というのは、いかなる家です」
弥助が訊いた。
「本家は、あの辺りの島を七つ、まとめて持っておった家だ。昔は、たいそうな海の衆だったらしい。いまは、伊予の守護——河野の下に入って、名だけ残しておる」
「その河野が、揉めておるとか」
松吉が、そこで身を乗り出した。
「棟梁、それは……まさしく、わたくしが正月前に聞いた話にござります。鵜の子に流れ着いた漁師の一人が、伊予の生まれだと申しておりました。忽那の分かれは、河野の下でずいぶん肩身が狭うなっておるとか。年貢の取り立ても、近ごろは殊に厳しゅうなっておると」
松吉が、驚いたような顔で、こちらをちらりと見た。わたしは、紙から目を上げなかった。
弥九郎が、頷いた。
「二十年ほど前から、家督が定まらん。当主が急に死んで以来、跡目があちこちに分かれて争っておるという話だ。在地の締めつけが緩んでおるいまが、動くべき時だろう」
「水も出ぬ島だぞ、頭。昨日、それで幾つも退けたばかりではございませぬか」
古参の水手が、なおも食い下がった。半ば呆れた声だった。
「水は、溜める術がある」
弥九郎が、そう答えた。
「谷を堰き、雨を溜め、段に土を切れば、田は作れずとも、畑くらいは持てるという話だ。一年二年で、目に見える形にはなる」
「一年二年、飯を食い延ばせと」
「その間も、湊での商いは続けられる。塩も、魚も、それなりの実入りになる」
車座の中に、静かな沈黙が落ちた。誰も、すぐには言葉を継がなかった。
「本当に、そこでよいのですか」
弥助が、そう訊いた。
「他に、余所が見向きもせぬ島はない」
弥九郎は、そう言い切った。迷いのない声だった。わたしは、その声を、紙に書き留めることはしなかった。書き留めるまでもなく、耳の奥に残った。
「他に、意見のある者は」
誰も、異を唱える者はいなかった。松吉が拾ってきた噂と、弥九郎の見立てが、一つの筋として繋がっている。それを覆すだけの、別の当てを持つ者は、誰もいなかった。
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「よかろう」
弥九郎が、そう言って、腕を解いた。
「東へ向かう。伊予の忽那諸島、怒和島を、まず見に行く」
その一言で、車座は静かに解けていった。松吉が、地図の粗い写しを取りに立ち上がる。弥助が、船の支度の段取りを、誰かと相談しはじめる。わたしは、その様子を見ながら、膝の上の紙をもう一度見返した。
芸予、却下。響灘寄り、却下。無名の島、却下。南の荒潮、却下。怒和島——そこにだけ、線は引かれていなかった。
決めたのは、弥九郎だった。昨夜、船の陰で交わした言葉を、この人が、自分の言葉として車座へ差し出した。だから、この決定のどこにも、わたしの名は記されない。記されるとすれば、それは弥九郎が、忽那諸島へ向かうと決めた、という一行だけだろう。
それでいい、と、わたしはもう一度、自分に言い聞かせた。
松吉が、地図の粗い写しを持って戻ってきた。皆で車座になって、その紙を覗き込む。伊予の沖に浮かぶ、七つの島の連なりが、粗い線で描かれている。そのうちのどれが怒和島なのか、この写しだけでは判然としなかった。
「行ってみねば、分かりませぬな」
松吉が、そう言って、苦笑した。誰も彼も、それに異を唱えなかった。地図にない島を目指すというのは、そういうことだった。実際に船を寄せてみるまで、その島の本当の姿は、誰にも分からない。賭けであることを、誰もが承知していた。それでも、他に道がない以上、進むしかなかった。
弥九郎が、その写しを畳みながら、独り言のように呟いた。
「河野の内訌が続いておるうちに、行かねばならん。落ち着いてしまえば、目こぼしも利かなくなろう。急ぐぞ」
「はい」
「支度は、三日でつけろ。すぐに船を出す」
短い命令だった。だが、その一言で、車座に集まった者たちの顔つきが変わった。行き先が定まったことで、漠然とした不安が、具体的な段取りへと変わっていく。松吉と弥助が、すぐに他の者たちへ触れを出しに立ち上がった。
わたしは、一人その場に残り、膝の上の紙を丁寧に折りたたんだ。まだ見ぬ島の名を、指先でなぞる。怒和島。水のない、地図にすら載らない、小さな島。
その島の姿を、わたしはまだ、何一つ知らなかった。知らないまま、そこへ向かうと決めてしまったことに、かすかな胸騒ぎを覚えた。だが、その胸騒ぎの理由を、確かめている暇はなかった。東の海の向こうに、何が待っているのか。それを知るのは、まだ幾日か先のことだった。焚き火の炎が、風に煽られて、大きく揺れた。




