第四話 迷い船
応永二十六年(一四一九)十二月 鵜の子の入江
縛られていた三人は、翌朝には放されていた。
わたしは、その報せを松吉から聞いて、思わず耳を疑った。
「殺さぬだけでなく、本当に放したのですか」
「頭が、そう命じられたのです。飯を食わせて、船を一艘つけて帰したそうです」
わたしは、すぐには合点がいかなかった。せっかく奪おうとした者を、なぜ生かして帰すのか。恨みを残したまま放てば、いずれまた、同じ災いの種になる。数の上では、割に合わない話だった。
「三人とも、同じ扱いを受けたのですか」
「いえ……。若い方の一人は、まだ十四、五でした。それで、頭が特に気にかけておられた様子で」
松吉の言葉に、わたしは記憶を辿った。あの夜、篝火の下で見た三人のうち、たしかに一人だけ、ひどく幼い顔をしていた。歯を食いしばって睨みつけていたが、体つきはまだ十分に育ちきっていなかった。憎しみだけが先走って、体がまだそれに追いついていないような、そんな危うさが漂っていたのを覚えている。
昼過ぎ、その理由を弥九郎本人に訊いてみた。
「殺しても、腹は膨れん」
答えは、それだけだった。素っ気ない口ぶりだったが、その裏に、何か別のものが潜んでいる気がした。うまく言葉にできない何かが、この人の中にはある。
「あの、若い方が、気になられたのですか」
弥九郎の目が、一瞬だけ、こちらから逸れた。ほんの一瞬のことで、すぐにいつもの表情に戻った。
「……年格好が、な」
それだけ言って、話を切り上げた。わたしは、それ以上、深くは尋ねなかった。尋ねれば、この人がまた口を閉ざしてしまう気がしたからだ。だが、その理屈だけでは、説明のつかないものが残った。捕えたまま留め置いて、飯を食わせずに使い潰す道もあったはずだ。それをせず、わざわざ船まで用意して帰したのは、飯代の勘定だけでは片づかない。何か別の理由が、この人の中に眠っている。眠ったまま、決して表には出てこない理由が。
年格好が似ている、という一言だけを、わたしは頭の隅に留めた。それが何を意味するのか、そのときは分からなかった。分からないまま、深く考えずに終わらせてしまった。あとになって思えば、そこにこそ、この人の抱える何かの入り口があったのかもしれない。だが、そのときのわたしには、そこまで手を伸ばす余裕がなかった。
放された三人が、その後どうなったのかは、誰も知らなかった。松吉に尋ねても、首を振るばかりだった。彦次の残党がまだどこかに散っているという噂だけが、しばらく陣屋の中を巡っていた。噂は、実体のないまま、人の不安だけを膨らませていく。数字にできないものほど、そうして人の心を蝕んでいくのだと、わたしは改めて思い知らされた。噂の出所を突き止めることも、いずれこの帳面の仕事になるのかもしれなかった。
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その日の夕方、露天の陣屋に、不穏な声が立ちはじめた。
古参の一人が、集まった手下たちの前で、声を荒らげていた。
「腰を据えられる場所がなけりゃ、いつまでこうして夜討ちに怯えて眠るんだ。彦次の残党だけじゃねえ。この湊を欲しがる衆は、他にもいくらでも出てくる」
「今のままでも、十分に稼げてるじゃねえか。何をそう急く」
若い手下の一人が言い返した。声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
「稼げてるうちはいい。稼げなくなったら、真っ先に痩せ細るのは、お前らみたいな新参だ」
「古参だ新参だと、いちいち分けるんじゃねえ」
言い合いは、しばらく続いた。わたしは、少し離れた場所から、その様子を見ていた。この一党の内側に、初めて亀裂が見えた気がした。飢饉を生き延びた古参と、稼ぎに惹かれて加わった新参とでは、抱えているものが違う。同じ旗の下にいても、見ている先が同じとは限らない。
古参の一人が、拳を握りしめて言い募った。
「お前らは、飢饉を知らんから、そう軽く言えるんだ。腹を空かせて死んでいく仲間を、幾人も見てきた者の言い分を、少しは聞け」
新参の若者は、それでも退かなかった。
「知らねえよ、そんな昔のことは。おいらは、いま食えりゃそれでいい。先のことなんぞ、考えたって仕方あるまい」
二人の間に、他の手下たちが割って入った。怒鳴り合いは、それ以上大きくはならなかったが、その場に残った空気は、まだざらついたままだった。
わたしは、その言い合いを、数の目で見ていた。古参と新参の割合。稼ぎの分配のされ方。不満が、どこから出てきているのか。帳面を取り出し、聞こえてくる言葉の端々を、静かに書き留めていった。
陣屋を見渡すと、その分け目は、思っていた以上にはっきりしていた。古参らしい者たちは、たいてい寡黙に、決まった顔ぶれで固まっている。新参の若者たちは、まだ互いに気安く軽口を叩き合っている。二つの群れは、同じ火を囲んでいても、どこかで線を引いているように見えた。
小屋の陰では、年嵩の女が、鍋をかき混ぜながら、聞こえよがしに独り言を漏らしていた。
「また始まったよ。毎年、寒くなると、こうなるんだから」
「毎年、こうなのですか」
わたしが訊くと、女は驚いたように顔を上げ、それから苦笑した。
「姐さんは、知らんでしょうねえ。冬が近づくと、みんな気が立つんですよ。食い物の心配が、頭から離れんから」
女は、それだけ言うと、また鍋に向き直った。わたしは、その言葉を、帳面の隅に書き添えた。毎年、冬になると同じ諍いが起きる。それが本当なら、この亀裂は今年に限ったことではない。毎年繰り返されてきた、古い割れ目なのだ。
これまで幾度も同じ諍いが起き、そのたびに、誰かが宥め、誰かが折れ、また元に戻る。そうやって、この一党は何年も持ち堪えてきたのだろう。だが、いつまでも同じやり方で持ち堪えられるとは限らない。割れ目は、繰り返すたびに、少しずつ深くなっていくものだ。わたしは、そのことを、女の何気ない一言から、はっきりと悟った。
「姐さん。またそれですか」
弥助が、通りすがりに声をかけてきた。
「言い合いを、書き留めておられるので」
「言い合いそのものより、言い合う理由を、書き留めているつもりです」
弥助は、少し感心したような、それでいて呆れたような顔をした。
「おいらには、分からんなあ。稼げてるなら、それでいいじゃないですか」
「稼げているうちは、そうかもしれません。でも、稼げなくなったときに、誰が最初に痩せるかが分かっていれば、その前に手を打てます」
弥助は、しばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「姐さんの頭の中は、いつも先の先まで見えてるんですね。おいらには眩しすぎて、よく分かりませんが」
そう言いながらも、弥助の目には、からかいではない、素直な感心の色があった。弥助は、それきり持ち場へ戻っていった。わたしは、その背を見送りながら、帳面に書きつけた数字を、もう一度、確かめ直した。
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夜になっても、陣屋の空気は落ち着かなかった。
わたしは、火のそばで帳面を広げながら、日中に聞いた言葉を、もう一度並べ直していた。腰を据える場所がない、という古参の訴え。今のままでいい、という新参の言い分。どちらにも、それぞれの理があった。
弥九郎が、こちらへやってきて、火のそばに腰を下ろした。
「島が要ると申すか」
唐突に、そう訊かれた。わたしは、すぐには答えられなかった。まだ、島を見てもいない。見ていない場所について、確かなことを言うのは、これまでの千代の作法に反した。
「見ておりませぬ島のことは、申せませぬ」
弥九郎は、その答えに、少しだけ意外そうな顔をした。
「即座に、良い島がございます、とでも言うと思うたか」
「思うておられたのなら、買いかぶりでございます」
弥九郎は、短く笑った。その笑いに、初めて見る種類の柔らかさがあった。損得の話をするときの、乾いた表情とは違う。
「だが、考えてはおるのだろう」
「考えております。ただ、まだ形になりませぬ」
わたしは、正直に答えた。帳面には、まだ何も書けていない。書けるだけの材料が、まだ手元にない。
「今日のいがみ合いを、聞いておったな」
「はい」
「古参は、腰を据えたがっておる。新参は、いまの稼ぎで満足しておる。どちらも、間違うてはおらぬ。だから、始末に困る」
弥九郎の声には、疲れとも諦めともつかない色があった。この人にも、簡単には片づけられない悩みがあるのだと、わたしは改めて思った。損得だけで動く男だと、これまで思い込んできた。だが、損得の勘定の中には、こうした人の心の食い違いまでは、うまく収まりきらないらしかった。
「頭は、どちらの言い分が正しいと思われますか」
わたしが訊くと、弥九郎は少し考えてから答えた。
「どちらも正しい。それが、いちばん厄介なところだ」
正しいものどうしがぶつかるとき、数の勘定だけでは、どちらに理があるかを決められない。わたしは、その難しさを、初めて実感として噛み締めた。
「片方を選べば、片方が腐りますね」
「そうだ。だから、選ばずに済む道を探すしかない。腰を据えられる場所があって、なおかつ稼ぎも減らぬ道だ」
わたしは、その言葉を、静かに反芻した。腰を据えられる場所。稼ぎが減らない道。二つの条件を同時に満たす答えは、まだどこにもない。だが、二つの条件がはっきりと見えているだけでも、探す先が少しは絞られる。
「見つかるとお思いですか」
「分からん。だが、見つけねば、この一党は、いずれ内側から崩れる。彦次に討たれるより先にな」
その一言に、わたしは背筋が冷えるのを感じた。外の敵より、内の割れ目のほうが、先に牙を剥くこともある。数の上でどれほど強く見えても、その内側が割れていれば、意味をなさない。この人は、そのことを、誰よりもはっきりと見抜いていた。損得だけの男だと侮っていた自分が、少し恥ずかしくなった。
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火が、少しずつ小さくなっていった。わたしは、薪を一本、火にくべた。
「頭は、なぜ、あの三人を放したのですか」
昼間、答えを得られなかった問いを、もう一度だけ、口にしてみた。
弥九郎は、しばらく黙っていた。火の粉が、ぱちりと爆ぜる音だけが響いた。
「……昔、似たような目に遭うたことがある」
それだけ言って、また黙り込んだ。わたしは、それ以上、何も尋ねなかった。この人の過去には、まだ触れられない部分が、いくつも残っている。触れようとすれば、この人はきっと、また口を閉ざす。いまは、そのことだけを分かっていればいい、そう思った。
弥九郎は、火を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「殺しても、腹は膨れん。それは、嘘じゃない。だが、それだけでもない」
わたしは、その言葉の続きを待ったが、続きは来なかった。この人が語らないものの重さを、いま、無理に量ろうとするべきではないと感じた。
火の粉が、また一つ、闇に散った。弥九郎の横顔に、ゆらめく光が当たっていた。その表情の奥に、何か古い痛みが眠っているのが、ぼんやりと透けて見える気がした。だが、それが何であるかを言い当てるだけの糸口を、わたしはまだ持っていなかった。
「年格好が似ておる、と仰いました」
わたしが、もう一度その言葉を口にすると、弥九郎の肩が、わずかに強張った。
「……それ以上は、訊くな」
短く、しかしはっきりとした拒みだった。わたしは、それ以上、何も言わなかった。踏み込んではならない場所があることは、分かっていた。分かっていながら、その場所の輪郭だけは、どうしても気になってしまう自分がいた。数えることに慣れた頭は、分からないものを、そのままにしておくのが苦手だった。
だが、いま無理に踏み込めば、この人は二度と、こうして火のそばに座らなくなるかもしれない。そう思い、わたしは口を噤んだ。踏み込まないことも、時には一つの手管になる。それを、このときのわたしは、まだ手管とは呼んでいなかった。ただ、そうするしかないと感じただけだった。
夜が更けて、陣屋のざわめきも、少しずつ静まっていった。わたしは、火のそばに残った帳面を閉じた。古参と新参の割合、稼ぎの分配、不満の出どころ。今日書き留めた数字は、まだどれも答えを出してはいなかった。だが、答えを出す前の、材料だけは揃いはじめている。
弥九郎が、立ち上がって、闇の向こうへ歩いていった。その背を見送りながら、わたしは、この人の中に眠っている何かの正体を、いつか知る日が来るのだろうかと考えた。
翌朝、わたしは帳面を広げ直し、昨日聞いたことをもう一度並べてみた。腰を据えられる場所。稼ぎが減らない道。二つの条件を満たす答えは、まだどこにもない。だが、条件が言葉になっただけでも、探す先は絞られる。水があり、人が住まず、余所が欲しがらない場所。そんな都合のいい島が、この瀬戸内のどこかにあるとは、とても思えなかった。
それでも、わたしは、その条件を紙に書きつけた。書いたところで、すぐに答えが出るわけではない。だが、書かなければ、探すことすら始まらない。島門で潮を書き留めていたころと、同じことをしているのだと、ふと気づいた。あのときも、答えの見えない問いを、ただ紙の上に並べ続けていた。違うのは、あのときは誰も読まなかった帳面を、いまは弥九郎が読んでくれることだった。
古参の男が、朝の水汲みに向かう途中、わたしの前を通りかかった。昨日、声を荒らげていた男だった。ばつが悪そうに、軽く頭を下げて通り過ぎていく。わたしは、その背にも、小さく数字をつけ足した。この一党の中に、いくつの理があり、いくつの割れ目があるのか。まだ、数えきれてはいなかった。数え終わる日など、あるいは永遠に来ないのかもしれない、とも思った。
火が、また一つ爆ぜた。わたしは、残りの薪をそっと火から離した。朝までは、まだ間があった。




